domestique’s high – 6

 ひとしきり笑ってから、ブラスカは取ってつけたように、そうそう、と話題を切り替えた。
「私が好き勝手にさせてもらっていた件だけれども」
「……」
「あっ、なんだいその目。文句があるなら最後にまとめて聞くから、今は取っておいてくれ」
「…………いい。続けろ」
 ふたつのコーヒーカップは空になっていた。ブラスカが手持ち無沙汰にしているので、勝手ながら冷蔵庫を開けて中からミネラルウォーターのボトルを出す。
「アーロン、グラスはそっちの棚だよ」
「……」
 そっちの棚だよ、ではない。仮にもひとを呼びつけておいてその態度はどうなのか、と問い詰めたいところだが、ブラスカ相手にはどうせ無駄な労力だ。アーロンは言われるがままにグラスを取り、水で満たしてブラスカに差し出した。
「ありがとう。でね、私のわがままの件なんだけど」
「わがままである自覚はあったわけだな」
「一応ね、私だって鏡くらい見るさ。とにかく、きみに共有しておきたいことがあって」
 共有とはまたおかしな言葉遣いをする、と思いながらブラスカを見る。彼は冷えた水を口に流し込み、アーロンの予想よりは溜めを作らずに続けた。
「ジェクトが見つかったんだ」
 ——それから数秒の間、ふたりは真っ向から見つめ合った。見つめるというよりは、それこそジェクトならば「ガン付け合い」とでも形容しただろう、睨み合いに近い。ブラスカの澄んだ瞳は十年前と変わらず底知れぬ深さを孕み、一方のアーロンは隻眼ながら、あるいは隻眼ゆえにいや増した迫力で立ち向かう。結果、先に視線を逸らしたのはブラスカだった。小さくとも貴重な勝利を噛み締めつつ、アーロンは問う。
「見つかった、はこのタイミングにおいて正しい表現なのか」
「……きみ、本当に、ほんっとうに可愛くなくなった」
 ブラスカは派手に嘆息すると、ソファの背に身体を投げ出すようにして崩れた。鉄色の髪をぐしゃぐしゃと掻き回し、天井を仰ぐ。
「アーロン、いつから気づいてたんだい」
「今だ。あんたは大きな嘘をつく時ほど正面から目を合わせてくる」
「そんなの奥さんにも見抜かれたことないのに」
「そうか。俺は奥方から教わったぞ、昔」
「え、ちょっと待って、その話あとで詳しく」
 ついに頭を抱えて座面に横倒しになったブラスカを、アーロンは含み笑いさえして見下ろした。渾身だったらしいサプライズをしくじった男はなおもごろごろと身悶えていたが、そのうち飽きたのかのっそり起き上がる。
「ええと、ともかく……隠していたことは謝るよ」
「それはいい。いつだ」
「……七年半くらい前かな」
「七年半だと? どこにいたんだ」
「うーん、ビーカネル島」
「なるほどな……」
 ブラスカの奥方の故郷でもあるビーカネル島は、スピラの歴史において複雑な歴史を持っている。先史以来アルベド族の土地であったその島は、スピラのメインランドから離れており、かつ目立った資源が発見されなかったことから近代まで独立国として扱われてきた。しかし百五十年ほど前に大規模な油田が発見され、植民地化されてしまう。その後、複数回の武力衝突を経て、広範な自治権を獲得するに至った。経済圏としてはメインランドと同一なので通貨もギルを使っているが、法規制はスピラのものを踏襲しつつ、ビーカネル独自の制度を敷いている。
 ここに逃げ込まれれば見つからないのも無理はない。失踪者の捜索もスピラ本土の警察機構と連携を取るシステムになっていたはずだが、いざビーカネル島内を捜すとなればそこはアルベド族の領域だ。「協力者」を見つければ隠れおおせることもさして難しくはないだろう。
「呆れた。あんたにも、ジェクトにも、ついでにあんたの奥方にも」
「はい……」
 愛妻家のブラスカが否定しなかったところを見るに、どうやら奥方も相当積極的に暗躍していたらしい。リュックのような若い世代はともかく、過去の経緯から高齢のアルベド族はスピラの人々に対して閉鎖的な態度を取ることもあるため、ブラスカの妻の協力なくしては数年がかりの潜伏は成立しなかっただろう。
「その、私のダーリンが」
「……気の抜ける呼び方は止めろ。真剣な話じゃなかったのか」
「私はいつも真剣さ。そう、マイスイートの実家、というか彼女の兄君がアルベドの族長のような立場でいらして」
「彼がジェクトを匿ったと」
「おおよそそんなところかな。彼、シドというんだけど、ジェクトといたく意気投合してね」
 豪快で気のいい人物だよ、とブラスカが言う。そういえば、ブラスカが結婚の挨拶に行った時に呑み比べを挑まれ、勝てなければ妹はやれん、と言われたという話を昔聞いた記憶があった。幸か不幸かブラスカはザルを通り越して底の抜けたひしゃくのようなうわばみなので、事なきを得たそうだが——そんな話はあとでいい。
「それで、あんたは奴がビーカネル島に七年半もいたのを知っていて、どうして今まで」
 アーロンの問いに、ブラスカは彼の後方に視線を飛ばした。そこには、恐らく寝室に続いているだろう扉がかたりともせずあるのみだ。
「ビーカネル島に移ったのは三年前だ。それまでは……ビサイドに」
「ビサイド?」
 アーロンの左眉が跳ね上がる。ビサイドならばユウナやキマリたちが暮らしていた場所だ。しかし彼らからジェクトの名を聞いた覚えはほとんどなく、そのいずれもが「アーロンが昔牽いていたティーダの父親である名レーサー」という文脈でしかない。
「どういうことだ。ユウナも何も言わなかったぞ」
「ユウナを責めるのはやめてくれ。あの子も知らなかったんだ」
「キマリは」
「彼は『協力者』だ。彼にも随分と無理を……アーロン、順を追って説明させてもらえるかな」
 ブラスカの言葉に、嫌も応もなくアーロンは頷く。この際、何もかもを明らかにしてもらわねばとてもではないが彼らを許せそうになかった。

「まず……そうだな、十年前、ジェクトが失踪したのは本当だ。あの時は私も彼の行き先を知らなかった。彼は誰にも何も言わずにいなくなってしまったからね」
 十年前、ブラスカが監督職を引責辞任すると発表したその日の夜に、ジェクトは病室から姿を消した。彼とて重篤な怪我を負っており、ろくに動ける身体ではなかったにも拘らずだ。一時は何者かによる拉致も囁かれたが、その噂はすぐに立ち消えた。
「あとから聞いたことだけれど、実はジェクトはしばらくザナルカンドにいたそうなんだ。彼がロードレース界に限らず知人が多かったのは覚えているだろう。何人かを頼って短期間に居場所を転々としていたらしい」
 確かにジェクトの交友関係は幅広かった。トラックレースなど他種の自転車競技関係者はもちろん、車体やパーツのメーカー、球技などのアスリート、スポーツ系メディアの記者やレポーター、さらにはスポンサー繋がりの芸能人やアーティストまで、彼がザナルカンドの道を三歩歩けば知り合いにぶつかるというのもあながち比喩でもなかったのだ。
 ザナルカンドは面積は小さいが、スピラでは最大の都市だ。人口密度では二位のルカ、三位のベベルと比べても段違いにヒトの数が多い。木を隠すなら森の中という通り、自らの意志で行方をくらませたジェクトが潜伏するにはうってつけの街だろう。
「ジェクトは何故そんな真似をしたんだ。確かに事故の原因を奴に求める連中もいたが、そこまでして身を隠す必要が——」
「あったんだ。彼は見つかるわけにはいかなかった。たとえ奥方が亡くなろうと」
 ブラスカの言う通り、ジェクトは自らの妻の葬儀にさえ姿を見せなかった。手紙の一通さえなく、それがティーダをどれほど失望させただろう。いたいけな子供はあれ以来、ジェクトを憎んでいるとさえ言っていい。何も言わずに消えた父、そのせいで母を亡くし、それでも帰らなかった父のことを憎むななどいうありきたりな説教は、アーロンには出来なかった。
 そしてアーロンもまた、ティーダにこそ明かさなかったが、ジェクトに対する暗澹とした感情を押し殺していた。ティーダほど真っ直ぐに憎むことはできずとも、どれだけ問うても答えの返らない疑問に疲弊し——何故勝手に消えた、何故戻らない、何故ティーダたちを置いて行った、何故——憤りや怒りは尽きない。今でこそそれなりに飼い慣らせている昏い想いは、それでも何かの拍子に芽を覗かせる。
「……ジェクトは誰から逃げていたんだ」
 問うアーロンを制するように、ブラスカは片手を小さく挙げた。仕方なく話の続きを促す。
「彼は一年半ほどザナルカンドで過ごして、傷を癒した。医者なんかは匿ってくれたひとたちが手配してくれたようだね。身体が回復してからは、スピラ中をあちこち移動していたそうだ」
 ジェクトの逃避行はガガゼトに始まり、ナギ、ベベルと、いつかのグランドツアーを逆行するように南下した。この当時、ブラスカはジェクトがビーカネル島にいると睨み、アルベド族である奥方の助力を受けながらかの砂漠の島を捜し回っていた。そうとは知る由もないジェクトは、ガガゼトではビラン=ロンゾを、グアドサラムでは因縁深いかのナバラ=グアドさえも頼り、時には東の離島群にまで渡りながら、メインランド最南端のルカに辿り着く。
「彼はそこで、とある人物に私宛の伝言を託した。メールも電話も使わず、直接伝えてくれと頼み込んでね。その人物がルカを出るのと同時に、ジェクトはキーリカに渡った」
「誰だ、それは」
「メイチェン師だよ。きみも会ったことがある、覚えているかい?」
 記憶の底の方から引っ張り出された名前に、アーロンは息を吐いた。ユウナがビサイド島に移りブラスカがザナルカンドに戻らなくなってから、何度かアーロンのもとを訪れた人物だ。「ブラスカの学生時代の恩師」という肩書きの老人はとてつもなく胡散臭かったが、話が冗長である点はブラスカに似通ったところがあった。
「彼も『協力者』のひとりだ。……それはさておき、ジェクトはビサイドまで移動した。あの島は知っての通り、さして開発されている場所ではないからね。集落からは離れたところに隠れ家を見つけて、潜伏したというわけだ」
 ジェクトが腰を落ち着けるのと時を同じくして、メイチェンから伝言を受け取ったブラスカが彼のもとを訪れる。それが今から七年半前。
 ジェクトと再会したブラスカは、当然のことながら彼にザナルカンドに戻るよう説得を始めた、しかし。
「彼はまだ表舞台に出るわけにはいかなかった。ジェクトは……告発しようとしていたんだ。ユウナレスカと、キノックの不正を」
「……何?」
 アーロンは身を乗り出した。不正の告発——ユウナレスカと、キノックの?
 事故のあと、ブラスカが退いたチームはユウナレスカの経営するエボンコーポレーションに買収されていた。所属する選手の八割ほどが数年のうちに入れ替わったがキノックは残留、その数年後に監督に就任している。
 かつての盟友ではあったが、アーロンはユウナレスカのものとなったチームとの契約を拒否して以来、完全にキノックとの交流を断っていた。今のチームで選手復帰してからは大会などで姿を見かけることもあるが、ろくな挨拶さえも交わしていない。長年の没交渉、また彼がユウナレスカにとって都合のよい人間として監督の地位を得たことによる心理的なわだかまりが疎遠の理由だったが、それでもキノックが根っからの悪人だとは未だに思えなかった。それが、不正とは。
「あの事故は、本当は事故じゃなかった。あれは間違いなく、ユウナレスカの指示を受けたキノックによって故意に引き起こされたものだったんだ」
「……どういうことだ」
「ユウナレスカはチームが欲しかった。エボンの資金と知名度があるんだから自分で創ればよかったのに、どういうわけか私たちのチームが欲しかったらしい。あのグランドツアーの半年くらい前からしつこく言われていてね、何度も断ったよ」
 エボンコーポレーションはチームブラスカにとって最大のスポンサーだったが、スポンサーであることとチームのオーナーであることの間には大きな差がある。出走するレースの指定、さらにはレースの各区間をどう走るかをコントロールするのは監督で、その采配に介入するためにはオーナーでなくてはならない。
 選手たちにとっては純粋な競技の場であるロードレースも、肥大した商業主義の手から逃れることはできなかった。チームの運営に必要な資金を提供される代わりに、ユニフォームやヘルメットにスポンサーのロゴを貼り付けて走る。特に全国中継されるような大規模なレースでは、カメラに切り取られるタイミングに合わせて見せ場を作ることも要求される。上手くいけば選手のみならず、彼らを支えるスポンサー企業の露出も上がるというわけだ。
 しかしブラスカは、あくまでも選手たちの走りを優先した。カメラがあろうとなかろうと、勝負として攻めるべき時に攻めさせる。監督でありチームのオーナーでもあったブラスカの決定を覆せるスポンサーはいなかった。エボンコーポレーション、ユウナレスカにしてみれば、まるで言うことを聞かないブラスカが邪魔でならなかっただろう。
「それからキノック……彼は彼で、不満を溜めていた。長年チームに尽くしてきたのに、出走する機会を理不尽に減らされたと言って」
「それは奴の実力不足だろう」
「そうだ。私も彼には何度も説明したよ。トレーニングやレースのデータを比較して、彼に足りないものは何か、チームとして勝つために何が必要なのか、何を改善すべきか。でも結局、説得できなかったんだね、私は」
 アーロンがアシストとしてジェクトを勝たせるようになってから、チームブラスカは選手層自体が厚くなった。優秀な選手が他チームから移籍し、若手も積極的に採用した。チームとしてレースに出せる選手の枠に限りがある以上、どうしてもセレクションで落ちる者はいる。競技の残酷な面だが、だからといって落とされたことを逆恨みするのは筋違いだ。キノックに足りない部分があったことは確かで、彼はそれを真剣に克服しようとはしていなかった。
「つまり、キノックはユウナレスカと組んであの事故を起こしたわけか」
「ユウナレスカがキノックを利用した、とも言えるね。いずれにせよ黒幕はユウナレスカで、下手人がキノックだ」
 では、ジェクトは何故その不正に気づいたのか。
 話を遡れば、起点はジェクトの動物的な直感だった。あのナギ平原で転倒する少し前、奇妙な違和感を覚えたのだという。
「違和感?」
「ああ。最初に転倒した選手——ジェクトの左手にいた彼の様子がおかしかったと」
「転倒の少し前……『痛み止め』でもすり替えられたか」
「さすがアーロン、察しがよくて助かるよ」
 純然たるスポーツであるロードレースは、もちろんのこと厳密なドーピングコントロールを行なっている。グランドツアーともなればなおさらのこと、出走前のランダムチェックに加え、各ステージの優勝者だけでなく、それを牽いたアシスト陣や、敢闘賞をはじめとするリーダージャージ獲得選手らはゴール後にも採血によってドーピングの有無を判定されることになっていた。
 しかし、何をもってドーピングの証拠とするかは単純な話ではない。明らかな覚醒剤などを用いる馬鹿は滅多にいないが、一般に流通している鎮痛剤や感冒薬にも含まれる成分を利用して身体のパフォーマンスを最大化する試みは、ロードレース界でも常識となっている。
 規定で禁止されてはいないが、極限状態を走るレーサーたちに必要な薬剤が何種類もあった。薬剤はひとまとめにして「痛み止め」「ペインキラー」と呼ばれる。筋肉の痙攣を抑えたり、気管支を拡張したり、文字通り単なる鎮痛剤であったりと、これらの薬はあくまでも「合法」ではあるが、何らかのきっかけさえあればいつでもドーピングリストに載る可能性がある。副作用の危険もついて回る。それでも、薬の助けがなくては勝てない。何故なら、薬を使わないレーサーなどいないからだ。
 チームブラスカは、ロードレース界においても抜きん出てクリーンなチームだった。選手の弛まぬ努力と科学合理的なトレーニングによって勝つのがブラスカの信条で、ほんの一度の勝利のために命を危険に晒すことなど彼は許さなかった。堅物と名高いアーロンはその理念の体現者だったし、勝って当たり前の「キング」ジェクトもまた、己の肉体と精神で敵を打倒することに至上の喜びを見出していた。それでも、チームの選手が競技中に用いた薬剤は十種にも上る。これらの「痛み止め」は専属の医師とトレーナーによってスクリーニングされ、ブラスカの慎重な精査の末に選ばれていた。
 あの日のナギ平原、アタックを仕掛けるタイミングはもともと予定されていた。だからチームブラスカの面々はアタックに備えて「痛み止め」を飲み込んでいたのだ。水なしでも嚥下できる小さな錠剤はスタッフによって準備され、出走前に各選手のポケットに収まっていた。
 ジェクトによれば、最初に転倒した件の選手は「痛み止め」を飲んで間もなく、一度体勢を崩しかけたという。横風と横風の合間のこと、よろめくようなタイミングではなかったので不審に思った。ジェクトが横目で見ればその選手は大量に発汗しており、にも拘らず顔は青褪めていた。
 体調が悪いならば抜けろ、と声をかけようとした瞬間、先頭のアシストがアタックを始めた。あとはすでに報道された通りだ。
「あの時、彼に渡していたのは弱めの気管支拡張剤だった。あの前にも何度か服用していて、目立った副作用はなかったはずなんだ」
「第一、反応がおかしいだろう。大量の発汗か」
「そう。顔色が悪くなるのはともかく、発汗はその薬の副作用としても報告されていなかった」
 負傷した選手たちは病院に運び込まれた。競技中の事故は、その少なからぬ件数が「誤った」ドーピングによって発生している。当然、治療の傍ら採取された血液はドーピングコントロールにかけられたはずだ。しかし、チームの責任者たるブラスカはその結果をきちんと確認していない。
「きみたちのせいにするわけではないけれど、気が動転していたんだ。『三人ともシロと判定されました』と言われて、それきりレポートも見ていなかった」
「……その報告を持って来たのが、」
「キノックだ」
 アーロンは深く息を吐いた。珍しいことにみぞおちの下がしくしくと痛み始めている——旧友の犯した悪行を認めるのは、これだけ長く断絶していても、やはり気の滅入るものだった。
「例の選手は何と言っていたんだ」
「彼は、薬を飲んですぐに異変を感じたと。鼓動が不正脈のようになって、視界が変色して強い眩暈に襲われた……だから、いつもなら耐えられる程度の接触で倒れてしまったと」
 明らかに違法薬物の作用を思わせる説明だ。しかし彼は外傷治療のための手術を受けたあとだった。ブラスカは最悪の結果を覚悟してアンチドーピング協会に再検査を依頼するが、手術に使われた麻酔の影響に加えて代謝の早い薬物だったのか、血液・尿・毛髪いずれも違反判定は出なかった。彼のポケットに入っていたはずのピルケースは行方不明のままだった。
 ジェクトもかつては強豪チームに所属していたプロだ。すり替えられた薬剤の種類までおおよその予測がついていた。中枢神経を過剰に興奮させるアンフェタミン系に、シロシビンやメスカリンあたりの幻覚剤と検出を阻害するマスキング剤を混ぜたものだろう。これらの成分は当然のことながら禁止薬物リストに含まれる。
 誰かが、転倒した選手の「痛み止め」を別のものにすり替えた可能性がある。その上、検査結果が書き換えられた疑いも強い。
 ドーピング検査の結果は、第三者組織であるアンチドーピング協会によって確認される。病院に担ぎ込まれたタイミングでの判定を、協会スタッフではないキノックが単独で書き換えることは不可能だ。アンチドーピング協会は総じて厳格な組織だが、それを運営しているのがヒトである以上、どこかで間違いが起こる可能性は否定できない。つまり、協会の中にも不正に関与した者が存在することになる。
 告発のためには、まずもってすり替えを証明する必要があった。治療のために身動きの取れないジェクトがブラスカを頼ろうと考えるのは自然なことだ。しかし、ふたりが差し向かいで話をする機会は与えられなかった。ブラスカはアーロンの片目失明による心労を抱えながら多忙を極めていた上、恐らくはジェクトの動きに気づいた——あるいはジェクトが動くことをあらかじめ想定していた——ユウナレスカの指図によって、彼の病室には常に第三者が控えていた。何よりジェクト自身、肺の損傷が酷く、積極的な発話は禁じられており、利き手も使えぬ状態だった。
 これでは埒が明かないと焦りを募らせる中、ジェクトの病室を訪ねた者があった。誰あろう、ユウナレスカだ。
 彼女は、ブラスカの辞任記者会見の前夜に姿を現した。長い髪を結い上げピンヒールを鳴らす敏腕経営者が人払いを命じると、病室はあっという間にジェクトとユウナレスカの二人きりとなったという。彼女はジェクトの怪我を案じるそぶりを見せつつ、穏やかな語り口で告げた。
 ブラスカが事故の責任を取って辞任し、チームを離れること。オーナー権はエボンコーポレーションに移譲されること。代表を務めるユウナレスカとしては、チームブラスカの優秀な選手たちを大切にしていきたいと考えていること。ゆえに、ジェクトには安心して治療に専念し、一日でも早く復帰して欲しいということ。
 そのいちいちを、ベッドの上で身動きの取れないジェクトは憤怒と共に聞いた。鎮痛剤が切れるタイミングを見計らってやって来たユウナレスカを全霊で睨みつけ、脈動のたびに痛みを走らせる胸を押さえつけて、必死に喰ってかかろうとした。
 しかし、ユウナレスカはその経歴と立場とに違わず周到で、捕食者のように冷徹で、そして恐ろしく狡猾だった。上体を跳ね上げようとするジェクトを柔らかな繊手で押し留めると、その耳元にふたつの名を囁いた——ジェクトの妻、そして息子の名を。
「ふたりもジェクトの無事の帰りを待っている、とユウナレスカは言ったそうだ。特に幼いティーダは、父が苦境から立ち上がり再びイエロージャージを持ち帰る姿を待ち望んでいるだろうと」
「……外道が」
「まったく同感だね。彼女を一度でも信用した己が許せないよ」
 その囁きは額面通りに取っても立派な恫喝だが、ジェクトは言葉以上のものを感じ取った。下手を打てば、自らの身のみならず妻と息子までをも危機に晒すことになる。追い討ちをかけるように、ユウナレスカはアーロンの名さえ出した。
 彼は優れたアシストだろうが、不幸にも片目を失った。もう満足できる走りは取り戻せまい。アーロンに拘らずとも、他にもよい選手はいる。「王」と呼ばれるジェクトならば選び放題だ。エボンの総力を挙げて、ジェクトに相応しいドメスティークを用意しよう。
 そう言い残してユウナレスカは去った。ジェクトは夜の帳に包まれた病床で、姿を消すことを決意した。

「彼の決断は賭けだった。失踪してしまえば、家族を直接守ってやることは出来なくなるからね。やけを起こしたユウナレスカが何をしでかすかも分からなかったし」
「だが、ジェクトが行方不明になれば、残された家族は世間の注目を浴びる。警察との距離も近くなる……ユウナレスカが大っぴらに手を出すことは難しくなるな」
「そういうこと。不安要素としてはジェクトの奥方がユウナレスカに引き込まれてしまうことだったけれど、退院したきみが面倒を見てくれたから向こうも諦めたんだろうね。——それよりも不幸なことが、起きてしまったけれど」
 せめてジェクトがひとことでも奥方に残せていれば、彼女があんなにも呆気なく逝ってしまうことはなかったかもしれない。そのことを悔いているのは、誰よりもジェクト本人のはずだ。
 アーロンはやり切れない想いで窓の外を見た。高層ビルの立ち並ぶザナルカンドの空には、いつの間にか雨雲が立ち込めていた。じきに降り出すだろう。朝のニュースでは、夕方から夜にかけて激しい風雨が予想されると言っていた。
「……それで、あんたとジェクトは証拠集めをしていたわけか、七年間」
 苦い記憶ばかりを呼び起こす空から目を逸らし、ブラスカに視線を戻す。彼は静かに頷いた。
「苦労したよ。ジェクトは警察にもユウナレスカの手の者にも捜索されていたけど、手札が揃うまでは見つかるわけにはいかなかった。彼をビサイドの山奥に隠して、どうしても必要な食料や必需品の調達のためにキマリを頼って……並行しながら証拠探しだ」
 過去に遡ってドーピングを立証するのは容易な話ではない。アンチドーピング協会に内通者がいる可能性を否定できない以上、頼みはジェクトらが運び込まれた病院の記録と、違反薬物を服用させられた選手の証言しかなかった。病院のカルテは患者と担当医の承諾がなければ第三者には開示されないのが規定だ。
 件の選手は適切な加療ののち、ユウナレスカのものとなったチームと契約を結んだ。しかし競技には復帰することなく、数か月で引退してザナルカンドを去っている。まずは彼の行方を捜す必要があった。ブラスカの顔をもってしても一年近くを要した探索の末、故郷のルカに帰っていた彼を見つける。
「けど、彼には協力を拒まれた。ユウナレスカには『世話になった』と」
 彼がチームを脱退する際、退職金という名目でエボンから多額の金銭が支払われていた。要は口止め料だ。彼はこの金で、高度医療ケアを必要としていた兄を寛解まで支えられたのだという。
「抜け目のないことだ」
「あれだけの大企業を育てただけのことはあるよ。彼を口説き落とすのに三年かかった」
 もう終わったことだ、どうか解放してくれ。そう言っては扉を閉ざし、通話を切断するかつてのメンバーのもとに、ブラスカは繰り返し足を運んだ。幾度となく拒絶されながらも、いずれは協力してくれるだろうと信じられたのは、彼がユウナレスカやエボンにブラスカのことを報告した気配がなかったからだ。
 ブラスカの熱意を超える執念に、彼はついに折れた。当日の記憶を思い出せる限りで語ってもらったものを録音し、カルテ開示の同意書にサインさせた頃には、事故からすでに七年が経とうとしていた。
「この少し前だったかな? ティーダがジュニアカップで優勝したと聞いたのは」
「ああ、その辺りだったろうな。あいつが十二の時だ」
「キマリが教えてくれてね、小さなニュースだったけど……あの時のジェクトの写真を撮り損ねたのはもったいなかったな。きみにも見せてあげたかった」
「要らん、だいたい想像がつく」
 きっと、自分がグランドツアーで優勝するよりもずっと分かりやすく喜んでいたのだろう。目を輝かせて、両の拳を振り上げて、それからぜんぶ一気に引っ込めて、真面目腐った顔で言うのだ、「まあ何たって、このジェクト様の息子だからな」。
「彼が、というか私たちが嬉しかったのはね、アーロン、ティーダがレーサーとして活躍することだけじゃないよ」
「……よせ、白々しい」
「白々しいもんか。きみが繋げてくれたんだ——それが何よりも嬉しかった」
 どこかの部屋で、ことん、と小さな物音がした。荷物でも崩れたのだろうが、まるでブラスカの言葉を肯んじるようなその音に、揃って苦笑する。
「お礼は最後に取っておこうか。話の続きを」
「ああ」

 ティーダがロードレースにのめり込むその頃、ブラスカは件の元選手から得た同意書をもって、かつてジェクトたちを収容した病院にカルテの開示請求を行った。もちろんブラスカの名前で動くわけにはいかなかったので、メイチェンを代理人に立てた。
 ジェクトのメッセンジャーを務めた行きがかり上、かの老人も一連の事情は承知していた。元を辿ればブラスカが在籍していた大学で歴史学を担当する教授であったというメイチェンは、真実を捻じ曲げ闇に葬ることで利益を得るユウナレスカにいたく憤ったという。そして事故の検証だけでなく、エボンコーポレーションやユウナレスカについて囁かれる黒い噂の裏取りも熱心に手伝ってくれたそうだ。
 事故に関するカルテを請求することで、ユウナレスカに動きを悟られるのは承知の上だった。ビサイドはスピラの南の果て、追い詰められればひとたまりもない。情報収集はひとまずメイチェンに任せ、ジェクトたちはビーカネル島に拠点を移した。ビサイドに残っていたキマリによれば、ジェクトらが島を出たわずか数日後にはエボンの者と思われる不審な人物がビサイドの集落を訪れたらしい。間一髪を逃れたわけだ。
 ブラスカの義兄の協力をもぎ取りアルベド居住区に腰を落ち着けてからは、告発の準備が本格化した。暗号のようなカルテにほんの数行残っていた血中残留物質の名称から、かの選手が服用させられた薬剤の組成を復元する。当時キノックと交友のあった人々、特にロードレース界とは異なる領域を生業とする人物たちや、エボンコーポレーションの元社員への聞き込み。ブラスカたちが懇意にしていたスポーツ記者や後ろ暗い業界に詳しいルポルタージュ作家、自転車競技とは関わりのない種目でスポーツドクターをしている医師にも協力を仰いだ。
 厄介だったのは、エボンコーポレーションの事業領域の広さだ。もとはどこにでもあるようなニュースメディア運営業者だったこの小さな企業は、跡を継いだ娘の辣腕により一気に拡大した。ニュースポータルを基盤としてスピラ最大のソーシャルメディアサービスを立ち上げたのを端緒に、検索エンジンの開発や通信事業も展開している。
 ネットワーク上の情報の多くは、エボンによって「汚染」あるいは「漂白」されていた。事故当時の報道を探そうとしても、今となってはエボンのニュースサイトのアーカイブしかヒットしない。ユウナレスカの息のかかっていない情報を得ようとすれば、独自取材を行なっている各メディアに直接問い合わせる必要がある。加えて通信網。関係者と連絡を取ろうにも、誰がエボンコーポレーションの提供するサービスを利用しているか分からない。傍受されている懸念から、打ち合わせの予定を決めるだけでもとてつもない労力が必要だった。

「正直に言わせてもらえば、つらかったよ。告発のためにはこちらの持ち札は盤石にしておきたいのに、たった一行の文章のために何日も何週間も血眼にならなきゃいけないんだ。特にジェクトは身を隠し続けて何年も経っていたから、本当につらかったと思う」
「……」
「それでも、諦めるなんて選択肢はなかった。泣き言を漏らしそうになるたびに、ジェクトは言っていた。『俺たちがやらなきゃならねえんだ』ってね。ジェクトが踏ん張り続けるなら、私だってへこたれるわけにはいかないだろう?」
 ジェクトを衝き動かした理由はただひとつ、「そうせねばならない」からだ。ジェクトに、アーロンに、チームメイトたちを傷つけ、鍛え上げられた肉体と精神の勝負の場たるレースを穢した連中を、このまま野放しにすることが許されてはならない。世間が騙されようと、他の誰が諦めようと、ロードレースの「王」たるジェクトの誇りと矜持とがそれを許さなかった。真実の解明こそがジェクトの果たすべき義務だった。
 「そうしたい」でも「そうすべき」でもなく、「そうせねばならない」。それがジェクトを駆り立てるたったひとつの理由だった。まるで気分屋で、わがまま放題であるかのように己を演出していた、あの男が。
 何故俺を頼ってくれなかった、という言葉をアーロンは噛み殺した。理屈は分かっている。告発を潰されるリスクを最小化するため、そしてティーダやユウナたちを守るため、アーロンは巻き込まれてはいけなかった。けれどそれはどこまで行っても理屈でしかない。アーロンの感情はずっと、憤りと罪悪感で暴れ回っている。
 そのことに気づいているのだろう、ブラスカはまた声の調子を変え、笑顔を浮かべた。
「そのつらさも、二年前のニュースで全部吹っ飛んでしまったけれど。私たちのルテナンが前線復帰だなんてね。ティーダには今度重々お礼をしないといけないな」
「チームにはユウナもいることだしな。あれはあんたの差し金か?」
「まさか。私にしてみれば晴天の霹靂だよ、あの子はビサイドの同年代とチームを組んでたんだから。知ってるかい、ビサイド・オーラカ。いいチーム名だよねえ」
 アーロンは小さく笑った。ビサイド・オーラカとは、ユウナたちビサイド組がかつて組んでいたアマチュアチームだ。彼らはロードレースなのかサイクリングなのか判然としないほどのレベルだったが、ある時ユウナの鶴の一声でザナルカンド行きを決めた。結果、ユウナとルールー、ワッカにキマリの四人がビサイドを遠く離れ、ザナルカンドでティーダとアーロンが所属しているチームの訓練生になったわけだ。
「ああでも、リュックがきみたちに加わったのには少し影響したかな。彼女はジェクトには会っていなかったけど、私がユウナの話をしたものだから」
「あいつの口からあんたの名を聞いた覚えがないが」
「ははは、彼女も父上に似たのか、義理堅くて思いやりの深い子だからね」
 ティーダやユウナらの目覚ましい成長と、アーロンの現役復帰とに励まされたジェクトとブラスカは、準備の大詰めにかかった。幸か不幸か昨年のグランドツアー——ティーダたち子世代にとっては初めての、アーロンにとっては九年ぶりの——では異常気象のためビーカネル島はルートに含まれなかったが、来年こそは告発を実現し、ユウナレスカの悪事を暴いた上でビール片手に気分良く観戦してやろう、というのが彼らの合言葉となった。

「……というわけなんだ。ご清聴ありがとう」
「おい待て」
「うん?」
「話はこれで終わりか」
「うん、おしまい」
 あっけらかんと頷くブラスカに、アーロンは頭痛を覚え始めていた。これだけ長々と微に入り細に入り恐ろしく冗長に話しておきながら、尻切れも甚だしいではないか。
「告発はどうした。ジェクトはまだビーカネルにいるのか」
 それともついにアーロンにも出来ることが見つかったと言うのか。喰ってかかる勢いのアーロンをどうどうと押し返しながら、ブラスカは茶目っ気たっぷりに片目を瞑った。
「ここできみに紹介したいひとがいるんだ」
「質問に答えろ」
「そのせっかちさ、昔を思い出してぐっと来ちゃうね」
 ブラスカは懐から通信端末を取り出すと、誰かと通話を始めた。お待たせしました、鍵は空いてますのでどうぞ。それだけ告げて電話を切ると、数十秒もせぬうちにドアベルが鳴る。
「どうぞ、お入りください」
 うきうきと浮かれる色を隠そうともしないブラスカの声に続いて、ふたりの人物がアーロンの前に姿を現した。ひとりは眼鏡をかけ白髭を蓄えた小柄な老人、もうひとりは髪を引っ詰めにしたやたら姿勢のいい女性だ。
「こちらがアーロンです、ご存知ですよね。アーロン、メイチェン師には会ったことがあるはずだ」
「お久しぶりですなアーロンさん、ご健勝のようで何より」
「それからこちらは、弁護士のベルゲミーネ先生。告発の手続きなんかをお手伝いくださったんだ」
「はじめましてアーロンさん。お噂はかねがね。わたくし、レミアム弁護士事務所代表のベルゲミーネと申します」
 どうぞよろしくお願い致します、と見事な礼と共に差し出された名刺を、アーロンもつい頭を下げて受け取ってしまう。素っ気ないデザインのカードには登録番号などが書かれており、どうやら担がれているわけではないらしい。
 ベルゲミーネはからくり人形のように正確な軌道で姿勢を正すと、小脇に挟んでいた封筒をブラスカに差し出した。いちいち腹から発声しているようで、声がよく響く。弁護士というのはこういうものなのだろうか。
「会場の準備は整っています。各媒体も想定以上の数、集まっているようで」
「そうですか、大変結構ですね。受付がパンクしないといいのですが」
「お任せください、弊事務所の三姉妹に捌けぬものはありません。不埒者が押し寄せようと跳ね返してみせます」
「ほっほっほ、これは心強い」
 三人は和やかに笑い合うが、アーロンはまるで話の展開についていけない。頭痛が酷くなっているのは、本格的に降り始めた雨のせいばかりではなかった。
「ブラスカ……説明してくれ」
「ああ、そうだったね、すまないアーロン。すまないついでに、おふたりにもコーヒーを淹れてもらえるかな」
「ほっほっほ、お構いなく。アーロンさん、あたしはミルクと、砂糖はふたつで」
「恐れ入りますアーロンさん、わたしはブラックで結構です」
「私はミルクだけでいいよ」
「…………」
 アーロンは何もかもを諦めてコーヒーマシンに向かった。メイチェンとベルゲミーネはともかく、ブラスカのコーヒーは出し殻で充分だ、と思いながら。

 コーヒーを用意して戻ると、ブラスカたちはそれぞれ紙を手にして何かを確認しているようだった。
「ああアーロン、ありがとう。まあ掛けてくれ」
「言われなくてもな」
 ブラスカの隣に腰を下ろすと、数秒の間、場に沈黙が降りる。全員が何かを言い出そうとして機を伺っているようだ——結局、先陣を切ったのはベルゲミーネだった。
「ブラスカさん、よろしいのですか」
「うーん、そうだね、盛り上がりを考えるとこっちが先かな」
「何だ、盛り上がりとは」
「アーロン、テレビのリモコン取ってもらえるかな。そこにあるやつ」
「…………」
 リモコンの目の前に座るメイチェンは、コーヒーに大量のミルクと砂糖を入れてかき混ぜるのに忙しいようだった。アーロンは思いっきり溜め息をつき、腕を伸ばしてリモコンを取る。
「点けていいのか」
「ええ、お願い致します」
 返事をしたのは何故かベルゲミーネだ。いちいち反応していてはきりがないので、そのままテレビの電源を入れた。
 チャンネルはザナルカンドのキー局に合っていたようだ。画面の中では、傘をさしたレポーターが雨の中、見覚えのある建物の前に立っている。
『——からお伝えいたします。一時間後に定刻の迫った会見に向けて、現地には各種報道機関が続々と集まっております』
「これは、このホテルか?」
「ご明察ですなアーロンさん」
 カフェオレを通り越してコーヒー牛乳のような色合いのカップを傾けながら、メイチェンが頷く。レポーターは、今アーロンたちのいるホテルのメインエントランス前から生中継を行なっているらしい。
『現地の雰囲気はいかがですか』
『雨と風のせいもあってか、辺りは静かな緊張感に包まれています。報道陣受付では先ほど、許可証のない団体が強硬突入しようとしましたが——』
 嫌な予感がした。メイチェンもベルゲミーネも平然とした顔でニュースに耳を傾けている。ブラスカが横目でこちらの様子を窺っているのが分かり、予感は次第に確信に近づく。
『会見が行われるホールが間もなく開場となるようです。一旦スタジオにお返しします』
『ありがとうございます。……視聴者の皆様に申し上げます、本日このチャンネルは予定を変更してニュース速報をお届けしております。変更となりました【スピラあちこちねこちゃん散歩・マカラーニャ編】は時刻を変えて——』
「おい、ブラスカ」
「アーロン、堪えて。もう少しだけ」
『——にお送りします。さて、本日の会見ですが、ナバラさん』
「何?」
 久方ぶりに聞く名前に、アーロンはテレビ画面を振り返った。薄型モニターの中では特徴的な髪を後ろに撫でつけ、それらしいスーツを着た男がしかつめらしい顔をしている。テロップは「スピラロードレース協会理事 ナバラ=グアド」。
『まさか十年前のグランドツアーに関する不正の告発とは……どういった内容だと思われますか』
『間違いなく、チームブラスカの転倒事故についてのものでしょう。あの事故は充分に総括されたとは言い難い』
『当時の運営発表では不正はなかったとのことでしたが、ナバラさんの見解は——』
『断言する。チームブラスカはあのような無様な事故で潰れるようなチームではなかった』
 十年前よりもさらに威厳を増したナバラが言い切り、ニューススタジオに緊張が走る。同時にアーロンもまた、残された左目を見開いて続く言葉を待っていた。
『あのチームはジェクト依存と言われていたが、実際は高度なチームワークの上に成立していた。エースの技量はもちろんだが、ドメスティークを務める選手陣も、アーロンを筆頭に極めてレベルが高かった。そのようなチームが、たかが悪天候程度であそこまで崩れるはずがない』
『ですが、ロードレースには事故は付き物と……』
『それもまた事実だ。しかしあれがただの不幸な事故ならば、何故ジェクトは失踪した。監督の引責辞任はともかく、チーム買収も含めて何者かの作為があったとしか考えられん』
 かつての強敵の声を、アーロンは驚愕をもって聞いた。ナバラ=グアド、ジェクトを蛇蝎の如く嫌い、ついに一度も勝てなかったレーサー。彼とデッドヒートを繰り広げたグランドツアー以降、ジェクトはおろかアーロンも他のチームメンバーたちも、ナバラからは徹底して黙殺されていた。チームブラスカが崩壊したあとも、アーロンとナバラが個人的に連絡を取ったことはない。
 その彼が今、これほどの熱意でジェクトたちを——チームブラスカを擁護している。ナバラはさらに、彼を含む選手組合が事故当時から再検証を求めてきたことを説明した。
『確かに記録が残っていますね。十年前のグランドツアーの一週間後、それから半年後にも組合から声明が出ています』
『翌年のツアー前にも同様の要求を行った。しかし運営から出てくる検証結果は毎回判を押したように同じものだ』
 これだけのスキャンダルとなっても、グランドツアーは依然、巨大な興行として存続した。岩に向かって卵を投げつけるような無力感を繰り返し味わった選手たちは、次第に訴えから手を引くようになる。何より、彼ら自身もまたレーサーであり、グランドツアーは避けては通れないレースだったのだ。
『ナバラさんは四年前に競技を引退され、現在はロードレース協会で理事を務めていらっしゃいます。協会にブラスカ氏やジェクト氏からコンタクトは』
『その質問には回答できん。今言えるのはただひとつ、今日の会見によって無念が晴らされるということだけだ』
『無念、ですか』
『そうだ。ジェクト、アーロンら選手やスタッフたちの、ブラスカの、そしてあの事件のためにジェクトと決着をつけられなかった俺自身の無念だ』
 噛み締めるように話すナバラの姿に、アーロンは柄にもなく感動を覚えていた。アーロンたちは孤独ではなかった。こうして信じてくれていた者がいたのだ。ナバラだけではなく、あの頃同じ道を走った選手たちは、敵であると同時に同志でもあったのだ。
 左目を霞ませるものを抑えるのに必死だったアーロンは、だから扉の開く音に気づかなかった。スイートルームの厚い絨毯を踏みアーロンの背後を取る、その気配にも。

「——言うじゃねえのナバラ。何回やったって俺様の勝ちだってのに、なァ?」
「————ッ!」

 この十年も変わらず伸ばしたままだった髪を引かれるまでもなく、アーロンは振り返った。細胞まで震わせるような成熟した深さと、悪戯好きの子供のように無邪気な軽さとを併せ持つ声。相手が誰であれ有無を言わさぬ語尾がよく似合う声——アーロンが十年間、何よりも待ち望んだ、その声。
「ジェクト……!」
「よおアーロン、待たせたな」
 肉食獣の牙を覗かせて、男は笑った。双眸の濃緋が鋭く光を放つ。その両腕が一片の躊躇もなく、アーロンを捕らえた。

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