domestique’s high – 5

 ——王が姿を消して十年が経つ。
 アーロンはデイリールーティンを終えると、車体のメンテナンスを専門のスタッフに任せ、軽くシャワーを浴びてから訓練施設の出口に向かう。その背中を追う声があった。
「あ、アーロン! 待てって、アーロン!」
 振り向くまでもなく、声の主が誰かは分かっている。このチームの若きエース、ティーダだ。栗色を脱色した金髪が跳ねる。アーロンから見下ろせる頭頂部には元の色が残っているのだが、それはどうやら染め残しではないらしい。若者のこだわりはよく分からない。
「歩くの早いって」
「何の用だ、俺は帰るぞ」
「いや帰るぞじゃなくてさ。あれ考えてくれた?」
 あの話、と指示語ばかりの問いかけに、アーロンは溜め息をついた。かれこれ十年近くなる付き合いに狎れて、気の抜けた話し方をするのは止めろと数日前にも言ったばかりだ。
「考えるも何もあるか。決めたことだ」
「ええーっ」
 信じられません、と言わんばかりに海色の瞳が丸くなる。ふと視線を感じてティーダの背後を見ると、離れた通路からリュックとルールーがこちらの様子を伺っていた。前者はともかく、後者なら止めに入ってくれないかと期待するものの、動く気配はない。
「俺のアシストはもう必要あるまい」
 アーロンがロードレース引退を宣言したのは二週間前のことだった。
 ワッカやキマリをはじめ、ティーダを支えるメンバーも充分に育っている。これ以上、自分のようなロートルが牽いてやる必要はないのは明らかだったし、むしろ居座り続けることが害悪にすらなり得るとアーロンは確信していた。それゆえの引退宣言だ。今はまだチーム内のみに留められた話だが、近いうちにメディアに対しても公表するつもりで調整を進めている。
 当然のことながら、チームからは惜しまれた。アーロンはレーサーとしてのキャリアが長く、そのぶんだけ功績も大きい。ティーダのチームではプレイイングマネージャーとして走りながら采配を振るい、いかなるゲーム展開にも動じない姿はチームの精神的支柱だ。とはいえキマリを中心に、伝説とさえ呼ばれた名選手の意向を尊重する空気が広がってもいた。
 しかしそれに抗い続けているのが、他でもないティーダだった。
「だから競技引退はいいよ、百歩譲って」
「おまえに譲られる筋合はない」
「完全引退はよくないって。チームには残ってよ、そんなひといっぱいいるじゃん」
「そのような半端が出来るか」
「ああ言えばこう言う!」
「それは俺の台詞だ」
 ティーダとしては、監督なりコーチなりという形でアーロンにはどうしても残留して欲しいようだ。アーロンが引退を決めた理由が身体の衰えであれば、それもひとつの選択肢だったろう。しかしそうではない。チームティーダに必要なのは完全なる世代交代だ。時代は変わった。老兵はただ去るのみであり、裏方とはいえチームにしがみつくような真似は御免だった。
 アーロンは腕時計に視線を落とす。もう出なくてはならない。
「話は終わりだ。俺は行く」
「どこに!」
「野暮用だ」
 まだ口を開こうとするティーダの頭をぐしゃぐしゃと掻き回して、アーロンは出口に向かった。ガキ扱いすんなよ、と喚くティーダの声が響く。そういうところがいつまでも子供だというのだ。

 電話帳に登録していない番号からショートメッセージを受け取ったのは、五日前のことだ。どうせスパムの類だろうとゴミ箱行きにスワイプしようとした指が止まったのは、プレビューに表示された最初の一行に書かれていた名前のためだ。
 メッセージの送信者はブラスカ。彼からの連絡は実に三年半ぶりだった。
 数秒のためらいののちに開封したメッセージは、まず番号が変わっていることについての釈明から始まっていた。前回の連絡からほどなくして端末を路面に落とし、それがどこぞの老婆の乗ったスクーターに踏まれて修復の余地もないほど破壊されてしまった、云々。どうせそんなところだろうと思っていたので、適当なところで読み飛ばす。ブラスカは喋らせると長いが、文字を書かせるとより冗長になるのが悪癖だった。
 それからもあれこれとトラブルに見舞われ、先日になってようやっとブラスカはアーロンの連絡先を再入手したという。どうせユウナ経由だろう。アーロンはこの十年一度も番号を変えていないのだから奥方でも連絡は取れたはずだが、そうしなかったのはわざとかうっかりか。どちらでもあり得そうなのがブラスカの厄介なところだった。
 彼のメッセージは、近いうちに会えないか、と問うていた。しかし具体的な用件にはひとことも触れられていない。アーロンはそのメッセージを一日半たっぷり放置して——睡眠とトレーニングの時間が半分、残りの半分は単にメッセージのことを忘れていただけだが——我ながら重い指を使って、渋々承諾を返したのだった。
 返信から十分と待たず折り返されたメッセージには、日付と時間、場所が指定されていた。こちらの都合を聞くそぶりもないのは実にブラスカらしい。
 三年半越しの連絡によって実現しようとしている再会は、実に十年ぶりだった。

 ブラスカに会いたくないわけではない。むしろ、何年にも亘る無沙汰を責めたくなる程度には、彼の不在を惜しみ、また案じてきた。
 しかしこの十年で、何もかもが変わってしまった。アーロンをためらわせるのは、ブラスカに合わせる顔がない、という慚愧の念と、ブラスカこそどの面下げて、という憤りとの両方だ。
 ブラスカが創立したチームは、今でも存続している。しかし残っているのは名前だけだ。十年前の事故のあとブラスカが監督を辞任し、エースであったジェクトが失踪したことでチームは事実上崩壊した。ユウナレスカをオーナーに据えた新体制の説明をアーロンは病室で聞き、諸手続きのための書類にサインを求められたが、彼は書類に指一本触れることなくチームを去った。無責任な、と謗られたが、そんなことはどうでもよかった。
 監督職を辞したブラスカはアーロンの病室を訪れ、これからジェクトの行方を追おうと思う、と告げた。それを聞かされたアーロンはといえば、ほとんど茫然自失だった。己の片目失明を受け入れ一日も早い復帰をとリハビリに砕身していたところに、ブラスカの辞任とジェクトの失踪とが重なったのだ。その上ブラスカがジェクトを追ってしまうとなれば、たかだか二十五、六の若造に過ぎないアーロンにとっては世界の終焉にも等しかった。
 ユウナはどうするのかと訊くと、エレメンタリースクールに入ったばかりだから妻と共に置いてゆくという。ジェクトの行き先に当てはあるのかと訊けば、まるで手がかりがなく、彼の妻は泣き暮らしているなどと言ってアーロンの困惑を悪化させる。いつ帰ってくるのか、その問いには少し間を置いて、まずはひと月、と帰ってきた。
 アーロンには怒り出す気力など、もうびた一文もなかった。馬鹿だ、あんたは。そう呟いたのが、ブラスカに対する敬語を捨てた初めてのひとことだったと思う。
 それからしばらくして退院したアーロンは、リハビリを続けながらブラスカとジェクトそれぞれの家族の様子を見守ることになった。ブラスカは予告通り一か月少々で何の収穫もなく戻り、数週間滞在してはまた飛び出してゆく。ほどなくしてジェクトの妻が失意のうちに急逝。医者にかかっていれば早期発見できたはずの病で母を失ったティーダには引き取り手もなく、やむを得ずアーロンが迎え入れることになった。
 ちょうどその頃からブラスカの妻が捜索に加わるようになり、ユウナはブラスカの知己を頼ってビサイドに預けられることになる。道中はもともとアーロンに託されていたが、ティーダを巡るごたごたでザナルカンドを離れられなかったため、アーロンの知人であるキマリ——ロンゾのレーサーだったが、遡ること数か月前にチームを辞していた——にユウナを任せた。そのまま彼らはビサイドにて、ユウナの擬似兄姉となったワッカやルールーと共に暮らすようになる。
 アーロンはそんなふうにして生活に追われていた。子供の扱い方など分からないので、ティーダを自転車に乗せて走らせる。正確に言えば、相手が誰であれ、アーロンはロードレース以外に時間の過ごし方を知らない。この頃には隻眼で生きてゆくことにも慣れて、ティーダと並んでペダルを踏むこともあった。かつてとは比べものにならぬほどゆったりとした走りに、相棒が不満げに軋んでいる。
 スピラにおいてロードレースは最も人気のあるスポーツのひとつだ。かつてのチームブラスカを襲ったような悲劇が幾度繰り返されても、競技人口は減らない。スピラの南端でも若い者がこぞってレーサー志望らしく、「里帰り」先をザナルカンドからビサイドに変えたブラスカから聞く話によれば、キマリやワッカらの影響を受けてユウナも自転車に乗り始めたそうだ。
 ティーダは十二歳の時にジュニアカップで優勝し、ロードレースにのめり込んだ。「王の息子」という望まぬ枕詞を煩わしげにしながらさらに走り続け、弱冠十五歳で現在所属するチームのスカウトに応じた。ただし、ひとつの条件をつけて。
「アーロンのアシストじゃないなら、走らない」
 馬鹿げたことを言うな、と叱りつけるアーロンだったが、さらに馬鹿げたことに当のチームからオーナー以下錚々たる運営陣がアーロンのもとにやって来た。どうか、このチームで選手復帰を。
 始末に悪かったのは、そのうちのひとりがハイスクール時代の先輩であったことだ。彼はアーロンより一年早くスクールを卒業するとカレッジに入学し、それからいくつかのチームを渡り歩いていた。選手として目立った功績はなかったが、トレーナーは天職だったようで、新興とはいえ立派なチームのヘッドコーチを任されている。彼を含む面々に土下座の勢いで拝み倒されたアーロンは、渋々ながらに二年の期限付きで所属することを受け入れた。
 とっくに引退したものと思われていたアーロンの復帰、しかも彼と組むのがジェクトの息子とあっては、世間の耳目は否応なしに集まった。一切の対応をチームに任せ好奇の視線を避けながら、ブランクを埋めるべくトレーニングに集中する。
 走るのであれば妥協はしない。アーロンは生半可な走り方を自分に許せる性格ではないし、ティーダもそれに牽かれることをよしとするような甘ったれた選手ではなかった。実際のところ、彼はいいレーサーだ。スプリンターとして存在感を高めつつあるし、これからもっと強く速くなるだろう。何より華がある。チームのよきムードメーカーであり、また人当たりのよいさばけた性格で他チームにも友人が多かった。こういうレーサーは伸びる。
 アーロンの努力の甲斐あって、再デビュー戦となった大会ではティーダと共に好成績を残すことができた。中盤やや飛ばしすぎたか、牽かねばならないティーダを千切りそうになったほどだ。それでも必死に追い縋りゴールした少年も大したもので、彼が拳を掲げる後ろ姿に奇妙な感慨を覚えた。
 ブラスカはまだジェクトを捜していた。こんなに小さなスピラで、どうしてあの男が何年も見つからずにいられるものかと不思議でならない。
 アーロンがティーダを牽くようになってしばらくして、ビサイドの若きレーサー候補たちがチームに加わった。ユウナ、キマリ、ワッカ、ルールー。これにユウナの従姉妹であるリュックも加わり、当初は訓練生扱いだった彼らも、ほどなくして公式戦のメンバーに選抜されるようになった。
 アーロンが決めた期限は終わりに近づいている。引退したあとはどうするのか、とリュックにも訊かれたが、アーロンは答えなかった。答えのないことをごまかした。
 


 

 
 訓練施設を出て流しのタクシーを捕まえ、目的地を指定して座席に背を預ける。アーロンにとって幸運なことに、タクシーの運転手は道中の沈黙を守った。郊外のトレーニング施設から幹線道路を走り、ごみごみした下町を上手く抜けて、都心へと向かう。しかしながら、じきに目的地というところでついに好奇心を抑えられなくなったようだ。
「アーロン選手、ですよね」
「……ああ」
 億劫がる頭で端的に肯定すると、運転手はバックミラー越しに目を輝かせた。
「やっぱり。私、何度か拝見したんですよ、レースを」
 あの辺りを流してるとたまに選手の方をお乗せすることもあるんですが、まさか「あの」アーロンさんにお会いできるなんて。喜色を滲ませる声に、アーロンは奥歯の向こうから苦い味が広がるのを感じていた。
「今でも覚えてますよ、xx年のグランドツアー」
「……」
「いやあ、ダブルエースってのはたまにありますけど、同じチームのメンバー同士で黄色ジャージ争いなんてねえ。あれは観てて実に楽しいツアーでした」
 ああともうんともつかない相槌をものともせず、運転手は喋り続ける。話のせいか、話を続けたいためか、少し速度を落とされたのが不快だった。
「その翌年からはアシストに転向されたんですよね。はじめは、いやあアーロン選手がアシストなんてもったいないなあ、なんて仲間内で言ってたんですが、あれがまた……」
 アーロンは背を起こした。これ以上聞いていられない。
「すまないが、ここで降ろしてくれるか」
「えっ、まだもう少し先ですが……」
「ひとに招かれて行くのに手ぶらなのを思い出してな。そこのコンビニでいい」
「はあ……」
 よろしければ買い物の間メーターを止めて待ちますよ、という申し出を、首ひとつ振って退けた。いかにも気まずそうな顔の運転手に運賃を払い、寄るつもりのなかったコンビニの前で車を降りる。そそくさと走り去るタクシーを見送ることもなく、一応の申し訳として自動ドアをくぐった。
 ただの言い訳に過ぎなかったが、確かに手土産のひとつくらいはあった方がいいかもしれない。意味もなく店内を一周して、レジカウンターの後ろに並んでいる贈答品から適当な詰め合わせを選ぶ。店員は右目を潰した強面の男に対して身構えるでもなく、その冷淡とさえ言える応対がアーロンには心地よかった。
 フルーツゼリーの詰め合わせを小脇に抱えてコンビニを出たアーロンは、胸ポケットから携帯端末を取り出した。指定の時刻まであと十七分、地図アプリによれば目的地のホテルまでは徒歩十二分。不案内なエリアのことだ、ちょうどいいか、あるいは少し遅れるくらいだろう。

 あの運転手は、間違ったことは何ひとつ言わなかった。確かに若かりし頃のアーロンはホワイトジャージを着る資格を得たほどのエースであったし、遅れて加入したジェクトとチームメンバーながらにイエロージャージを争った挙句に総合優勝の座を譲ったことも、翌シーズンからはアシストとしてその男を「牽き」続けたのも、すべて事実だ。
 あの男がエースとなって以来、最も重要な局面で彼を牽くのは必ずアーロンの役割だった。男が月桂冠をかぶる回数が増えるごとに、アーロンをスーパードメスティークと賞揚する声も高まった。だからあの運転手がアーロンとあの男を共に想起したのは、何もおかしなことではない。
 悪いのは自分の方だ。アーロンは右目を縦に貫く傷を指の背で擦り、小さく舌打ちをした。

「やあアーロン、待ってたよ。迷わなかったかい」
 ドアベルの余韻が消えるが早いか扉を開けたブラスカは、まるで先週にも会った知己に対するような顔で笑った。顔の脇に垂らした鉄色の髪が揺れる。
 ブラスカに指定されたのは、ザナルカンドでも有名な高級ホテルのスイートルームだった。ジェクトを捜してあちらこちらを移動しているわりに、収入はあるらしい。この男は昔から資金調達が上手いが、その出元はいつも謎に包まれていた。
 もっとも、監督職を辞任して以降はまったく表舞台に出なかったブラスカと、今はジェクトの息子を牽いているアーロンとの面会だ。こうして人目を遮断してくれることには感謝すべきだろう。
「さ、入ってくれ、何のおもてなしもできないが」
 促されるままに部屋に足を踏み入れる。豪奢な内装に面食らうアーロンをにこにこと見ていたブラスカが、目敏く言った。
「手土産とは気が利くね、ありがとう」
「……相変わらず遠慮のない」
「きみと私の仲じゃないか」
 こっちへ、と先に立つブラスカの視線が、一瞬己の右目に刺さったのを感じる。アーロンは壁にかかった抽象画を睨みつけながら、ひとつ息を吐いた。
「何年も連絡ひとつ寄越さなかったのは誰だ」
「おっと、それを言うならきみこそ、連絡をくれればよかったのに」
「用事もないのにか」
「アーロン、きみ、可愛くなくなったよ」
「俺が今いくつだと思って」
「年齢の話じゃないんだよねえ。まあその白髪の理由については、あとでじっくり聞かせて欲しいけど」
 からからと笑うブラスカに促され、応接用のソファに腰を降ろした。奥方は奥方で、昔の友人と旧交を暖めに出ているそうだ。きみに会いたがっていたよ、とブラスカは言うが、どうせ夫があれこれと理由をつけて出掛けさせたのだろう。それで、この再会がただの経過報告では済まないだろうと予測した。
「コーヒーでよかったかな」
「ああ」
 一応の体裁だけは整えて、手土産をブラスカに差し出しておく。彼はありがとう、とにこやかに受け取り、もうその箱に対する興味を失ったようだった。引き換えに、水彩画のような花の絵が焼き付けられたコーヒーカップを受け取る。中身を口に含む前からずいぶんと苦い香りがした。
「おや、少し苦すぎるね。ミルクいるかい?」
「いやいい。どうせあんたが淹れたんだろう」
「うーん、コーヒーマシンに任せたんだけどなあ。豆から挽いてくれるやつがあるんだよ、さすがはスイートだよね」
 自分から言い出したわりにミルクを取りに立ち上がる風情もないブラスカの、やたらと愛想のいい——要はにやついた顔が気に障った。何だ、と左目を眇めながら問えば、また笑う。
「ふふ、いや、すまないね」
「……何がおかしい」
「んふふ、だってきみ、その話し方」
 そこまで言って、ブラスカはついに決壊した。あはは、と漫画のような笑い声を上げて腹を抱える。
「いいかげんにしろ、気分が悪い」
「すまない、だって、アーロンだなあって」
「何だそれは」
「きみももう三十五だものね。……ああ別に、敬語にしろって言いたいわけじゃないよ。むしろ敬語はやめてくれって、私何回も言っただろう、覚えてるかい」
 ついには目尻に涙さえ浮かべ始めたブラスカの言葉に、アーロンは嫌々ながら頷いた。まだ彼を監督と呼んでいた頃、チーム一番の古株であるアーロンが四角張って丁寧な敬語を使い続けるのに、彼はいつも困ったような呆れたような顔をしていたものだ。
「いまさら敬意を払う相手でもないからな」
「うーん、心が痛むコメントだね。不義理を重ねた自覚はあるけれど」
「不義理で済むか」
「当たりが厳しい」
 ブラスカはやっと笑いを引っ込めた。代わりに表に出たのは、実に奇妙な感情の混線した眼差しだった。懐かしむような、悼むような、案じるような、畏れるような、憐れむような、詫びるような。それらひとつひとつが独立しながらところどころに溶け合うその色を捉えることが出来ず、あるいはそうすることに瞬発的な怯えを覚えて、アーロンは視線を己の膝に落とす。
「引退すると聞いたよ」
「耳が早いな。まだ公表していないが」
「ふふ、まあ昔のよしみというやつかな」
 彼は大して苦くもなさそうにコーヒーを口にした。惰性の笑顔を口許に留めたまま、そっと言い添える。
「残念、だよ」
「……」
「うん、残念だ——そうだね。私が言えたことでは、ないけれど」
 言葉を探しあぐねる。視線を、想いを受け止め損ねる。アーロンは何かから逃げるように俯いて、うわごとよりも無価値な音を吐く唇を噛んで、潰れた右目を影に置く。いつからかそうなってしまった。いつからか——己に問うまでもなく、本当はそれがいつからなのか知っている。思い出せる。否応もなく思い出す。忘れることは、誰よりも自分自身が許せなかった。
「アーロン、きみが……きみがまた走り始めたと聞いて、本当に嬉しかったんだ」
 ブラスカは両手の指を組んで、膝に置いた。彼がひどく慎重に言葉を探していることが分かる。アーロンにそう悟らせることなど、かつてはなかったというのに。
 アーロンは思う。変わった、俺も、彼も。十年分だけ歳を取って、その間に何かを取りこぼして代わりに何かを拾って、あるいは誰かに何かを押し付けて誰かから何かを奪って、変わった。善悪とは違う軸を持つ世界で、変わってしまった。変わったという事実だけが、厳然としてここにある。
「きみの復帰後のレースをすべて観られたわけではないけれど、それでも観られる限りは観た。沿道にいたこともあるんだよ、一度だけ」
 平均時速四十キロメートルで駆け抜ける選手からは、沿道に立つ人々の顔など認識出来ない。そして観客から見ても、選手が目の前を通るのは一瞬だ。その時、ブラスカはどんな顔をしていたのだろう。
「ティーダはいい選手だね。きみの牽引にも立派に着いていける。楽しそうに走るしね」
「あれは、まだ伸びる」
「でもきみは、彼を手放すことにしたんだね」
「……そうだ」
 その通りだ。アーロンは決めていた。この二年間はプロとして、それより前は奇妙な保護者として、ティーダを引いて来たこの手を、今離すべきだと。
 十年前、ジェクトとブラスカをいちどきに失ったアーロンは、文字通りからっぽだった。そこにティーダやユウナを詰め込んで、子供たちが比重を増すほどに、己の空洞が彼らでは埋められないことを知る。鍵を失くした錠前に綿でも詰め込むような、虚な無意味に思えた。
 それでも子供たちは生きている。生きてゆこうとしている。この子たちを自分がどうにかしてやらねばならない。ことにティーダの母が逝ってからは、その想いでいっぱいになった。その一心でがむしゃらに生きた。
 本当は違う。ちゃんとした養護施設を探してやるべきだった。そうして付かず離れずの距離を保って見守るべきだった。家族というものをろくに知らない若造が、片目を潰して職探しにも難航するような独り者が、ヒトひとりまともに育て上げるなど無茶にもほどがある。
 ティーダには要らぬ苦労をさせただろう。友人たちが当たり前に享受するささやかな祝い事や折々のイベントなども満足にしてやれず、彼にしてやれたのはロードバイクを買い与えることくらいだ。それさえも、ティーダであれば遅かれ早かれ自ら選んでいただろう道に過ぎない。
 ティーダを守るつもりで、支えられてきたのはアーロンだった。失った盟友との記憶の残骸を影にして引きずる哀れな男は、晴れた日の太陽と凪の海に似た子供にずっと手を引かれてきた。
 もういいだろう、と思ったのだ。ティーダはまだ大人ではないが、まるで無力な子供でもない。彼は彼の世界を創りつつあり、その世界はきらきらしい輝きで満ちている。仲間、栄光、結ばれつつある淡い初恋。そんなものに彩られた、発達途上の、しかし夭々とした、美しい世界。それにいつまでもしがみついて影を落とすような真似は、ごめんだった。
「『そうすべきだと思った』、のかな」
 ブラスカの問いかけに、アーロンは小さく息を漏らして首を横に振る。笑いと諦めの狭間に落ちるような色合いの吐息は、いつの間にかアーロンの癖になっていた。
「いや、違うな。『そうしたいと思った』からだ」
 言葉遊びだ。十年分歳を重ねたアーロンは、かつてブラスカと、そしてジェクトと繰り広げた問答が、結局はただの言葉遊びに過ぎなかったことに気づいていた。
 義務と欲求とを仕切る壁は、分厚いようで実は薄い。そして意識は騙されやすく、いとも容易く「そうすべき」を「そうしたい」に変換する。アシストへの転向を決めたときも、アーロンはこのふたつをきっとどこかで取り違えた。「エースの座を退くべき」という思考は、いつの間にか「アシストになりたい」にすり替わっていた。
 それでも、アーロンは己の決断を悔いたことはない。ジェクトを牽くアシストになりたいと思う己がいたのは、決して嘘や欺瞞ではなかった。あの二年間の高揚を思い出せる。空気の壁を裂きながら走る背中にあの男の息遣いを感じたこと。彼の視線が己の髪を追っていたこと。ゴールの白線を最高速度で駆け抜ける王の背中の力強い美しさを。天に向かって高く掲げられる拳は、今もアーロンの閉ざされた右目に焼き付いたままだ。
 己を説明する意味の厳密性にこだわらなくなったのは、重ねた年輪のせいか、あるいは王とよく似た顔で笑う子供と生きてきたせいか。だからアーロンは、「すべき」と「したい」を区別するのに躍起になるのをやめた。自分がすべきことは、つまり自分がしたいことだ。人生においてはそうでない場合も往々にしてあるが——学校の宿題を嫌がるティーダを何度も叱りつけたのを思い出す——、ロードレースに関しては、アーロンはいつでもしたいことだけをしてきたし、これからもそうする。
 というようなことを、本当はブラスカに説明してやるべきなのだろう。アーロンの言葉を待って、らしくもなく落ち着かない様子のかつての恩師を見て思う。しかし、彼が期待するものを粛々と差し出してやるのも業腹だった。いつまでも彼の可愛いアーロンではない。
 第一、あの非常事態に自分ひとり飛び出してしまったような男なのだ、ブラスカは。少しくらい腑に落ちない思いをさせたところでばちは当たるまい。
 そう考えたアーロンは、わざとらしくコーヒーカップを持ち上げて言ってやった。
「俺は俺のしたいようにする。あんたがそうしたのと同じだ」
 ささやかかつ、何かと厄介なこの男を相手にするにはあまりに捻りのない意趣返しだった。しかしブラスカはぽかんと口を開いて、それからひどく楽しそうに笑い始める。
「そうか、その通りだ」
「ああ、そうだ」
「ふふふ、確かに、きみにはそうする権利があるね」
「権利がなかろうとそうするさ。いまさらあんたに許可を求める必要もない」
「私はもう監督ではないしね」
「俺ももうあんたの選手ではないしな」
「おっしゃる通り」

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