domestique’s high – 7

「しっかしブラスカよぉ、オメエどんだけ話長えんだよ。待ちくたびれて寝ちまうとこだったぜ」
「ははは、ごめんごめん。アーロンには全部知っておいてもらいたくてね」
「ジェクトさんに同意します。予定していた時刻より五十三分オーバーしていらっしゃいました」
「いやいや分かりますぞ、あたしもつい話が長くなりますからな」
 ジェクトとブラスカたちが談笑を始める中、アーロンはまだ硬直していた。ソファに腰掛け上体だけを後ろに捻りかけた姿勢のアーロンの頭のてっぺんに、ジェクトの顎が乗っている。十年間の不在などなかったかのように気安い腕は後ろからアーロンの両肩に垂らされ、まるきり悪ガキが友達にじゃれつく恰好だ。
「いいタイミングで出てきてくれたね、ジェクト。映画みたいじゃないか」
「その点はナバラに感謝だな。あの野郎、ずいぶんと粋なこと言ってくれやがって」
「感動的でしたなあ。あたしなど、つい涙が」
「涙といえばアーロンも……どうしたんだいアーロン、急に静かになって」
「……」
「アーロン? そんな姿勢でいると腰を痛めるよ」
「おっ、ひょっとしてジェクト様との再会に感無量ってか? おーい、アーロンちゃん」
 次の瞬間、アーロンは勢いよく立ち上がった。噴火のように力強かった、とは傍観者を決め込んでいたベルゲミーネの言だ。
「……この、大馬鹿どもがっ!」
「ぐへっ」
 必然的に真下から頭突きを喰らわされたジェクトは、わざとらしいほどの身振りで吹き飛んだ。両隣に座っていたブラスカとベルゲミーネが、そそくさとコーヒーカップを退避させる。
「おまえたちは、本当に……っ」
「アーロン、落ち着いて」
「そうだぞアーロン、血圧上がるぞ、もう若くねえんだし。あ、おまえはまだそこまでじゃねえか」
「見た目の貫禄はすごいけどね」
「やかましいこの馬鹿どもが! おまえたちは、おまえたちはひとを何だと思って、こんな、」
 ただでさえ狭い視界がさらに縮むほどの激情は、しかし四本の腕によって呆気なく鎮火された。ひょろりとしたブラスカの腕と、対照的に筋肉に恵まれたジェクトの腕とに、アーロンは閉じ込められる。
「すまないね、アーロン……すまないという言葉ひとつで許されるとは、思わないけれど」
 ブラスカの手がアーロンの頭に触れる。ずっと昔、まだハイスクールを出たばかりの頃にそうされたように、少し低い体温が白髪混じりの髪を梳く。
「悪かったな、おまえに全部押し付けちまってよ。……感謝してるぜ、アーロン」
 ジェクトの手がアーロンの背を叩く。かつてこの左胸を灼いたのと変わらぬ熱い肌で、スピラを共に駆けた二年間を思い出させるように。
「おまえたちは——」
 十年をアーロンは耐え続けた。ティーダという光を見守りながら、それでもこの十年は過酷だった。期待することよりも諦めることがずっと多くなり、求めるよりも与えなければならないと己に言い聞かせ続けた。ブラスカとジェクトを喪ったアーロンは彼らと同じ形をした空洞を抱え、いつしか待つことに疲れ果てていた。
「おまえたちは、何故、」
 何故、俺を連れて行ってくれなかったのか。何故、俺だけが残されたのか。何故、おまえたちだけが行かなくてはならなかったのか。何故、その重荷を分かち合ってくれなかったのか。ふたつの後ろ姿の幻影は、どれほど問うても何も答えない。アーロンは繰り返す問いを封じ込めることに慣れてしまった。
「俺は——ジェクト、ブラスカ、俺は」
 アーロンを抱き締める二対の腕に力がこもる。卑怯だ。ブラスカも、ジェクトも。こんなふうに触れられたら、もう何も言えない。アーロンは握った拳を垂らしたまま、二人の拍動に瞑目する。
「——ただいま、アーロン」
 そう言ったのはどちらだったか、どちらもだったか。眼球と一緒に潰れたはずの右目の涙腺から、滲み出すものを感じていた。

「——恐れ入ります、皆様。そろそろご準備をお願いしたく」
 その言葉がアーロンを現実に引き戻す。遠慮がちながら依然として迫力のある声の主は、いつの間にかガーメントバッグを手に三人の傍らに立っていた。
「ああ、しまった、あと三十分しかないね」
「そんな時間かよ。まずいな、急ぐぞ」
「……何の準備だ」
 戸惑いを露わにするアーロン——余韻もなく離れてしまった腕を惜しんでいるわけでは断じてない——の目の前で、ジェクトとブラスカが顔を見合わせる。
「おい、ブラスカおまえ説明してなかったのか」
「聞いてただろう、説明する前にきみが入ってきたんだ」
「俺のせいにすんじゃねえよ、タイミング完璧っつったのはテメエだろうが」
 またぞろじゃれ合いを始めかねないふたりの頭を、アーロンは遠慮なく鷲掴んで引き離した。背後でメイチェンが笑う間伸びした声が聞こえる。
「今から記者会見なんだろう。とっとと準備して行ってこい」
 言われた方のジェクトとブラスカは、ベルゲミーネからバッグを受け取りながら揃って首を傾げた。十年前よりさらに波長が合っている。
「何眠たいこと言ってるんだいアーロン、きみも出るんだよ」
「そういうこった。ほれ、こいつがおまえのスーツな」
「はい。どうぞアーロンさん」
「眠たいのはどちらだ。何故俺が」
 すかさず最後のひとつを差し出すベルゲミーネから半歩退くが、彼女もその程度で躊躇うような人物ではないらしい。アーロンの腕をレール代わりにハンガーフックを引っ掛けて、テーブルに積んであった封筒を配り出す。
「こちらがブラスカさん、こちらがジェクトさん、それからアーロンさん」
「おう、ありがとよ」
「何だこれは」
「記者会見の原稿です。このまま読み上げて頂ければ結構ですので」
 押し付けられた封筒は、それなりの厚さだった。片手にスーツを引っ掛け、もう片手に封筒を持たされ、なす術なく立ち尽くすアーロンを尻目にジェクトたちは荷物を広げ始めた。
「それではベルゲミーネさん、あたしたちは一足先に会場に向かいますかな」
「そういたしましょうメイチェン師。先ほどからエボンコーポレーションの方々が受付で騒いでいるようですし」
「おっとそれはいけないね、対応はよろしくお願いします。ほらアーロン急いで。きみ、髪も結い直さないと」
「あと顔も洗った方がいいと思うぜ」
「……ジェクト、ブラスカ」
 アーロンが唸るのと同時に、ベルゲミーネたちが部屋を出てゆく。名を呼ばれたふたりはわざとらしいほどきょとんとした顔でアーロンを見返した。
「俺が会見に出るのは間違っている」
「何故?」
「俺は何もしていない。調べ上げたのはおまえたちだろう」
「おまえ、それ言い出したら雛壇に何十人並ぶと思ってんだよ。いいの、俺らが代表ってことで」
「そうそう。告発文書には顕名協力者の名前は全員分入ってるし」
 ああ言えばこう言う、とどこかで聞いた覚えのあるフレーズが頭に浮かぶ。そうだ、ここに来る前にティーダに言われた台詞だ。彼に見せてやりたい、これが本当の「ああ言えばこう言う」だと。片方はおまえの親父で、もう片方はおまえが好きな娘の父親だ。
「あのねアーロン、」
 ブラスカがカフスを留めながら言った。ジェクトは遠慮なしにジーンズを脱ぎ捨て、トラウザーズに脚を通す。
「窓の外見てごらんよ。今の天気は?」
 視線を向けるまでもなく、嵐のような暴風雨だ。窓ガラスに水滴が叩きつけられてバラバラとやかましい。
「ジェクトは悪天候が苦手じゃないか」
「ばっかおまえ、俺様に苦手なもんなんかあるわけねえだろ」
「とか何とか言ってるけどね、『うちのエース様』はこういう天気だと滑りやすくなるんだって。覚えてるだろう」
 話しながらブラスカも下を履き替え、ベルトを締める。その向かいでは、ジェクトがネクタイをワイシャツの首に通している。
「今日ばっかりは滑られると困るんだよね、何しろ決戦だからさ」
「滑らねえっつーの……ま、だからって『アシスト』が要らねえわけじゃねえんだがな」
 さて、と揃って着替え終えたふたりが、立ち尽くしたままのアーロンからガーメントバッグと封筒を奪う。
「ほらアーロン、上脱いでこれ着て」
「アーロンちゃんひとりでおズボン履けるかな? お手伝いしてやろっか?」
「うるさい! だからどうして俺が!」
 アーロンの断末魔にも似た叫びに、「監督」と「キング」はとびきりの笑顔を見せた。
「それはもちろん、きみが」
「俺たちの『ドメスティーク』だからに決まってんだろ」

 そこからは怒涛の勢いで全てが進んだ。
 何故か今の体型にぴったり誂えられたスーツ——優秀な協力者であるキマリが、ユウナとリュックを巻き込んでチームのデータベースからボディサイズを取得したらしい——に着替え、顔を洗い、髪を結い直し、会場であるホテル併設のホールに到着したのは定刻の三分前。
 原稿には、ブラスカが取材陣に挨拶を述べている間に目を通した。ベルゲミーネとメイチェンによって整えられた原稿はほとんど台本のようで、「ここで一息置く」「ここで目線を上げる」とまで書かれていた。
 質疑応答のほとんどはブラスカとジェクト、そして代理人弁護士であるベルゲミーネが対応したが、アーロンに向けられたものもあった。その度に、真っ直ぐ前を向いて微動だにしていないはずのベルゲミーネからメモが差し出されたが、質問の半分ほどについては「心の赴くままにお話しください」という指示だった。他に助けもなく、アーロンは十年溜め込み続けた想いのごく一部を披瀝した。
 二時間半に亘る会見が終わると、そのあとの数日は記憶さえ曖昧だ。ブラスカの宿泊している部屋に戻ると彼の奥方に加えてティーダとユウナが待ち構えており、ジェクトとティーダが殴り合いを始めようとするのを力尽くで止めた。彼らはまったく対等に低レベルな言い争いを繰り広げていたが、アーロンが呆れて飽きて怒鳴りつける寸前に抱擁を交わし、和解に至った。どうせまた同じような喧嘩を、これから何度もするのだろう。すればいい。
 いっそ酒でも喰らって寝てしまいたい気分だったが、関係各所からの問い合わせは引きも切らず、対応に追われるブラスカらと夜を明かした。翌日の昼過ぎにはエボンコーポレーションから対抗声明が出され、また取材攻勢が始まりと、アーロンが自宅に帰ることが出来たのは結局、会見の四日後だ。
 ブラスカたちの集めた証拠によって、アンチドーピング協会を始めとする各団体は誠実な対応を余儀なくされた。ナバラ=グアドが理事を務めるロードレース協会の動きは特に迅速で、間もなく調査委員会が発足する。
 告発からわずか三週間という異例の速度で発表された第一の報告は、負傷した選手のドーピングコントロール結果が捏造されていたことを認定。続く第二第三の報告によって不正に関与した人物が特定され、そのリストにはユウナレスカと共にキノックの名もあった。
 そして会見から半年後、ユウナレスカら総計八名の告訴が決定。彼らは刑事と民事の両面で法廷に立たされることになる。
 先はまだ長い。調査委員会によってユウナレスカらの罪はすでに明らかにされていたが、彼女はあくまでも否認の姿勢を崩さなかった。法廷論争となればさらに年単位の時間がかかる。
 それでも、アーロンたちはこの長い苦しみがいずれ報われることを信じている。

 そうこうしている間に、ロードレーサーとしてのアーロンが自ら決めた期限が訪れた。彼は告発会見で着たスーツに再び身を包み——他にちょうどいいスーツがなかったので——、あのホテルではなくチームの訓練施設に併設されたホールで引退を発表した。
 会見を終えてロッカールームに戻ったアーロンを、ティーダが出迎えた。彼は抱え切れぬほど大きな花束をアーロンの横っ面に叩きつけ、十年前から変わらない泣きっ面で先導の門出を祝った。

 ——そして、今日。
 空が底抜けに青い。燦々と降り注ぐ陽の光は、遠く浮かぶガガゼトの稜線を柔らかく縁取っている。さやさやと草原を渡る風を感じたくなって、アーロンは一度被ったヘルメットを外した。
「いーい天気だなあ」
 隣に並ぶ男が言う。アーロンは小さく笑い、彼に応える。
「初心者に合わせてくれたんだろうな」
「ほー、ビギナーさんもいらっしゃんのか、このレース」
「そうだな。俺の右隣にいる馬鹿とかな」
「えっアーロンちゃん、おまえの右隣にはジェクト様しかいねえけど、まさかおまえにしか見えてない選手いる? スタートラインからはみ出すなって教えてやった方がいいんじゃねえか?」
「ああ、そうだな。ジェクト、スタートラインからはみ出すな。おまえは今ラインの右端ぎりぎりにいる」
「てっめえこの野郎」
 子供のように歯を剥いてみせる男を鼻で笑って、アーロンはヘルメットを被り直した。サドルやハンドルの位置を確かめて、トップチューブを軽く叩く。走り出す前のいつもの儀式だ。
 ジェクトとアーロン、ふたりはそれぞれの愛車に跨り、出走の号砲を待っていた。グランドツアーとはまるで比較にならない規模のシングルデイレース。スピラの頂点を決めるというには程遠い、ささやかな大会だ。ティーダたちも出場はしていない。
「ジェクト」
「あ?」
「今日の目標は完走でいいのか」
 風が吹く。ナギ平原らしい、しなやかでたおやかな風だ。穏やかに凪いだ海からの風に、青々と繁った若草が揺れる。
 十三年前、ジェクトにアーロンが訊いたのと同じことを言った選手がいた。あの時ジェクトは平然を装いながらも、両目の底に苛立ち混じりの闘志を燃やしていた。しかし今は違う。ひどく愉快そうに目を細め、獰猛に笑った。
「ジェクト様を舐めんじゃねえ——どいつもこいつもぶっちぎって優勝だ」
 ふたりのやり取りが耳に入ってしまったのだろう、周囲の選手が一斉に息を呑んだ。そりゃジェクトならな、という諦めと、十年も走ってなかったくせに、という反感とが辺りを包む。後者に同意したいアーロンの胸中などお構いなしで、ジェクトが不敵に笑った。
「おまえこそ、ちゃんと最後まで着いて来いよ。モタモタしてっとテメエから真っ先に千切ってやるからな」
「アシストに対する態度とは思えんな……謝罪はレース後にじっくり聴いてやろう」
「そっくり返すぜアーロン、久しぶりに泣いてくれよ」
「おまえの前で泣いた覚えはないが」
「ははーん、そういうこと言いやがるか、あのなあ、」
『間もなく出走開始です。選手は位置に着いてください』
 アナウンスが響く。前を向いたアーロンには右側が見えないが、それを重々承知しているジェクトはご丁寧にもアーロンの顔の真ん前で中指を立てた。
「……大会規定も忘れたか。他選手への侮辱行為は失格の」
「うるせえなあ!」
『カウントダウン開始。十、九、八……』
 草原を縫うようにして白い道が走るナギ平原。高まる興奮を心地よく覚えながら、ふたりは同時にハンドルに手をかけた。

「アーロン、レース出ようぜ、俺と」
「断る」
 そんなやり取りが始まったのは、告発後の混乱の最中だった。
「せめて考えるふりくらいしろよ」
「考えるまでもなかろう。俺はもう引退するし、おまえには十年のブランクがある」
「おまえ、俺が十年まるっきり走ってなかったとでも思ってんのか?」
 ジェクトの欲求不満はピークに達していた。彼は十年間、スピラのあちこちで潜伏生活を強いられてきたのだ。その上、告発によって各方面の対応が連日続いている。アーロンでさえ相棒に乗って心ゆくまで走りたいという気持ちを抑えるのに難儀していたのだから、ジェクトはなおさらだったろう。
「これでもトレーニングは続けてたんだぜ。ブラスカがメニュー作ってくれたしな」
「あの状況下で実行可能な限界を攻めた自信があるよ」
「たまにどうやっても物理的に無理なやつあったけどな」
「そうか、きみにもできないことがあったんだね。覚えておくよ」
 毎度のことながら締まりのないやり取りはさておき、アーロンはジェクトの誘いを交わし続けた。そもそもこれだけの騒動を起こしておきながらふたり揃ってレースに出るなど、ゴシップの種にしてくださいと宣言するようなものだ。
 それに、アーロンはアーロンなりにティーダへの義理を通したいという思いもあった。彼の必死の引き留めを袖にして引退するのだ。もとより、ロードレース人生で牽くのはティーダが最後だと決めていた。いくらジェクトが無事に見つかったからといって、やっぱりまた走りますというのは虫がよすぎる。長年の保護者代わりとしては、その辺りのけじめはつけるべきだと考えていた。

 しかしながら、アーロンは忘れていたのだ。ジェクトが言い出したことは必ず実現する男だということと——ブラスカがいかに厄介な人間であるかということ、その両方を。

 ある日、アーロンの住まいにリンと名乗る男が訪ねてきた。アルベド族ながらスピラで最も有名な宿泊施設を経営する彼は、出版社や小売チェーン、アパレルブランドなども所有している。そんな人物が何の用かと訝るアーロンに、リンは小さな包みを差し出してこう言った。
「ヨンシヒマ。ご注文頂いていたレーシングウェアです」
「……そんなものを頼んだ覚えはないが」
「はい。ご発注者はブラスカ氏ですので」
 それですべてを理解したアーロンはとりあえずリンを帰し、押し付けられた包みを開けた。それは確かにレーシングウェア、しかも旧チームブラスカのデザインそのままだった。当時と違う点といえば、スポンサーロゴの数が減り、いずれもリンの企業やブランドのものに変わっていたことくらいだ。
 ひとまずは本人に文句を言おうとブラスカに電話をかけたが繋がらず、諦めたところでジェクトからメッセージが入った。すなわち、
『x月xx日、ナギ平原集合な。チャリとか装備一式持って来いよ』
 未就学児の遊びではないのだが。

 そのような経緯でついに折れたアーロンは、こうしてナギ平原を疾走している。このレースは平原をぐるりと半周し、ガガゼトを左手に望みつつレミアムまで登り、折り返して平原の残り半周を走るというコースだった。これといった難所もなく、登りも大した傾斜ではない。
 アーロンとジェクトは、前半戦をメイン集団の中程の位置で終えた。レミアムの街を走り抜け折り返し地点に辿り着いた時、沿道の最前列に直立不動で陣取るベルゲミーネ——そういえばこの街は彼女の事務所の所在地だった——と、その隣で手を振るメイチェンとに驚かされた他は、極めて平和なレース運びだった。
 小規模な大会とはいえ、選手のレベルはなかなかどうして侮れない。来月の選手権のセレクションに惜しくも漏れたような面々が少なからず参加しているのだろう。ジェクトの言うように「どいつもこいつもぶっちぎって」の優勝は難しいかもしれない。
 レミアムから平原に向かって下る区間で、集団が縦に伸びた。前方のチームが逃げ集団を捕捉しそうだ。平地に戻ればまた圧縮するだろうが、そのタイミングで再発生する先頭集団に入りたい。
 アーロンはドリンクボトルを定位置に戻し、ジェクトの様子を窺った。彼も機を探っていたらしく、目が合う。
 突発的な出場である上に、今や「チームブラスカ」は監督を含めて総員三名だ。その監督はゴール地点付近で待機しつつ、レース展開は中継で観戦している。インカムさえない。いつどこで攻めるかは、ジェクトとアーロンの判断に委ねられていた。
 坂を下り終える。予想通り逃げ集団とジョイントしたメイン集団は、再びひとかたまりになりつつあった。もう一度ジェクトと目を合わせる。攻めるぞ、意志を込めて視線を送れば、当たり前のようにジェクトが頷く。十年前と同じだ。あの頃も、ふたりにインカムなど要らなかった。
 アーロンは背を丸め、一気に集団の外に出た。アタック。セオリーよりもわずかに早いタイミングで他選手の虚を突くことに成功し、ジェクトもほとんどブロックされずにアーロンを追った。
 一気にペダルを踏み込むアーロンには、ジェクトの姿は見えない。しかし、見えずとも分かる。ジェクトはアーロンの後ろにいる。彼の息遣いが聞こえる。空を舞う後ろ髪を追う視線を感じる。ジェクトの脈打つ鼓動さえも、アーロンは正確に掴める気がした。
 アタックを成功させ、ふたりは集団の前に躍り出た。ゴールまではまだ距離がある。すぐに別のチームが合流し、思惑通りの陣形が出来上がった。
 アーロンたちの眼前には瑞々しい草原、その向こうの崖を越えて遥かな水平線が広がっている。さざなみひとつ見えぬ海は穏やかで、しかし彼女が突如として牙を剥く日があることをアーロンとジェクトは知っていた。荒れ狂う海からは、災厄のような暴風が吹く。何もかもを破壊し、押し潰してしまうほどの飄風。
 あの日からの十年、アーロンたちは嵐のただ中にいた。いつ止むとも知れぬ豪雨に打たれ、酸素を奪う颶風に嬲られ、互いの名を呼ばうことさえ許されずにただもがいていた。世界は稠密な悪意の闇に覆い隠され、逃げ道はどこにも見つからなかった。魂さえも削られるようなあの苦しみは、今でもアーロンたちの影に杭を打つ。
 それでも、アーロンは知っている。暴力的な嵐に立ち向かい、ついに終わらせたひとびとがいることを。長すぎる雨に疲弊しながら、それでも走り続けたアーロンを彼らが見ていたことを。傷ついた両腕を差し伸べ、抱擁するその体温を。彼らの名を再び呼ぶことが許された、その歓喜を。
 その記憶さえあれば、恐れるものは何もないのだ。
「アーロン!」
 ジェクトが呼ぶ。ゴールまで残すところ五キロメートル強。今日の対抗馬は瞬発力に優れた典型的なスプリンターだ。勝負に出るのなら早い方がいい。
 アーロンはコースを見定めて、小さく指を動かした。ハンドサインと呼ぶにはあまりに慎ましいその合図でも、ジェクトには充分だ。

 ——飛ばすぞ、ジェクト。着いて来い。俺がおまえを牽いてやる。だから走れ。

 アーロンは呼吸を整え、己の肉体に問う。走れるか。走れる。どこまで走れる。どこまででも、限界のその先まで。

 ——ジェクト。誰よりも速く駆け、誰よりも高く飛べ。俺を盾にして、俺の背を踏んで、この世界にもう一度君臨しろ。

 全身に力を溜める。筋肉が膨張し、腱が張り詰め、血管が拡張する。細胞が沸き立つ。駆けるために。他の誰よりも速く走るために。

 ——王よ、俺の王よ。おまえの姿を見せろ。誰よりも美しい風になる瞬間を見せろ。栄冠を掴む背中を、天を突き上げる拳を、俺に見せてくれ。

 アーロンは大きく息を吸い込んだ。ゴールまで残り四キロメートル。ここから先は、獣の領域だ。
 爆発。そうとしか形容できないほどのエネルギーを燃やして、アーロンは走り出した。あまりに早すぎるスプリントの開始に敵たちは戦慄し、観衆は歓声を響かせる。
 アーロンの視界を遮るものは、まだ何もない。潰れた右目さえこじ開けられそうな向かい風を、力尽くで切り拓く。三十センチメートルの背後に王を従えて疾走するドメスティークは、最早下僕でも副官でもない。彼はこの世界でただひとり王と同じものを見ることを許された伴侶であり、勝利に餓えた凶悪な獣を手懐けられる唯一の主だった。
 風が吹いている。打撃のように荒々しく、銃撃のように重く、斬撃のように冷厳な風だ。しかしアーロンは、一片の躊躇も恐怖もなくその正鵠に身を投げる。知っているからだ。今まさに己の背から飛び立とうとする男が、この風を支配するということを。
「——行け、ジェクト!」
 追い風の錯覚。アーロンの右を、流星が通り越す。大気摩擦で自ら発火する隕石に似た、しかし決して燃え尽きることのない男、ジェクトが。
 彼は歯を食い縛り、頚動脈を破裂寸前まで浮き立たせて走っていた。曳航する赤い光を宿す両のまなこは、その瞳孔を限界まで広げているだろう。ビンディングで固定されたジェクトの足が痙攣し始めていることに気づく。だから言ったのだ、おまえには十年のブランクがあると。
 ゴールまで残り一キロメートル半。肉体はすでに限界を超えた。この距離を駆け抜けるのに必要なのは、もはやひとつしかない。それを与えてやれるのは、アーロンだけだ。

 ——まったく、仕方のない奴だな、ジェクト。

 アーロンは緩ませかけた全身に再び力を込めた。観客がどよめくのがかすかに聞こえる。ブラスカがどこにいるかは分からないが、きっとまた腹を抱えて爆笑しているはずだ。
 ほんの数秒でジェクトに並ぶ。彼が驚愕の表情でこちらを見た。馬鹿が、驚いている暇があるならペダルを踏め。とっととしないと先に行くぞ。ドメスティークに勝ちを取られてもいいのか。
 アーロンの前輪がわずかにジェクトの前に出た。探りを入れるつもりのその動きに案の定、ジェクトが巻き返す。

 ——そうだ、それでいい。俺はいまさらおまえの手を引いてなどやらない。せいぜい俺に煽られて進めばいい。

 残りの数百メートルを、ふたりはそのようにして進んだ。ジェクトがわずかに先に出て、すぐにアーロンが前を取る。それに負けじとジェクトがまた前に進む。時間にすれば一分間にも満たぬ、デッドヒートに似たランデヴー。
 ゴールバナーがはためく、その二十メートル手前でようやくアーロンは足を止めた。ジェクトがラインを踏み越える。歓声。惰性走行であとに続くアーロンの目の前で、ジェクトが愛車ごと横倒しに転げた。
「この程度のスプリントで倒れる奴がいるか」
 アーロンの開口一番は、自分で思っていたよりも滑らかな発声だった。余力がある。当然だ、つい先日まで十代のエースを現役で牽いていたのだから。
 それに対し、ジェクトは正に息も絶え絶えの有様だった。ホイールを空回りさせる相棒の隣に座り込み、それでも意地を張って笑ってみせる。
「はっ……初心者にしちゃ、悪くない走りだったろ」
「減らず口を」
 これからゴールする連中に轢かれてはたまらない。アーロンは左手で己の車体を支えながら、右手をジェクトに差し伸べた。ジェクトがひどく眩しそうな顔で見上げる。
「アーロン」
「何だ、早くしろ」
 右手にジェクトのくちづけが触れた。祈りのような熱い吐息が肌を灼く。
 証が残る。いつかこの肉が朽ちて骨が砕けても消えない、それはとこしえに尽きることを知らぬ炎の契約だ。

「愛してるぜ」

 アーロンは腕に力を込めて、ジェクトを引きずり起こす。よろめきながら立ち上がる彼の王を支え、ふたりを待つブラスカを目指して歩き始めた。ただひとこと、他の誰にも聞こえぬように囁きながら。

「——俺もだ、ジェクト」

end.
>>おまけ(設定資料集)