腫れ上がる空

 ヴェーネスが色彩を認識できないと知ったときの、シドの興奮ぶりといったらなかった。傍観者を決め込んでいたヴェインすら唇を綻ばせたそのはしゃぎ方は、まだヒュムに慣れないヴェーネスに驚愕に似たものさえ覚えさせたものだ。
「そうか、これが赤いと分からんか」
 赤という色で覆われているらしいいびつな球体――林檎という食用の木の実だと後に知った――を手にしたシドに、ヴェーネスは応える。我々には「視覚」に相当する感覚がない。
「なるほどな、確かにヴェーネス、君には肉体がない、つまり角膜や網膜がないわけで、すなわち視覚の一種である色覚もない」
 となれば世界を知覚する方法にも受信できる像もまるで異なる、言われてみれば当然だったな、とシドはヴェインに相槌を求めるが、彼はごく小さな吐息を返答に代えたようだった。それが笑いであるとヴェーネスが知るまで、そう長い時間は必要なかった。なんとなれば、ヒュムの刻む時などオキューリアにとってはほんの須臾のできごとに過ぎないのだから。

 ヴェーネスの姿は、ヒュムの目には揺らぐ蜃気楼のように映るらしい。本来ならばヒュムには認識さえされぬものだが、それでは何かと不都合が多いことを知ったヴェーネスは、彼らと意思疎通するときは位相をずらすことにしていた。ひとつ下の世界線に潜り込んで「下界」のものどもに感覚可能な姿を取るのは、ゲルンとっておきの演出のひとつであり、ヴェーネスはその手順だけを学んでいた。
 万人に認識される必要はないのでシドとヴェインにだけ姿を現していたら、どうやらシドが発狂したという噂が立ったらしい。その噂を教えてくれたヴェインがひどく楽しそうに、今後もぜひ、ひとの目のあるところでシドに話しかけてやってくれ、と言った。もっとも、ヴェーネスから話しかけるよりもシドが所かまわず話し始めることの方がずっと多いのだから、ヴェインの言葉は余計なお節介とでも形容すべきものなのかもしれない。
 当のヴェーネスは、ふたりのヒュムを質感の異なる光の粒子として認識する。一方は忙しなく飛び回りしゃらしゃらと賑やかな音を響かせるもの、もう一方はしんと静まり返っているようだが、触れるもの全てを蒸散させかねない鋭い熱を孕むもの。
 ヴェーネスには、ヒュムとしての彼らの造形を理解することができなかった。シドがヒュムとしては老境に差し掛かりつつあること、対するヴェインが才気煥発な美を誇る若者であることは情報として認知している、しかしそれだけだ。ヒュムのものさしで彼らが美しいのか醜いのかは問題ではない。どのみちヴェーネスには理解できないのだし、重要なのはヴェーネスの知覚する光の輝きだ。喩えるならばそれは魂のかたちとでもいうのかもしれない。
 仮にも神と等しきオキューリアにしては随分と陳腐な言い回しだとヴェインが笑う。その揶揄は不愉快なものであるはずだったが、ギルヴェガンの御座を降りたヴェーネスにとっては些末なことだった。彼がいつも――たいていはシドの突拍子もない発言に対して――そうするように、ヴェーネスも笑ってみせたくなったが、ヴェーネスの笑いはヴェインにもシドにも認識されなかった。結局、最後まで認識してもらえないままだった。

 シドはいつでも上機嫌だった。彼は饒舌多弁だったが、彼の発語は会話が目的ではなかった。
 彼にとって声を出すことはメモを残すことに近い。彼の実によく働く脳はその生産物の全てを受け止め続けるにはあまりに容量が足りず、シドは思考し続けるために思考の経緯を思考する端から外部出力しなくてはならなかったのだ。走り続ける回路を正しく運動させるためのその作業が要求する速度には当の本人の手も追いつかぬため、彼の研究ノートはおよそ誰にも解読できなかった。あのヴェインにさえ。
 シドは話し続ける。はるか天上の高みに在すオキューリアが支配するこの世界の歩みはあまりに遅く、シドにとってはその遅さこそが罪だった。ともすれば本人さえも置き去りにするシドの思考を解する者は、結局ヴェインとヴェーネス以外には現れなかった。
 シドは天気の話をするのが好きだった。実際のところは好悪によるものではなかったが、ともあれ彼はしばしば窓の外に目をやり、その時々の天候についてヴェーネスに語って聞かせた。
「ヴェーネス、今日はよく晴れているな」
「ヴェーネス、間もなく雨が降り始めるぞ」
「ヴェーネス、このところ曇り続きでつまらんな」
 オキューリアには空の色も姿も認識できないと理解していながら毎日天気の話をするシドの意図は、ヴェーネスにはわからない。おそらく深い意味はないのだろう、ただ話し始めるのに咳払いが必要で、だがただの咳払いでは退屈だから空模様の話を発声練習に代えていたのかもしれない。
 しかし、シドはヴェインには天気の話を一度たりともしなかった。ヴェインと話す時はたいてい、昨今の政情についての皮肉めいた冗談――というのも、ヴェインは常に愚物ばかりのさばる政の只中にあったので――ばかりで、その差異が奇妙にも思えたが、ヴェーネスが本人に問い質す機会には巡り会わなかった。ヒュムの刻む時は、ヴェーネスには短すぎた。

 ただ一度だけ、シドの言葉に反駁したことがある。長雨の続いた日、今日も雨だ厚い雲がうっとおしい、とシドがぼやいたからだ。
『シド、なにゆえ君は雲などにかかずらう』
 それがヴェーネスには理解できなかった。地を這うものどもが天候を気にするのにはいくつかの理由があるだろう。農作物の出来だとか、商売の具合だとか、あるいは体調に影響する場合も考えられる。しかしヴェーネスの知る限り、シドは畑を持たないし、商売もしていないし、天気病みもせず、破魔石の研究にも関係ないはずだ。
『たかが天候ではないか、雨はいずれ止む、晴れてまた雨が降る』
 シドほどの才気の持ち主が、こんなにも瑣末な現象にこだわり続けるのは無駄以外のなにものでもない。そう述べるヴェーネスに向かって、シドは歯を剥いて笑う。
「ヴェーネス、オキューリアは天気を操るか」
 答えは否だ。イヴァリースの歴史を支配するのがオキューリアであって、流れる雲だの吹く風だの照る日だのはオキューリアたちの興味の完全な埒外にある。不滅なるものの円卓は無謬の蒼穹に据えられていた。
「だからだ、ヴェーネス」
 名高きエトーリアは抱えていた書類を机に投げ、大股で窓に歩み寄った。彼が進むたびに翻る裾が積み上がった書籍や試料の山を崩したが、シドもヴェーネスも意に介さない。カーテンを開け放した窓の向こうには雨粒が紗をかけている。
「ヴェーネス、おまえの言う通りだ。天気など取るに足らん、雨が降ろうが雪が積もろうが雷が落ちようが、雲を一枚二枚剥げば晴れだ。空はいつでも晴れておる」
 だがなヴェーネス、それが見えんのだ、人間には。
「見上げても見えん空の高みでは常に陽が輝いていようとも、長雨に濡れる人間には何の意味もない。いずれ春が来るからと言って、たった今雪に凍える者の命が救えるか。乾いた土に飢え死にした死体が転がってから雨が降るのでは遅いのだ」
 ヴェーネスは沈黙を保った。シドは話し続ける、さらさらと降り注ぐ雨を見つめたまま、彼の口は絶え間なく動く。
「分かるかヴェーネス、それが人間だ。脆く、ひ弱で、生まれる端から死んでゆく、ほんの些細なことでだ。飢えて死に、渇いて死に、斬られて死に、病んで死ぬ」
 オキューリアが見逃すほどの速度で、その99%は残す歴史もなく消える。それが人間なのだとシドは言う。
「どうだ、瑣末だろう。木端のように取るに足らぬ、ちゃちでお粗末な生命体だ。それがいい。そうでなくてはならん」
『――歴史を刻むためには、か』
「違う、違うぞヴェーネス、歴史を刻むことが目的ではない、歴史とは進めるためにあるのだ、進歩し、前進し、その後ろに伸びた轍を我々は歴史と呼ぶのだ」
 轍とはすなわち、名もなきひとびとの屍と墓標の謂であろう、とヴェーネスは感じた。極端に単純化すれば、ヒトは容易く生まれ容易く死ぬからこそ歴史を動かすことができる、とシドは言っているのだ。
「我らに与えられた時はあまりに短い。ゆえに進まねばならぬ、ゆえに動かねばならぬ、それは果ての見える生を享けたものの必然であり強迫観念だ。時に追い立てられるからこそ、我らは変わり変えることができるのだ」
 ヒトはいつか天候さえも操ってみせるだろう、健全な暮らしのために、よりよい実りのために、あるいは見たこともない景色を見るために。理由がどうあれ、せいぜいが数百年のうちに尽きる寿命と知っているからこそ貪欲になる。その欲こそが世界を変える、世界を進める。
「さあどうだヴェーネス、もうおまえにもわかっただろう、移り変わる空の尊さが」
 弾け飛び綺羅を振り撒く賑やかな光は、もう間もなくその望みを叶えるだろう。シドの背後に鎮座するロック式の試験管の中で、ヒトの手による破魔石が今まさに生まれようとしていた。