腫れ上がる空

 天陽の繭は破れた。ダルマスカの女王たちが去った大灯台の最上階は、今まさに吹き飛ぶ瀬戸際にある。
 石畳に臥したシドは間もなく死者となろうとしていたが、しかしヴェーネスに「視える」輝きは衰えることなく、最期に華を添えんとばかりに強く靭く燃えていた。
『シド』
 その名を呼べば、彼の器はひくりと動いたようだった。さきほどひとりのヒュムを打ち砕いた破魔石の臨界光に、シドの肉体もいずれ呑み込まれる。
 ヴェーネスの、たったふたりの友人、その片割れが、これから命を終える。
「ヴェーネス、」
 シドは最期の力を振り絞り、うつ伏せていた身体を仰向けにした。傍らに寄り添うように浮くヴェーネスに向けたその瞳はとうにうつろで、もはや何の像も捉えてはいまい。しかしヴェーネスは位相をシドに合わせ続けた。そのことに合理的な意味などないと理解しながら。
「ヴェーネス」
 ヴェーネスには、この男が幸福であることが感ぜられた。当然だ、シドの、シドたちの目的は達成されつつある。オキューリアの下賜する力を跳ね除けたことで自らがシドの望みを叶えたのだと、ダルマスカの女王は知るよしもないだろう。
「礼を言うぞ、ヴェーネス」
 歴史を自らの手で動かしたエトーリアは、最期の息と共に尋ねる。
「ヴェーネス、空は晴れているか」
 教えてくれ、もうこの目は利かんのだ。
 乱舞する光の粒がひとつふたつと落ちてゆく。あれほどせわしく騒がしく踊っていたシドという光が、枯れてゆく。
 ヴェーネスは、そうする必要などなかったが、天を仰いだ。シドがいつもそうしていたように。
『ああ、よく晴れている』
 その言葉が虚偽と知っているはずの男は、笑ったようだった。

 オキューリアにはヒュムの見ている世界が見えない。オキューリアの知覚はヒュムとは異なる次元にあり、オキューリアの視る世界はヒュムの生きる世界と一致しない。
 オキューリアが視るのは流れであり、光であり、現象であり、観念である。芽吹いて咲いて枯れる花木も、乾き割れ潤され肥える土も、積み上がり伸び朽ちる建造物も、烈しく照り浮雲に隠れる太陽も、オキューリアにとっては何らの価値も持たぬ。
 その事実を以て、オキューリアはこの世界に君臨している。定命の徒花を軽んじ、憐れみ、不滅ゆえに己こそがイヴァリースを導くに足る唯一の存在だと疑わず、獣に餌を与えるように、破魔石を切り分ける。
 ――そうしてきた。今までずっとそうしてきた。これからもそうあると思っていただろう、我らが王、偉大なりしゲルンよ。しかし真に憐れむべきはおまえに他ならぬ。
 ヴェーネスは知った。無謬の蒼穹から降り、誰もが狂人だと噂する男に出会い、世界中から覇王たるべきと目される若者の知遇を得て、何も知らなかった若きオキューリアはこの世界を彼らの尺度で知った。
 芽吹いては枯れる花にひとつとして同じものはなく、ほんの刹那の乾きがこの大地に生きる命を心底脅かすのだということ。数百年のうちに朽ちる建造物は、朽ちてもなお壮麗に過去を伝えるのだということ。陽が輝き雨を零す空の色を、命を終える瞬間に焼き付けようとすること。
 ゲルンよ、恥じるがいい。おまえが取るに足らぬと切り捨ててきたもの、おまえがひとたびも意に介さず爪弾いてきたもの、おまえには視えぬ、視ようとさえしなかったすべてが、おまえを裏切るのだ。
 破魔石に支配された歴史は終わる。ヴェーネスが糸口を切り、シドが導き、ヴェインが解き放つ力は、ゲルン、おまえにしてみればただのまがいものに過ぎないだろう。違う。ここから始まるのだ、たった今産声を上げたばかりのこの力が、世界を、歴史を更新する。

 シドとヴェインは間違いなくヴェーネスの最良の友であったが、決して彼らのすべてを理解したわけではない。ふたりの男たちはヒュムのなかでも異色際立つ類の存在だったようだから、彼らを理解しようなどとは実に大それた思い上がりなのだろう。
 理解できない部分を多分に残しながらも、自分たちに共通していたと確信をもって言えるのはひとつ、シドもヴェインもヴェーネスも「その先」に己は不要であると考えていたことだ。
 世界は更新される。ひとびとはオキューリアのくびきから解き放たれ、破魔石などなくとも自らの歴史を紡ぎ始める、しかしその新たな歴史に刻まれない名が三つある。シドルファス・デム・ブナンザ、ヴェイン・カルダス・ソリドール、ヴェーネス。
 白紙の時代を用意し、幕開けを告げた三人の存在は、歴史の狭間に消える。消えるべきなのだ、と三人ともが信じている。自由であるべき新時代は、旧時代とは決定的に絶対的に隔絶しなくてはならない。幕間に舞台装置を切り替える裏方の姿が観客に見えてはならぬのと同様、己が名が新時代に残響してはならぬという三人の信念は、ひとつの美学でもあった。

 その美学に従って、ヴェインが歩んでゆく。空中要塞バハムート、グロセアエンジンが唸りを上げ、飛び交う砲弾が花を咲かせる空の下、ヴェーネスの今ひとりの友が虚空を目指す。
「私は覇王になり損ねた」
 違う、とヴェーネスは思う。違う、君はもとより覇王になどなるつもりはなかったではないか。次の時代、オキューリアの手から離れた歴史に覇王は不要だと、君が一番よく分かっていたのだから。まっさらな綺麗な時代を導くために、新しい世界に愛する弟を立てるために、君はその手を汚してきたのだから。
「君の願いは」
 ああ、ヴェイン、知っていた。君の弱さを。君が弱いということを、他の誰が認めなくとも、私とシドだけは知っていた。
 ヴェイン、君は弱い。その両脚で揺らがず立ちながら、その両手を自ら汚しながら、いとおしい幼い弟の断罪を一蹴してみせながら、君は本当は誰かに肯定されることを求めている。愛した者に必要とされることを希求している。
「別の人間に託してくれ」
 そうでなければこんな台詞など吐くものか。ヴェイン、君は知っている、ヴェーネスとシドの望みを託せるのは自分以外にはないと。シドは創り上げることに長け、ヴェーネスは学ぶことに長け、しかし「終わらせる」ことだけはどちらも不得手なままで、だからこそヴェインがいるのだ。
 ヴェイン、君だけが終わらせることができる。君だけが重い緞帳を下ろすことができる。君だけが、我々の願いを叶えることができる。
 だから、今さら他の人間を引き合いに出すなど馬鹿げたことだ。ここにシドがいれば笑っただろう。いや、間違いなく笑っている。ヴェーネスには分かるのだ。遮るもののない蒼穹、ゲルンの御座とは違う空で待つシドが笑っている。仕方のない坊やだと、年嵩らしい鷹揚な苦笑に、息子ほども若い友を案じる一抹の寂寥と、かすかな郷愁とを混ぜ込んだ顔で。
『君の歩みを見届ける』
 共にゆこう。そして私に終わらせ方を教えてくれ。不滅ゆえに始まりも終わりもない世界しか知らなかった憐れなオキューリアに、友と出会い新しく始めることの喜悦を知った私に、物語の幕切れを教えてくれ。
 シドが始め方を教えてくれたように、ヴェイン、君が終わり方を教えてくれ。私はそれが知りたい。知ってやっと、君たちの友として胸を張れる。
 ヴェーネスはゆっくりと身体を――シドとヴェインのためだった現し身を――開き、ヴェインの進む先を導いた。
 ヴェーネスにはヴェインの肉体を視ることはできないが、彼の魂をかたどる光を感じることはできた。触れるものすべてを蒸散させるような峻烈な輝きの中に、異なる色と温度を放つものが混じり合う。しゃらしゃらと飛び回る忙しなく賑やかな光――シドの断片がそこにいる。
 跳ね返り混じり合うふた色の煌めきの向こうに、空がある。ヴェーネスは静かに力の指先を伸ばし、異形の現し身を解いた。
 共にゆこう、と言った。ヴェインは受け容れた。シドがそこにいる。ふたりが来るのを待っている。
 ヴェーネスは観念の次元を脱し、ひとつのエネルギーとして友に寄り添った。極限まで研ぎ澄まされた刃の眩耀と、炳乎として炸裂する火花の灼爛とを、いまもうひとつの光が繋ぎ、溶け合わせる。
 臨界点に達した力が、ヴェインの器を飾り立ててゆく。飽和したミストで空が色を変えてゆくのを、ヴェインに宿ったヴェーネスは、ヴェインの瞳を通じてはっきりと見た。
 柘榴、鉄錆、鉛丹、蘇芳、血よりも乾き、薔薇よりも鋭く、空が膨張する。
 ――ヴェーネス、空は晴れているか。
 シドの問いに、今ならば偽りなく答えることができる。そのことに何よりも満ち足りて、ヴェーネスは意識の最後の一片をヴェインに預けた。
 ――ああ、よくはれている。

 歪んで腫れ上がる空は、確かに物語の終焉にふさわしく、美しかった。