vestige

 S・T、二十七歳、一等砲兵。戦闘中の敵前逃亡を現認、即時処刑。戦闘行為終了後、所定の手続きに従って執行者より申請。事後承認、ジャッジ・ガブラス。
 A・L・J、三十三歳、上等通信兵。隊用通信器具の私的利用、および虚偽情報の流布。艦隊即時法廷による審査にて容疑を否認するも、通信記録を証拠として有罪判決、執行済み。結審責任者、ジャッジ・ガブラス。
 K・N、十八歳、二等工兵。占領地における私的財産の不当略取、ならびに非戦闘員に対する加害による帝国軍の規律・威信の毀損。被害者の訴えに基づき軍法会議審査、有罪判決。ジャッジ・ガブラス承認。
 P・D、三十五歳、隊命不服従。F・C、二十六歳、機密漏洩。G・D、三十九歳、捕虜虐待。N・R、四十二歳、敵対勢力に内通。W・J、十九歳、休暇後の復隊拒否。三十一歳、二十五歳、二十八歳、四十三歳、三十六歳、敵前逃亡、非戦闘員殺害、略奪、上官殺害、敵前逃亡、風説の流布、機密漏洩、敵前逃亡。
 判決、銃殺刑。第九局ジャッジマスター・ガブラス承認。

「ジャッジ・ガブラス、何をお探しですか」
 鎧の鳴る音を、当人としては可能な限り殺したつもりなのだろう、ろくに気配も消せぬまま背後に立った部下の問いに、「ガブラス」は視線を上げた。
 焦茶の直毛を後ろに撫でつけた部下の額には奇妙な形の皺が寄っている。確か年齢としては己とそう変わらないはずの男だ。小皺の刻まれた左目尻がぴりぴりと不規則に震えている、その神経質さが第九局のジャッジにとって共通のコンピテンシーだ。
「……ずいぶんと古いファイルをご覧になっていらっしゃるようですが」
 何かご不審な点でも。そう問う口振りこそ沈毅だが、ジャッジの兜を外した首筋の引き攣りまでは隠せない。腹芸に向いていないタイプだ。対外交渉には連れてゆけない。
「単に時間が空いたのでな」
 気まぐれた時間潰しに過ぎないと返せば、部下の眉間に今度こそごまかしようのないクレバスが刻まれる。そうもあろう、暇に飽かせて開くには悪趣味極まりない一冊を「ガブラス」は手にしている。
 表紙に記された年号はおよそ五年前のもの、すなわちアルケイディア帝国がダルマスカ王国――厳密にはその残党とビュエルバによって構成された反乱勢力――と交戦していた時期にあたる。このファイルに綴じられたのは、従軍法廷の軍律審判記録だ。
 被告の年齢も、階級も、犯罪と断定された行為も、ファイルをめくってみれば実に多様だった。従軍して間もない十代の少年から、ヴェテランの域に入る中年まで。兵卒から将校まで。罪状はそれこそ数え上げるに暇がない、その動機も。唯一の共通点があるとすれば、それはこのファイルに属する審議案件は全て、被告の死刑執行によって決着しているということだった。
 アルケイディアの軍事法廷制度において、軍事裁判所には三種類がある。極刑を含むいかなる刑をも科することのできる一級裁判所、数か月の禁錮や重労働刑が上限である二級裁判所、それよりもさらに上限が低く比較的軽微な犯罪を扱う略式裁判所だ。
 これら三種の法廷のうち、一級裁判所の審議・結審には少なくとも五人以上のジャッジ・マスターの参加、かつ第九局の審査が必須である。敵前逃亡のような即時執行の場合でも、事後の審査と承認が行われる。
 公安総局の全局が独立した司法権を有するが、にも拘らずいかなる案件についても第九局の参与が必要となる理由は明解だ。第九局は、アルケイディアに関するありとあらゆる情報を取り扱う。「ありとあらゆる」は比喩ではない。敵対勢力の動向やキーパーソンの個人情報のみならず、必要とあらば特定都市における卵の市場価格の三年間移動平均推移まで調べ上げる、覇権を担う大帝国のデータベースでありシンクタンクとしての機能が第九局には負わされていた。
 一級裁判所扱いとなった案件は、全てが必ず第九局に共有される。第九局は当該案件に関する情報の一切を提供する。被告の経歴、病歴、家族構成員の概略、素行、賞罰、等々。規定のフォーマットに取りまとめられたこれらの情報を参考に、法廷は審判を下す。故に、一級裁判所の俎上に載った案件について、第九局の長であるジャッジ・ガブラスが認識しないことはない。
 「ガブラス」は手にしていたファイルを閉じた。ぱたん、と薄情な音が消える前に書架に戻し、翻るマントを煩わしく思いながら書庫を出た。背後の部下の訝しげな視線が遠慮なく突き刺さるが、何をどう説明してやるべきか、その答えを「ガブラス」は持ち合わせていない。

「わあ、すごい」
 その過剰に無邪気な一声は、少なくとも一国の君主が直属の配下に向けて発する類のものではない。が、それを咎め立てする者はこの部屋にはいなかった。
「あなたは片付けが苦手なんですね」
「……返す言葉もございません、陛下」
「お気になさらず。ひとである以上、得手不得手はあるものです」
 豪奢な絨毯を覆い尽くさんばかりの書類の山に囲まれたまま、部屋の主は申し訳程度に頭を下げる。陛下と呼ばれたのは少年と青年のあわいに立ち、ひどく危うげなバランスを保つ美貌の男だ。彼は――少しく年嵩のものならば誰にでも、露悪的なほどにわざとらしくそう振る舞っているのだと分かる足取りで――方陣のごとく広がった紙の山を粗雑に跨いだ。
「空賊にでも侵入されましたか」
「彼らが狙うような宝物はありませんよ」
「しかし情報屋に売って小銭を稼ぐには充分でしょう」
「小銭に拘泥する空賊の例を知りませんが」
 おざなりな返答と共に手にした紙束を廃棄用の箱に放り投げると、ソファに辿り着いた若き皇帝は青葉が擦れるような息で笑う。
「おや、『ジャッジ・ガブラス』ともあろう方に、空賊のお知り合いが?」
「……」
「偶然ですね、実は私にも何人か空賊の知人がおりまして」
「……それはいけませんな」
「おや、いけない。そうですか、友情に貴賤はないと教えてくださったのは『あなた』だと思ったのですが、私の記憶違いですか」
 ばさり、と古いノートが乾いた音を立てて滑り落ちる。右手首をぷらぷらと揺らして背後を振り返ると、皇帝は長い脚を鷹揚に組んでこちらを見ていた。
「ラーサー様、お戯れが過ぎるようですが」
「私は真剣です」
「部下を苛めておいて」
「大切な部下との友誼を深めるのに真剣なのです」
 一を言えば十が返る、こうなってはもうお手上げだ。せめてもと吐き出した強い溜め息には、当然のことながらなんの効力もない。
 諦念にどっぷりと浸ったまま、暖色のルームランプに半身を照らされたラーサーを眺める。この数年、手脚ばかりが先に伸びたせいでアンバランスだった体躯は今になって急速に充実しつつある。上背が伸びた。肩と胴が厚くなった。ふくらはぎの筋肉が膨らみ、大きな足に見合うだけの重量を得ている。身体の肉付きだけ見れば、すでに充分な大人の男だ。
 しかし、手首から先、特級の機工士が組み上げたような精巧な指の骨は、つまらない話を聞いている時は踊るようにひらめく。年頃だというのに目立った肌荒れや吹き出物もないかんばせ、完璧な位置に収まったふたつの輝く眸の奥には、まだ甘えたがりな子供の不遜な色が揺れていた。
「どうした風の吹き回しですか、この半端な時期に大掃除とは」
「……ひとつ棚を開けたら収拾がつかなくなりまして」
「掃除とはそういうものだそうですよ。ハリッサが言っていました」
「ハリッサ?」
「ご存知ない? 第九局の長たる『ジャッジ・ガブラス』ともあろう方が」
「まさか『片付け名人ハリッサ』ですか」
 とは、長らく有名婦人誌で連載を持っていた女性のことだ。先月だか先々月、さる大企業の相談役に抜擢されて一躍時のひととなった。ということは認知している。すぐに思い至らなかったのは、「ガブラス」にとってハリッサはすでに「奥様に人気のお掃除指南役」ではないからだ。
「皇帝というのは実に面白い仕事です。知らなければ存在を想像さえしない仕組みが、いちいち形になって目の前に現れてくる」
 そうでしょう、と組んだ指の隙間からラーサーの瞳が覗く。無垢を装うのが上手い若き皇帝の双眸が放つ粘稠な輝きは、あるいは何かを――何者かを恨んででもいるようだ。
「今日、第六局から話を聞きました」
「そうですか」
 第六局は、「ガブラス」の第九局と並んで文官畑のジャッジが多い。彼らが主に内政を担当するためだ。
 そもそも従軍裁判官であったはずの公安総局が担う役割は、ラーサーの即位を契機として急速に変質した。最大の理由としてはアルケイディアが――帝国の名を維持しながらも――帝国主義からの脱却を宣言し、侵攻と植民地支配による領土拡大路線を撤回したことにある。長らくの宿敵であったロザリアとも一旦の和平を結び、すなわちアルケイディア軍は「前線」を喪失した。
 それまで徴兵・徴用により従軍していた一般市民は市井に戻り、以て引き起こされた内需の拡大が功を奏してここ五年のアルケイディアは空前の好景気を謳歌している。ラーサーの鶴の一声で始動した帝都改造計画は旧市街まで包括し、領土外からの人口の流入も激しい。
 外から流れてくる者が多いということは、持ち込まれる文化や風習も多岐にわたるということだ。もとより、従軍兵士と非戦闘市民との間にも常識の乖離があった。そこへ来て、異国のヒュムのみならずバンガやシーク、ヴィエラ、レベといった「異人種」までもが帝国に生活の根を張るに至り、問題となったのは文化の衝突、第六局に言わせれば「風紀の紊乱」である。
 曰く、昨今の人口流入によってアルケイディアの国力は充実の一途だが、一方で文化が混乱の兆しを見せている。これは移民が旧来の文化風習を頑なに維持するためであり、結果としてアルケイディア本来の文化、アルケイディア独自の国風が損なわれる恐れがある。国家気風を徹底する国民教育が急務であるが、移民の主たる層は成年であり、また種族も異なるため、一般教育機関のみに限定した施策は馴染まない。よって、いかなる年代、いかなる種族においても基盤となる「生活」を媒体として、民衆にアルケイディアの規律を浸透させてゆく必要がある。
 そして、その第一の矢となるのが「片付け名人ハリッサ」による、家事指南を通じた生活環境の整理と統制――というわけだ。彼女は一私企業によって抜擢されたのではない。兼業主婦に過ぎなかったハリッサの突然の立身出世は、色濃い政治の陰によって支えられているのが実情だった。
 ジャッジマスターの合議においてこの手法を提案した第六局長の姿を思い出す。「ガブラス」よりいくらか年嵩の彼は団栗のような眼をぎらぎらと輝かせて、これがいかに優れたアプローチかを熱弁していた。お掃除指南の次に控えるのは著名なファッションデザイナーの着こなし講座、洗練された家庭料理の講師、大衆娯楽小説の多面展開。まさかこんな柔らかい領域で国民の再教育とは、と呆れにも似た失笑が漂う中、提案者たるジャッジマスターは協力者として高らかに「ガブラス」を指名した。
「ジャッジ・ガブラス、本施策の遂行に当たっては第九局のご協力が不可欠なのです」
 詳細は別途お話ししましょう、と鼻息を荒くする彼に、「ガブラス」は、相談くらいならばと曖昧に頷いたのだった。並べ立てられた計画に薄ら恐ろしいものを覚えながら、果たして俺は何のためにここに座っているのかと自問しながら。
「三日後、第六局から個別に詳細な説明がある予定です」
「あなたに?」
「はい」
 聞いたラーサーは、そうですか、と口の中でのみ呟いた。指は組んだまま、その隙間から何かを見ている。撒き散らされた古い書類の山、その真ん中に立ち尽くす忠実なる腹心、扉の建て付けが悪いキャビネット、それらのいずれでもない何かをまなざす瞳が何を見ているのか、「ガブラス」には分かる。
「――兄上だそうです。あの施策の原型を作ったのは」
 今度、そうですか、と呟いたのは「ガブラス」の方だった。一向に片付かない紙の山を見下ろして、ラーサーが兄と呼ぶ唯一の存在の姿を思い出そうとした。
「すべてはソリドールのために」
 低徊する囁きに顔を上げる。ラーサーは姿勢を変えぬまま、瞼を下ろしていた。
「ソリドールの男子は人々の安寧に尽くさねばならない」
 入港する飛空艇のものか、あるいは窓の外を駆けるエアタクシーのものか、グロセアエンジンの遠い唸りが聞こえる。その通奏低音に預けるように、皇帝の言葉は続く。
「誤りを正すためには、然るべき力を身につけなくてはならない」
「……」
「ねえ『ガブラス』、これはあなたが私の友人と信じて言うのですが」
「どうぞラーサー、何でも」
 取ってつけたような幼い呼びかけに応じて、敢えて名前を呼び捨てる。これは「ガブラス」がラーサーの傍らに侍るようになった頃、どうしてもと駄々を捏ねられて折れた結果の習いだった。僕があなたを友と呼ぶ時、どうかあなたも僕を友として扱ってください。具体的には? ええと、呼び方、そうです呼び方。友人なのだから上下はないでしょう、呼び捨てにしてください。僕もそうします。
 花の咲き乱れる庭で、歳と背丈に似合わぬ後ろ手を組んで振り返る子供があまりに必死だったのだ。だから頷いてしまった。思えばあの時からもうずっと、「ガブラス」はジャッジ・ガブラスであることを失敗し続けているのかもしれない。思わずこぼれる苦笑を噛み殺す目の前で、ラーサーはまだ目を開けない。
「私はあの施策に反対です。いかに兄上のご発案であったとしても」
「……ええ」
「そうと気づかれないやり方で、人々の暮らしや習慣や信念を曲げようとするのは――間違っている、と思う、ので」
「はい」
 両手の指を重ねたまま、瞼をきつく閉じたまま、ぽろりぽろりと不規則なリズムで吐き出す言葉はずいぶんと弱々しい。
「手法もそうですが、そもそも守るべきアルケイディアの文化とか、アルケイディアらしさのようなものが、本当にあるのか」
 ラーサーの独白に近い声に耳を傾けながら、「ガブラス」は手にしていた紙束を改めた。いつかの会議の議事録のようだ。右肩に複製の印があり、大した書き込みはない。廃棄用の箱に静かに重ねる。
「仮にそういったものがあったとして、それは本当に守らなくてはならないのか? あんな卑怯な手段を使ってでも守らなくてはならないほど脆弱なのか?」
 だとしたら、だとしたら――と逡巡した末に、ラーサーはついに瞼を上げた。
「だとしたら、そんな文化はどうしたって滅ぶのです。だからあんな施策はくそくらえです」
「くそくらえ」
「私の友人が、最大級の罵倒語だと」
「彼はそこまで口汚くはないと思いますが」
「おや、どなたのことでしょう」
 顔の正中線に沿って組んでいた指を解きラーサーは微笑する。しかし、両目の剣呑な輝きはまだそこにあった。
「私は、兄が犯した過ちも、重ねた罪を理解しようとしてきました。そうして命を、暮らしを奪われた人々のことも」
 理解しようとしてきた、という言い回しがいかにもラーサーらしかった。彼は理解しようと努めてきた、その覚悟を、その逡巡を、時に生まれる怯懦を、それでも再び挑む勇気を、自分は間近に見つめてきた。この五年。柔く脆い芽のような子供がこうして大地に根を張り始めるに至る過程は、十年二十年にも値する緻密な飛躍だ。この五年をラーサーは誇っていい、「ガブラス」はそう思っている。
 しかし、完全な理解には至らないのだ。どれほど思考を巡らせど、ラーサーもまたひとりのヒュムに過ぎないのだから、何事かを余さず理解することなどできない。そのことをもラーサーは知っている。認識した上で、彼は己の一生を懸けて理解しようとするだろう。兄の手が何に汚れているのか、あの戦いが何を生み何を失わせたのか、アルケイディアを、ソリドールを背負う今やたったひとりである己が、何を贖うべきなのか。
 ラーサーは重心を後ろに傾け、勢いをつけてソファから立ち上がった。長く伸びた脚が小さなつむじ風を巻き、床に広がった書類をはためかせる。五年前にもおいそれとは見られなかった子供じみた振る舞いはこの部屋、「ガブラス」の部屋でだけ許される。
「私はね、『ガブラス』、今でも兄上を愛しています。尊敬しています。きっとこの先も変わらずに」
 若き皇帝は、わざとらしくぞんざいな足取りで書類の山を避けて進む。彼が単に兄と呼ぶのはたったひとりだ。そのたったひとりの兄に捻じ曲げられたかもしれない運命を負う背中は、気丈ながらまだいとけない細さを見え隠れさせる。扉に向かう後ろ姿が、不意に立ち止まった。
「ですが、近頃たまに――言いようのない感情に襲われるのです。兄の影を垣間見るたびに、過去の決裁に兄のサインを見つけるたびに」
 続く言葉は、まるでカーテンの陰に怯える幼児のように揺れた。
「憎いような、恐ろしいような、怒りのような、嫉妬のような、あるいはいっそ憐れなような……形容しがたい感情です」

 皇帝の去った部屋は、ヒュムひとりを失っただけだというのにひどく空虚だった。「ガブラス」は再び、散った書類やノートをのろのろと仕分けながら、ラーサーが去り際に吐き捨てた言葉を反復する。
 憎い。恐ろしい。怒り。嫉妬。憐れみ。どれかひとつを抜き出しても足りず、それらすべてが渾然と混ざり合い、まだ何か言い足りないように思うのに、何を足すべきかも分からない。
 そのような感情を、自分は経験したことがない。だから、扉のノブに手を掛けたラーサーの忠告めいたひとことも宙に浮いたままだ。
「影追いはほどほどにしましょう。……お互いに」
 拾い上げたノートは、はじめの三分の一ほどしか使われていなかった。青黒いインクが刻む筆跡は自分のものとはずいぶん違う。ひとつの受精卵を分けて、同じ子宮に育まれ、何時間と間を置かずにこの世の空気に触れたのに、こうなってみれば何が同じなのかも分からない。
「……汚い字だな」
 崩れて読みづらい文字の羅列は、異国の言葉を操るが故の不便というよりは単に急く気持ちのためだろう。堅苦しい言葉ばかりのメモの合間に、ひとまわり小さな文字で書かれた感情が飛び出す。愚かだ。下策だ。無意味だ。歪曲。不当。違う。おかしい。馬鹿め。
 どんな顔をして会議中、こんなことを書き殴っていたのだろう。重い鎧をつけたまま、ジャッジマスターと呼ばれる連中と円卓を囲んでいるうちにこれを書いたのか。これらの罵倒のうち、いくらかは口にすることが出来たのだろうか? きっとひとつも外には出なかったのだろう。ザルガバースから聞く話を信じるのなら。
 今や「ガブラス」となった男は、机に置いたままだった兜を振り返った。

 ――ラーサー様は最後の希望だ。
 ――頼む、ラーサー様を護ってくれ。
 すでにこの身に馴染みきった兜は、外して眺めれば眺めるほどに奇妙な物体だ。日中、この兜を被って「ガブラス」は生きている。皇帝ラーサーに仕えるようになってから分かったことは、「ジャッジ・ガブラス」とはすなわちこの鎧兜につけられた名であって、その中にいる肉と骨と血と皮の塊は何者でもない、何者でも構わない、ということだった。
 それでいい。それでよかった。必要なのは皇帝に常に寄り添う「ジャッジ・ガブラス」が存在することだ。「ガブラス」はラーサーを守ると決めた。人生の春と夏の境に立ち、今を盛りと枝葉を伸ばす若き皇帝に押し寄せる悪意と殺意とを押し返し断ち切るために「ジャッジ・ガブラス」は存在している。ラーサー陛下あるところ、ジャッジ・ガブラスあり。皇帝に仇なすものはすべからくジャッジ・ガブラスの双刀の露と消えるべし。この鎧を纏える限りは、「ガブラス」はそのような存在として立ち続ける。
 二人の死人がひとつの鎧を纏っている。ひとつの魂は分かたれふたつとして生まれ、ふたつのまま育ち、帰るべき場所を失って遠ざかり続け、片割れは命を失くし、もう片割れは名を捨てた。それでもひとつに還ることは叶わぬまま、ただ片割れの遺した最期の言葉だけを頼りに、男は「ガブラス」と呼ばれる鎧兜を身につける。

 次に拾い上げたファイルには、同一の定型にまとまった資料が綴じられていた。氏名、年齢、出身地、階級、罪状、その下に箇条書きにされたのは動機であり、背景であり、自白であり、そして手書きのメモであった。
 S・T、二十七歳、一等砲兵。戦闘中の敵前逃亡を現認、即時処刑。家族は高齢の母親、頼れる親族はなし。前日付で母親からの手紙を受け取っている。手紙の末尾には、息子の帰還を祈るキルティア聖歌の一節が書かれていた。――高齢の母親、手紙、のそれぞれに青黒いインクの線が引かれている。一枚めくれば母親からの手紙の写しが挟み込まれていた。弱々しく、ところどころが掠れる筆跡。
 A・L・J、三十三歳、上等通信兵。隊用通信器具の私的利用、および虚偽情報の流布。通信は深夜、友軍基地との定時報告を延長して行われた。ドラクロアが人体改造の研究を行っているらしい、との噂話を聞いたとの由。翌日、受信者が朝食時の雑談に噂を共有したことから露見。――定時報告にかこつけた雑談はよくあることだ、と走り書きのメモ。ドラクロアの人体改造の部分は傍線にも打ち消し線にも見える線が重なっている。
 K・N、十八歳、二等工兵。占領地における私的財産の不当略取、ならびに非戦闘員に対する加害による帝国軍の規律・威信の毀損。貴金属類、有価財の徴発は上官の命令によるものと主張。徴発に際し被害者の抵抗に遭い、最初に剣を抜いたのは所属隊の隊長であり、「帝国の武威を思い知らせろ」などの発言に従い暴行に及んだ。当該隊長はこれを否認している。――徴発は最前線でしばしば行われていたこと、また所属隊の隊長は高名な上流階級の子息であることなどが書き加えられている。
 全ての資料には、審査者のサインが並んでいる。何十枚、あるいは何百枚にも及ぶだろう調書のひとつとして「ジャッジ・ガブラス」の名を欠くものはない。第九局の書庫に並んだ記録からは省かれたのは、客観的事実の範疇には収まり切らない釈明と懺悔、それから何かを疑い、何かを記憶しようとする青黒いインクだ。
 男は深く息を吐いた。ラーサーの言葉が記憶野に反響する。
 ――言いようのない感情に襲われるのです。兄の影を垣間見るたびに、過去の決裁に兄のサインを見つけるたびに。
 武人の手にも持ち重りするファイルの背を撫でた。俺と君は違う、と思う。
 ラーサー、俺と君は違う。俺と君は同じ秘密を共有しながら、こうも違う。俺は何も憎くない、何も恐ろしくない、俺は弟の影を見ない。俺には影が見えない。こうして鍵を失くしたキャビネットをこじ開けて一切合切をぶち撒けずにはいられないほど、俺はあいつのことを知らない。
 憎悪ではない、ナルビナに吊るされていた間ですら一片の憎悪さえも覚えなかった。
 恐怖ではない、こうして彼の痕跡を見出すことに安息さえ感じている。
 怒りではない、彼の所業に怒りを覚える資格などないと、今の己は知ってしまった。
 ましてや、嫉妬や憐憫などはまるで遠い感情だった。何故ならば、今俺は――俺たちは、ひとつなのだから。

 男は分厚いファイルを再びキャビネットに収めた。がらんどうのキャビネットは、鍵を無理やりにこじ開けたせいで扉が歪んでいる。修理を手配するのが億劫で、考えるのをやめた。
 兄と呼ばれた最後の記憶は、この脊椎に喰い込んでこれからも消えることはない。あの時彼が何を詫びたのか、その答えを探す道程を人生と呼びながら、きっと死の瞬間まで分からないだろうと思う。
 それでいい。ラーサー、忠告には感謝しよう。しかし、俺は影を追うことをやめない。彼の――俺のたったひとりの弟の影を追うことに、俺はこの上ない喜びを覚えるのだから。
 双剣を握り慣れたその手が、また別のファイルを拾い上げる。捻れた角をあしらった兜が、鈍い真鍮色に沈んだ。