we will never walk alone

 おれがその事実のおかしさに気づいたのは、ヴィンセントと出会ってから三年を過ぎた頃だった。
 ——ヴィンセントがあまりに老けこんでいる。
 おれをコレルで拾ったヴィンセントは、どれだけ高く見積もってもせいぜい三十を過ぎるかどうかの歳にしか見えなかった。髪は真っ黒で放浪の旅をしているくせにつやつやと輝いていたし、色の白い肌も目立った荒れはなく、眉間を除けば顔に皺らしい皺もなかった。
 それから三年経って、おれは背が伸び、縦の成長が早くてまだひょろひょろの、言うなれば年相応の成長期を迎えていた。変声期にはまだ早く、体毛も薄い。ローティーンなんてみんなそんなもんだろう。
 しかしヴィンセントの老い方は尋常には見えなかった。まず目に付いたのは頭の左側にまとまって現れた白髪だ。今まで染めていたのをやめたから目立つようになった、と言われた方がよほど納得できるくらいの量が一気に増えた。彼がわざわざ染髪するほどまめな性格でないことくらい、おれも知っている。それから肌も、常時見えるのは顔くらいだったが、肌理が粗くなったのが明らかだった。
 おれは数日悩んだ挙句、冗談めかして指摘することにした。ヴィンセントなんかいきなり老けてない、おれのせい? 道化るおれの視線から逃げるように顔を逸らした彼は、そうだな、あまりに世話の焼けるやつがいるからな、と下手くそな冗談を返した。
 一度気づいてしまえば、もう無視することは出来なかった。おれが成長痛に身体を丸め、さらに背を伸ばし、低い声で話すようになり、筋肉をつけ、ライフルを立射しても反動によろめくことがなくなって、そんなふうに定型の成長段階を踏む傍らで、ヴィンセントは坂道を転げ落ちるように老いていった。
 白髪混じりだった黒髪はいつの間にか黒髪混じりの銀髪に変わり、石膏のように硬質に張り詰めていた肌は柔らかく緩んだ。目尻や口角に皺が刻まれ、年を追うごとに歩く速度が落ちてゆく。新聞や本を読みづらそうに目を細め、マントの下に隠れた身体は筋肉の量を減らし、担いで歩く荷物の量はいつしかおれの方がずっと多くなっていた。
 その時滞在していたボーンビレッジで、おれはついにヴィンセントを問い詰めた。こんなの絶対に普通じゃない。常人の二十年から三十年に値するだろう変化が、この五年強のヴィンセントに起きているのだ。何かの病気ではないのか、ちゃんと説明してくれなければもう一歩だって引き下がることはできない。そう言って迫れば、ヴィンセントは重い息を吐いて、窓の外を見た。夜の帳が下り始め、発掘隊の姿もない。
 彼の話はいつも通り端的で、端的すぎたので途中で説明を求めなくてはならなかった。それでも短くはない話の結論だけを端折って言えば、この急速な老化は彼がかつて身に宿した呪いの反作用なのだという。
 ヴィンセントはかつて、命の危機に瀕するほどの傷を負った。彼を生き永らえさせるために、神羅の研究者によって異形の怪物の力を「移植」されたヴィンセントは一命を取り留めたものの、それゆえに老いも死にもしない身体となった。そのまま二十数年を隠遁して——本人が自嘲するところによればただひたすら眠って——過ごし、大災厄の前にシドたちによって目覚めさせられた。
 大災厄のあと、彼はとある事件に関わり、その結果として異形の力を失った。つまりこれで不老不死ではなくなったわけだが、その変化を案じた仲間たちの勧めで精密な検査を受けたところ、ある問題が発覚した。その問題というのがすなわち、急速な老化だ。異形の力——ヴィンセントはそれを「カオス」と呼んでいた——によって堰き止められていた時の流れが、恐ろしいほどの速度で「あるべき地点」に至ろうと押し寄せている。このまま進めば、ヴィンセントに人間としての寿命が訪れるまで二十年とかからないだろうということも分かった。
 仲間たちはこの事実に衝撃を受けた。当然のことだろう。中でもある人物はほとんど半狂乱になって、ヴィンセントの老いを遅らせる手立てを探したという。しかしこんな話にめったな前例があるはずもない。その人物はあの大災厄の元凶、さらに言えばヴィンセントがカオスを宿す経緯の原因でもある科学者の遺したデータにさえアクセスしようとした。しかしそのデータはいかなる権限をもってしても閲覧不可能であると定められており、ヴィンセントを救おうとした人物の行為はただちに刑事罰の対象となることが明らかだった。
 ことここに至り、ヴィンセントは彼らの前から姿を消すことを決意した。死に至る老いの加速を止める手段が存在するはずもなく、このまま老いさらばえる姿を晒し続ければ仲間たちの心痛は深まるばかりだろう。かの人物の不正行為はユフィたちの暗躍で秘匿されたが、次に同じことが起これば隠し通すことも難しい。
 そうしてヴィンセントは「最後の」旅に出た。彼の老いを押し留めようとする想いの強い人々が暮らすエッジやジュノンには足を踏み入れず、思うところあれどヴィンセントの決意を尊重してくれるシドやユフィ、ナナキにのみはたまさかの接触を許し、世界を彷徨う途中、コレルでおれを拾った。
 ヴィンセントは話を終えて、また深く息を吐いた。いつの間にか月が高く昇り、満ち切らない半端な楕円を描いている。おれはヴィンセントの手元のカップに紅茶を注ぎ、ずっと訊きたかったことを尋ねることにした。
「どうしておれを連れて行くことにしたんだ」
 コレルの砂埃の中、やせっぽちの身体をわずかな日陰に押し込めていた孤児。それがおれだ。彼とは何の縁もなく、彼が見出すほどの才も器量もなかった。今だってヴィンセントの詰め込む知識と経験とを呑み込むのに精一杯で、彼の道行きに同行する特別な理由は見当たらない。
 別に褒めてもらいたいわけじゃない。特別な理由が欲しいわけでもない。おまえでなくては駄目だったんだなどと、そんなおためごかしが聞きたいわけじゃない。おれが知りたいのは、おれが選ばれた理由ではなくて、ヴィンセントに同行者が必要だった理由だ。それも、わざわざ教育の手間をかけてまでガキを連れ歩く理由を。
 しかしおれの質問に、ヴィンセントはただ苦笑らしい息を漏らすだけだった。
「今はまだ」
「話せない?」
「そうだな、おまえがこれを」
 と言ってヴィンセントはテーブルの上の銃に視線をやった。ケルベロス、ヴィンセントの愛銃が手入れを終えて鎮座している。銃口が三つある規格外のそれを、触らせてもらったことはほとんどない。
「これを、扱えるようになったらな」
 おれは言葉に詰まり、気まずく肩をすくめた。何を言えばいいか迷った挙句、つまらないことしか思いつかず、そのまま口を開いた。
「じゃあ早いとこ練習させてよ」
「そのうちな」
「話す気ないよね」
「……すまないな」
 ヴィンセントはカップに口をつけて、渋いな、と呟いた。おれは自分の手元にあった水のグラスを差し出して、薄めれば、と返してまた苦笑を貰った。
 ヴィンセントがおれに正面から謝ったのは、それが初めてだった。

 ボーンビレッジでの夜が明けて、共有された事実に耐えかねたおれは迷った末にシドに連絡を取った。時差の関係で彼にとってはとんでもなく非常識な時間だったろうに、シドはおれのてんでまとまらない話に耳を傾けてくれた。気の短い彼がそうまでしてくれたのは、ひとえに彼の方もおれがこうして泣きつく日のことを予想していたからだろう。
 おれが喋るだけ喋って、ついに「なんで、どうして」しか言えなくなって、シドはようやく口を開いた。電話の向こうでライターを擦る音が聞こえる。
『怖えよな』
「……分かんない」
『怖えよ、俺は。ずっと怖え』
 シドの声は普段よりずっと低く、唸るようにも呻くようにも聞こえた。彼のそんな声を聞くのは初めてだった。
『なんでだよ、って思うよな』
「うん……」
『俺たちも思った。なんで諦めちまうんだよって。なんでそんな勝手にひとりで全部決めちまうんだって俺たちも思った。まだ思ってる』
 でも、シドは言っていた。シドもユフィもナナキも、ずっと「通報義務不履行の真っ最中」だと。彼らはヴィンセントの決定を受け入れた。それでもまだ思っている。何故と。
「ならどうして止めなかったんだよ」
 おれの無神経な、でも訊かずにはいられなかった問いに、シドは煙を吐き出しながら笑ったようだった。
『そうだなあ……』
 しばらくの沈黙が続いた。ロケット村にいるシドにとって今は真夜中のはずで、電話口からは遠い風の音がした。
『——どうしてだと思う』
 問い返されて、おれは苛立ちを覚えた。おれはシドの答えが欲しいだけなのに、こんな試されるような真似は気に食わなかった。
「知らないよ」
『だぁな、知ったこっちゃねえわな』
 からりと投げ出すような返答と同時に、がさごそと何かが擦れる音がした。音声だけの通話だ、おれには何も見えなかったが、なんとなくシドが芝生に寝転んだのではないかという気がした。何度も見た光景だ。傾いたロケットを見上げるように、仰向けに寝そべるシドの姿。彼は飛空艇の部品や得体の知れない装置を弄りながら、あるいはおれに槍の稽古をつけてくれたあとに、いつでもそうして空を見ていた。
『あのな、俺にもよく分からん』
「……なんだよ、それ」
『あー、上手く説明できねえな……』
 シドが身じろぎするたびにノイズが混じる。おれは途方に暮れたような気持ちで、ただシドの言葉を待った。
 待つ間、ユフィとナナキの顔を思い出す。ふたりがヴィンセントのことを誰かに告げない理由は、シドと同じなのだろうか。特に根拠もなく、きっと違うだろうな、と思う。おれは三人のことを深く知っているわけではないが、彼らが互いに斟酌したり同調したりすることをよしとするひとたちでないことくらいは分かっていた。きっと三人は、それぞれがヴィンセントとの歴史のようなものを持っていて、それぞれが考えて、それぞれの判断で何かをしたり、あるいはしなかったりしている。
 彼らをそうさせた理由は、結果的に同じところに辿り着くのかもしれない。でもそれはきっと、ただの偶然だ。
 おれならどうするだろう。たった今事実を知ったおれは、どうしたいだろう。
 不意に風が吹いた。ボーンビレッジの乾いた風は砂埃を巻き上げ、おれの髪を乱す。北から吹きおろすその風の温度は、おれを日陰から引きずり出したあの風とよく似ていた。
 ——答えなんかとっくに出ていた。
「シド」
『んん?』
「おれ、分かったよ」
 出し抜けなおれの言葉を、シドは掴み損ねたようだった。あ、と間抜けな声がする。
「おれもヴィンセントを止めない」
『……』
「だっておれがそうしたいと思うから」
 それ以上の理由なんかない。もっともらしいことはいくらでも言えそうだったが、そのどれもが後付けの理屈だ。
「たぶん、いろんな説明の仕方があるんだと思う。ヴィンセントの気持ちを尊重したいとか、ひとの決断を捻じ曲げる権利は誰にもないとか」
『おう、そうだな』
「でもそういうのは、そういう話を考えたいひとが考えればいいと思う、おれは」
 そこで言葉を切ると、シドは『そういう話を考えたいひとって何だよ』と笑った。相変わらずがさがさ音が聞こえる。シドはいつだって落ち着きがない。
「おれはさ、ただ、」
 この先を言葉にするには少し勇気が必要だった。乾いた唇を舐めて湿らせる。端末を当てていない方の耳に、化石発掘に勤しむひとびとの声や土を掘る音が遠く聞こえていた。
「ただ、ヴィンセントが独りじゃなければいいと思う」
 それだけだ。つまるところその他に理由はなかった。独りにしたくないとか、独りでいてほしくないとかとは少し違って、ただ彼が孤独でなければいいと、そう思うだけだ。
 だっておれは、独りではなくなったから。ヴィンセントの手を取った、あの日から。
『——そうだな』
 シドが言った。
『俺もそう思う』

 ヴィンセントの告白を聞いてからさらに五年が経った夏、彼はついに動けなくなった。
 酷暑の予想だったので、おれたちは暑さを避けてアイシクルロッジに滞在していた。もう長く歩き通すことがとっくにできなくなっていたヴィンセントは——無理もないだろう、計算によれば彼の実年齢はすでに六十代も後半に近くなっていた——シドの操縦する飛空艇でアイシクルに到着し、三年ほど前に購入した山荘に寝泊まりしていた。
 アイシクルの村から三十分ほど歩いた山際にある家は小ぢんまりとして、おれとヴィンセントが暮らすにはちょうどいい大きさだった。ここでおれは家事を一手に引き受け、二日に一度買い出しに行く村の人々からは「こんな山奥で退屈でしょう」と言われながらのんびりと過ごした。暇にあかせて山に入り、モンスターやら鹿やら熊やらの害獣を駆除して、村からいくばくかの謝礼を得ることもある。ヴィンセントからの「課題図書」はまだいくらでもあったし、彼の端末を拝借して古い音楽を聴きながら武器の手入れをするのも悪くはなかった。
 ヴィンセントの身体は静かに、しかし日に日に衰えていった。飲み食いの量が減り、起き上がるのにかかる時間が長くなり、代謝も低下しているようだった。世話のためにおれが抱え上げれば、ずいぶんと軽くなった身体からは乾いた砂のようなにおいがした。ままならない我が身に苛立つでもなく、ヴィンセントは次第に長く眠るようになっていた。
 そしてその日が訪れた。おれがヴィンセントのものも含めてすべての武器——何種もの銃と、シドに仕込まれて以来使うようになったおれの槍——の手入れを済ませてヴィンセントの部屋を覗くと、彼は待ち侘びていたように目を開けておれを呼んだ。
「何か飲む?」
「いや……」
 掠れた声だった。その声を聞いておれは、ああヴィンセントは今日死ぬんだ、と思った。心は不思議なほど凪いでいたが、昔読まされた心理学の本に従えば、これも一種の防衛反応だったのだろう。おれは静かにヴィンセントの言葉を待った。
「——裏庭に」
「うん」
「連れて行ってくれ」
「分かった」
「それから、ケルベロスを」
「……分かった」
 おれはヴィンセントを抱え上げ、薄いブランケットを何枚か使ってその身体を包んだ。十年前、コレルで見上げたのと同じ人物だとは思えないほど縮んだ身体は泣きたくなるほど軽い。おれはそのままリビングを抜け、ついでにダイニングテーブルからケルベロスを拾い上げると、裏庭に抜けた。弾ならおれのベルトにいくつか下げている。充分だろう。
 おれとヴィンセントの暮らす家のことだ、裏庭には花ひとつ植えるでもなく、一組のデッキチェアがあるだけで、そのまま山に繋がっている。庭と山の境目に何本かの針槐が植わっていて、強い香りのする白い花を滴らせるように咲かせていた。
 おれはデッキチェアの片方に手近なクッションを積み、ヴィンセントを凭れさせた。その肩と腰元にブランケットを掛け、ケルベロスに弾を込める。必要もないのに手入れを欠かさなかったおかげで、この奇天烈な構造にも随分慣れた。
 そのまま銃を差し出したが、ヴィンセントはゆるゆると首を横に振った。最後に相棒を触りたいのだと思ったが、違うのだろうか。
「おまえが撃て」
「……え、」
「撃って見せろ」
 ヴィンセントは静かに命じた。おれは五年前のことを思い出していた——いつかおれがケルベロスを扱えるようになれば、ヴィンセントがおれを同行させた理由を話すと。その時が来たのだ。
 おれは頷いて、ヴィンセントからいくらかの距離を取った。ケルベロスを実射するのはこれが初めてだが、そのグリップはもうおれの掌に馴染んでいた。右手を持ち上げ、照準を合わせる。並んだ針槐の樹の真ん中、一番花が多い樹を選んだ。引き金を引く。
「——どうだ、撃てたか」
 銃声の残響が消えるまで待って、ヴィンセントが問う。もうほとんど目が見えないのだろう、彼の顔は確かに針槐に、幹に大穴を開けた樹に向いているが、その穴が見えていないに違いない。おれはかすかに痺れる右手を隠して、ヴィンセントの脇に膝をついた。
「ど真ん中だよ」
「そうか……手が痺れるだろう」
「お見通しか」
 ヴィンセントは少し笑った。おれも少し笑った。彼の最期の話が始まる。
「私のマントの胸の隠しを開けろ。中に鍵と手紙が入っているから、それを持ってジュノンへ」
「分かった。ジュノンのどこに行けばいい」
「世界再生機構の本部へ」
「分かった」
「不安ならシドかユフィに、」
 ヴィンセントが喉を震わせた。もう咳をする力もない。おれは彼の薄い背を撫で、吸い飲みから水を含ませる。
「分かったよ、シドかユフィか、暇な方に付き合ってもらう。それで?」
「……リーブ・トゥエスティに会え」
 その名前にはおれにも聞き覚えがあった。新聞や雑誌で何度も見たし、シドたちの話にもたびたび登場した人物だ。
「リーブに取り継いでもらえなかったり、リーブがおまえを疑ったりするようなら、鍵を渡せ。それでおまえが私の縁者だと分かるはずだ」
「うん、それで、手紙をそのリーブってひとに渡せばいいんだろ」
 台詞を先取りしたおれに、ヴィンセントは頷いた。そうして浮かせていた頭を背もたれに預けて、細く息を吐いた。
「おまえを……連れ歩いたのは、」
「うん」
「私の約束を、肩代わり、させるため、で」
「ヴィンセント」
 これ以上喋らせてはいけないと、本当は分かっていた。けれど止めることができなかった。おれの好奇心のためというより、ヴィンセントの想いのために。
「そのために、私はおまえを、」
「ヴィンセント、」
「しかしそれも私の、独りよがりな、望みのための」
 ヴィンセントがおれの名を呼んだ。
「すまない、私がおまえを、」
「……もういいよ、ヴィンセント」
「おまえに、私は、おまえの人生を、これ以上は、やはり」
「ヴィンセント」
「奴に、リーブに会ったあと、は、好きに」
「もういい、もういいってば」
「——好きに生きろ」
 それが最期だった。ヴィンセントの、おれのたったひとりの「父親」の。