we will never walk alone

 おれはヴィンセントの身体を彼のベッドに戻し、しばらく立ち尽くして、それから自分の通信端末を立ち上げた。メッセンジャーアプリを起動し、ほとんど無意識にシドとユフィとのグループ画面を開く。
 何を書いたらいいのか分からなかった。ヴィンセントが死んだ、とでも書けばよかったのだろうか。迷う指先が通話キーに触れて、気がつけばグループコールが始まっていた。シドもユフィも何コールも待たずに応じてくれた。
『どうした坊主』
『アイシクル暇なんでしょ〜』
「……ヴィンセントが、」
 ふたりにはそれだけで全てが通じたようだった。打てば響くどころの騒ぎではない俊敏さで、シドが飛空艇を最高速度で飛ばしてこちらへ向かうと言い残して通話が切れた。
 おれはのろのろと足を動かして、壁にかかったままのヴィンセントのマントを調べた。胸元の内ポケットには確かに、手紙と鍵が入っている。鍵は一般の住居用のもののようで、古びて錆が浮いているが使われた形跡がない。手紙は一通、宛名のない白い封筒だ。ずっとポケットに入れていたからか、角が擦れて毛羽立っていた。
 手紙と鍵とを握り締めたまま、どれほど立ち尽くしていただろう。真夏のアイシクルは白夜の季節だから時間の間隔がおかしくなる。それでもほんの数時間だったと思うが、遠くに飛空艇のエンジンの轟音が聞こえた。それは少し離れた空き地に着地し、五分と経たず家の扉が開け放たれる。
「坊主、いるか!」
 シドの声だった。重なるようにユフィの呼ぶ声もする。おれはふらふらと部屋を出た。
「ユフィ、シド」
「遅くなって、ごめん……!」
 温かなものに包まれて、自分がユフィに抱き締められていることに気づく。彼女の肌は汗を帯び、鼓動も呼吸も速かった。きっと取るものもとりあえず来てくれたのだ。おれたちの傍らをシドが通り抜ける。どたどたと作業靴が鳴る。すれ違いざまに頭を乱暴に掻き回された。
「よくやったな、坊主」
 それでもおれは泣けなかった。

 どうやらシドとユフィはこうなることを予想していたらしい。ユフィが数日前からロケット村に滞在し、いつでも駆けつけられるようにしてくれていたそうだ。そしてシドは限界速度でシエラ号を飛ばしてくれた。だから早かったのか、とまだぼんやりする頭で考える。
 諸々の手続きはふたりが手分けしてやってくれた。ヴィンセントは村の人々とはほとんど付き合いはなかったが、おれのよしみで何人もが弔問に来てくれたし、遺体の埋葬の手伝いをしてくれた。何しろ真夏のことだし、ヴィンセント自身、墓のありかにこだわりはないと言っていたからだ。ヴィンセントは村の墓地の隅に眠ることになった。
 おれはヴィンセントから聞いた話をした。ふたりはほぼ黙って聞いていたが、おれが話し終えると揃って頭を抱えたり天井を仰いだりして呆れ返った。もちろんヴィンセントに対してだ。おれも当事者でなければそうしていただろう。
 ふたりが補ってくれた内容としては、ヴィンセントが「カオス」を喪失したあと、彼の老化を遅らせようと必死になったのがリーブ・トゥエスティそのひとであるということだった。何故かというおれの質問に、ふたりは顔を見合わせて、それはヴィンセントが「カオス」を失うに至った事件に彼を引き込んだのがリーブであるからだ、と答えた。おれはひとまず納得した。
 ヴィンセントの遺言(のような言葉)について、ユフィは「確かにアンタの人生、ヴィンセントに歪められた感じするよね」とコメントした。おれはそれに笑ったが、シドは顔を顰めてユフィを窘めると、煙草に火をつけて言った。
「ま、好きに生きろってのは正しいと思うぜ」
「そうだねえ、ヴィンセントだって好き勝手生きたわけだし」
「まったくだアイツ、俺らに何度嘘言わせたと思ってんだ」
「いやもう、毎回すごいよね。詰め方が」
「ねちっこいんだよなあの野郎」
 それはヴィンセントの埋葬を終えた夜だった。だからふたりは謝礼でも貰わないと気が済まないと言って、ヴィンセントが開けたはいいがほんの少ししか飲めなかった蒸留酒のボトルを空にした。おれもご相伴に預かり、どうやらそこそこ酒に強いことが分かった。酒盛りをしながら、この家はヴィンセントの墓参りに来る仲間たちのために残しておくことがなし崩しで決まり、おれがそもそも「仲間たち」って誰のことだと訊くと、ふたりは指折り名前を数え始めた。
 クラウド。ティファ。バレット。ナナキ。ユフィ。シド。ケット・シー(猫のぬいぐるみだそうだ。何だそれ)。仲間外れにしたら可哀想だから、リーブ。シェルク。エアリスには鍵はいらない、彼女は今ごろライフストリームでヴィンセントと旧交を温めているだろうということだった。
 まあこの辺りでいいだろうな、とシドが言い、ユフィが片目を瞑って、あとはヴィンセントのご子息様だね、とわざとらしく付け足す。おれはついでかよ、一応家主なんですけど、と言えば三人揃って笑えた。人数分の合鍵はシドが作るそうだ。

 おれはヴィンセントから預かったどこの家のものかも分からない鍵と宛名のない手紙とケルベロスを持ち、シドに頼んで、ジュノンまで連れて行ってもらうことにした。生まれて初めて訪れるジュノンだ。
 シドとユフィが世界再生機構本部まで一緒に行ってくれるという。リーブと対面する場まで同行するのもやぶさかではないと言ってくれたが、おれは考えた末に受付まででいいと返した。なんとなく、一対一で会うべきだと思ったからだ。
 シエラ号をジュノンのエアポートに停めて、ふたりの案内で本部を目指す。アイシクルからの途中で上から見たエッジより整然とした街並みは、海街らしく爽やかだった。
「あっついね」
「アイシクルから直行すると余計にな」
 ジュノンの建物はどれも壁が白く、日光を強く拡散させる。おれたちは木陰を辿るように歩き、ほどなくして目的地に到着した。
「おい坊主、本当にひとりで大丈夫か?」
「多分」
「アレなら通話繋いどく? なんかあったらすぐ行ってあげるよ」
「それは……ユフィ、おれたちの話、盗み聞きしたいだけじゃなくて?」
「なんてこと言うの、アタシ悲しい」
 そんなやりとりで少しばかり緊張をほぐして、おれは受付に向かった。愛想のいい、しかし警戒の覗く笑顔のスタッフに、リーブ・トゥエスティとの面会を求める。
「恐れ入りますが、アポイントなどは」
「いいえ、取ってません」
「トゥエスティとの面会は事前にご連絡いただきませんと……」
 おれはポケットから鍵を取り出した。ヴィンセントがずっと隠し持っていた、あの錆の浮いた鍵だ。
「おれはトゥエスティ……さんの友人の、息子です。ヴィンセント・ヴァレンタインから預かったものがあるとお伝えいただけますか」
 受付スタッフは怪訝な顔を隠さず、それでも鍵を受け取り、危険物探知機らしい機械に通す。何の変哲もない住居用の鍵は当然のことながら何の反応も示さず、スタッフはしばらくお待ちくださいと言い残すと別の部屋に消えた。
 そのまま十分ほど待っただろうか。先ほどのスタッフが戻ってきたが、その手に預けた鍵はなかった。代わりに臨時の入館パスを差し出してくる。
「確認が取れました。そちらのゲートからエレベーターに乗って、最上階までお上がりください。お預かりした鍵は勝手ながら、トゥエスティ本人に渡してございます」
「分かりました。ありがとうございます」
 おれは言われた通りにゲートをくぐり、最上階を目指した。エレベーターの扉が再び開くと、待合室のようなスペースになっていて、どうやら秘書らしい女性がおれを待ち構えている。
「お待ちしておりました。ヴァレンタイン様ですね」
 ヴァレンタイン様。その響きがどうにもむず痒くて仕方なかったが、おれは出来るだけ真面目な顔で頷いた。女性はおれを促し、正面の大きな扉をノックする。
「局長、お客様です」
「お通ししてください」
 扉越しに聞こえる声は、それなりの威厳を漂わせていた。しかし語尾には隠しきれない震えがある。わずかなやりとりから相手の心理状態を推し量ることも、ヴィンセントのカリキュラムに含まれていた。
 おれは拳を軽く握り、部屋に足を踏み入れた。窓の大きく切られた部屋は、今は日差しを遮るためにブラインドが下ろされている。部屋の隅に置かれたごく普通の観葉植物。手前側には応接セットが置かれ、左手の壁にはキチネットに続く出入り口と、資料室か仮眠室と思わしき別室への扉が並んでいた。秘書がキチネットへと引っ込む。
 おれの正面で、男が席を立った。彼はおれから視線を外さぬまま、大きなデスクを回ってゆっくりと絨毯を踏む。少し癖のある髪は後ろに向かって流され、いく筋かの白髪が適度なアクセントを与えている。額や眉間に刻まれた皺、眉の下の双眸は穏やかに見えて厳然とした光を宿す。少し鷲鼻気味の鼻の下には几帳面に整えられた口髭が、そのまま顎髭と繋がっている。引き結ばれた唇。身体の動きはごく少なく、品定めに慣れている——品定めされるのにも、するのにも。
 男はおれから三歩の距離を保ち、口を開いた。
「初めてお会いしますね」
「……はい」
「お会いできて光栄です——と言うべきかどうか」
「おれは、」
 咄嗟に挟んだ言葉に、男がふと言葉を切った。おれはポケットを、その中の手紙を掌で押さえる。ヴィンセント、あんたなんて厄介なことを頼んでくれたんだと、父親を恨みながら。
「おれは、お会いしたいと思っていました。あなたに」
 男——リーブ・トゥエスティは虚をつかれたように目を開いた。
 


 おれとリーブは応接机を挟み、向かい合っていた。秘書が置いて行ったコーヒーには、まだ口をつける気にならない。
「それで、どういったご用件でしょう。ヴィンセントから預かったものがあると伺いましたが」
 リーブの物言いはまだ事務的だった。ヴィンセントの名を呼ぶ時でさえも。それにわずかならぬ反感を抱いたおれは、精一杯の虚勢を張った。
「ふたつ預かりました。ひとつは鍵です」
「ええ、確かに受け取りました」
「もうひとつは」
 おれは尻を浮かせて、ポケットから例の手紙を引っ張り出した。皺が出来ていたが知ったことではない。いちおう、机の上で伸ばしてからリーブに差し出す。
「これです。これをあなたに渡せと」
「……そうですか」
 宛名のない白い封筒を受け取って、リーブは開封を躊躇ったようだった。その時おれはやっと、ヴィンセントが逝ったことを伝えそびれていたことに気がついた。
「ヴィンセントは、」
「——はい」
「亡くなりました。六日前の、ちょうどこのくらいの時間に」
「はい」
 リーブの視線は封筒から動かなかった。物置の片付けが終わりました、と言われたのに対するような生返事が繰り返された。
「なにぶんこの時期なので、埋葬ももう済ませました」
「はい」
「おれはあのひとに」
 あのひと。空々しいにもほどがある。
「頼まれて、これを届けに来ました」
「はい」
 立派な服を着た男はそればっかりだった。こちらを見もせず、表情筋のひとつも動かさず、薄く開いた口からは一本調子の「はい」しか出てこない。目の前にいるおれが誰なのかも、まるで気にしていないようだった。
 おれは一瞬、腹の底がぐらりと沸き立つのを感じた。怒りと哀しみと、たぶん情けなさのようなものがないまぜになっていた。なあヴィンセント、あんたこいつに何を伝えたかったんだよ。こいつはあんたの何なんだよ。こんなでくの坊みたいな奴の、何を護ろうとしたんだよ。
 衝動の命ずるままに——それはヴィンセントから何度も固く戒められたことだったが——立ち上がり、リーブの胸倉に手を伸ばそうとした時だった。操り糸に引っ張られるようにリーブが顔を上げる。おれはその顔を、その瞳を見てしまった。
 リーブは泣いていた。涙のひとつぶも流さぬままに、嗚咽のひとつも漏らさぬままに、能面のような顔を貼り付けて、それでも確かに泣いていた。鳶色の瞳は底知れぬ奈落のように深い喪失に染まり、震える口許が音もなく慟哭している。
 おれは脱力して、再びソファに腰を落とした。リーブはおれから目を逸らさなかった。彼はおれの名を呼んだ。なめらかな発音で、アクセントを違えることもなく、囁くほどのかすかな声で。
「私も、きみに会いたいと思っていました。ずっと」

 当然と言うべきか、リーブはおれの存在を把握していた。それどころか、世界を彷徨うヴィンセントがどこにいて、どんな過ごし方をしているのかまで逐一認識していた。シドたちの「報告義務不履行」には実際のところ、何の意味も効力もなかったわけだ。
 己の権力を私事のために使ったのはこれきりです、とリーブは話した。これきり、と言いながらもその表情は慚愧に満ちていて、ヴィンセントを失った彼が直面し続けてきた葛藤の重さを知る。
 リーブは両の掌で手紙を挟むようにしたまま、彼の聞き知っていたヴィンセントとおれの話をしてくれた。あのころこんなことがあったでしょう。この時はこんな事件があったんじゃありませんか。おれ自身でさえ忘れていた瑣末な出来事のひとつひとつについて、リーブは硝子細工でも摘み上げるようにして答え合わせをしたがった。おれも問われるままに、その時はこんな話をして、こんな喧嘩になって、とヴィンセントの記憶を少しずつ分かち合った。
「ワルツは踊れるようになりましたか」
「ヴィンセントが相手なら問題なく」
「それは妬けますねえ」
 そう言ってリーブは目許をくしゃりと歪めて笑う。おれは、妬かれても、と肩をすくめて笑い返す。
「……リーブさん」
 ぎこちなく呼べば、彼は片眉を持ち上げておれを見た。おれは少し逡巡して、それでも尋ねることにした。
「ヴィンセントを恨んでますか」
 あなたのもとに留まらなかったことを。あなたの望みを叶えなかったことを。あなたではなくおれを共連れにしたことを。あなたに看取らせなかったことを。
 リーブは両目を細めて、ゆっくりと息を吐いた。出来の悪い生徒を見る教師のような顔をしていた。
「そうですね、私が彼を恨むことがあるとすれば——」
 彼は手紙の下、左の掌にずっと持っていたのだろう、錆びた鍵に視線を落とした。使われた痕跡のないまま、ただ古びていった鍵。それでもヴィンセントが手放さなかった鍵。
「これを、結局一度も使ってくれなかったことでしょうか」
 そのくせ持ち逃げされたものだから、それまで住んでいた家を引っ越しで引き払う時、シリンダーの交換だと言って余計な費用を取られたのだそうだ。
「まあ、そのくらいですね。恨みという恨みは」
「……」
「大したことないでしょう」
「相手がおれだから遠慮してますか」
「私がきみに遠慮する必要ありましたっけ」
「ないんですか」
「あるんですか」
 おれが渋面を作ると、リーブは声を上げて短く笑った。喰えないジジイだ。ひょっとしなくても、ヴィンセントよりもっと質が悪い。
 そんなふうにしてヴィンセントの記憶を巻き戻し終えたおれたちは、ふと訪れた沈黙に肩を委ねた。どれくらいの時間が経ったのか、ブラインドから忍び込む光は夕暮れの色を呈し始めている。
 何かを見計らうように呼吸を数えていたリーブが、そっとおれの名を呼んだ。彼も躊躇っていたのだろう。呼吸をもう何度か繰り返してから、言った。
「——きみは、泣かなかったんですね」
 リーブの言葉に、あなただって泣かないじゃないか、とおれは思う。お互いさまだ。お互い泣かなかったし、泣けなかった。まだ泣けない。いつか泣く日が来るだろう。でもそれは今じゃない。
 おれたちはそれきり言葉を使うことをやめ、互いの呼吸だけが聴こえる静寂の中にいた。おれの戻るのを待ちかねたシドとユフィが部屋に雪崩れ込んで来るまで、おれたちに必要なのはそれだけだった。
 リーブはついに手紙を開けなかった。だからおれは、あの手紙に何が書いてあったのかをついに知らないままだ。

 あの日から半年が経つ。
 おれはすっかり座り慣れたセダンの運転席で、乗せるべきひとがやって来るのを待っていた。何度かハンドルに手を置いてペダルに足を載せて座席の位置を調節し、どうにも居心地が悪いのでジャケットを脱ぎ助手席に放る。スーツというのは未だに慣れない。
「そんな脱ぎ方をしたら皺になりますよ」
 後部座席のドアが開くのと同時にお小言だ。おれはわざとらしく肩を縮めて、助手席の座面にわだかまっていたジャケットをつまんだ。
「降りる時に着ますから」
「脱ぐなとは言っていませんがね」
 鷹揚なくちぶりと共に、リーブがシートベルトを締める。彼が腰を落ち着けるのを待って、おれはシフトレバーをドライブに入れた。

 あの対面のあと、世界再生機構の局長室からおれを回収したシドとユフィは、飛空艇をかっ飛ばしてエッジに向かった。自己増殖を繰り返す雑然とした街を通り抜け、セブンスヘブンという酒場におれを、文字通り連行した。そこには数年ぶりに会うバレットと、初めて会うクラウドとティファ、それからケット・シー——本当に猫のぬいぐるみだった——がおれを待ち構えていて、その夜はひどいどんちゃん騒ぎになった。
 気がついたらセブンスヘブンの上(というか、ティファたちの家というか)の一室に寝かされていた。二日酔いどころか三日酔いにまで至りそうな頭を抱えて、おれは考えた。
 おれはヴィンセントに育てられた。ヴィンセントは何だって教えてくれた。生きるのに必要なことも、生きる上では特に必要ではないことも、彼の能力と忍耐と持ち時間とを限界まで使って、おれを鍛えてくれた。
 結果としておれは各種銃火器と槍が使えるし、体術も人並み以上だろうし、家庭料理もサバイバル飯も作れるし、折り紙で鶴を折れるし、暗号だってひと通りは解けるし、山奥の寒村のひとたちにも馴染めるし、高級レストランで粗相もしないし、古い抒情詩もいくつか暗記しているし、片手間の株式投資は今のところ収支がプラスだし、遠い恒星も色と大きさで見分けられるし、暴れチョコボを御するのも得意だし、ワルツを踊ることもできる、全部ぜんぶヴィンセントの教えだ(実のところ、槍はシドで、折り鶴はユフィで、星はナナキだが)。
 でもただ生きてゆくだけなら、こんなに必要ない。平穏に暮らすのには余計な知識が多すぎる。コレルのがらくた山で干からびかけていた子供を生かすために、これだけのことを十年かけて叩き込む理由はどこにもない。
 ならどうして、ヴィンセントはここまでしたのだろう。答えは簡単だ。おれに託すためだ。おれに、彼のひとりきりの「息子」に、彼が出来なかったことをさせるためだ。
 ヴィンセントが本当のところ何を考えていたかなど、おれには知りようもない。しかしおれは、自分の推測がほとんど間違いないことを確信していた。なぜならおれは、ヴィンセントの言葉を覚えているからだ。
 私の約束。私の望み。
(——だったらおれが、それをするよ)
 ヴィンセント。おれを拾ったひと。砂まみれのおれを見つけて、おれに水と冷えた風を与えて、おれを世界中連れ回したひと。おれに手を差し伸べたひと。
(あんたがしたかったことを、おれがするよ)
 リーブはおれが護る。ヴィンセント、あんたから貰った銃で、あんたから教えられた知識で、あんたから受け継いだ経験で、あんたの願いを叶える。
 おれは己の決意を、お馴染みの三人に打ち明けた——まだあまりお馴染みじゃない四人は、おれたちより酒に強いかおれたちより節度のある呑み方をしたらしく、揃って不在だったので——。彼らは初めておれに会った時のように口をあんぐり開けて、天井を仰いだり頭を抱えたり、要するに彼らが呆れた時のいつものリアクションを見せた。
「アンタ、ヴィンセントの遺言聞いてたの?」
「聞いてたよ」
「『好きに生きる』んじゃねえのかよ」
「だから好きにするよ」
「……ほんとうに? 無理してない?」
 おずおずと念を押したのはナナキだ。おれは彼のたてがみをもふもふさせてもらいながら、出来るだけはっきり頷いた。
「おれがしたいから、そうするよ」
 そうしておれは、自分の視界が揺れているのに気づいた。ナナキの尾の炎が万華鏡のようにいくつも重なって見える。まばたきをしたら頬を何かが伝う感触がしたが、きっと二日酔いのせいだった。
 完全に酒が抜けるのを待って三日ぶりに世界再生機構の本部を訪れると、おれは顔パスということになっていた。待たされるでもなく局長室に通される。シドやユフィなら局長って意外と暇なんだな、と面と向かって言うところだろうが、おれは心に思うに留めた。
 おれをあなたの護衛にしてくれ、と言うと、リーブはしかつめらしい顔で何かを考え込んでいた。でも、しかし、とあれこれ口籠もっていたが、おれが二日酔いの頭で考えたことを説明したらついに折れた。おれは速やかにジュノンのダウンタウンにフラットを借り、翌週から世界再生機構局長の護衛として働き始めた。
 ヴィンセントの望みを叶えたいという、おれ自身の望みに従って。

 今日の目的地は、エッジのとある高級ホテルだ。経済産業界のお偉方が集まるパーティに、リーブは義理で出席しなくてはならない。その割に彼の機嫌がいいのは、パーティを適度なところで抜けてセブンスヘブンに流れる構想があるためだ。
「そうですねえ、遅くとも九時過ぎには撤退したいところです」
「それはどうでしょうね」
 一方、護衛であるおれは、雇い主のプランが実現するかは五分五分のところだと読んでいる。何しろ世界再生機構局長は有名人なので、お歴々に取り巻かれて脱出できない可能性が高い。要人の集会ならば当然警戒して然るべき物騒な事件というのもないとは言えないが、おれが護衛を務める以上、事件に発展させるわけにはいかなかった。第一、おれだってセブンスヘブンで酒が呑みたい。そう言うと、リーブは酢を飲まされたような顔をした。
「荒事はごめんですよ」
「まあ、そこはご心配なく」
 車は間もなくエッジエリアに入る。数年前に完成したバイパスはまだ舗装もなめらかで、走り心地がいい。
 おれはどうということもない顔を保ち、バックミラー越しにリーブと目を合わせた。
「局長は死にませんよ」
「縁起でもない」
「おれが死なせません」
「頼もしいことは確かなんですがねえ」
 ぶつぶつと文句を言うリーブには、まだ教えていない。おれがたびたび使うこの言い回しがもとは誰のものなのか。彼がこの言葉を伝えたかった相手が誰なのか。
 教えてやらなくてもいいかな、とおれは思っている。いつか、もう何十年か経って、彼らが再び星の生命に還った時、その時の話の種にでもしてもらえればそれでいい。
 ゆるやかなカーブに合わせて、おれはハンドルを切る。左脇のホルスターに収めたケルベロスの出番が、今夜はないことを祈りながら。