we will never walk alone



 おれの父親はヴィンセント・ヴァレンタインという男だ。
 父親と言ったって血が繋がっているわけではない。ヴィンセントの語った断片的な物語が真実であると仮定して、これに基づくおれの理解が間違っていなければ、彼に子を成すことは出来なかったはずだ。少なくとも彼にその気はなかった。
 おれは孤児で、コレルの村でがらくたを拾って生きていた。大災厄があろうとなかろうと貧しい者は貧しいままだったから、おれのような子供に、子供だからという理由で手を差し伸べる人間なんかいなくても仕方なかった。
 ヴィンセントだって、おれが子供だから拾ったわけではないだろう。ろくな生き方も知らない子供ならおれの他にも山ほどいたし、哀れな命を救いたいならおれよりもっと幼くてもっと可哀想な奴だっていた。なのにヴィンセントはおれを選んだ。だからそこにはきっと別の理由があったはずだ。あるいは、ただの偶然や気まぐれだだたかもしれない。
 その日は夏の盛りの真昼間で、痛いほど暑い日だったことを覚えている。一年を通してほとんど雨の降らないコレルは乾いていて、たまに吹くぬるい風が砂埃を巻き上げるから目も口も開けてはいられない。がらくたの山の陰に入れば直射日光は避けられても、そもそも積み上がった金属が熱を持って、下手に寄りかかりでもすれば火傷してしまうくらいだ。はしっこい奴や愛嬌のある連中はテントの陰を借りられるが、おれはそうではなかったのでロープウェイ乗り場の下に潜り込んで夜が来るのを待っていた。
 砂避けのぼろ切れを被り、抱えた膝の間に頭を突っ込んで、いかに飲み水を節約できるかを考えていたおれは、不意に思いがけない涼しさを感じて顔を上げた。誰かがおれを覗き込んでいる。まっすぐな黒い髪、くすんだ赤のマント、真鍮色のガントレット、先の尖ったブーツ、夜風のような気配。
 それがヴィンセントだった。
 ヴィンセントは長身を屈めたまま、なおもしばらくおれを見ていた。単に見るというよりは、観察していると言う方が正しかっただろう。彼の顔は逆光に呑まれてよくわからなかったが、それでも正面から人に見られた経験のほとんどないおれはひどく狼狽えて、しまいには喧嘩腰になり、おれは見世物じゃない、などと口走ったはずだ。それを聞いたヴィンセントはぱちりとひとつまばたきをすると、そうだろうな、と言った。
「そこから出てくる気はないか」
「暑いから嫌だ」
「確かに暑いな」
「何の用だよ」
「それを話すから出て来たらどうだ」
「なんであんたに合わせなきゃいけないんだよ」
「道理だな」
 おれの屁理屈にしかつめらしい顔で頷いて、ヴィンセントは何かを考えていたようだった。そこで顔が少し傾いで、彼の顔の中身が見えた。暑いと言っておきながら顔に汗の一筋も流すわけでもなく、ずいぶんと陰気な顔だ、とおれは思った。実際のところその顔面は作り物のように整っていたから驚きはしたけれど、これだけしんきくさい面をしているなら、暑さも大して感じないのではないかという印象が勝った。
「ならばこうしよう。私がおまえにひとつ便益を供与する。それと引き換えでどうだ」
「ベンエキをキョーヨ」
「つまり、おまえにひとつ得をさせてやるということだ」
 ヴィンセントの言葉に、おれは唇をひん曲げた。この手の話にろくなオチがつかないことくらいはおれだって知っている。何を寄越すつもりか知らないが、それで貴重な居場所を奪られてはたまらない。そう返すと、どうしたわけかヴィンセントは少しだけ笑ったようだった。
「おまえは賢い」
 それならこちらからはふたつ提供しよう、と彼は言った。マントの影に背負っていたらしいザックから、水で満たされたボトルを取り出す。掌にひと垂らしして口をつけ、安全な水だ、と念を押した。これでひとつ。
「それから、」
 不意にひんやりとした空気がおれの足先に触れた。冷たい、と思った瞬間に猫の尾のように退いてゆく。思わず追いかけるように足を伸ばしたおれに、ヴィンセントの手が差し出された。
「日差しばかりはどうにもならんが、クーラーの代わりにはなる」
 考える間もなく、おれはヴィンセントの手を取った。俺に向かって差し伸べられた、はじめての誰かの手を。

 ヴィンセントはマントを広げて、日陰から這い出たおれの頭上にかざした。即席の天幕の中は肌寒いほどの冷気に満たされている。どんな仕掛けかと問うおれに、彼はこともなげにマテリアを使っている、と答えた。なるほど、汗をかいていないわけだ。
 おれたちは別の——ヴィンセントが収まるほどの大きさの——日陰を探してがらくたの山の間を縫い進んだ。押し寄せる熱気はヴィンセントのマテリアが生む冷気に相殺され、マントの下は少なくとも蒸し焼きの心配はしなくていいくらいには快適だった。
 そこそこ大きながらくたの陰に改めて腰を下ろす。おれはヴィンセントから受け取った水で喉を潤し、それで、と話を切り出した。
「おれに何の用」
 彼も別のボトルから水を飲み一拍置いてから、そうだったな、と呟く。もしかしたらおれを引きずり出したことで目的を達成した気になっていたのかもしれない。おれの「父親」にはそういう、少しずれたところがった。
「私と共に来る気はないか」
「……どういう意味」
「言葉通りの意味だが」
 まるで要領の得ないくちぶりに、おれは少し苛立ちを覚えた。この涼しさがなければ早々に逃げ出していたところだ。それを察知したのか、ヴィンセントは少し待て、と言ってまた何かを考え始めた。おれはもうひとくち水を飲んだ。
 数十秒経って彼が話した内容としては、考え込んだわりには単純だった。おれにも理解できるように彼なりに配慮していたのだろう。彼の話しぶりはたいていの場合端的すぎるかさもなければひどく迂遠で、おれがそれなりに成長するまでは分かるの分からないのと言い争いになることもしばしばだった。
 つまるところ、ヴィンセントは放浪の旅人であり、定住地を持たぬまま世界を行ったり来たりしている。その共連れが欲しいので、おれにそれをやれというわけだった。住はどうにもならないが、衣食には不自由させない。モンスターと相対することもあるが、ヴィンセントが排除するし、いずれおれにも戦い方を教える。その技術があればいずれどこかで職を探すことも易いだろう。おおよそそういう話だった。
 ヴィンセントは話すだけ話して口を噤んだ。それから三分の一ほど減ったおれのボトルをちらりと見遣って、小さく指を動かした。ボトルの中に氷の塊が現れる。
「質問していいの」
「聞こう」
「ちゃんと答えろよな」
「質問による」
 おれはまた唇をひん曲げて、あんた性格悪いって言われるだろ、と言った。ヴィンセントは少し遠い目になって、いい性格だと言われたことならある、と返した。結果的にこれが最初の質問にカウントされた。
「他に質問は」
「魔法ってこんなテキトーに使っていいの」
「法規制があるわけではないし、あったとしても従う道理がない」
「そっか」
「そもそも『テキトー』ではない。いや、適当ではあるが」
 これだけの暑さならば凌ぐ手段が必要だし、清潔な水を作れるのだから使うに越したことはない、というようなことを彼は言った。少しだけ早口になっていて、どうやら彼は彼なりに弁明したいようだった。
「もしおれがあんたに着いて行くとして、いつまで一緒にいるの」
 この問いに対する答えは、ヴィンセントの頭の中に用意されていた。ふたつの場合がある、と彼は前置きをした。
「ひとつは、おまえが旅などもううんざりだと言った場合」
「うん」
「この場合、わたしはおまえを最寄りの安全と思われる居住地まで連れてゆき、そこでわたしたちの旅は終わりだ」
「おれは残って、あんたは旅を続ける」
「そうだ」
 もうひとつの場合は、と促すと、ヴィンセントは腰を動かして姿勢を変えた。おれの顔を見据えて、その時初めて、彼の瞳が深い緋色であることを知った。
「私が死ぬ時だ」
 その回答の意味がおれにはよくわからなかった。その当時のヴィンセントはせいぜいが三十に届くかどうかにしか見えず、あと数年のうちに死ぬようには見えなかったからだ。おれは彼のまなざしの強さに気圧されながら、それでも問いを重ねた。
「あんた、死ぬの」
「いずれな」
「なんで」
「今は言えん」
「なにそれ」
「……万一ということもあるだろう」
「モンスターに襲われて、とか」
「そうだな」
「それならおれもそうじゃないの」
「おまえは死なん」
 小石を投げ合うようなやり取りのしまいに、ヴィンセントはそう断言した。
 おまえは死なん。私が死なせん。
「……なんだよ、それ」
「言葉通りの意味だ」
「意味わかんねー……」
 またヴィンセントが黙った。これ以上答えるつもりはないということだ。
 おれはヴィンセントのマントを頭から被ったまま、水のボトルを握り締めて向こうの日向を見た。鉄片混じりの砂が白々しく輝いている。ヴィンセントの言葉が頭の中で反響する。おまえは死なん。私が死なせん。
 あれはおれのための言葉だったのだろうか。違う、と今だから分かる。何も分からなかったあのころのおれは、それきり何の質問も浮かばず、ヴィンセントの連れになることを承諾した。

 ヴィンセントとの旅は十年あまり続いた。おれは自分の年齢を知らなかったが、ヴィンセントが見たところ出会ったころのおれはまだ十に届かないほどだったので、だいたい八歳くらいだったということになった。
 おれは生きてゆく上で必要なおおよそすべてのことと、生きてゆく上ではなくとも構わない多くのこととの両方をヴィンセントに教えられた。読み書き計算に始まり、地図の読み方、料理、裁縫や旅の道具の手入れ、安全な水の見極め方、食べられる草と毒になる草の選別、兎や鳥を狩り捌く方法。初めて訪れる町や村での過ごし方、商店や定食屋、もう少し成長してからはそれなりの格のあるレストランでの立ち居振る舞い。日々どころか刻々、ヴィンセントの行動のひとつひとつを学ばなくてはならなかったおれは、最初の数年は文字通り目を回して必死だった。ヴィンセントは子供相手にも妥協を許さず、物理的に無理が生じた場合でなければ手心を加えてくれることもなかったからだ。
 あまりの情報量と容赦のなさにおれが癇癪を起こしても、しかしヴィンセントは泰然としていた。おれを叱りつけるでもなく、冷淡な態度をとるでもなく、いっそ端粛なほど落ち着いたまま、おれが暴れ疲れるのを待っていた。
 旅が始まってから数年すると、おれに成長期が訪れた。膝や肘が痛んでたまらない半年ほどが過ぎると、ヴィンセントの「教育」は段階を上げた。おれはヴィンセントの装備の中から一番軽くて小さな銃を貸し与えられ、それから数か月後、初めて生きた標的に向かって発砲した。巨大な虫のようなモンスターは——今にして思えばヴィンセントがあらかじめそれなりのダメージを与えておいてくれたのだろう——おれの一撃によって斃れた。
 それからは、ヴィンセントがおれを背後に庇って戦うことはどんどん減っていった。戦闘になるたびに律儀にかけられていたリフレクやプロテスもその頻度を下げた。おれが扱える銃も、小さなピストルに始まりハンドガン、ライフル、ショットガンと数を増やし、今では必要ならば据え置き型のガトリングガンでも扱える自信がある。もちろん、マテリアの使い方も徹底的に叩き込まれた。
 おれが戦えるようになっても、ヴィンセントは手を抜かなかった。むしろサバイバル方面の基礎はもう備わっただろうと、知識や教養を身につけるための時間の比率が上がった。字が汚いと言って書き取りのノートを用意し、人里に滞在している間は新聞や雑誌を何誌も読ませ、その時々のニュースについてヴィンセントと議論することを強いた。映画や音楽に触れる時間のために街に滞在する期間が延び、与えられる課題図書は古典文学から人文科学、自然科学、あるいは低俗と言われるようなフィクション、ルポのたぐいまで多岐にわたった。ヴィンセントの携帯端末に入っている音楽も、クラシックや古いロックだけでなく、アンビエントやわりと新しいエレクトロニカまで実に幅広く、悪く言えば節操がない。
 実際のところ、おれもよく折れなかったものだと思う。しかしそれ以上に驚嘆すべきは、これらすべてをおれに教え込んだヴィンセントの蓄積と忍耐の方だろう。いつ見たって葬式帰りみたいな顔つきをしているくせに、モールス信号の訓練だといって古いオペラのさして有名でもない一節を何も参照せずに送ってきたり、あまつさえワルツの手解きさえしてみせる。もちろん実践でだ。おかげで今のおれは、自分より背の高い相手をリードして綺麗にターンを決めることだってできる。
 彼がかつて神羅の特殊工作部隊にいたことは、本人の口から説明されていた。だから戦闘技術が優れていることには何の不思議もない。しかしそれ以外の、いわゆる教養にあたる知識をヴィンセントがなぜ身につけたのかは分からない。尋ねても、いずれ分かる、以外の答えは得られなかった。

 ヴィンセントの旅に道程はあってないようなものだった。野宿も多かったが、たいていの場合はどこかの街に宿を取って数週間から数か月滞在する。その間に次の目的地を決めて移動する。徒歩の旅だけではなく、チョコボや飛空艇を使うことも少なくはなかった。おれとヴィンセントが共にあった十年で、おれたちは恐らく世界を五周はしたのではないだろうか。
 コレルを出たおれたちがまず向かったのは、こともあろうにゴールドソーサーだった。と言ってもヴィンセントはここで遊ぶ気は毛頭なかったようで、おれの生活用品を買い揃えるのに都合がよかったからだろう。そこのホテルに部屋を取った時、宿帳にヴィンセントが彼の名前と、おれの名前に同じ「ヴァレンタイン」という姓を付け足して書いた。さすがに兄弟には見えなかったからか、フロントのスタッフがおれを指して「息子さん」と言い、ヴィンセントはそれを訂正しなかった。それからずっと、おれたちは親子ということになっている。髪も目も違う色、まるで似ていない顔立ちなのに。
 世界のあちこちでヴィンセントの友人と会う機会があった。頻度の高かったのは、ロケット村に拠点を置きしばしば飛空艇を飛ばしてくれたシド、その飛空艇で何度も乗り合わせたトレジャーハンターを名乗るユフィ、どうやらヴィンセントの気に入りの場所であるらしいコスモキャニオンに住むナナキだ。
 彼らはみな、ヴィンセントがおれを「息子だ」と紹介すると目を剥いて驚愕した。ナナキは顎をぱかんと開けて呆然としたあと、恐らくはおれに配慮してくれたのだろう、ぎこちない笑顔を作ったりもしたが、シドやユフィはもっとずっと遠慮会釈なくヴィンセントを責め立てた。いや、正確には問い詰めようとして、何かを言おうとするうちにヴィンセントに制止された、という経緯だった。
 おれもそこまで愚かではないので、彼らと会った時は必ず、早めに場を離れるようにした。飛空艇の展望デッキから空を眺めたり、宿の部屋に引きこもったり、そうしてヴィンセントと友人たちが「積もる話」に集中できるようにしたのだ。ヴィンセントはおれを追い払うでもなく強いて引き留めるでもなく、ただ話を終えておれの前に姿を見せる彼は必ず疲弊していた。おれは何も指摘しなかったし、どんな話だったのかと訊くこともできなかった。
 ヴィンセントの神経をすり減らすようなことを話す、という点を除けば、シドもユフィも悪人ではなかった。それどころか、ヴィンセントの降って湧いた「息子」であるところのおれに対しても極めて気さくに——気さくすぎて、まるで彼らがおれ自身の友人ででもあるかのように——接してくれた。ウータイに滞在すれば遅かれ早かれユフィが合流してかめ道楽で腹がはち切れるほど飯を食わされたし、ロケット村に行けばシドが槍の訓練をつけてくれた(最新鋭の技術を追求する工学技師が、槍だなんてクラシックな武器を獲物にしているのがおれには可笑しかった)。おれはナナキと話をするのが好きで、彼と一緒に天体観測をするのがコスモキャニオンでのお約束だ。
 おれが十五になって、ようやっとヴィンセントから自分の携帯端末を買い与えてもらった時は、ユフィがおれたちと一緒にいた。彼女はショップで手続きするヴィンセントをにやにやと笑いながら眺め、おれの携帯にメッセンジャーアプリを勝手にインストールし、あっという間におれとユフィとシド三人のグループを作った。その日の夜、携帯ショップの店頭にいるヴィンセントの写真をユフィが何枚も連投して、シドとふたりで(文字情報だけでもそうと分かるほど)派手に笑い転げていた。そういうわけで、おれの携帯の画像フォルダの中で一番古いのはヴィンセントの後ろ姿の隠し撮りだ。
 ユフィもシドもナナキも、それから旅の前半に何度か会ったバレットも、みなおれに同じことを言った。たいていは別れ際、おれに向き直ってこう言うのだ。何かあればいつでも自分を頼れと。遠慮などする必要はない、深夜早朝でも、どんな天気でも、連絡を寄越せばいつでも駆けつけると。
 その言葉を聞いていたはずのヴィンセントがどんな顔をしていたか、おれは知らない。ユフィたちの表情があまりに真剣だったから、目を逸らせなかったのだ。

 おれたちは文字通り世界を何周もしたが、ヴィンセントが決して立ち寄らない場所があった。東大陸の西側、エッジやカーム、ジュノンの周辺だ。大氷河やサボテンアイランドにさえ一度ならず足を踏み入れたくせに、旅の拠点になってもおかしくないはずのエッジやジュノンだけはヴィンセントの口から一度も聞かなかった。
 シドたちから話を聞くと、昔の仲間の半分ほどはエッジにいると言う。旅の後半にバレットに会わなくなったのも、彼がエッジに戻ったためだ。ユフィだって今の自宅はエッジだという話だった。
 まだヴィンセントと旅を始めて間もないころ、一帯を避ける理由を訊いたことがある。ヴィンセントは肩をすくめて、あの辺りで私はお尋ね者だからな、と嘯いた。それから何年か経ってシドにその話をすると、彼は天を仰いで大きな溜め息をつき、それから頭をがしがしと掻きむしった。
「坊主よ」
 と、シドはおれのことをそう呼ぶ。
「おまえさん、その話信じてんのか」
「半々かな」
 それが正直なところだった。ヴィンセントが何か罪を犯したのだとしたらこの無秩序な放浪にも納得できる。しかし、おれの見るところのヴィンセントは逮捕や収監を恐れて逃げ回るような性格ではなかったので、趣味の悪い冗談であると言われればそうなのだろう、とも思う。
 そう答えると、シドは手にしていたレンチだかスパナだかを芝生に投げ出して——彼はその時、タイニーブロンコの第四世代の開発に夢中だった——言った。
「あのな、『お尋ね者』ってのはある意味正しい」
「ある意味って何」
「そんで実は俺もユフィもナナキも、通報義務不履行の真っ最中だ」
「ねえ、おれの質問」
 シドは首に引っ掛けていたタオルで乱雑に手を拭うと、おれの頭をやはりがしがし撫でた。機械油の重甘い匂いが広がった。
「そのうち分かる」



 誰もがおれにそう言った。そのうち分かる。そのうち分かるよ、今は分からなくても。
 馬鹿にされていると苛立ったこともある。あなどられていると悔しく思ったこともある。そんなにおれは頼りないのかと悲しくなったこともある。
 でも彼らは正しかった。ヴィンセントが何も話さない以上、彼らはおれに何も言えなかったし、おれもそれを受け止める準備ができていなかった。
 正確に言えば、おれは準備の途中だったのだ。ヴィンセントに出会ってから、十年をかけて、おれはそうと知らぬまま準備をさせられてきた。事実を受け止め、受け継ぐ準備を。ずっと。