domestique’s high – 2

 そうして迎えたグランドツアー初日。
 スタート地点はナギ平原。チームブラスカの士気は恐ろしく高揚していた。昨年の好成績に加え、ジェクトの参入によってチーム全体のレベルが大きく上がった手応えがある。今年は区間優勝や敢闘賞だけでなく、総合優勝も夢ではないのではないか。そんな昂りがチームを包んでいた。
 チーム揃って派手な気合いを入れた直後、ジェクトの肩を後ろから叩く人物がいた。ジェクトが昨年まで所属していたチームの選手だ。彼は後ろに取り巻き——のようにしか見えないチームメイト——を侍らせて、実に厭らしい顔をしていた。
「ジェクト様じゃねえか、調子はどうだ?」
 ここぞとばかりに力のこもった敬称に、チームブラスカの面々に一気に緊張が走る。最若手のひとりなど今にもいきり立って喧嘩を吹っかけそうだ。
 しかし当のジェクトは至って平静だった。
「これはこれは、今年の優勝候補様。ご機嫌麗しゅう」
 おかげさまでこっちは絶好調だ、と柳に風のジェクトに、「優勝候補様」はひくりとこめかみを引き攣らせた。
「ずいぶん気楽にやってるようじゃねえか。今年の目標は完走か、ジェクト?」
「そりゃもちろん、走り切って初めて勝負だからな。アシストに置いてかれねえように必死ってもんよ」
 彼に限ってあり得ない仮定に、ジェクトのかつてのチームメイトは今度は口許を震わせる。それでアーロンはやっと、一昨年のツアーでこの選手が不調でガガゼトを越えられず、己のアシストにも追いつけずにリタイアしていたことを思い出した。
「そっちこそ伸び伸びできてんだろ、何しろ俺様がいねえんだ」
「……ジェクト、」
「アシスト連中とも仲良くしてるようで何よりだぜ『エース様』、祝いの酒樽開ける時にゃ俺も呼んでくれよ」
「ッてめえ!」
「おっと、場外乱闘は遠慮しとくぜ。何しろ今年のジェクト様は完走が目標なんでな」
 ほら行った行った、と野良犬でも追い払うように手を振って、ジェクトは場をいなした。言いたいことを散々言いつつ運営スタッフに視線を飛ばしてもいたために、相手としても退かざるを得ない。
「やれやれ、人気者はこれだから困っちまうね」
 そう嘯いたジェクトは平然を装ったが、その緋色の瞳の底に昏い光が熾火のように輝くのを、アーロンは見てしまった。首筋にぞくりと不穏な気配が走る。ジェクトの苛立ちを目の当たりにするのは、これが初めてだった。
 改めて円陣を組み、ジェクトの号令で鬨を上げ、スタートラインに並ぶ。昨年の栄冠として一年間着続けたホワイトジャージを返上したアーロンも、チームのユニフォームに身を包んで気分を落ち着けようとしていた。
 位置取りは悪くない。初日の数キロメートルはパレードランであり、スタート時点の状態を維持したまま観衆に顔見せを行うのがしきたりだ。真のレースは二度目の号砲から始まる。
 最初に勝負をかけるタイミングは明日、ガガゼトの登りからだった。今日のうちはメイン集団に遅れなければいい。という理屈は理解するものの、やはりグランドツアー初日の興奮は抑え難い。
「よおアーロン、アガってんな」
「……ジェクト」
 当然のように隣に立つ男がニヤリと笑った。彼は至極落ち着いた風情でハンドルを撫でている。
「やっぱいいよなあ、ツアー初日は」
 そう言うジェクトの目には、先刻までの剣呑な色はない。アーロンは悟られぬよう静かに息を吐いた。
「そうだな……」
 ナギ平原を渡る風はこの季節、海から吹き寄せるためにやや湿度が高い。気温は平年通り、暑すぎず寒すぎずといったところか。はるかに広がる草原は濃く鮮やかな緑のグラデーションに染まり、それを縫うように白い道がガガゼトの麓へと繋がっている。ガガゼトの高峰では今朝、降雪があったようだ。明日のレースで路面が悪い状態でないといいが。
 パレードランの開始を予告するアナウンスが響いた。ぐわ、と盛り上がる空気に大地さえ揺れる錯覚。アーロンの前に並ぶアシストのひとりがヘルメットを固定し直す。観客たちが高らかに口笛を鳴らす。誰かを呼ぶ声がする。潮を孕んだ海風がスタートラインのバナーをはためかせる。カウントダウン。押し寄せる熱気。炸裂する太陽光線。踏みしだかれた青草のにおい。口が渇く。ジェクトが無造作にハンドルレバーを握る。
 号砲。堰を切った奔流のように優雅に、彼らは走り出した。

 初日は大きなトラブルもなく終了した。区間優勝を獲得したのはなんとあの「優勝候補様」で、ジェクトの揶揄もあながち揶揄ではなくなったように見えたが、その走りを動画で確認したジェクトは「ありゃ話にならねえな」と鼻で笑った。アーロンも同感だ。あのように勢いばかりの走り方を続けるならば、それこそツアー完走も怪しいだろう。ましてや逃げ切りなど決められるはずがない。
 翌日の朝はやや冷え込んだ。ガガゼトの山頂では昨日に引き続き雪が舞ったらしく、ヨンクンルートの高所区域も一部路面が凍結しているそうだ。とはいえ、日が射して気温が上がればすぐに溶ける程度のものだとの話だった。
 ブラスカの分析とジェクトのコンディションに基づき、中盤の最も起伏が激しい区間で最初のアタックをかける方針が固まった。そのまま先頭集団を維持してタイムを稼ぐ作戦だ。区間ゴールまでに複数回のアタックをかける展開も予想される。
 レース中、ブラスカはこまめに指示を出した。序盤に各集団が形成され、アーロンたちはメイン集団のやや前方に位置している。ここまでは順調だが、やはりジェクトを牽くアシストたちは消耗が激しい。徐々に疲労の気配を滲ませるキノックたちに囲まれて、しかしジェクトはまだ落ち着いていた。
 予定通り最初のアタックを成功させ、チームは先頭集団を捕捉するかたちで中盤を抜けた。アーロンもやや遅れたものの、続く下り坂で追いついている。チームとしては、七人のアシストのうち二人が集団から抜けた。彼らは明日以降のレースでもアシストとしての役割を果たすため、今日はリタイアしないことのみに専念する。
 悪くない展開だった。ブラスカもインカムから明るい声をかける。補給も済ませて終盤に備えなくてはならない。チームはあえて速度を抑制しながら坂を下りた。
 ヨンクンルートは先ほど抜けたアップダウンの連続が有名だが、真の恐ろしさは終盤の大登りにあった。平均勾配8.3パーセント、最大勾配17.1パーセントの激坂でありながら、その距離は実に五キロメートルにも及ぶ。九十九折りの坂にスイッチバックのコーナーが合わせて十二か所。この区間は一般観衆の立ち入りが規制されるほどの難所だ。心臓破りというのは比喩ではなく、この坂を登り切った選手がゴール後に緊急搬送された事例が複数あった。
 アーロンたちの前を行く先頭集団は、この坂を逃げ切れまい。恐らくは登り始めに追い抜くことになるだろう。懸念は背後、先ほど置き去りにしたメイン集団に残っているはずのロンゾ族選手たちの追い上げだ。彼らはこのガガゼトを故郷とする山岳民族であり、共通して山に強い。巨躯を最大限に活かしたスタミナとパワーで、過去も山岳賞を独占してきた。彼らがこのままジェクトを見逃すはずがない。
 案の定、激坂に入ると同時にロンゾの猛追が始まった。彼らは下り坂の勢いをそのままにアタックしてメイン集団を離脱し、決死の山登りを始めたチームブラスカを追い上げる。アーロンたちの前方には見るからに速度を落とした先頭集団。今回のツアーで恐らく最も過酷な五キロメートルが始まった。
 ここから先、アシストは「使い捨て」にせざるを得ない。エースを牽くのも重要だが、ツアーの先は長く、こんなところでリタイアさせるわけにはいかないのだ。適切なタイミングで退かせなくてはならない。その判断はブラスカに委ねられており、異議を唱える権利をメンバーは持たなかった。状況によっては先頭集団やライバルであるチームロンゾに便乗することにもなる。
 チームブラスカに残された五人のアシストのうち、ひとりは補給専門だ。登攀中は補給などしていられないため、今はジェクトの後ろにつくアーロンよりもさらに後ろに控えている。残りの四人で分担するとして、一人当たりが牽く距離は一キロメートル強。短いようだが、それでもこの坂を登り切った時に全員が揃っているとは考え難い。
 三つ目のスイッチバックを過ぎて、まずひとりが脱落した。大きくペースを落とし退がってゆく姿と入れ替わりに、チームロンゾの先陣が姿を現す。とんでもない勢いだ。すかさずブラスカが、引っ張られるな、と檄を飛ばす。
 中腹を目前にしてもうひとりが退がる。残すアシストはキノックと、今まさに牽いている選手だけだ。一方のチームロンゾはまだアタックをかける気配がない。彼らのエースであるビラン=ロンゾとジェクトが横並びになる。サドルに尻を置いたまま一番重いギアで漕ぎ続けるジェクトに対し、腰を上げて踊るように細かくペダルを踏むビラン。ふたりの視線が一瞬交錯した。
 アーロンは浅い呼吸を繰り返し、退くべきか否かの判断を迫られつつあった。大腿から下の筋肉はすでに限界近くまで張り詰め、このままでは痙攣を起こしかねない。全身が乳酸に侵される。この数週間、合言葉のように繰り返されたフレーズが脳裏を過ぎる。ジェクトが山と坂、アーロンは平地。正念場はミヘンと雷平原。ガガゼトではリタイアしなければそれでいい。
 カーブを抜けて、集団の先頭にキノックが出た。先ほどまで牽いていた選手がアーロンに並ぶ。横目で見れば、いつ集団から落ちてもおかしくないほどの苦悶の表情を浮かべていた。自ら退がらないのは意地だろう。しかし結局、ブラスカの制止によってこの選手も後方に流れてゆく。
 この激坂のピークまで残り二キロメートル弱、キノックひとりで牽き続けられるかはかなり分の悪い賭けだ。対して、共に集団を形成するチームロンゾは余力を残していた。
『ブラスカ』
 インカムからジェクトの声がした。荒い呼吸は隠せないが、息も絶え絶えというわけでもない。
『赤玉はこいつにくれてやる、いいな』
 赤玉とは、山岳地帯を好成績で制した選手に与えられる白地に赤い水玉模様のジャージのことだ。ロンゾ族にとっては着慣れた、山岳の覇者の証。ジェクトはそれを譲る代わりに、向こうのチームのアシストに便乗してでもタイムを稼ぐつもりだった。
『分かった、そうしてくれ。こちらも話は通しておく』
 わずかな間を置いて、ブラスカの承諾が返る。レース中の交渉は、選手同士だけでなく監督らの間でも行われるのが常だ。オンになったままのインカムを通じて、ジェクトの声が聞こえ始めた。
『よおビラン、久しぶりだな』
 さすがに相手の返答は拾えない。しかし交渉に応じる気はあるらしく、両チームが同時に速度を落とした。再びジェクトが話し始める。
『赤玉ジャージはどうしたよ? 俺はてっきり、あれはおまえのもんだと思ってたが』
 前回のグランドツアーで、チームロンゾは山岳賞を逃していた。山岳区間一点狙いの選手に僅差で奪われたのだ。彼らにとっては汚点とすら言えるそれを、ここでの交渉で持ち出すのは当然だった。
『話が早えじゃねえか。そういうとこ好きだぜ、ビラン大兄』
 ロンゾのエースは交渉に応じたらしい。監督たちも合意に至ったようだ。ビランの合図に従って、ロンゾのアシストが集団の前に出た。再び加速するのに遅れまいとペダルを踏みながら、アーロンはわずかに安堵する。
 これでキノックをわずかながら温存できた。この坂を登り切り、さらに四キロメートル先が今日のゴールだ。つまり恐ろしいことに、登攀に全力を振り絞った直後からもうゴールスプリントが始まってしまう。いかにジェクトが優れたスプリンターであっても、この距離を単独で走り抜くのは難しい。最初の半分でもキノックが牽ければ、ジェクトの負担は軽くなる。
 坂のピークが見えたところで、ジェクトたちはわざと速度を落とした。約定の通り、ビラン=ロンゾに山岳賞を取らせるためだ。彼らは——アーロンから見れば悠々とでも言えるほどの姿で——ピークを示すフラッグの下を通過した。
 本部通信を受けたブラスカが、山岳賞が間違いなくロンゾのものとなったことを知らせる。ここからは真っ向勝負だ。最小限の補給を行い、十数秒のラグを含めて巻き返すためのスプリントに移行する。補給担当のアシストがまずキノックに、それからジェクトとアーロンにドリンクボトルを渡して退いた。
 事件はその時起きた。ジェクトを追い抜きかけたキノックが、不意に大きくバランスを崩したのだ。幸い落車には至らなかったものの、あっという間にアーロンの視界から消える。
『攣った!』
 インカムから悲痛な叫び。キノックの気力より先に、彼の脚が限界を迎えたのだ。レースにはつきものの、ごくありふれたトラブル。この時チームメイトに出来ることはない。彼がリタイアに至らないことを祈るだけだ。
 それよりも重要なのは、ジェクトがすべてのアシストを失ったという事実だった。ゴールまで三キロメートル強、前方にまだロンゾの背中が見えているが、今すぐにスプリントに入らなければ置き去りにされてしまう。すでに退いた補給担当のアシストが追いつくのを待つ余裕はない。
 ——考えるまでもなかった。アーロンはドリンクボトルを放り捨て、渾身の力でペダルを踏み込む。道はやや傾斜しているものの、先ほどまでの坂に比べれば平地のようなものだ。
「俺が——俺が牽く!」
 その他にすべきことなど何もない。インカムから何かが聞こえた気がしたが、誰の声なのか、何を言っているのか認識することは出来なかった。ハンドルに覆い被さるように上体を前傾させ、目の前の背中を追い抜く。
 追い越す瞬間、ふたつの赤を見た。燃え上がる炎より深く、西の空を染める夕映えより熱く、噴き出す血潮より鮮やかな紅の双眸。眼窩に緋星を宿した男はその瞬間、確かに笑った。
 そこから先のことはほとんど覚えていない。競技を始めて以来、誰かを牽いた経験などろくにないアーロンだ。ただひたすらに速度を上げ、ロンゾたちを捕らえ、最後のアタックを仕掛けた。進路を塞ごうとするロンゾの巨体を奇跡的に交わし、ついに先頭に立つ。ただ己の後ろにジェクトがいることを、本能の領域で確信していた。
 ゴールフラッグが遠くの稜線に浮かぶ。フラッグの向こうで今日の勝者を待ち構えているはずの人々の歓声は、まだ聞こえない。左目の隅にロンゾの影がある。肺の限界まで息を吸い込む。あと何メートルだ。あとどれだけ走ればいい。ジェクト。行け、行ってくれ。
 そうアーロンが祈るのと同時に、どうっ、と空気が動いた。右半身を押し退けられる錯覚を呼ぶエネルギーの塊。巻き起こった陣風がアーロンの束ねた髪を躍らせ、そのまま前へ飛ぶ。
 ジェクトだ。獣が駆ける。コンマ秒の単位で最高速度を更新しながら、何よりも甘美な獲物、勝利の喉笛に喰らいつくために。
 肉食獣の尾のように曳航する赤い光を、アーロンは見た。遠い歓声。

 波乱に満ちた二日目は、ジェクトの勝利で幕を閉じた。彼は累計時間でも暫定一位に立ち、移籍後もその力にいささかの変わりもないことを証明してみせた。
 もうひとりのエースであるアーロンも、現在総合六位につけている。初日に無理をしなかったためもあるが、この先で充分に挽回可能だ。キノックも肉離れなどを起こすことなく、明日からも走れるということだった。
 チームブラスカはフルメンバーを維持し、三日目以降を順調に進めた。四・五日目のビーカネル島では砂塵巻き上がるサヌビアでアーロンが敢闘賞を授与され、監督ブラスカ——最愛の奥方がビーカネル島出身である——に面目を施す。
 そこからツアーは移動日を挟み、港街ルカでリスタートを切った。この日、沿道の観衆が振り回した応援パネルに接触した選手の落車に巻き込まれて、アシストのひとりが負傷。翌日のミヘンを走り出したものの、間もなくリタイアした。
『すまねえ、あとは頼んだぜ、アーロン』
「任せろ」
 インカムを通じて短く言葉を交わし、アーロンは好機を伺う。平坦なミヘン街道からキノコ岩街道、ジョゼ街道と進むコースは今レースの最長距離区間であり、アタックを仕掛けるタイミングは慎重に見定めなくてはならない。天気予報によれば後半に差し掛かる頃から雨となる可能性が高く、恐らくはそこがターニングポイントだろうとアーロンは考えていた。
 ガガゼトとルカで大きく貯金を稼いだジェクト——山岳賞を獲ったビラン=ロンゾは総合優勝争いからすでに離脱している——は、今日からしばらくは温存方針に切り替えていた。暫定二位の選手はアーロンとタイプの近い平地型で、売られた喧嘩をいちいち買っていては相手の思う壺だ。ジェクトの次の勝負どころは、トリッキーな隘路が起伏を伴って繰り返されるグアドサラムだった。
 幅の広い直線が平原を突き抜けるミヘン街道前半を終えると、打って変わって後半は崖から崖を繋ぐヘアピンカーブが続く。ジョゼ街道から幻光河へ至る分岐点に設定された今日のゴールまでの道中、最も激しい展開が繰り広げられる区間だ。
 未舗装の道は幅が狭く、レーサーたちは基本的に一本の隊列を作って走ることになる。しかし追い越しがまったく発生しない、というわけではなく、カーブ部分の「遊び」を利用すれば攻めのチャンスが生まれる。時速三十キロメートルほどの走行速度に対し、カーブ部分の平均走行距離はわずか十数メートル。まさに針の穴を通すような精度と、リスクを厭わぬ無謀な度胸とが要求される。
 加えて、この区間のルートは崖の上だ。当然安全柵は設置されているものの、他の選手に跳ね飛ばされでもすれば命の保証はない。グランドツアーの歴史において幾度となく繰り広げられた悲劇から、ミヘン街道は「人喰い街道」と綽名されていた。
 雨が降り出すが早いか、あるいは走り抜けるが早いか。危ういバランスで揺れていた天秤は、アーロンの、そしてあらゆる選手の祈りをよそに、ついに傾いた——降雨だ。
 ぽつ、と最初の雫に打たれたとき、アーロンを含むメイン集団はミヘン街道の中間に差し掛かっていた。崖上の一列走行を控え、先頭集団を吸収したところだ。
 天泣かとも思われた雨は、みるみるうちに大粒のザザ鳴りとなった。暗い空の下、集団のスピードが一段落ちる。ミヘンの砂は海が近いこともあり粒子が細かく、雨に濡れれば粘り気の強い泥になるのだ。推進に要求される力が強くなるのに加え、レース用の細いタイヤはいとも簡単に取られてしまう。まして、この先に待ち構えるのは人喰いの絶壁。慎重を期すほかなかった。
 隊列の誰かが派手に舌打ちをしたのが聞こえる。彼は適当なカーブでアタックをかけ、そのまま独走して逃げ切る作戦でいたのだろう。しかしこの天候ではそうも行くまい。今日はジョゼ街道に入ってからが競り合い、誰もがそう考えていたはずだ。
 しかし、その暗黙の了解に従わぬ者がいた——総合記録で首位のジェクトを追う、暫定二位の選手だ。
 隊列を一本に伸ばした集団の中、位置関係としては先頭から三分の一ほどのところにアーロン、その数名後ろに暫定二位の選手、そして最後尾から少し前にジェクトという構図だった。ぼたぼたと重い雨粒が顔や腕を打ち、視界が悪い。足元は跳ね上がった泥で汚れ、タイヤに纏わりつく砂と水が機敏な動きを阻害する。
 最後のヘアピンカーブに向けて、その手前の橋を渡り終える瞬間だった。敷かれた板の上で泥が滑り、アーロンの車体がわずかにバランスを崩す。立て直さなくては、と全身に力を込めた、その刹那。
『——アーロン!』
 ブラスカとジェクト、インカム越しの二人の声が同時に鼓膜を叩いた。傾いた頭のすれすれを何かが通り抜ける。右肩に激しい痛み。前後の選手の怒号、さらに上の崖から観衆の悲鳴。カーブの内輪ギリギリを、例の選手がドリフトしてゆくのが視界に入った。
 アタックしたのだ。この状況で。アーロンのスリップに周囲の選手が気を取られた、その隙を突いて。我が身はおろか、他の選手の危険も顧みずに。当の本人は投げつけられる非難を振り切り、一目散に逃げ切りの体制だ。
 ——このまま逃げ切らせてたまるか。必ず奴を抜いてやる。一瞬の利に溺れたことを後悔させてやる。
 カーブを抜けて立て直したアーロンは、制御不能な激情が己の裡に爆発するのを感じた。接触した右肩の痛みは鼓動と同期して暴れていたが、そんなものに構ってはいられない。キノコ岩街道に向けて広がりゆく道幅に合わせて集団が解け、アシストのひとりがアーロンの前に出ようとする。邪魔だ。退け。道を開けろ。怒りの命じるままに、恐らくはその通り声に出していたのだろう。左右を囲むアシストたちが顔を引き攣らせる。
 それを抑え込んだのは、崖下の旧道をチームカーで並走しているブラスカだった。
『アーロン!』
 ブラスカの怒号が響く。インカム越しでも冷酷ささえ覚える声に名を呼ばれた途端、頭から氷水をぶっかけられたようにアーロンの背筋が震えた。
『今日はこのまま走りなさい。少しでも加速してはいけない。アタックをかけたら今日できみは戦力外だ』
「……」
『アシストのみんな、頼んだよ。その癇癪坊やをちゃんとゴールまで連れてきてくれ』
 はい、とアシストたちの固い返答が聞こえる。アーロンは唇を強く噛み締めた。下唇に犬歯が刺さり、口の中に鉄の味が広がる。
『ジェクトも今日はそのままだ。彼が逃げ切ってもまだ貯金がある。グアドサラムで稼ぎ直せばいい』
『へーへー、了解。おっかねえ監督様』
『よろしい。……アーロン、きみの返事を聞いていないね。分かったかい?』
 ブラスカの物言いは、まさに利かん気の強い子供に言い聞かせるような調子だった。古い記憶が蘇る。アーロンが今よりももっとずっとどうしようもないガキだったころ、このひとに何度もこうして怒られた——いや、今だって結局、自分はどうしようもないガキなのだろう。
「……分かりました」
 それより他に言葉を持たず、アーロンはうめくように返した。接触した右肩がひどく痛んだ。

 翌日は休息日に充てられていた。長丁場となるグランドツアーでは、移動日に加えてレースなしの休日が設定される。風光明媚なリゾートとして有名な幻光河のほとりの宿泊施設は、この日は選手たちの貸切だ。
 右肩の検査を終えたアーロンは軽い昼食を済ませると、キノックに「しばらくひとりにして欲しい」と頼み、できるだけ人目から離れた川縁を選んで座り込んだ。幻光花を押し潰さぬように草を踏む。
 昨日ゴールしたところでは剥離骨折も危惧された肩だったが、幸い骨には異常なしということで、一同は胸を撫で下ろした。鎮痛剤と湿布を処方され、テーピングで対応している。一夜明け痛みは残るものの、明日以降の走行に不安はない。それよりもアーロンの気分を重くしているのは、昨日の己の振る舞いだった。
 感情に振り回されるのが自分の悪い癖だ。ほんの子供のころからそうだった。特に怒りに抗えない。年齢を重ね、ブラスカの指導を受け、チームの中心メンバーとなってからはずいぶんと手綱を御せるようになったと思っていたのだが、考えが甘かった。クラッシュしかねなかった焦り、接触された個人的な怒り、それだけならばまだしも、他の選手の危険がどうのと種類の違う憤りまで一緒くたにして、冷静さを完全に失ってしまったのだから。
 その上、自分を支えてくれるアシストたちに向かってとんでもない暴言を吐いてさえいるのだ。レース後に頭を下げて詫び、彼らも謝るようなことではないと言ってくれたが、それで済む問題ではない。
 草むらに胡座をかき、右肩を安静にするためにやや前傾する姿勢で溜め息をつくアーロンの横に、唐突に、そして図々しく座り込む男がいた。言わずもがな、ジェクトである。
「シケた顔しちゃってまあ」
「……やかましい」
 アーロンは一瞬、キノックの丸顔を恨めしく浮かべたが、直ちに考え直した。この男のことだ。誰がどう制止しようとはいそうですかと従うタマではない。キノックに向かって何故止めなかったと思うのは、それこそ逆恨みというものだ。
「ヘコんでんの、アーロンちゃん」
「ひとりにしてくれ」
「って言われたキノックがどんなツラしてたか知ってっか?」
「……」
「いやもうサイコーに面白い顔してたけど。今年下半期ベスト狙える勢い」
 チームメイトに向かってどんな言い草だ、と普段のアーロンなら突っ込んでいただろう。しかし今はとてもではないが、ジェクトの馬鹿に付き合ってやる余裕はない。かと言って彼を撤退させるのにも、自ら立ち上がり別の場所を探すのにも気力が足りない。
 アーロンはまた溜め息をついて、視線を幻光河に飛ばした。霞む川面の向こう、対岸が朧な水墨画のようだ。
「しょぼくれアーロンちゃん、ジェクト様とおしゃべりしようぜ」
「断る」
「おまえ、あっちの方で豚の丸焼きしてたの見た? どこのチームか知らんけど」
「知らん」
「ひと口貰ったけど脂がすっげえの。俺様も歳かねえ」
「……ジェクト」
「ん?」
「頼むから静かにしてくれ」
「断る」
「…………」
 ますます渋面を作るアーロンを見て、ジェクトは笑った。おまえのその顔もなかなかだな。
「年間トップ5狙えるぜ」
「要るかそんなもの」
 吐き捨てるように語気を強めたが、それも軽く流される。飲むか、と気安く差し出されたペットボトルは受け取っておいた。目にやかましいデザインのスポーツドリンクは協賛メーカーのものだ。ノンアルコールであったことは一応評価したい。
「肩は」
「問題ない。走れる」
「そうか」
 ロードレーサーにこの手の負傷は付き物だ。エースとして扱われる選手ならなおのこと。カーブを曲がり損ねてクラッシュするなど日常茶飯事だし、ゴール前の混戦から抜け出す際やラストスパートの一騎打ちでは選手同士がダイレクトにぶつかり合うことさえ稀ではない。運営医療スタッフもチームスタッフも外傷には慣れたもので、用意された鎮痛剤もドーピング防止規定に抵触しないものだ。
「まあ、明日明後日は無茶すんなよ」
「分かっている」
 ジェクトもそれ以上は重ねようとしなかった。口数の多い男だが、余計なことは言わない。話が終わったことに、アーロンは内心安堵した。
 幻光河から風が吹く。この季節、朝方は川上から吹き下ろす風は昼頃になると反対に川下から寄せるようになる。明日のルートに関しては、後半戦がやや向かい風になるはずだった。山岳ルートに強いジェクトなら、多少の逆風でも心配はいるまいが。
 いつの間にか自分よりもジェクトの調子のことを先に考えるようになっていたことに気づき、アーロンは居心地の悪さを覚える。左胸の熱さを思い出した。ジェクトの掌が無造作に触れた、あの温度。灼けつくような脈動を。
 しかしジェクトは、まるで別のものを見ていたようだ。そういやよ、と口を開く。
「ずっと訊こうと思ってたんだが」
「何だ」
「おまえのその髪、願掛けでもしてんのか?」
 同時にまた風が吹き、アーロンの後ろ髪を揺らした。真っ直ぐで硬い黒髪を伸ばし、後頭部でひとつに括っている。ロードレーサーには珍しい髪型であることは確かだ。
「これは……」
 アーロンは言い淀んだ。願掛けと言えばそうなのかもしれないし、意味としては少しずれる気もする。そのためらいをどう受け取ったか、ジェクトも首筋に手を当てて視線を逸らした。
「言いたくなきゃ別にいいが」
「いや、」
 言いたくないわけではない。今まで誰に打ち明けたわけでもないが、隠すほどの理由でもなかった。ただ、いざ話そうとすると気恥ずかしいだけだ。
「これは、監督が」
「ブラスカ?」
「前に——その、綺麗だ、と」
 口に出したらやはり恥ずかしかった。あくまでブラスカの発言を再現したに過ぎないが、それでも自分に対して綺麗だなんだと言うのに羞恥を覚える。聞いているジェクトがどんな顔をしているのか確かめる勇気もなく、幻光河の波頭に視線を固定して、ごまかすように続けた。
「監督が俺を拾ってくれた時に、そう言われた」
 まだ競技を始めてほんの数年だった。恵まれた体格と運動能力でそこそこの成績を出すアマチュアに過ぎなかったアーロンは、ある大会を終えた帰途でひとりの男に声をかけられた。精錬したての鉄のように青みを含んだ銀髪の、柔らかな空気を纏う若い男。彼は名をブラスカと名乗り、出し抜けに言った。私はきみのファンになってしまったよ。
「そりゃあまた、あいつらしいな」
「ああ……俺はそれを、馬鹿にされたと思って」
「何でだよ。ガキのころからおまえもおまえだな」
 十代半ばに過ぎなかったアーロンはいきり立ち、あんたと話すことなどないとその場を立ち去った。弁解すれば、あれはアーロンなりの自衛だったのだ。親を早くに亡くし養護施設で育ったために警戒心が強く、甘言を弄する不審者から距離を置くのが習い性となっていた。
 しかし数日も経たず、ブラスカは再びアーロンの前に姿を現した。しかも、当時所属していた学校のクラブを介してだ。お人好しの顧問ににこにこと紹介されては、アーロンも突っぱねるわけにはいかなかった。
 ブラスカはロードレース好きが高じて、大手スポーツメーカーの自転車部門で研究職に就いていた。業務上はフレームの素材改良などを担当していたが、彼の関心は車体よりもそれに乗る選手にあり、特許料などで得た余財を元手にチームを立ち上げようと準備を進めているところだった。
「なるほどな、スカウトってわけだ」
「結果としてはそうなったな。まだ存在もしていないチームだったが」
 アーロンに向かって、ブラスカは彼の計画の一切合切を披露した。立ち上げ準備から設立、選手とスタッフをどうリクルーティングして、何年までに何人を揃えるのか、どのレースでどんなタイトルを取るのか、スポンサーの出資比率をどこまで持っていくのか、等々。壮大な上に綿密な計画に、世間知らずのアーロンは圧倒された。抜け目ないことに、チームの正式な発足はアーロンがハイスクールを卒業する翌年に設定されていた。
 プレゼンテーションの締めくくりに、ブラスカは言った。きみが最初のメンバーだ。アーロンは答えた。まだ何も承諾していません。ブラスカはからからと笑い、いいや、と続けた。いいや、きみは承諾するよ。するべきだ。だって私はきみの走りに惚れ込んでしまったんだから。
「大した口説き文句だ、俺様もそこまで言われたことはねえぞ」
「競技歴も浅い小僧に何を、と思ったが」
 ブラスカは当代随一の人誑しだった。あの深い色をした両目で真っ直ぐに見つめられて、いつまでも抗い続けられる人間はそうはいないだろう。もうほとんど陥落しかけていたアーロンの背を最後に押したのは、ブラスカの「告白」だった。
『私のわがままだってことは重々承知だよ。でも私はきみの走る姿を観ていたい、一番近くの特等席で。きみはいい選手だ、もっと強くなれる。それはきみも分かっているはずだ』
 ここで彼はたっぷりと間を取った。そして、囁くように続けたのだ。
『けれど、きみは知らないだろう。全力疾走するきみの髪が流れるのが、どれだけ美しいか。どんなふうに輝くのか。それに世界で初めて気づいたのは私だよ』
 そうしてアーロンはブラスカの選手になることを決め、少しだけ髪を伸ばした。以来、今の長さより短く切ったことはない。
 そう話をまとめてジェクトを見返すと、彼はやたらと真面目な顔をしていた。
「……おまえ、どの意味で口説かれたんだ?」
「選手としてだ、当たり前だろう」
「断言できるか?」
「当時もうご婚約されてたんだぞ、滅多なことを言うな」
 実際、ブラスカがアーロンをそういう対象として扱ったことはない。アーロンはその辺りの機微に聡いわけではないが、ブラスカから向けられる情が歳の離れた友人に対する親愛に該当することくらいは保証できる。アーロンもまたブラスカを信頼できる指導者として、己を見出してくれた恩人として尊敬してきた。
 ジェクトは唇をおかしな具合にひん曲げて何かを言いたげにしていたが、アーロンがもう一度、馬鹿な邪推をするな、と釘を刺せば両手を挙げて頷いた。
「まあともかく、ブラスカの趣味がいいのは分かったぜ」
「何だそれは」
 風が吹く。幻光河の息吹は柔らかく、ブランケットを広げるように草木を撫でる。アーロンの髪が揺れる。舞い上がったその先端に、ジェクトの指が掠めた。
「俺も忘れられそうにねえからな、おまえの髪」
「は、」
 咄嗟に反応できなかった。息を詰めるアーロンを真っ向から見据え、ほんの呼吸ひとつ置いて、彼は笑った。
「ガガゼト。感謝してるぜ」
「ジェク、」
「おまえも気が済んだら戻ってこいよ。キノックがベソかく前にな」
 ジェクトはそれだけ言い置いて立ち去る。すぐに旧知の人間に出くわしたのか、背後でにぎやかなやり取りが始まった。アーロンはそのざわめきから隠れるように俯き、肩口から垂れた髪を握り締める。
 あんな笑い方をするジェクトは初めてだった。精悍な目を細め、矜持に満ちた唇をわずかに綻ばせる、あんな笑い方は。眩しいものでも見るような、出来の悪い教え子を諭すような、何かを押し殺すような、そんな。

 翌々日、グアドサラムのレースは実に見ものだった。長い雌伏の時を経て再び好機を得たジェクトの走りっぷりといったら、実況解説が揃って笑い出すほどのワイルドプレイの連続だったのだ。
『またジェクトが跳んだ! なんてこった、俺たちはモトクロスのレースを見せられてるのか?』
『こんなところでアタックを決める馬鹿はジェクトしかいない! こいつは王様でも、馬鹿の王様だ!』
 放送禁止ギリギリの悪態さえ飛び出す実況に沸く観衆に見せつけるように、ジェクトはかっ飛ばした。スタート時点ではあえてメイン集団の後方に位置したのも「演出」の一環だ。大樹の根のようにうねり跳ねる道のことごとくを征服し、隘路に尻込みするライバルたちを嘲笑うかのようにごぼう抜きし、スタートから必死に逃げを打っていた暫定二位——アーロンに接触したあの選手だ——を追い抜く時など、ゴールでもないのに拳を掲げさえしたのだ。大会規定で失格にならないのであれば中指を立てるくらいのことはしていただろう。
 最終的に、ジェクトは平地区間で失った貯金を補って余りあるタイム差でトップを維持。この快進撃に便乗する形でアーロンも後半で稼ぎ暫定四位に浮上した。一方、元暫定二位はあまりの展開によほど精神を削られたのか、ランク争いから完全に脱落する結果に終わる。
 しかし本日の真の英雄は、爆走を通り越して暴走の域に達したジェクトにそれでも追随しなくてはならなかった補給担当のアシストだったろう。ジェクトは開始前から「今日は牽引はいらねえ」と宣言していたため前を走る必要はなかったものの、さしもの暴れん坊でも補給は欲しい。なりふり構わず王様を追いかけ、ドリンクボトルやら補給食やらを献上し続けた彼は、満身創痍もいいところで一日を終えた。この選手の功績と献身は外から見ても明らかであり、この日の敢闘賞を授与されることになる。
 レース後のインタビューで記者たちの質問責めに遭ったのは、しかしジェクトではなかった。気持ちよく走ってご機嫌のジェクトがイエロージャージ片手にとっとと引っ込んでしまったから——ではなく、本来であればここでトップの座に躍り出るはずだった選手が他にいたからだ。
 彼はナバラ=グアド。その名と枯枝のような髪、大きな手とが示す通り、本日のステージとなったグアドサラムを本拠とするチームグアドのエースだ。スプリント型の多いグアド選手の中でも抜群の追い上げ力を誇り、逃げ切りを狙うライバルに背後から襲いかかるさまは「狩人」と恐れられている。
 ジェクトと同年代のナバラは、ロードレーサーとしては円熟期にある。これまで長きに亘り王の後塵を拝してきた彼が、今年こそは総合優勝をと意気込んだグランドツアー。その最たる見せ場が、よりによって因縁あるジェクトの独壇場となってしまったのだ。彼とて他の選手には比ぶべくもない怒涛の走りで総合タイムを五分も短縮し、表彰台を視野に収めてはいたものの、彼の慚愧と瞋怒はただごとではない。ゴシップ好きのインタビュアーたちも、マイクを差し出しながら思いっきり腰が引けていた。
「ナバラ、今日の追い上げはさすがだったね、その、」
「勝てねばタイムなどに意味はない!」
「ええと、ツアーも折り返しだけど、目標は——」
「ジェクトだ! あのふざけた男をこのままのさばらせておくわけにはいかんからな」
「あー、そうするとナバラ、明日の個人タイムトライアルは」
「つまらんことを訊くな、俺は二位になるためにここにいるわけではない!」
 こんな具合に敵愾心を炎上させるライバルを控えスペースのモニター越しに見ていたジェクトは——今日は一杯くらい許せよ、とブラスカを口説き落として手に入れた上等のスパークリングワインを片手に——、小気味よく鼻を鳴らした。
「だからテメエはいつまで経っても勝てねえんだよ、俺様に」
「……そういうことを言うから無視されるんだ、あんたは」
「痛くも痒くもねえわな」
 トップクラスの選手同士は、実はプライベートでは親しい友人というケースが珍しくない。ライバルとは互いの力量を認め合い、敬意をもって高め合うに値する存在なのだから、ある意味では当然のことだ。
 しかしジェクトとナバラの間に流れる空気は絶対零度より上がった試しがなく、今回のツアーでもジェクトはナバラに声をかけては無視されることを続けていた。チームブラスカの若手連中などは、何度無視されても挨拶を欠かさないその姿に「さすがジェクトさん、器が大きい」などと感心しているが、そろそろこの男の中身が見えるようになっていたアーロンは、あれは醜聞を漁るパパラッチへの牽制が半分、もう半分はただの嫌がらせではないかと考えている。何しろ、ジェクトを無視するナバラの顔といったら、地獄の獄卒でもここまでではないだろうと思わせるほどの形相なのだから。
 それからさらに二時間後、夕食のために向かった食堂の隅で、ブラスカがアーロンを手招いた。何かと思えば、彼のタブレット画面にはタブロイド紙のオンライン記事が表示されている。見出しはこうだ。
『暴走キング・ジェクト、見事仇討ちを果たす』
「……仇討ちとは」
「分かってるくせに」
「頼んでいません」
「仇討ちっていうのは往々にしてそういうものだよ、アーロン」
「そもそも俺は死んでいません」
「そうだねアーロン、明日の雷平原は元気にがんばろうね」
 平時よりもさらに朗らかな笑顔のブラスカが、その時ばかりは煩わしくてならなかった。

 今度こそアーロンの出番となった雷平原は、個人タイムトライアル形式でレースが展開された。
 この形式では、リタイア組を除く全選手がひとりずつインターバルを置いて出走する。スタートからゴールまでの所要時間を競う点は通常の一斉スタート形式と変わらないが、他の選手のすぐ後ろを追随する——つまり風避けにする——行為は禁止されており、この日ばかりはエースもアシストもない。己ひとりの力で道を切り拓かねばならず、またひとりひとりが時間差でスタートを切ることからライバル選手との時間差が直感的に把握出来なくなるため、走り切る体力だけでなく己を制御する精神力が要求される形式だ。
 グランドツアーでは、全日程のうち一日が必ずタイムトライアルとなる慣習だった。ここで各選手がいかに安定した走りを高レベルで継続できるかによって、総合優勝争いの勢力図は大きく変動するのだ。暫定順位が高くとも油断はできず、逆にこれを利用して一気に巻き返すこともできる。山岳エリアと並ぶ波乱のステージだった。
 この大一番を、アーロンは見事に制してみせた。チェックポイントのパネルを豪風で揺らし、落雷被害を抑える避雷針設置に生涯を賭したビリガン氏の記念碑に一礼しながら通過し、ミヘン街道とは打って変わって危ういところのない走りに終始。ブラスカが感嘆するほどの好成績を収めた。
「よくやったアーロン、素晴らしいよ! 言うことなしだ!」
 ゴールで待ち構えていたブラスカの抱擁を受け、清々しい疲労感を噛み締める。右肩もすでに鎮痛剤を必要とせず、このままどこまででも走れそうな気がしていた。
「結果出ました! アーロンさん、暫定三位です!」
 記録担当のスタッフが快哉を上げる。ジェクトも、二位との時間差をほとんど失っていなかった。チームブラスカのふたりのエースが、ついに同じ表彰台に登ったのだ。これを快挙と言わずして何としよう。
 ひと通りのセレモニーを終えて、選手たちは明朝までの短い休息に入る。専門スタッフのマッサージを受ける者、飲み食いを始める者、メカニックと共に機材の調整に余念がない者、それぞれのざわめきが広がるキャンプで、アーロンは自分の名を呼ぶ声を聞いた。
「アーロン、こっち来いよ!」
 ジェクトとブラスカが手を振っている。一帯は選手とその家族ら関係者が面会するスペースになっていた。呼ばれるままに近寄れば、ブラスカの傍らにはその妻が、ジェクトにも寄り添うようにひとりの女性が立っている。
 ——ああ、ジェクトの奥方か。
 ジェクトが常々雑談の種にしている通り、彼には息子がいる。子がいるなら伴侶もいるものだろう。しかしジェクトの話は息子ばかりだったから、アーロンも妻の存在を失念していた。
「今日は本当にすごかったわ、アーロン。おめでとう」
「ありがとうございます」
 ブラスカの妻から贈られるあたたかな言葉を、まずは素直に受け取った。ビー玉のように輝く瞳が印象的な彼女は優れたメカニックでもあり、チーム黎明期にはメンテナンスやチューンナップでおおいに世話になったものだ。ハイスクールを卒業するなりろくな資金もないチームに加入したアーロンを慮って、味も栄養価も素晴らしい食事を何度も用意してくれた。ブラスカとは違う意味で頭の上がらない相手だ。
「本日のヒーローのお出ましだな」
「ヒーローはよせ。……はじめまして」
「はじめまして、ジェクトがお世話になっています」
 にやにやとたちの悪い笑いを浮かべるジェクトを牽制するように、その奥方に会釈した。美しい女性だ。活発そうな第一印象のわりに物腰が粛々としているのは、この場に対する遠慮もあるのかもしれない。
「こっちが女房。で、こっちが愚息だ。ほれティーダ、挨拶しろい」
 ジェクトが片腕に抱き上げていた子供をぐいっと突き出した。母親と同じ、ジェクトより少し明るい栗色の髪。父親とは対照的な、大海を汲み上げたような青い瞳。アーロンは柔らかい表情になるよう努めながら、彼の名を呼んだ。
「はじめまして、ティーダ」
「……」
「ほら、はじめまして、は?」
「…………」
 母親に促されても子供は口を噤んだままだ。すみませんこの子人見知りで、と取りなす母に苦笑を返す。しかしティーダの両目はアーロンをじっと見つめているのだから、人見知りとはまた違うのかもしれない。
「しょうがねえやつだな、お坊ちゃんは」
「いや、いい。……ティーダ、三輪車には乗れるようになったのか」
 しばらく前にジェクトが話していたことを思い出して尋ねてみる。子供は存外素直にこくり、と頷いたが、被せるような母の言葉にびくりと顔を上げた。
「最近は自転車の練習もしてるのよね。補助輪付きだから四輪だけど」
「おかあさん! それないしょなんだよ、おとうさんに言わないんだよ!」
「おやおや」
 この世の終わりとばかりの甲高い声が響き、それをまともに受けたジェクトが目をひん剥いた。すかさずブラスカがティーダの頭を撫でる。
「大丈夫、お父さんは何も聞いてなかったようだよ」
「……うそ」
「本当さ。ねえジェクト」
「おう、周りがうるさくてよ。何か言ったか?」
「…………なんでもない」
 白々しい芝居ではあったが、ティーダも不承不承ながらに怒りを引っ込めた。ブラスカの細君が小さなチョコレートの包みを渡す。顔をぱっと明るくしてそれを受け取る姿など、実に他愛のない子供そのものだ。
 子供、でひとつ思い出した。
「今日は監督のお子さんは」
「ああ、ユウナはね、今日はお友達のバースデーパーティーなの」
 ブラスカの愛娘であるユウナも、ティーダとそう歳は変わらなかったはずだ。こちらにはアーロンも何度も会ったことがある。
「お父さんのチームを観に行きましょうって誘ったんだけど、お友達も大切だからって」
「お泊まりだってはしゃいでね。友達と一緒にテレビで観るとは言ってくれたけれど」
「なんだ、せっかくだからご令嬢にもお目通り願おうと思ってたんだが、フラれっちまったんじゃ仕方ねえな」
 フラれてない、とべそをかく真似をするブラスカに一同揃って笑い、それを汐にアーロンは立ち去ることにした。ここは居心地が悪い——その理由を、自分だけが独り身であることに押し着せる。
 ジェクトに抱えられたティーダは、まだアーロンを見つめていた。真っ直ぐな視線は真夏の太陽光線にも似て、アーロンを腹の底まで灼くようだ。さすがは親子だと苦笑せざるを得ない。居た堪れなさをごまかすように、慣れない手を伸ばして子供の柔らかな髪を撫でた。
「明日も観るのか」
「うん」
「そうか……おまえの親父は、強いからな」
「うん、知ってるよ」
「そうか」
 ブラスカの妻とジェクトの妻、それぞれに申し訳ばかりの会釈をして、アーロンはその場を離れた。明日に向けてメンテナンスを済ませているはずの車体の確認とは、ただの言い訳でしかない。

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