domestique’s high – 3

 それからの数日、ツアーは大きなトラブルもなく最終日に向かっていた。マカラーニャ、ベベルと続き、次第に走者の数を減らしつつもスタート地点であるナギ平原に戻る。往路ではガガゼトのナギ平原側を登り降りしたが、今度は御山の向こうに待つザナルカンド目指して、ガガゼトの右肩を越えるルートだ。
 再びのガガゼトでは、白地に赤い水玉のジャージを纏ったビラン=ロンゾに無謀にも勝負を挑む選手が現れた。弱冠二十二歳のアルベド族、ルムニクだ。「大兄」の敬称が一般ファンにまで浸透するほどのベテランと、プロデビュー数か月のルーキーによる一騎討ち。ザナルカンドを見はるかす急坂で繰り広げられたデッドヒートに、観客は大沸きした。結果は、わずか三秒差でゴールラインを切ったルムニクの勝利。躍進するアーロンと並んで、次世代の台頭を告げる選手となった。
 一方、最終日エボンドームの表彰台を目指すトップ陣の勝負は混沌を極めた。ジェクトはこれまでの貯金に加えて得意の山岳コースであったことも手伝い、今回の総合優勝をほぼ確実なものとしている。しかしアーロンを含む二位から五位、計四名の間には大きな差がつかず、最終日を控えてなお変動の可能性を残していた。
 グランドツアーにおいて、最終日は決戦の場というよりも選手たちの健闘を讃えるセレモニーの性質が強い。どの年もコースは同じ、ガガゼトの麓からザナルカンドの街に入り、目抜き通りを経由してエボンドームのトラックを七周するというものだ。
 ツアーそのものが長丁場であり、また平坦から山岳まで多種多様なコースを組み合わせるため、遅くとも最終日の前日までには表彰台に乗るべきメンバーが確定するものだ。しかしこれはあくまでも通例に過ぎない。数年に一度はエボンドームまで最終的な勝敗が持ち越されることもあり、今年がまさにその年となった。

 最後の選手キャンプに、ついに朝が訪れる。
 アーロンは割り当てられたコテージを出て、水場で顔を洗っていた。緯度の高いザナルカンド周辺は数十分前に払暁を迎えたところだ。山地特有の朝靄を透かして、ザナルカンドの摩天楼が影を浮かび上がらせている。
 山から引いた水は凝固点ぎりぎりの冷たさだった。顔の皮膚が強張るほどの鮮烈さに、意識が叩き起こされる。深呼吸。肺胞のひとつひとつが清浄な空気に洗われる。ざっと櫛を通した髪をいつものように括って、アーロンは身体の内側に沈み込むように瞑想に入った。
 爪先から順番に感触を確かめる。足首は柔らかく回転し、脹脛から大腿の筋肉に余計な緊張はない。股関節から腰、背中、胸部、いずれも骨と筋肉が正しく連動する。右肩は負傷したことを忘れるほどに落ち着いており、脳は無菌室のように明晰だ。
 ——走れる。これまでのどの日よりも速く、過去のどんな自分自身よりも力強く、走れる。
 ここまで来れば、順位争いそれ自体は瑣末な問題だった。誰を追い抜き、誰に蹴落とされたとしてもアーロンの矜持は一片も損なわれない。もし己が何かを恥じるのだとすれば、それはアーロンという男にしか出来ない走りを諦める時だ。ブラスカに見出されチームに支えられてここまで来た自分を、見失ってしまう時だ。
 そうでないならば、どうなっても構わない。
 伏せていた目を上げれば、他の選手たちもちらほらと姿を現していた。グランドツアー最後の一日が始まる。

 出走開始一時間前、最後のミーティングにて。ナギ平原でスタートした時には九人が揃っていたチームも、今や選手用のジャージを着ているのは五人だけだ。怪我や体調不良でリタイアを選ばざるを得なかった四人は、今はスタッフの装いでチームメイトを見守っている。
「楽しんでくれ」
 ブラスカからのメッセージは端的だった。楽しんでくれ。思うように走ってくれ。どうかつまらない怪我だけはしないように。
 それで充分だった。ジェクトが月桂冠と共にイエロージャージを勝ち取ることはほとんど間違いなく、チームとして総合優勝選手を擁するという以上の栄誉はない。設立から七年、チームブラスカにとっては大金星だ。
 その後を続けないブラスカに、しかしメンバーたちの戸惑い混じりの視線が集中した。チームとしては、そしてジェクトとしてはそれで構わない。しかしここにはもうひとりのエースがいる。アーロンという、表彰台に指先を掛けた若きエースが。
 無言のままにそう訴える面々を見回して、ブラスカは唇を綻ばせた。
「アーロン」
 空気が一気に引き締まる。一同のまなざしを受けてアーロンは背筋を正した。
「きみには楽しめとは言わないよ」
 アーロン。ブラスカの見出した男。まだ何も持たぬブラスカの招きに応え、育てられ、チームに支えられながらその実誰よりもチームを支えてきた男。
 融通の効かない男だ。堅苦しく、真面目で、妥協を許さない、堅物だ。楽しめと言われたって楽しみ方など知らない。真っ直ぐに、ひたすらに前を目指す走り方しか知らない。そんなことは他の誰よりも自分自身が理解していて、それと同じだけアーロンを知るブラスカは、だからこう言うのだろう。
「きみは走りなさい。誰よりも速く走りなさい。誰よりも前を目指しなさい」
 それがアーロンの走り方だ。それ以外を知らない。そうするより他にアーロンが呼吸する術はない。
「美しくなくていい。みっともなくていい。なりふり構わず、砂と血にまみれても、走りなさい」
 アーロンはブラスカを見た。それからスタッフたちを、リタイアしてしまったメンバーを、残るアシストたちを、そしてジェクトを。獣の心臓のように紅く輝く彼の瞳を。その双眸が深い笑みを刻む。唇が動き、声なき声でアーロンを呼ぶ。来いよ。俺のいるところまで来い。
「走りなさい、そうしてきみの在るべき場所に立ちなさい。いいね、アーロン」
「——はい」
 アーロンは短く応えた。整列開始まで十分を告げるベルが鳴る。ブラスカがひとつ手を打ち合わせた。
「さあ、行っておいで。エボンドームで待っているよ」

 平均時速四十キロメートル、最高速度では七十キロメートルをも超えるロードレース。コンマ一秒を稼ぎ出すために極限まで削ぎ落とされた車体と一体化し、絶妙なハンドリングでバランスを取り、目には見えぬ大気そのものの押し返す力に抗い、前を行く敵と敵の間隙を狙って呼吸を計り、撃ち放たれた弾丸と同じ流線の輪郭でペダルを踏む。生身の人間では到達し得ない速度に、剥き出しの肉体が挑む。それがロードレース競技だ。
 選手たちは理性と本能の狭間を揺れ動く。理性を手放せば、愛車は暴れ馬よりも獰猛に選手を振り落とすだろう。本能を恐れれば、手足はたちまち竦んで大地に釘付けになるだろう。灼熱と厳冷、相反する温度の手綱を制御しきってやっと、わずか一秒のタイムを削り出せる。
 アーロンがロードレース競技に魅せられたのも、きっと突き詰めればそんな理由だ。身体の衝動に任せる野蛮も、理知の統制に屈する怯懦も、アーロンが信念を預けるには足りなかった。必要なのは理性によって正しい指向性を与えられた情動、そうして突き進んだあとに残る轍が己を証明することだった。
 

 一斉スタート。毎日聴き続けた号砲もこれが最後だ。
 最終日恒例の長いパレードランを終えて、チームブラスカは首尾よくメイン集団の前方に陣取った。出走前のブラスカの激励にあからさまに奮い立ったのはキノックら古株のアシスト陣で、彼らはジェクトとアーロンどちらもを発射させるつもりで走っている。
 今日に限っては作戦も何もあったものではなかった。唯一決め置いたのは、最初のアタックのタイミングだけだ。石畳の敷かれた道を通り、ザナルカンドの目抜き通りに入るところで前方の逃げ集団を吸収する。あとは野となれ山となれで、アーロンのライバルである三人の選手とそのアシストたちも攻め手を緩めはしまいから、アタック合戦は避けられないだろう。いずれにせよアーロンは走るだけだ。ブラスカに命じられた通りに。
 ジェクトはジェクトで、彼は不慮の事故でリタイアするような羽目にさえならなければ優勝は間違いない。しかし、だからこそ最初にエボンドームのゴールラインを切るのは自分でなくてはならないと考える、ジェクトはそういう男だ。
「おまえの邪魔だけはしねえよ」
 何なら俺様がおまえを牽いてやろうか、などと笑っていた彼は、アーロンの斜め後ろを余裕さえ覗かせて走っている。つくづくも喰えない男だ。
 先頭集団では暫定三位の選手が逃げ切りの姿勢を見せているが、ザナルカンドに続く石畳は荒く、思うようなスピードは出せていない。じきに吸収できるだろう。暫定二位はアーロンの近くに、追い上げの得意な暫定五位——例のナバラ=グアドだ——はメイン集団のやや後方にいるようだ。
『今だ、アタック開始』
 ブラスカの指示が届いたのは予定通り、石畳が舗装路に変わる瞬間だった。チームで最も若いアシストが背を丸め、集団の外に飛び出す。競合チームのカウンターを上手くいなして、チームブラスカは最初のアタックを成功させた。
 これに二位の選手・ロップを擁するチームが続き、逃げ集団とジョイント。三位は振り切ろうと足掻いたが、先陣を切ったアシストに代わって前に出たキノックが見事に抑え込んだ。五位のナバラはまだメイン集団に残っている。彼が攻めてくるのはエボンドーム前だろう。
 目抜き通りは熱狂に包まれていた。幅五十メートルほどの車道を挟んだ沿道には立錐の余地もなく、悲鳴じみた歓声が押し寄せた。ここまで辿り着いた選手たちを讃え、祝祭の最後を飾る勝敗を求める声。スピラの各地で繰り広げられた健闘に惜しみない敬意を表しながら、その裏に滲む隠しきれない欲望がある。誰かが勝ち、誰かが負ける、ありとあらゆる競争の帰結たる悲喜劇を求める残酷な観衆の、怨嗟にも似た快哉。
 彼らを狂喜させる事件は、通りの中程で起きた。再び逃げ切りの構図を目指してアタックをかけた三位の選手が、焦りゆえかこともあろうに自らのアシストと接触してクラッシュ。巻き込まれぬよう慌てて進路を逸らすアーロンたちの視界の隅で、折れたフォークから外れた前輪が転がった。
 ロードレースには、不測の事態で勝敗が決まることをよしとしない風潮がある。ルールではなくあくまでも慣習だが、直接順位を争っていた選手がクラッシュした場合には、その選手が集団に復帰するのを待つのが正々堂々たるロードレーサーのあるべき姿とされていた。ゆえにアーロンら先頭集団も速度を落とし、三位の選手のチームメイトが抜ける——エースの車体にトラブルが発生した場合は、代替車が届くまでの時間を考慮し、同チームのアシストが自分の車体をエースに提供するのが定石だ——のを見送った。
 しかしほどなくして、クラッシュした選手の開放骨折による継走断念が伝えられる。このような形での決着は、本人やそのチームメイトのみならず、競い続けてきたアーロンにとっても望んだものではなかった。その落胆を振り払いつつ、当該選手のアシストたちが離脱した集団は再びペースを上げた。
 先刻のトラブルによって、後続集団との距離は縮まっていた。表彰台の二位と三位を争うのは、今やアーロン、総合タイムとしてはそれよりも二十一秒先を行くロップ、そしてわずか九秒差でアーロンを追うナバラ=グアドの三名となった。ひとりが振り落とされ、ひとりが台のより高い方に立つ、文字通り秒刻みの駆け引きだ。
 アーロンは同集団を走るロップを横目で見た。このまま同じ塊にいる限り、彼との二十一秒差は縮まらない。一方、後ろから追い上げるナバラからすれば九秒の差などあってないに等しい。眼前のエボンドームはすでに間近まで迫っている。打って出るべき時が来ていた。
「監督!」
 インカムに向かって許可を求める。すぐさまアシストたちが反応し、全身に力を漲らせる。
『いいよ、行きなさい!』
 ブラスカの言葉と同時に、アーロンたちは一斉に外側に膨らんだ。エボンドームまで一キロメートル半、瀬戸際のアタックだ。ドーム内のトラックコースに入るゲートでの追い越しは禁止されているため、思惑はライバルたちも同じだった。先頭と追い上げ、ふたつの集団が破裂したように疾走する。
 アシストの中で最も体格のよいキノックが内周に差し込み、アタック潰しのカウンターに対抗する。それに守られるように先陣に立ったのは、アーロンよりも三年歳上のメンバーだ。空気抵抗と闘うロードレーサーには不利な広い肩幅で、槍の穂先のように大気を裂く。それにわずか三十センチメートルの間隔で続くのはジェクト。横顔を汗で濡らしながら、その口許にはまだ余裕が見える。彼と車体を半分被らせるように最外周をカバーするアシストは、最初のアタックを成功させたチームの弟分。それにアーロンが続き、先程最後の任を終えた補給担当がしんがりを守る。
 時速四十八キロメートル。先頭が集団から一馬身抜ける。時速五十二キロメートル。キノックがライバルチームの先陣に並び、びたりと張り付く。時速五十五キロメートル。ジェクトが集団を完全に抜け出す。時速五十七キロメートル。チーム最年少のアシストがアーロンを牽いてさらに前へ。時速六十キロメートル。アーロンは自らの左半身に、ヒトではなく空気の壁を感じた。ビンディングで固定された足を踏み締め、さらにペダルを踏む。時速六十三キロメートル。左前方に切り込んでいた斜めの隊列がいま、直線に整った。
『よくやった! そのまま走れ!』
 ブラスカの賞賛と共に、世界が音を取り戻した。アタック成功。最も速くエボンドームに突入したのは、チームブラスカだ。
 キノックと補給担当が最後尾でライバルたちを牽制しつつゲートを抜けた。スケートリンクのように滑らかなトラックが広がる。これを今から——何周するのだったか。七周、あるいは九周。どうでもいい。止められるまで走ればいい。
 走るだけだ。他にすべきことなどない。それ以外に考えるべきことなどない。走るのだ。誰よりも速く。誰よりも前を目指して。美しくなくとも、なりふり構わず、砂埃と血とにまみれても、ただ走る。心臓は走るために脈打ち、気管は走るために呼吸し、網膜は走るための進路だけを映し、筋肉は走るために収縮する。走るためにアーロンは生きている。たった今、この瞬間に。
 一周目を終える瞬間、観客席からひときわ大きな歓声が上がる。ドームに響く実況。
『アタックだ! ナバラ=グアドがついに追い上げ始めた!』
 来た。距離にしてトラック半周強の差を、一気に詰める算段らしい。
『二位のロップを捉えた、速い、ナバラ=グアド、今ロップに並び、抜いた! しかしロップも許さない、ロップのカウンター!』
『——みんな聞こえるかい。ロップとナバラの潰し合いだ』
 インカムがオンに切り替わり、ブラスカの声が届く。彼はチームに先んじてサポートカーでドームに入り、すでにインフィールドで戦況を見守っていた。
 キノックら三人のアシストは、両選手の競り合いに巻き込まれぬようすでに退いていた。残るはジェクトとアーロン、そして今ふたりを牽いているアシストのみだ。二周目が間もなく終わる。
『次の周回が終わったら、ジェクト、アーロン、あとはきみたちの自由に走りなさい』
 それはすなわち、トラック四周分のスプリントを意味する。スプリント開始と同時にアシストはレースを離脱し、そこから先、エースの道を切り開くのはエース本人しかいない。
『おう』
「はい」
 ジェクトに続けてアーロンが短く——もはやこれ以上は喋れない——応えて、最後の通信が終わった。同時に実況が叫びを上げる。
『ナバラまたアタック! ロップはどうだ、追いつけない、ナバラついにロップを千切った! ロップが落ちた! ロップ無念!』
 数百メートルの背後で今、ひとりの選手が表彰台に立つ資格を手放した。三周目。アシストがさらに速度を上げた。人体の限界に至る全力の無酸素疾走。彼はこの周回にすべてを賭ける。ジェクトを、アーロンを、誰よりも高く飛翔させるための発射台になる。
 ジェクトがひときわ強く踏み込んでカーブを曲がった。ペダルがトラックに擦れるほどの傾斜で内輪のぎりぎりを駆ける。数十センチの車間を空けてアーロンも続いた。
 スプリント。カーブの勢いを殺さぬままジェクトが最前に出る。大きくコースアウトしたアシストの掲げた拳を背に、時速六十五キロメートルの壁を超える。
 その刹那、アーロンは首筋を冷えた指に撫でられたような錯覚に陥った。獲物を逃すまいとする捕食者の意図が絡まる。生存本能をさえ脅かす恐怖に、鼓動が大きく跳ねる。右目が静謐なまでの影を見る。
『ナバラ止まらない、ついにアーロンを捉え、今アーロンに並んだ! グアドの狩人、最強のスプリンターからチームブラスカは逃げ切れるのか!』
 アーロンは両目を見開いた。奥歯を割れるほどに食い締め、ドロップハンドルを握る手が震える。見るな。横を見るな。前だけを見て走れ。
 額から転げ落ちた汗のひと雫が視界をわずかに滲ませた。拭う余裕などどこにもない。右のハンドルがナバラの左ハンドルと接触し、互いに車体を揺らす。
 スプリントの競り合いは、物理面よりも精神面の勝負だ。天性のスプリンターと呼ばれたナバラ=グアドの恐ろしさは、その強靭なバネに支えられた瞬発力と軸の安定感のみならず、「狩人」の名に相応しい威風だった。尊大なまでの凄みで敵の心胆を寒からしめ、わずかでも畏縮した隙を突いて抜き去る。
 同世代にジェクトさえいなければ、「王」と呼ばれていたのはきっとナバラだった。ジェクトも過去に幾度となく彼とデッドヒートを繰り広げている。今回もそうするのだろう。ジェクトと直接渡り合い、たとえ総合優勝は獲得できなくとも、最終ステージの勝利だけはもぎ取るつもりでいるのだろう。グアドサラムの借りを返すために。
 酸欠で不明瞭な思考に、その一点だけがやたらはっきりと浮かび上がった。そうか、こいつは俺のことなど気にも留めないのか。こいつにとって俺は、せいぜいがジェクトに手を伸ばすための踏み台に過ぎないのか。
 ——ふざけるなよ。
 その激憤は、ほとんど妄想に基づく言いがかりでしかない。それゆえに御し難く、アーロンは一瞬、ブラスカの言葉を忘れる。ナバラを打ち負かさなくてはならないという怒りに支配される。他に何も見えなくなる。手を伸ばせば届くほどの距離を走る、ジェクトの背中さえも。
 ナバラは自分よりもさらに大柄だが、体幹で劣るとは思わなかった。車体を傾け、俗に「殴り合い」と言われるぶつかり合いを挑もうとした、その瞬間。
「よお、アーロン!」
 何かが宙を舞った。黒くて小さな、あれはインカムだ。誰の? ——ジェクトだ。
 ジェクトの声がする。彼の喉から出てアーロンの鼓膜を直接震わせる、王の肉声。目の前でインカムを放り捨てて、彼が笑う。深海から飛び上がったかのように意識が開く。いつの間にか三人がほとんど横並びになっていた。
『おっとジェクト何か叫んでいるぞ、どうした?』
『まさかトラブルか? いや、監督のブラスカが……あれは爆笑してるぞ?』
 困惑する実況アナウンスなど、アーロンの耳にはまるで入らなかった。ジェクトがアーロンを呼んでいたから。
「頼むぜ、余所見してくれるなよ」
 アーロンは王の声を聞く。あの双眸の光を追う。自らの熱で焦げて燃え上がる血の色。曳航する真紅の傲岸な輝きに導かれる。
「『俺と』勝負しようぜ、アーロン!」
 風が吹いた。時速六十五キロメートルの走行中には決して感じ得ない追い風は、間違いなく錯覚だったのだろう。だとしてもアーロンは確かに背を押されたのだ。ジェクトの声に。あまりにも馬鹿げたその言葉に。頑是ない子供のような、その笑顔に。
 アーロンも笑った。笑ってインカムを——ブラスカの馬鹿笑いしか聞こえない通信機を——むしり取る。
「——受けて立つ!」
 声は届いていなかったかもしれない。喉は渇き切り、肺胞はひとつ残らず走るために働いていたからだ。だが想いは伝わった。交錯する視線、ほんの須臾の間笑み交わしたふたりは——同時にペダルを踏み込んだ。
『チームブラスカ、ダブルエースが同時に仕掛ける! 残り三周!』
『今年はどうなってんだ、もうメチャクチャだ!』
 ドームを包む歓声は今や悲鳴そのものだ。半球に反響する実況は音割れを起こし聴く者の平衡感覚を失わせるが、アーロンとジェクトにとってはただ愉快なBGMでしかない。
 ぴったりと並んで車体ひとつ分前に抜けたとき、背後から恫喝の唸りが響いた。
「ふざけるな……!」
 ナバラ=グアドはおかんむりだ。ほぼゼロ距離で進むジェクトとアーロンの間にあえて前輪を突っ込むように襲いかかる。常人ならば、平静な神経ならば、それだけで震え上がりかねない残忍な荒い呼吸。しかしアーロンには、今はそれさえも心地よい追い風にしか感じられなかった。
『ナバラが斬り込む! グアドの誇りナバラ、キングの視界に入ろうと必死だ!』

 ああ、そうだろう。そうだろうさナバラ、おまえの敵はジェクトしかいなかった。おまえはジェクトに勝つために走ってきた。一族郎党に見守られておまえが錦を飾るはずだったホームグラウンドを蹂躙したジェクトだけを、おまえは狙っていた。
 でももう駄目だ。ジェクトはおまえの敵だろうが、おまえはジェクトの敵じゃない。ジェクト、スピラの王。俺たちの王。王に歯向かう敵などいない。王はすべてを踏みしだき、あらゆる天嶮を飛び越え、遥か高みに君臨する。誰よりも強く、それゆえに孤独な誇りを抱く王に必要なのは、敵じゃない。
 そうだろうジェクト。おまえはずっと独りだった。独りで「そこ」に立っていた。おまえは待っていた。王と讃えられながら、おまえを見世物のように遠巻きにする群衆に背を向けて、ただひとつの存在を待っていた。
 今ならそれが分かる。おまえが何を待っていたのかを。

『残り二周! ナバラまたアタック、まだ喰い込めない!』
 アーロンは笑う。残念だったな、ナバラ。さあ、退くがいい。ここはおまえがいていい場所じゃない。ジェクトが求めたのはおまえではなかった。
『ジェクトとアーロン、さらに加速だ! 時速七十四……五、七十五キロメートル! こいつらもうヒトじゃねえ!』
 ひどく身体が軽かった。限界を訴える筋肉の苦鳴も、破裂しそうな肺の痛みもない。正面から押し寄せているはずの空気抵抗さえ消え失せてしまったようだ。追い風の錯覚さえ遠く、この瞬間、ふたりは風そのものになる。ジェクトとアーロンは今、一陣の颶風として真空を生む。
 どこへでも行ける。どこまででも走れる。終わらないでくれとさえ思う。この身体が無数の塵に散りゆくまで、どうかこのまま。
『ラスト一周! ここでナバラ——』
『ナバラ=グアド、ブレーキ! 完全に脚が止まっている、前代未聞のデッドヒートから狩人がついにドロップアウトだーッ!』
 至高のランナーズハイ、その絶頂にアーロンは酔う。ジェクトは俺を選んだ。ジェクトと共に走れるのは俺だけだ。俺だけがジェクトの求めるものになれた。だからこれは俺のものだ。王は俺のものだ。たった今、この瞬間だけだとしても。
 心臓を絞り上げるような歓喜、脊椎が溶け出すほどの法悦。ああ、終わってしまう。アーロンの脚が動きを止める。終わってしまう。ジェクト。トラックに引かれたゴールラインの白が無情に光る。終わるな。終わりたくない。ジェクト。どうかこのまま俺を走らせてくれ。どこまででも連れて行ってくれ。おまえのいる高みへと、俺を。
 頭ひとつ分遅れたアーロンを、ジェクトが振り返った。ふ、と唇を綻ばせて笑う。同じ目を見たことがある。幻光河のほとり。この髪を掠めた指先。

「——仕方ねえ奴だな、アーロン」

 身体を起こしたジェクトが、その左手を伸べた。ハンドルと一体化していたアーロンの右手を解き、引き寄せる。一瞬のランデヴー。
 インフィールドで両腕を突き上げるブラスカの姿が見える。飛び上がるスタッフたち、観客のスタンディングオベーション。絶叫するアナウンス。
 あまりに短すぎる慣性走行の終わりに、アーロンは己の頬を伝うものを感じていた。辿り着いた終わりは、抱えきれぬほど大きな喜びと、呑み下せぬほど鋭い痛みとをアーロンに刻んだ。

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