domestique’s high – 1

・現代ロードレースAUです。各地の位置関係は原作のスピラを参照しています。
・ロードレース関係の知識がほとんどない人間が書いています。リアリティチェックは行っていません。現実のロードレースに即さない描写があっても見逃してください。

 

 その男は、かつて「王」と呼ばれていた。
 浅黒い肌を纏った身体は、鉄のように組み上がった骨と岩から削り出したように精悍な筋肉に覆われている。ロードレーサーとしてはいささか過剰にも見えるその鎧は、しかしひとたびペダルを踏み込めば地球上の誰よりも風に調和した。ダウンヒルハンドルに双腕を添え、カーボンフレームの車体と一体となって疾るその姿勢は、獲物を追う肉食獣にも、あるいは大海を駆けながら同族を呑み喰らう嘴魚にも喩えられた。
 男は誰よりも速かった。平地も山岳もお構いなくタイムを更新し続け、シングルデイレースだろうがステージレースだろうが知ったことではないという顔で表彰台の頂上に君臨する。得意とするのは激坂とスプリント。急勾配の登り坂、苦悶に顔を歪ませる大集団の中ほどから、ひとりだけ追い風でも受けているかのように王者が踊り出す、その瞬間を誰もが待望していた。
 男は誰よりも強かった。スピラの島々を周るグランドツアーで彼が重ねた総合優勝は累計八回、そのうち後の六回が連続優勝。この記録は彼が初めて表彰台に乗ってから二十年が経とうとしている今でも破られてはいない。全国選手権の優勝回数も史上最多であり、優勝者に許される五色のストライプサインをいちいちジャージに縫い付けさせるのが面倒だからと、車体のスポークにそのままペイントしていた。現役期間に彼がそのペイントを剥がすことを強いられる日は、ついに訪れなかった。
 男は誰よりも傲慢だった。リーダージャージを取っ替え引っ替えできるほどの戦績を上げ、個人総合成績第一位に許されたイエロージャージにはもう飽きたと嘯き、そのくせ他の色——敢闘賞の緑、山岳チェックポイントの通過順に与えられる赤い水玉模様、そして「新人賞」に該当する白——のどれをも指して「黄色じゃねえならどうでもいいわな」と鼻で笑う。最終ステージにおいて彼に渡されるドリンクボトルには一足先に酒が入っているというのも、実際のところただの噂というわけでもなかった。
 しかし、男は誰よりも真摯だった。シーズンオフには遊興放蕩の限りを尽くすと批難されながら、誰よりも厳しいトレーニングメニューを己に強いた。優勝賞金はロードレース界の慣習に従ってチームメンバーに均等に山分けしたあと、自分の取り分の多くをスタッフたちを労うのに使った。ドーピング検査はいつでも疑いようのないほどのシロ、メディア露出が激しいのもひとえにスポンサー料を稼いでチームに還元するためでしかなかった。
 男は王だった。己を王と呼び、観衆に、マスメディアに、ライバルたちにさえ王と呼ばれ、ゴール手前で集団を置き去りスプリントを決める勇姿、表彰台で月桂冠を戴くその輝かしい表情は、紛れもなく王者のものだった。
 そう、男は王だった。王として君臨し、王のまなざしで睥睨し、王の威風で駆け、王の誇りと共に凱旋する。

 その男は、名をジェクトと言った。

 その当時、ブラスカの創立したチームは発足間もなく、何もかもが足りなかった。人数はグランドツアーの登録人数ぎりぎり、設備も多くが選手やブラスカの持ち出しで、チームとして際立った実績もなかった。ともすれば、伝統ある学生チームの方がまともな環境だったかもしれない。
 トレーナー兼研究者としていささか名を知られていたブラスカの尽力とコネクションによって、チームは奇跡的にグランドツアーの出場資格を得た。選手たちは必死で準備を整え、アーロンをエースとする体制を組んで出場した。
 たまたま世代交代の本格化する直前であったことが幸いしたのだろう、アーロンは二十五歳以下の選手に与えられる最優秀若手選手賞を勝ち取り、一年間ユニフォームに代わって白いジャージを身につける権利を得た。チームは歓喜に踊り狂い、アーロンも誇らしく思ったが、ブラスカはその喧騒を眺めながら何かを思案しているようだった。
 グランドツアーから数か月後、ブラスカによってチーム全員が招集された。アーロンがホワイトジャージを得たことを契機に新たなスポンサーを獲得、拠点をベベルからザナルカンドに移し、トレーニング環境も次第に整い始めている。アーロンをはじめとするメンバーはみな若く、経験には欠けるものの士気は高い。前途は洋々だった。
 雁首揃えるメンバーたちの前に現れたブラスカは、ひとりの男を伴っていた。鋼のように強靭で、獣のようにしなやかで、脈打つ心臓と同じ色の瞳を持つ男。
「紹介しよう。今日から私たちの仲間になる、ジェクトだ」
 知らないひとはいないと思うけれど、と付け加えたブラスカの言葉など、誰も聞いてはいなかった。驚愕とも感嘆とも悲鳴ともつかない声が巻き起こる中、アーロンはただ呆然と、その男のふてぶてしい顔を見つめた。
 ジェクト。すでにグランドツアーで前人未到の六度の優勝を重ね、今年で四連覇を果たした男だ。ツアーに先立って開催された個人タイムトライアルの大会でも勝っている。ロードレース関係者はもちろん、一般人にも広く名を知られたスター選手が、何故ここに居るのか。
「きみからもひとこと頼めるかな、ジェクト」
 ざわめきはあえてそのままに促すブラスカに応えて、彼は鷹揚に頷いた。
「よお、ジェクトだ」
 腕組みだけは解いたが、それでも不敵な空気をまるで和らげない目で、ジェクトは聴衆をぐるりと見渡す。さざめきはぴたりと止んでいた。
「細かい話は抜きだ。俺は勝つためにここに来た。勝つためにここにいる」
 誰もがジェクトを見つめていた。ジェクトの声に耳を傾け、彼の表情の機微を追い、どんな言葉も取り逃すまいと意識を張り詰めていた。その場にいた誰もが、アーロンさえも。
「俺は確かに特別だが」
 ちっとばかしな、と冗談めかしてみせるその口角から牙が覗く。『彼には特別なものを感じる』とは、ジェクトが初優勝を成し遂げたツアーを総括した解説者の感嘆だ。それを自ら引用する狡猾なまでの自負が、当時は極めて沸点の低かったアーロンの血液をいきおい波立たせた。
「それだけで勝てるもんじゃねえ、俺たちのいる世界は。そうだろ?」
 何人かが糸で引かれるようにこくこくと頷くのが、アーロンの視界の隅に入った。
 不愉快だ。何故そうも従順でいられるのか? 常勝軍団と謳われるほどの強豪チームに所属し、押しも押されぬ名声を得た男。優勝者に許されたイエロージャージを着慣れた男。こちらはようやっとスポンサー探しに汲々とせずともよくなったばかりなのに対し、この男ときたらスポンサーの方から頭を下げて提携を申し出るほどだと言われている、そんな奴が何故、ここにいる? 当たり前のような顔をして、何故みな揃って奴の言葉に耳を傾ける?
「俺はな、」
 アーロンの憤りなどつゆ知らぬジェクトは、そこで一旦言葉を切った。メンバーたちは最早、呼吸さえまばたきさえ止めて続きを待つ——玉座に座する、王たるべき男の言葉を。
「てっぺんが見てえ。一度じゃ足りねえ、何度だって見てえ。誰にも譲りたくねえ」
 なあおまえら知ってるか、てっぺんからの眺めってやつを。そいつがどんなもんか。どんだけいいもんか。
「俺はてっぺんが好きだ。だからおまえらにも見せてやる。てっぺんから見た世界がどんだけすげえか、おまえらにも見せてやるよ」
 アーロンは拳を握り固めた。これ以上は我慢ならなかった。これほどの傲慢を、これほどの不遜を、許してはおけない。しかし一歩を踏み出すより、ジェクトが高らかに腕を掲げる方がわずかに早かった。
「一緒にてっぺん見に行こうぜ、俺と!」
 歓声。すべてがこの男に支配される。彼はすでにして王であり、絶対的なカリスマだった。誰もが喜び勇んで彼の前に膝を折る。ジェクト、と彼を讃えるシュプレヒコール。
 この瞬間、アーロンだけが王の魅了を逃れ、あるいは呑まれることができず、ただ独りでそこに立っていた。洪水に流されるようにみなが興奮に身を委ねる中、アーロンだけが取り残されていた。行きどころのない憤激を泥濘に突き立てたまま。


 場が解散しアーロンは即座にブラスカを問い詰めたが、当然のことながらのらりくらりと交わされて終わった。ジェクトが強豪を足抜けしてこんな新興チームに移籍したわけも、ブラスカがどのような経緯で彼を受け入れた——あるいは引き抜くことに成功した——のかも、結局語られぬままだ。
 翌日からのトレーニングに、ジェクトは存外真面目に姿を現した。ブラスカからは当面はアーロンとジェクトのダブルエースで座組を作る旨が指示され、それによってアシストメンバーたちの間にいささかの緊張が走る。アーロンの耳目の届かぬところでアシストたちが「ジェクトとアーロンどちら派か」と話し込んでいることは承知していたが、いちいち目くじらを立てればとんでもない恥をかくことは明らかだ。
 ジェクトは誰かに媚びを売ることこそなかったものの、とかく人懐こくチームにもすぐに馴染んだ。かのスター選手との接触を尻込みしていたメンバーたちともあっという間に距離を詰め、いつの間にかジェクトの「シンパ」が増えていく。彼にはティーダという名の幼い息子がおり、同じように子を持つ面々とは特に打ち解けるのが早かった。
 実際のところ、ジェクトは単に愛想がいいだけではなく、若きチームのよき先達でもあった。トレーニングメニューの改善、役割分担の明確化、テクニシャンや栄養士のような優秀なサポートメンバーの何人かもジェクトを慕ってやってきたのだ。彼の参画によって、チームブラスカは一皮も二皮も剥けたと言える。
 アーロンに対しても、ジェクトはいたってフラットに接した。アーロンの態度をいちいちつつくような真似はせず涼しい顔でいたが、ロッカールームでアーロンの隣を陣取るなど「歩み寄り」の気配を覗かせてもいた。それでもアーロンはジェクトとの距離を保ち、邪険な真似をしたことも度々だっただろう。
 この危うさばかりを孕む均衡は、次のグランドツアーを二か月後に控えた選手権で大きく動揺した。

 ロードレースは個人単位で記録が残るとはいえ、実際のところは団体競技だ。選手がひとりずつインターバルを置いて出走しゴールまでの所要時間を競う個人タイムトライアルばかりは話が別だが、そうでなければどのようなレースでも、エースと呼ばれるひとりの選手を勝たせるため、同チームに所属する他の選手たちはアシストとなってエースの道行きを文字通り支援する。
 アシストが集団の先頭に出て空気を掻き分けエースの走行疲労を軽減する行為を指して、牽引する、平たくは「牽く」という。牽き手はレース中に渡り鳥の群れのごとく交代するのが常だ。その他にも、レース中の補給——数百キロメートルを走り続けるロードレースでは、水分だけでなくエネルギー補給も欠かせない——や他チームの牽制など、アシストの果たす役割は大きい。彼ら彼女らは自らの成績を犠牲にして、時にはリタイアさえ躊躇わず、エースを表彰台に乗せるために奮闘するのだ。
 ダブルエース体制といっても、二人のエースをどちらも勝たせようとするわけではない。レースの進行に合わせてより調子のよい方、より好成績を狙える方を見定め、最終的にその日のエースはひとりに決まる。そうでない方は、中盤から終盤にかけてアシスト的役割に移行するか、あるいは単にレースから離脱するのが常だった。表彰台の頂点に上がれるのはどう足掻いてもひとりであり、チームあたり最大九人までしか登録できない公式戦では二人のエースの面倒を同時に見る余裕はない。
 シングルデイレースの当日、アーロンは極めて快調だった。入念なコンディション調整が功を奏し、本来得手ではないアップダウンの激しい区間も実力以上の走りが出た一方、ジェクトはやや精彩に欠けた。体力温存に努める中盤では右大腿部に手を置き、さするような動きは何らかの不調を示唆している。
 状況に鑑みれば、その日のエースはアーロンとなるのが妥当だった。インカムからブラスカの特段の指示がないのも後押しし、最後にアーロンを押すが自明であろうと判断したアシストたちも走りつつ陣形を整え始めた。
 ——しかしジェクトはなかなか退かなかった。彼がエースポジションを離脱したのは、最終ゴールのわずか三キロメートル手前に差し掛かってようやくのことだった。
 ゴールするなりアーロンはジェクトに喰ってかかった。ジェクトが退くのが遅れた影響で隊列が乱れ、通常一キロメートル弱に収まるはずの無酸素全力疾走区間は一キロメートル半にも及んだ。競合チームを必死に抑え込みつつ発射台となったアシストたちはもちろん、それに押し出されてゴールラインを切ったアーロンは極度の興奮状態に陥っている。滝のように流れる汗でジェクトの胸倉を掴んだ指が滑ったのにも気づかない。
「何を考えている!」
 一方のジェクトは早くも呼吸を落ち着け始めていた。先頭集団に残りはしたが、最終的にアーロンに先を譲ったため体力が残ったのだろう。彼はジャージの袖で額の汗を拭い、憎らしいほど飄々としていた。
「何が?」
「どうして退かなかった!」
「退いただろ」
「遅すぎる! あんたのせいで陣形が崩れたことくらい分かるだろう!」
 優勝を決めるや否や口論を始めたふたりのエースを、チームのメンバーは固唾を呑んで見守った。他チームや運営のスタッフ、観衆までもが好奇の視線を遠慮なく投げて寄越す。
「あんたは——ッ!」
「はいそこまで」
 ぐらりと視界が傾いで、アーロンはその場に頽れた。一瞬のブラックアウトから覚醒すると、監督たるブラスカがしゃがんだ膝にアーロンの頭を乗せて酸素ボンベを押し当てている。無理もない、長距離スプリントの直後にあれだけの大声を出せば誰でも倒れようというものだ。
「みっともない真似をしないでくれ、ふたりとも。公衆の面前だ」
「俺もかよ」
「きみもだよ。……アーロン、担架が必要かな」
 いいえ、と絞り出すように答えて、萎えた手で酸素ボンベを受け取った。脳そのものがぐらぐらと揺さぶられるような不快感を無理矢理に呑み込んで、ゆっくりと身体を起こす。チームスタッフが慌てて背中を支えに来た。
「表彰台にはアーロン、きみが立つんだ。分かっているね?」
「……当然です」
「よし、表彰式までまだ時間はある。準備を頼んだよ」
 いつの間にかジェクトの姿が消えていた。さっさと控えスペースに引っ込んだのだろう。アーロンも、鉛よりも重い身体を気力だけで持ち上げた。
 表彰式後、メディアインタビューに応じたジェクトは——電撃移籍からまだ数か月しか経っておらず、彼は依然として注目の的だった——ゴール前の不可解な行動の理由を問われても泰然としていた。
「ま、作戦だ。確認してえこともあったしな」
「作戦というと……?」
「そいつぁ話せねえ、何しろ作戦なんでね」
 とおどけて見せながら、二か月後に迫ったグランドツアーに向けて策があることを仄めかす。
「今度のツアーでは、」
「おっと、こっから先は有料だぜ」
「いくら払えばいいんだい、俺たちのスター」
「そうだなあ、うちのグラウンド整備から始めてもらおうか」
 インタビュアーたちを煙に巻くだけ巻いて、ジェクトは鮮やかに会場を後にした。

 数日の休息期間が明けて訓練所で顔を合わせたアーロンとジェクト、ふたりの間に張り渡された緊張感はまるで和らいでいなかった。そのくせどちらもが定位置を譲ろうとしないので、ロッカールームの空気は最悪だ。——ということを承知の上で穏やかな微笑を崩さない我らが監督のことを、恐らくはジェクト以外の全メンバーが恨めしい目で見ている。
「おはようみんな、選手権お疲れ様。悪くない展開だったね」
 あまつさえそんなことさえ言い始めるものだから、ある者は目を剥きある者は耳を疑い、その中で平然としているのは大あくびを隠しもしないジェクトだけ。グランドツアーシーズンの始まりは波乱含みだ。
 ブラスカは、ダブルエース体制は撤回しない、と宣言した。しかし、と抗議の声を上げかけるアーロンを目配せひとつで制し、傍らに控える分析スタッフから資料を挟んだバインダーを受け取る。
「さて、今回、チーム全体として平均時速が上がったのは認識しているね?」
 事実だった。チーム平均もさることながら、そのうちで誰よりも速度を上げたのがアーロンだ。そのデータもレース後に確認している。昨年、ホワイトジャージを獲得した際に更新した自己記録を大幅に上回る時速だった。
「グランドツアーは平均時速だけでどうにかなるレースではないけれど、速いに越したことはない。だね、ジェクト?」
「まあ、そうだな。速いだけで勝てりゃ苦労はしねえが」
 首筋を掻きながら応じたジェクトは、今回の選手権では自己ベストからわずかに落ちる程度の平均時速に留まった、ということもアーロンは把握していた。
 数字はいつでも客観的事実だけを伝える。読み誤るのは人間の恣意や願望のせいで、アーロンは己の感情のために数字を捻じ曲げるほど矜持に欠けたつもりはない。つまり、ジェクトの本気はあの程度ではないということだ。ゴール後に酸欠で倒れるほど必死で走ったアーロンでもまだ追いつかないほどの実力の差が、そこにはあった。
「とはいえ、ラストスプリント前に指示を出さなかったのは私の落ち度だ。グランドツアーではもう少し細かく介入していこうと思う」
「いいんじゃねえの? ま、俺のインカムだけ利かねえことがあるかもしれんが」
「それは困るなジェクト、今のうちにいいオーディオメーカーに話をつけておかないといけないね」
 そんな馬鹿話——アーロンにしてみれば冗談だとしてもたまったものではない内容だが——でひと段落つけて、ブラスカはトレーニングの開始を命じた。
 グランドツアーは先日の選手権とは異なり、スピラ全土を何日もかけて周る、文字通りの「ツアー」だ。ある日はルカのように整備された街路、ある日はミヘン街道のように未舗装の平地、ある日はガガゼトの峻険な山岳地帯と、ルートのバラエティは多岐に亘る。
 出場選手たちの走破所要時間は日別と累計の二種類が計測され、累計時間が最も短かった者が総合優勝の栄誉に浴す一方、日別の表彰台に登ることに焦点を絞る選手も少なくはない。スピラ全土が注目するこのツアーで、たとえ一日、一区間だけでも受賞すれば立派なヒーローだ。
 そのような思惑に重ね、単純に長丁場であることによる計算も絡む。序盤に飛ばせば注目は集められるだろうが、そのペースで残り期間を走り続けるのは非現実的だ。単日優勝の一点狙いならばともかく、平均して高いレベルの走りを維持しつつ抜くべきところは適度に抜かなければ、総合優勝争いはおろか、全日程を無事に完走することさえ覚束ない。
 つまりロードレース、ことにグランドツアーとは、ただ速く走りさえすればよいというものではないのだ。パワー配分に始まる緻密な戦略、チーム内はもちろんのこと競合選手をも含めた集団内の連携、あるいはライバルとの駆け引き——たとえば、この区間の優勝はくれてやるからおまえのアシストの牽引に便乗させろ、など——といった頭脳戦も要求される、それがグランドツアーだった。
 グランドツアーはその特異性ゆえに、ダブルエースが真に意味を成すレースであるとも言える。先日の選手権のようなシングルデイレースでは限られた時間と距離の中でエースを見極めねばならない難しさがあるが、グランドツアーでは役割分担がより重要であり、分担から得られるメリットも大きいためだ。
 どちらかといえば平地に強く個人タイムトライアルの得意なクロノマン寄りのアーロンに対し、ジェクトは激坂や短いスパンの登り下りを得意とするクライマータイプだった。すでに役割は明確に分かれており、また都合のよいことに両者ともここぞというときのスプリント能力が高い。くだくだしい作戦会議を繰り返すまでもなく、おおまかな割り振りが決まった。
 グランドツアーはどの年も必ずザナルカンドのエボンドームが最終ゴール地点だが、そこに至るコースは毎回異なる。マンネリ化を防ぐためでもあり、また特定の区間に強い選手に賞が偏るのを防ぐためでもあった。
 この年のコースは序盤にガガゼトの山岳区間、中盤から終盤にかけてミヘン街道や雷平原といった平地が配置されている。必然的にジェクトとアーロンそれぞれの出番、またそれぞれを牽くアシストの配置も固まり、チームブラスカは——不穏だった蹴り出しのわりには——極めて好調な準備期間を過ごした。
 昨年のグランドツアーの重要区間でアーロンを牽いてくれたキノックは、彼が山岳地帯に強いことから今回はジェクトを牽くことになっていた。気弱なくせに実は自尊心が高いという屈折した性格だが、不思議なことにジェクトとの折り合いは悪くないらしい。休憩時間やロッカールームの雑談で、何とかしてアーロンをジェクトのいる輪に混じらせようとする露骨な努力にアーロンも苦笑を禁じ得なかった。
「俺に気を遣うことはないぞ、キノック」
「そう言うなよ。おれたちにとっちゃ、おまえもジェクトさんも大事なエースなんだ」
 丸い顔をさらに丸くしてそんなことを言われてしまえば、アーロンとて邪険にし続けることはできない。ジェクトはアーロンにとって「いけすかない奴」だったが、根っからの悪人では決してなかったのだ。いつの間にか、アーロンとジェクトが一対一で言葉を交わす機会も生まれていた。
「ほれ、アーロン」
 ある日のトレーニング前、出会い頭にジェクトが何かを放って寄越した。咄嗟に受け取りはしたものの、ひと抱えほどの包みの正体が分からず、怪訝な顔をしてしまう。
「何だこれは」
「変速器。試しに使ってみろ」
「おい、俺は今の機材でも別に、」
「使ってみて気に入らねえなら戻しゃいいだろ。おら、とっとと取り付けてこい」
 などという流れで押し付けられた変速器は、確かにギアの切り替えがスムーズだった。数日後に何故これを寄越したのかと訊けば、休憩中のジェクトはエネルギーバーを頬張りながらこともなげに答える。
「そりゃおまえ、着いてきてもらわねえと困るからな」
「……どういう意味だ」
「今度のガガゼト、ヨンクンルートだろ」
 急峻ばかりのガガゼトを走るコースも年によってそれぞれだが、ヨンクンルートはその中でも小刻みのアップダウンが続くルートを指す。かつて山岳地帯において敵なしと謳われた伝説的なクライマー選手の名を冠する、グランドツアー屈指の有名区間だ。
「おまえ、ああいう道苦手だろうが」
「……」
 アーロンは渋面を作って頷いた。平地型の選手にとってガガゼトは総じて鬼門であり、特にヨンクンルートは何人もの選手を棄権させてきた危険区間だ。平地を得意とする割には山岳地帯への対応力も高いと評価されるアーロンだったが、それでもヨンクンが自分にとっての最難関であることは間違いない。
「ガガゼトの後がおまえの出番なんだから、脱落されちゃ困る。特に下りには気をつけろよ。あそこはコーナーも多いからな」
 ジェクトの寄越した変速器によって、右に左にうねるダウンヒルを御しやすくなるのは確かだった。しかし、この男はいったいいつ、アーロンの苦手なコースを把握したというのだろうか。
「そりゃ観たからな」
「みた? データをか?」
「そういうのはブラスカに任すわ。そうじゃなくて、おまえのビデオ」
「去年のツアーのか」
 公式レースの中継映像でも観たのか、とアーロンは思った。当時は無名の選手に過ぎなかったが、徐々に成績を上げて行ったことで後半はメディアのカメラに収められる機会も増えていった記憶がある。また、レースに並走するチームスタッフたちも動画を撮影していたはずだ。
 しかしその予想はあっけなく覆された。
「いんや、おまえがこのチームに入ってからの記録、全部観た」
「……全部だと?」
「あ、入ってからっつーか、おまえ立ち上げメンバーか。まあ要するに全部だよ。おまえの分と、主だったアシスト連中のやつはひと通り」
 ブラスカ率いるこのチームが設立されて、今年で六年目だ。データに基づく科学的トレーニングを専門とするブラスカの信条のもと、所属選手の記録はデータだけでなく画像や動画というかたちでもふんだんに採取されている。公式戦だけでなく普段のトレーニングや内々の模擬レースのものまで含めれば、膨大な量になるはずだ。
「……全部観たのか、本当に」
「おう。まあ、早送りはしたけどな」
 さしもの俺様にとっても一日は二十四時間だしな、と何故か悔しそうな顔をするジェクトを、アーロンは呆然と見るしかなかった。
 アーロンに加えて主要メンバーの全記録映像を確認するなど、ブラスカでさえそうそう実行には移さないだろう。奇しくもジェクトの言う通り、時間には限りがある。休息日が適度に設定されているとはいえ、チームのトレーニングがなくとも自主練はプロとして欠かすまい。その上でメンバーの走りを確認し、得手不得手を分析しようとするならば、休息日やプライベートの時間を犠牲にする他ないはずだ。
 ——そんなことをする男だとは思わなかった。想像もしていなかった。チームメイトからはジェクトが酒好きだと聞いていたし、相手がブラスカであろうがスポンサーであろうが礼を失した態度を保つという意味で一貫性のあるこの男は、トレーニングの合間には馬鹿な冗談に大口を開けて笑い、ロッカールームではシャワー上がりにいつまでも服を着ずにふらふらしている。つまり「真面目」とはまるで言い難い姿のジェクトしか、アーロンは見ていない。
 レースに関する部分では、確かにストイックだった。しかしプロとしては当然のことだし、先だっての選手権の振る舞いもあって、どうせこの男は自分が勝てればそれでいいのだと、上位層にありがちなエゴイストに違いないと、頭から信じ込んできた。それがどうだ。
 呆気に取られるというよりもっと直截な驚愕に撃たれて黙り込むアーロンを、ジェクトは無言で見返した。メンテナンスから返ってきた車体を確認するような目つきでこちらをしげしげと見つめ、不意に左の口角を吊り上げる。
「どうした若造、惚れたか?」
「馬鹿を言うな」
 タイムラグなく言い返せたのはほとんど反射だ。ぴしゃりとにべもない響きのはずの返答に、しかしジェクトの笑いは引っ込まない。
「ようやくおまえも俺様の偉大さに気づいたってわけだ」
 自分で言ってしまえば世話はない。アーロンは今度こそ正しく呆れて踵を返した。休憩時間終了だ。
 アーロンは数歩行ってから、我ながらぎこちない動きで振り返る。これだけは言わねばならなかった。
「……礼を言う」
 その堅苦しいひとことを受けた男は肩をすくめ、片手の指先をひらひらと動かして応えた。

 ジェクトはまた、学ぶことに貪欲でもあった。努力を重ねる姿をひとに見せるのは自らの美学に反すると高慢なことを言ってはいたが、卓越した観察眼によってさまざまな選手から飛躍の糸口を掴もうとしていることは、日々のトレーニングを共にするアーロンにも察せられた。
 グランドツアーを控えた今、ジェクトの関心は当然と言うべきか、アーロンに向かっていた。
「今日、並走していいか」
 ミヘン街道に擬えた砂地トレーニングの日、ジェクトはアーロンの隣で愛車に跨った。その言葉通り丸一日、アーロンを追い抜くことなく、時折あえて後ろに退がりつつ、年下のエースの走りをとっくりと見定めたようだ。
 ジェクトは平地が得意でない。より厳密に言えば、平地でのコントロール精度に欠ける部分があった。要するに飛ばしすぎるのだ。傾斜勾配15パーセントを超える登り坂をあえての重ギアでぐいぐい進むジェクトにしてみれば、起伏のない道など走るだけならばどうということはないはずだ。
 問題は、あまりのスピードを制御しかねて「暴走」状態に至ってしまうことだった。こうなると他愛のない小石ひとつでも命取りで、天候が崩れれば危険度はいや増す。泥濘に細いタイヤが取られたら、横風に煽られたら、濡れた石畳でスリップしたら、見るも悲惨なクラッシュに至ることは想像に難くなかった。過去の記録を見ても、ジェクトは大雨に見舞われた雷平原やキノコ岩街道で大きくタイムロスしがちだ。
 それに比べて、車体の制御やペース配分の面ではアーロンが優れているのは確かだった。悪天候に強いのも対照的だ。前を行くアシストの轍を上手く利用しながら安定した走りを維持し、ここぞというタイミングでアタックを仕掛けるという、悪く言えば無難な、しかし故にこそ間違いのないアーロンのレース運びから、ジェクトは己に必要なものを吸収しようとしていた。
 砂埃に包まれてひたすら走る一日を終え訓練所に戻る前の小憩の間、ジェクトはアーロンの傍らでまだ何かを考え込んでいた。少し前なら居心地が悪くてたまらなかっただろうが、変速器の一件以来、アーロンとしてもジェクトを「支え合うべきチームメイト」と捉え直していたから、わざわざ距離を置く気にもならなかった。
「……アーロンよお」
「何だ」
 吹き抜ける風が熱を持った身体に心地よい。汗を拭ったタオルをたたみながら呼吸を整えていたアーロンに、ジェクトがのっそりと近づいた。自分よりもさらに高い体温を感じて顔を上げれば、想定していたよりもずっと近くにジェクトの顔がある。
「近い、」
「おまえ、ずいぶん呼吸が遅えんだな」
 泡を食ったアーロンをまるで意に介さず、ジェクトが言う。どうやらこの数分間、彼はアーロンの呼吸を数えていたらしい。
「……そうか?」
 どうにか平静を装いつつ、できるだけさり気なく一歩下がる。下がった分だけジェクトが距離を詰める。本人たちは気づいていなかったが、チームメイトたちはまたぞろ何が始まったのかと遠巻きに様子を見ていた。
「やっぱ遅えわ。意識してんのか?」
「そういうわけではないが……近いぞジェクト」
「んー、俺も別に早え方じゃねえとは思うんだがな……」
 じりじりと立ち位置を動かしてゆくダブルエースの姿に、ブラスカも気づいてメンバーたちに加わった。あれ何してるのかな。さあ、いつものやつじゃないですか。ああ、ジェクト劇場ね。何ですかジェクト劇場って。まあ観ててごらんよ、面白いから。
「呼吸が遅えってことはそれだけ深いはずだからな。酸素の交換効率よさそうだよな」
「どうだろうな」
「あ、てことは脈拍も遅えのか?」
「知らん、あんたいいかげんに」
「どれどれ」
 まるで臆面なく、ジェクトの右手が伸びてアーロンの左胸に触れた。汗の染み込んだトレーニングウェアなどまるで意に介さず、ぺったりと掌を押しつけてくる。
 ——熱い、と思った。掌が熱い。分厚いトレーニングウェア越しに、灼かれる肌を幻視するほどに。
「ほー、なるほどね」
「ッ……ジェクト!」
 アーロンは大きく一歩跳びすさり、ジェクトとの距離を置いた。押し退けられた恰好のジェクトは、どうやら満足したらしくうんうんと頷いている。
「ま、何にせよ今日はありがとよ。面白かったぜ」
「……そうか」
「んじゃ帰るか」
 カーボンフレームの車体を担いでのしのしと男が歩き去る。咄嗟にウェアの胸元を掻き掴んだアーロンは、遠巻きに見守るメンバーたち、ことにくすくすと笑いを噛み殺すブラスカに全力の睨みを効かせて、乱雑な手つきで荷物をまとめた。
 胸板が熱い。あの男の残り火がまだそこにある。何かの兆し、あるいは証のように。

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