その指輪はもういらない

「……図々しい盗人がいたものだね。いや、コソ泥かな」
 かざした燭台の灯り、照らされた侵入者は気まずそうな顔をしてしっぽを振った。
「コソ泥はねえだろ、コソ泥は」
「こんな時間に家主に挨拶もなく忍び込んで、食べ物を漁るようなおこないをコソ泥以外に何と言ったらいいのか、僕には皆目見当もつかないのだけれど」
 これみよがしに嘆息するのに合わせて揺れた蝋燭の火が、肩をすくめるおとこの髪をきらめかせる。ちらつく光が目に刺さってクジャは目を細めた。長いこと読書に集中していたせいか、眼球が乾いているようだ。
「それで、何のご用件だいジタン。こんな夜更けに」
「ご用件っておまえ、ここ、俺の家だけど」
「僕の家だ」
「そ、俺とおまえの家な」
 ばちん、と腹立たしいほど鮮やかに片目を瞑ったおとこ――ジタンは束ねた髪を跳ね上げて、再び保存庫を物色し始めた。これじゃないあれじゃないと呟きながら、昨日整理したばかりの棚を乱してゆく。クジャが踵を床に打ちつける音も意に介さずに。
「なあクジャ、ギサールの野菜なかったっけ」
「あったとしてもそこには置かないよ、そんなひどいにおいのするものは」
「そう言うなよ、チョコのやつががんばってくれたから今日のうちに戻れたんだ」
「戻ってきてくれなんて」
「言ってないって? 冷てえなあ」
 ジタンが肩を落とすのと同時に、庭から間抜けな鳥の鳴き声が聞こえた。クエエ。
「きみ、ひょっとしてあの鳥を僕の庭に入れたんじゃないだろうね」
「ほかにどこで休ませろってんだよ。いいじゃねえか、あいつは庭を荒らしたりするようなやつじゃないぜ」
 クエッ、クエエッ。
「な、そんなことしませんって言ってる」
「……きみと話しているとこちらが馬鹿になりそうだよ」
 木目の軋む床に向かって吐き捨てるように言えば、目の前のおとこはそれは嬉しそうに笑った。

「で、まだ間に合いそうだったからひとっ走り帰ってきたってわけ」
「それはご苦労だったね」
 くつくつと温め直されるシチューの鍋、湯気が立つのを待ちきれなかったジタンはグラスを片手にキッチンに寄りかかる。はじめは度数の高い火酒を手にしたものだから、鍋を火にかけるクジャが見咎めて別のものに変えさせた。麦酒はないのかと問われても、趣味でない酒の蓄えなどないから葡萄酒で黙らせる。
 とはいえ酒の一杯で黙る手合いではない。ジタンの話は続いている、ブルメシアからこの森に隠れた家まで大陸半分の距離を駆けに駆けた道中譚だ。クジャは曖昧な相槌をうちながら、シチューが焦げないようかき回すのに忙しい。
「そうだ、おまえに渡すもんがあるんだよな」
「僕に?」
 ジタンは自分の話の腰を自分でぽっきり折って、機敏に身体を翻した。ターンのついでに、ちょっとこれ持ってて、と飲みさしのグラスを押し付けられたクジャは閉口する。僕が温めているのはきみが食べる夜食なのだけれど、という文句は口に出したところでジタンには届くまいし、首をひとつふたつ振って半分ほど残っていたグラスの中身を三分の一に減らした。
 玄関に置いておいたらしい荷物を解いて、ジタンはやはり軽やかな足取りで戻ってきた。ちょうど鍋の中身もいい具合だ、まずは座らせてスプーンを握らせよう。
「届けものはありがたいけれど、先に食べてしまってくれるかい」
「じゃあそうするか、これはあとでな」
 食器棚から皿を取り出すジタンのしっぽがぱたぱたと左右に揺れている。常よりも速いテンポの往復が示すいとけないほどの単純さが、どうにも憎からず見えてしまうのだからいけない。クジャは残りのワインを呑み込んで、もう一度ボトルを傾けた。

 美味かった、ごちそうさん、と実に満足げな顔をするジタンに肩をすくめて返す。粗末なものを用意したつもりはないからこれでいいのだ。
「それで、その本が僕への届けものかい」
「ああ、うん、その半分」
 差し出された本を受け取ったら、引き換えだとでもいうようにグラスを奪われた。口角の上がった唇が緋色の液体を吸い込むのを見てやっと気づく、そういえばどうして僕たちはひとつのグラスで酒を呑んでいるのだろうか。もうひとつグラスを出せば済む話なのに、こんなにも怠惰にひとつの器を分け合っている。
「それさ、ブルメシアの書庫から出てきたんだ。全く同じ版が二冊あるっていうから貰ってきた」
「……本当に? ずいぶんと古い本のようだけど」
「まあ、何かあったら返すことにしたからさ。大丈夫だろ」
 では傷めないようにしなければ。クジャは獣の革らしい表紙に指を滑らせ、慎重に留め金を外した。少し湿った埃っぽいにおいが鼻腔を刺す。表紙は擦れて読めなかったが、中表紙のタイトルを見るに古い歴史書のようだった。
「……この本を僕に渡すと、ちゃんと言ったのかい」
 存外に低い声が出た。小さく咳払いをして、向かいに座るおとこの顔を見ずにグラスを奪い返す。中身はほとんど残っていない。やはり自分のグラスを用意すべきだった。横に避けておいたボトルに伸ばした手はジタンの指に阻まれる。伸びた中指と人差し指を摘むように撫でられ、クジャはつい顔を上げた。
「言ったさ。ちゃんと言った」
 ジタンはまっすぐにクジャを見ている。ともすればその顔立ちを幼くも見せる眼はわずかに細められ、色の濃い睫毛の向こうに蒼穹の果てを圧縮した瞳が、不可解な色を湛えていた。笑っているのかもしれないし、怒っているのかもしれない、あるいは嘆いているのかも。
 クジャがその色を読み損ねているうちに、ジタンはボトルを持ち上げてふたりの間に置かれたグラスを満たした。赤葡萄酒は注ぎきるものではないのに、最後の一滴まで注がれたグラスに静かに澱が降りる。
「言うに決まってるだろ。俺が読む本じゃない。それでもこの本は今ここにあるんだ」
 言葉が出なかった。ジタンもそれ以上は言わなかった。深い呼吸を何度か数える間、ジタンはグラスの底に積もる澱を眺めていたようだった。それが砂時計の代わりであるかのように沈黙を保ち、グラスの中身が澄んでからジタンはやっと口を開いた。
「呑まねえの」
「……いただくよ」
 わななく唇が含んだ酒精は渋味が強く、肺が震えるようだった。ほんのひとくちを喉に転がすクジャを見るジタンの瞳は揺らがない。

「で、もう一個あるんだけどな」
 そう言ってジタンは空気をくつろげたが、正直なところ、クジャは疲労していた。このうえ何を持ってこられてもたまったものではない、帰途に立ち寄ったトレノで砂糖菓子でも買ってきたというのなら話は別だが期待はできないだろう。さりとて腰を上げて寝室に引っ込む勇気も出ず、ジタンの次の言葉を待つ。
「おまえ、それどころじゃなかったと思うんだけどさ」
「話の脈絡を明確にしてくれないかい」
「一旦聞いとけって。おまえさ、俺と二回戦っただろ」
「……その話は今は遠慮願いたいのだけれど」
「いいから聞けって。でさ、二回とも、俺にいろいろ盗まれたの知ってたか?」
 うんざりとこめかみを押さえたクジャが、ジタンの言葉を理解するのにいつもより余計に一拍が必要だった。盗まれた、いろいろと。しかも、
「二回とも、だって?」
「ああ、二回とも」
 ジタンはけろりとした顔でグラスを持ち上げる、その向かいでクジャは座っているのに眩暈を覚えていた。一度目はともかく――ともかくというのも実に腹立たしいがそれはさておき――二度目に戦いながら盗みをはたらく余裕があったとは。
「きみは僕を馬鹿にするのがよくよく好きなようだね」
「何でそうなるんだよ、もういいだろ別に」
「呆れた。きみその間に何度倒れたと思ってるんだ」
「だからもういいだろそういうことは」
 クジャはグラスを受け取り、先刻よりも多めに流し込んだ。舌をちりりとくすぐる不快なものがある、この辺りでこの一杯には見切りをつけた方がよさそうだ。
「……それで、きみの手癖の悪さがどうしたって?」
 底に澱のわだかまるグラスをジタンに差し出そうとして、思いとどまる。渡してしまえば呑むだろうが、美味い酒の不味い部分を呑ませるのはクジャの美学に反したおこないだ。空になったボトルの陰に隠すように押し退ければ、ジタンも強いて手を伸ばそうとはしなかった。
「貰ったものはありがたく使わせてもらってたんだけど、最後にみんなに預けてきたんだ。で、それをフライヤが保管してくれてたから今日引き取ってきた」
 といっても、ほとんどのものはブルメシアに寄付してきたそうだ。竜騎士たちが使うならそれもよし、売り払って今後の資金にするもよし。なんともこのおとこらしい気前のよさだった。
「でもこれだけはな。おまえに返そうと思って」
 ほい、とそれこそ砂糖菓子でも投げるような気やすさで放られた小箱を受け止める。掌に載るほどの白い木箱はごく軽い。
「助かったぜ、ありがとな」
「……何のことやら」
 クジャは箱を撫でて軽く握った。喉の奥に綿を詰め込まれたように、声がつかえる。
 何を盗られたのか、ほんとうは分かっている。何故なら、探したからだ。探しても見つからなかった。イーファの樹の根元、暴走する根と枝の唸りを聞きながら、かろうじて動く手で探った懐はからっぽで、だからクジャは笑ったのだ。己の浅ましさを。己の愚かしさを。どこまでも卑小な己の望みを。遥か頭上でなにものかと死闘を繰り広げるジタンたちの魂の気配を感じながら、クジャは嗚咽に似た笑いを止められなかった。
「なんて顔してんだよ、クジャ」
 木箱の角に食い込む指を、ジタンの指が解いてゆく。優しくもぎ取った箱を弾き、柔らかな布切れに包まれた指輪をそっと摘み上げた。ダイヤモンドが閃く。
「どの指がいい?」
「……ふざけたことを」
「俺、ものすごく真面目だぜ。なあ、どの指にする?」
 ジタンが笑っている。クジャの浅ましさと愚かしさを象徴する卑小な望みを込めた指輪を遊ばせながら、クジャの浅ましさと愚かしさと卑小な望みをいとも容易く肯定してみせたおとこが、笑う。
「――いらないよ」
 クジャは静かに面を上げた。視界に紗をかけるしろがねの髪を押さえて、ジタンを見る。
「いらない。それはもう、僕には必要ないものだ」
「……そうか」
 いらえは語尾を掠れさせていたが、クジャの導き出した答えに満足しているようだった。感情の読めなかったジタンの瞳は、今はただ突き抜ける空の色をして、ひどく晴れやかだ。
 だから、クジャも微笑した。こんなちっぽけな指輪に願いを託すことは、もう二度とない。クジャの望みは、とうに叶えられてしまったのだから。

「それにしても、盗んだものを被害者に返却するのにこんなに恩着せがましくするとはね」
 ジタンに新しいワインの瓶を開けさせて、グラスに注がれるのを待ちながら言う。クジャとしては単に所感を述べたに過ぎないのだが、ジタンはうっと声を詰まらせた。
「恩着せがましくはなかっただろ」
「ずいぶんと押しつけが強かったと思うけれど。『どの指がいい?』だなんて、三文芝居もいいところだね」
「今日はやけに当たりが厳しいぜ……」
 ぽん、と小気味いい音が響いてコルクが抜ける。ほんの少しだけ注がれた新しいグラスを受け取った。テイスティングはクジャの仕事だ。香りと舌触りは申し分ない。軽く頷くと、ジタンはクジャのグラスを半分ほど満たし、腰を下ろした。
 グラスは相変わらずひとつだけだ。もうひとつのグラスを持って来られたはずのおとこは、ボトルのエチケットを興味深そうに見つめている。その背中からのぞくしっぽがテンポよく右へ左へ、三拍子のリズムは調子よく跳ねていて、これではワルツが踊れない。
 ご機嫌な盗賊は、クジャの視線に気づいたらしい。ボトルを置き、頬杖をついて唇に笑みを掃く。
「呑まねえの?」
「いただくさ」
 クジャはグラスを掲げた。燭台の灯りを受けて、ベルベットのような深緋が花を開く。
「僕の図々しい盗人に――乾杯」