抒情詩

※アセルス妖魔ED後

 ジーナはゆるりと瞼を上げる。霞む視界に揺れるは触れなば崩れんばかりの繊細さで織り上げられた玻璃紗の天蓋、素肌を滑るは溶けるクリームに似た煉絹の衣、腰を捩らせて身じろげば立ちのぼる香りはこの世にふたつとない高貴な血のにおい――うつくしき紫の血の。
(ああ、呼ばれている)
 呼んでいる、ジーナのあるじが。紫の血を孕む無二の存在が。此岸の生きとし生けるすべてを傅かせる、魅惑の君が。
(行かなくては)
 きしりとも軋まぬ寝台から素足を下ろし、ジーナは流れる髪を肩に流す。白金がゆるく波打つそれは上等の絹と同じ色で、あるじがことのほか愛でるものだった。寝乱れたのを梳らんと寄る侍女のひとりを視線で退ける。
 どうせ、すぐにまた乱れる。乱される。かのひとの手によって。
 薄物のガウン一枚の裾を靡かせて回廊を渡るジーナを見咎めるものはない。ここは針の城、ファシナトゥールを睥睨する荊棘の塔、魅惑の君の御在。そしてジーナは、君の第一の寵姫である。

 もう指折り数えることも出来ぬほどの昔、ジーナは取るに足らぬお針子だった。太陽を知らず、あやかしの光が水晶に宿るばかりの根っこの街で、誰が纏うのかも知れぬ装束ばかりを仕立てていた。そのうちのとっておきが誰のものであったか――最早語る要もない。
 無知なお針子であった過去を置き去りにした寵姫は、しかし今も折に触れて針と糸を取る。ファシナトゥールのみならず、薔薇の守護者がしろしめすいくつものリージョンから召し上げた極上の素材を並べ、「我が君」のための衣装を縫い上げる。
 うつくしき方。無慈悲な王。血の超越者。主上が纏うのならば、一分の妥協も許されない。何より、「彼女」はジーナの手になるもの以外はひとつも袖を通そうとはしなかった。そしてジーナ自身も、どこの馬の骨によるものかも分からぬ衣を着せることに耐えられない。ゆえに、第一の寵姫は同時に針の城唯一のお針子であり続けた。

 とこしえの夜が支配するファシナトゥールでは、時間の概念はまるで意味を持たぬ。ジーナはさやとも鳴らぬ絹を翻して、浅い眠りに落ちる前の記憶を辿る。
 ――ジーナ、どうやら客が来たようだ。少し出てくる。
 そう言い残してあるじが寝台から去ったのは、重ね合わせた肌が滲ませる薄い汗がひく間もないころだった。あれからヒトの尺度で言えば一時間も経ってはいまい。
 寵姫はあるじのいるべき場所を目指して歩む。時折通りすがるいくつもの間には、今や空となった九十九の棺が転がっている。
「アセルス様」
 果たして、あるじは薔薇の間にいた。今やリージョン界の半分を支配する魅惑の君は片手に赤い刃を提げたままだったが、名を呼ばれてゆるりとこうべを巡らせる。
「ジーナ」
「お客様は?」
「用は済んだよ」
 アセルスは豪奢なドレスの裾を払い、花を見つけた子供のように無邪気に笑う。深い紅のシルクシャンタンと金糸とをふんだんに使った一着は、寵姫となったジーナが初めて仕立てたもので、ふたりの気に入りであった。これを纏って出たということは、よほどの客人であったに違いない。
 差し出される手に従いあるじのそばに侍ったジーナは、その客人が足元に斃れ臥しているのに気づく。豊かな濡羽色の髪に、烏の羽根をあしらった衣――ジーナにはこの男に見覚えがあった。
「退屈だった」
「左様でございましたか」
「つまらないことをくどくど言ってさ」
「まあ」
「これが教育係だったなんて、ぞっとする」
 王として君臨するアセルスは、しかしジーナの前でだけは言葉遣いが幼くなる。初めて出逢ったあのころのように。少し背の高い彼女を見上げれば、くちぶりと同様に拗ねた唇を尖らせていたから、ジーナは微笑した。
「なに笑ってるの」
「いいえ、何も」
「笑ってるじゃないか」
「アセルス様があまりにお可愛らしいものですから」
「茶化さないで」
「いいえ、ジーナはいつでも本当のことしか申しません」
 あなた様に嘘偽りなど、ひとつも。あなたの寵を頂きました時より変わらず。
 言い重ねれば、いよいよ丸め込まれたとでも思ったか、もういいよ、とそっぽを向く。その腕に手を添えて、ジーナは主上を庭園に誘った。
 青い血で汚れた薔薇など、アセルスには相応しくない。

 永久の命を約束された庭園では、花は枯れず、咲き誇るばかりである。その一角、白い薔薇ばかりを敷き詰めた上にふたりは立ち止まった。
 アセルスから数歩ばかり行ったところ、一群れだけ、薔薇が紫に染まっている。赤と青の融合によって生まれた万色の粋は、アセルスの身体から流れ出したものに他ならない。ここがすべての始まりだった。
 薔薇のあるじはどこか茫洋とした眼差しだった。揺らいでいらっしゃる、とジーナは感ずる。
 アセルスの、その身に残ったヒトの部分が揺らいでいる。「客人」が現れた時はいつでもそうだった。
 ジーナはアセルスの客のほとんどを知らない。分かっているのは、彼ら彼女らがかつてファシナトゥールを出奔したアセルスと短い時間行き合ったことだけだ。ブロンドを靡かせた美しい女であったこともある。赤と青とを混じり合わせながら紫を導かなかった術師や、刀を携えて美意識のかけらもない格好をした中年の男が来たこともある。奇怪なメカやモンスターさえもがアセルスを訪れた。
 そして、訪れたものたちは例外なくアセルスに鋒を向け、例外なく葬られた。今回の客――オルロワージュの三騎士に数えられたイルドゥンと同様に。
 彼らが何を望んでアセルスに挑んだのか、今のジーナにはもう理解できない。類稀なる魅了の力を持つアセルスは、歴史上にも例がないほどの統率力でもってあらゆる妖魔を従え、数多くのリージョンを支配下に置いた。いずれも始まりは武力に拠る侵略ではあったが、戦いは必ず、抵抗勢力の一切がアセルスに服従を誓うことで終わる。この期に及んで抗っているのは機械種の多いリージョンくらいのものだ。間もなく世界はアセルスのものとなる。
 アセルスは優れた君主であり、恐るべき力を行使する正しき妖魔の君だった。彼女の父であるオルロワージュも成し遂げられなかった世界が、いずれ実現するのだ。
 ゆえにこそ、ジーナはアセルスの客人たちを疎ましく思っている。憎悪すると言ってもよい。幻魔の前に藻屑と消えるしかない卑小なものどもに、アセルスのこころが揺らがされるなど――認められるものではない。

「ジーナ」
 呼ぶ声に応え、その背を見つめる。アセルスは鋭く伸びた巻角に妖気を映し、囁くように問うた。
「私が恐ろしいか」
「いいえ」
 間髪を入れぬいらえに、あるじが振り返る。その双眸に宿る光は、ジーナを魅了してやまぬ色に輝く。
「いいえ、アセルス様」
 何も恐れることなどございません、我が君、わたしのアセルス様。あなたがわたしを愛でてくださる限りは、何も。
「――そうか」
 そうだったな、ジーナ。きみがいる。私にはきみがいる。
 くつくつと喉を鳴らす笑いが哄笑に変わる前に、ジーナはあるじの腕を強く引いた。咲き誇る白薔薇を押し潰し、ふたりの裾が空に舞う。
「アセルス様」
「どうした」
「お脱ぎください」
 薔薇の間を出る時に、ジーナはアセルスのドレスがわずかに汚れていることに気づいた。飛び散った青の飛沫は、新たな世界の訪れを受け入れられなかった哀れな妖魔の血だろう。丹精して仕立てたアセルスのためのドレスが、そんなもので汚れていることがジーナには許せない。
 返事も待たずにコルセットを緩め始める寵姫に、アセルスは目を瞬かせ、それからゆるゆると笑み崩れた。ジーナを迎えた時のそれとは違う、鷹揚で傲慢で尊大な、君主の笑みだった。
「どうする気だ」
「ドレスは始末いたします」
「残念だ」
「またご用意いたします」
「きみが?」
「他の誰が?」
「愚問だったか」
 楽しみだ。アセルスが言うと同時に、最早廃棄物以外の何物でもないドレスが彼女の身体を離れる。ジーナは自らが纏っていたガウンも脱ぎ捨て、うつくしきあるじを改めて薔薇の絨毯に組み敷いた。咲き誇る白薔薇を踏み躙るように。

 雪華石膏の肌は滑らかに水分を含み、ジーナの掌によく吸い付く。氷細工のような首筋に唇を這わせ、指ののめり込む柔らかなふくらみに手を添えれば、あるじの朱い唇から甘い吐息が漏れる。薔薇の棘がアセルスの肌を浅く裂き、紫の血を滲ませた。
「ジーナ、私を抱くか」
「ええアセルス様、ジーナにすべてお委ねください」
「許す」
 夢も見ぬほどの眠りをあるじに捧ぐべく、寵姫は王を抱き締めた。噎せ返るほどの芳香が潰した薔薇のものか、愛しいあるじから香るものか、ジーナには分からない。

 君はくるへりわれのため
 われは狂へり君のため
 くるひ狂へる君とわれ
 いざやうたはん春の野に
    田山花袋「君と我」