光の庭

第二章 ヴェイン

 1
 
 それまで長らく勤めていた庭師はソリドール家と昵懇だが、さすがに寄る年波には勝てず、ついに引退を決意したのだという。役人とのいくつかの面談を経て――といっても男は喋ることが出来ないので、経歴書を提出し、質問に頷いたり首を振ったり、いくらかの筆談でやり過ごしたのだったが――どうやら最終段階であるらしいその庭師との顔合わせは、宮殿内にいくつかある庭のひとつで行われた。
 驚くべきことに、この庭師は男のことを知っていた。のみならず、男の管理していた花壇を何度も見に行ったことがあるという。あんたが応募してきてくれたと聞いて、なんというか、嬉しかったよ。訥々と言う庭師は、亡き父にどことなく似ていた。
 他に応募者がいたのかいなかったのか、ともあれ男は皇帝宮付きの庭師として採用された。二か月ばかりを先代の庭師について仕事の作法を学び、そのたった二か月で、この宮殿に渦巻く権謀術数、蔓延る魑魅魍魎のたぐいの気配をまざまざと感じた。
 旧市街の出であり口のきけない男は、常人よりもはるかにゴシップに疎かった。よくそれでアルケイディスを生き延びられたものだと揶揄されるのも無理はない。故に、庭で草木を相手にしていてさえ耳に入る噂話のいちいちに驚く日々が続いた。
 しかし、男の驚く顔を知っているのは物言わぬ花や常緑の葉ばかりであったため、彼はいつの間にか使用人連中から肝の座った男の筆頭に挙げられるようになっていた。

 庭師の仕事というのは、つまるところ庭をその時々においてもっとも美しい状態に仕立て上げることだ。庭師は庭のあるじではない。あるじたる者は他におり、そのあるじには裏方仕事を出来るだけ見せないのがあるべき姿だった。
 よって、庭師となった男がソリドール家の面々と顔を合わせることはまったくなかった。たまに、皇帝陛下その人や、その三男であり、今や押しも押されぬ地位を確立したヴェイン・カルダス・ソリドールが回廊を渡ってゆくのを遠目にするくらいだ。男を旧市街から引き揚げた子供の姿は見えなかったが、どうやら昼間はソリドール家のプライベートエリアで勉学に励み、少ない自由時間は市街地に降りてひとびとの生活に触れるのを常としているようだった。
 また旧市街に行くことはあるのだろうか。思い返してみれば、男が出会った時、かの子供はまだ五歳かそこらだったはずだ。侍従たちの監視の目をくぐり抜けて旧市街に辿り着いたのだろうが、幼児のころから大した度胸だったというわけか。
 使用人の控え室で、皇帝宮に勤めて長い――今は亡きソリドール家の長男・次男をも知っているという――洗濯婦が言っていた。ラーサー様は冒険がお好きでね。
「今じゃずいぶんと落ち着かれたけど、もっと小さいころなんかはそりゃあ大変だったのよ」
 そうなんですか、と相槌を打ったのは、年若い清掃人だ。洗濯婦は懐かしさに目尻を垂らして続ける。
「いつだったかね、お姿が見えないってんで大騒ぎになって。どこにいらしたと思う?」
「さあ」
「旧市街さ。ご無事で見つかったからよかったけどね、警備の連中もお付きのひとたちも揃って大目玉さ。こーんなに、」
 と広げた掌を、椅子の座面あたりの高さで床に水平に振る。そこまで小さくはなかったはずだが、と男は思うが、言ったとて詮なきことだ。
「お小さい王子様がひとりで旧市街まで降りて、なんで誰も気づかなかったんだってね」
「それじゃ、処罰されたひとも?」
「ああ、何人かね。で、ラーサー様もそれをたいそう気に病まれて、それからかね、おおっぴらに抜け出さなくなったのは」
「てことは、たまにはこっそり抜け出されるんじゃないですか」
「まあまあ。ご無事に帰ってらっしゃるんだもの、お言いでないよ」
 それに、今じゃ籠の鳥じゃないか。たまにはお外に出して差し上げなきゃ、あんまりにもお可哀想だよ。
 ベテランの洗濯婦はそう嘆息した。男は誰にも気づかれずに同意する。せめて、この宮殿の中くらいは自由にさせてやればよいものを。
 ラーサーが数ある庭のひとつに顔を出し、その時自分がそこにいたらどうするのか。男はそれ以上のことを考えるのをやめて、作業の続きに取り掛かるため腰を上げた。

 2
 
 薔薇は一般に思われているほど繊細な植物ではないが、ツルバラの植え替えとなれば話は別だ。花は落ちたが蔓はしっかとアーチに絡み付いている。咲かせる花のたおやかさとは裏腹の、しかしなるほどそうでもなければあれほどの花は咲くまいと思わせる強靭な蔓を慎重にほぐし、根を傷めぬよう抜いて、別のアーチに纏わせ直すのが今日の仕事だった。
 男は幾筋にも伸びた蔓のいちいちに指を這わせ、その根元に跪いた。道具は使い慣れたシャベルが一本、今夜は腕が痛むだろう。
 束の間のこととはいえ、皇帝のまします宮殿の庭にあまり無様な穴を開けるわけにはいかない。男はしばし作業に集中した。薄いブリキの鋒が、柔らかな土をほろほろと砕いてゆく。
 息さえ詰めて根を掘り返していた男の耳に、きい、と扉の開く音が聞こえた。そこではっと目を上げる。この庭に続くのはとある人物の執務室、それは――
 慌てて立ち上がり脱帽の礼を執る男を見て、かのひとはわずかに目を細めた。それはあるいは、秋の陽光に射られてのことだったかもしれない。
 ヴェイン・カルダス・ソリドール。今や次なる皇帝の御座に最も近いと謳われる、ソリドール家の怜悧たる三男だった。
 話が違う、と男は家宰を恨んだ。今日は室のあるじは終日忙しく戻りはすまいから、ゆっくり作業が出来ると聞いて手のかかる作業を充てたのだ。これでは諦めるしかない。
 ヴェインは明るい日陰に据えられた机に、手にしていた書類の束を無造作に置いた。そのまま腰を下ろすことなく、庭を眺めわたしている。まるでここに庭があり、花が咲き、水が流れていることに、たった今気づいたのだとでもいうようだった。数多いる侍従のひとりが、上等な拵えの茶器を持ってヴェインの背後に控えている。
 男はもう一度腰を折り、遠慮しいしい帽子を被り直した。それから、先刻放り捨てたシャベルを拾い、掘りかけた穴を埋め戻しにかかる。彼の明日の予定を家宰に確認しなくてはならない。根が傷つかぬように土を掛ける作業に気をやっていたため、その声に気づくのが一拍遅れた。
「――よい」
 簡潔にすぎる一言が、ヴェインそのひとから発されたのだと理解するのにさらに一呼吸を要した。無礼ながらもしゃがみ込んだままの園丁に向かって、ヴェインは小さく苦笑したようだった。
「続けたまえ」
「……」
 しかし、と言い募る声を持たぬ男は束の間狼狽する。その隙に、ヴェインの背後の侍従が何事かを耳打ちした。鷹揚に頷いたヴェインが、ゆっくりと歩み寄る。後ろ手を組み、生え揃った青芝を踏む足取りは王者のそれだった。
「作業を続けたまえ。私のことは気にせずともよい」
「……」
「返事は動作で構わん。あなたの仕事を妨げるのは本意ではない。私が不在と聞いていたのだろう」
 たっぷり五歩の距離を開けてヴェインが足を止めた。鮮やかに切れ上がった眦は、こうして見ると驚くほど柔らかい。園丁は片膝を芝についたまま、縺れる手で再び脱帽した。
「予定が狂ってな。約束ひとつ守れぬものがこの国のお目付け役とは嘆かわしい」
 元老院のことを言っているらしかった。ふん、と小さく息を吐き、ヴェインは口角をわずかに緩める。
「ゆえに、数時間ばかりここにいさせてもらいたい。だがあなたの仕事の邪魔はせぬ。どうか予定通り、続けてくれ」
 思っていたよりも、ヴェインは饒舌だった。男は再び頭を下げる。ここまで言われてしまえば、作業を取りやめる方が失礼にあたるだろう。返答の代わりにシャベルを握り直すと、ヴェインはひとつ頷いた。安堵しているようにも見えた。
「いつか礼を言いたいと思っていた。――美しい庭だ。感謝する」
 それだけ言い残し、ヴェインは机に戻った。そつなく働く侍従は茶を整えるとひっそりと場を辞する。長い指が書類をめくるのを合図に、男もシャベルを動かし始めた。

 日が傾くころ、男は植え替えを終えた。新しいアーチに絡む蔓はいささか不安定にも見えるが、数日もすれば落ち着くだろう。
 長らく屈み込んでいたせいで悲鳴を上げる腰を伸ばすと、不意に背後から声がかかった。
「その蔓は」
 言葉が一瞬途切れたのは、男が振り返るのを待つためではなく、男が声で返答できないことを思い出してのことだったろう。丸一日の作業で汗の染みた帽子を脱ぐ園丁に、ヴェインは問いかける。
「薔薇だろうか」
 男は頷いた。春と秋、二期咲きのツルバラは冬の訪れよりも一足先に花を落としたところだった。こうして植え替えてやれば、来年もまたよい花を咲かせる。
「……ひとつ、頼みがある。いや、ふたつか」
 これほどの地位と名声を誇る男が、自分のような一介の園丁に向かって頼みなどというのがおかしかった。こうべを垂れて続く言葉を待つ。
 ヴェインは充分な間を空けてからやや厚みのある唇を開いた。その身体に無駄な動きはひとつもない。自らの一挙手一投足が、おのずからひとを使役するのだと心底から理解しているからこその振る舞いだ。
「まず、今後も私のことは気にせずともよい」
 つまりは、
「私がいようといまいと、あなたはここであなたの仕事をすればよい。この庭は我が執務室に通ずる故、これからも私がここに出ることもあろうが、構うことはない」
 これから冬が来る、冷え込めば庭に出した机を使う機会も減ろう、とそこまで言ってからヴェインがふと目許を和らげた。
「花の名も知らぬ身だが」
 その言葉に庭師は緩やかに首を振った。花のいちいちを名指しできるようになる必要は、おおよその人間にはないと分かっている。
 あるじたる者に使用人が差し出すべきはいつだって完成品だ。ゆえに、これまではあるじの姿がない時を見計らって働いてきた。こと、この庭のようにあるじの務めに直結する場での作業をすべき時は、いつだって家宰にあるじの予定を確認してから計画を立てるものだ。しかしその必要はないと、当のあるじが言う。あの如才ない侍従がすでに万事取り計らっているだろう。であれば、使用人たる庭師に否はない。
「それから、もうひとつ」
 ゆるゆると沈む陽が、燃え尽きる前の蝋燭のようにひときわ強い光を放つ。斜陽の真鍮に佇むヴェインが浮かべた表情を庭師はいつまでも覚えていたが、それがどのように形容されるのかは分からないままだ。
「花を一輪、選んで欲しい。明日になれば枯れる花がいい」

 翌日も庭師はヴェインの庭にいた。植え替えたツルバラが落ち着いていることを確かめ、人工池を取り囲む花壇にて育ちつつある冬咲きの花々に水をやる。まずはクレマチスが開きそうだ。
 この庭のあるじは、今日は朝から出ているようだった。このところ帝王宮の中もいささか浮わついているのは、まもなく戦争が始まるからだ。ナブラディアの内乱に乗じて仕掛けるのだともっぱらの噂で、公安総局の執務室を受け持つ清掃人たちの間ではアルケイディアの参戦はもはや秒読みと言われている。
 男はふと執務室を振り返った。誰の気配もない部屋には重厚なオークの机と椅子、沈み込みそうなソファなどの調度品があるだけで、飾る花瓶のひとつもない。
 昨日、ヴェインの求めに迷った末に庭師が選んだのは、一本のケイトウだった。実のところ今日明日に枯れてしまうようなものではなかったが、花弁も茎もまるで頼りないコスモスなどを差し出すのは、どうにも気が引けたのだ。羽毛のような花弁の端々の色がわずかに衰えているに過ぎぬひと茎を、ヴェインは燭台のように捧げて自室に戻って行った。
 ――明日になれば枯れる花がいい。
 そう求められたのは初めてだった。これまで、旧市街でも新市街でも、一輪の花を求められたことは何度もある。しかしとびきり綺麗なものをと言われるのが常で、これから枯れるものを寄越せと言われたことが、奇妙な感触でいつまでも頭に残っている。
(露悪的なのか、感傷的なのか)
 もとよりただの庭師に過ぎぬ男には、殿上人たるヴェインの胸中など推し量れぬ。いずれにせよ、理解する必要もない。男は葉の下に転がっていた虫の死骸の上に土を掛けた。

 3

 ナブディスが陥落したとの報せが入った。長らく姿を見せなかったヴェインがようやっとあの庭を見渡す椅子に腰掛けた頃には、花も盛りの春になっている。
 春の園丁は忙しい。爛漫と咲き誇る花は咲くままにはしておけず、一等美しい花だけを守るために二番手三番手は早々に摘まねばならない。一株ごとに枝を辿り、落とすには惜しい花に次々と鋏を入れる。剪定した花々にとっては、何らかのかたちで余生を送ることのできる皇帝宮に咲いたことが救いだろう。
 このあと摘んだ花を仕分ける侍女たちの指に障りが出ぬよう、園丁の指が細やかに動いて薔薇の棘をむしる。土と水と枝葉と金属に慣れ、乾いてひび割れた指だ。むせ返るような薔薇の香の中、棘を剥がれた茎の溢れさせる青いにおいは庭師にしか届かない。
 振り返ればヴェインがいることに男は気づいていたが、脱帽の礼も要らぬという貴人に従い、ただ働いた。ひと束になった花を足元のバケツに挿し、次の株に移る。
 その時、執務室と庭とを隔てる扉が開く音がした。がちゃん、といささか派手な音を立てるそれは、ヴェインの動きではあるまい。園丁は額を拭うついでに、背後に視線を走らせる。
「あにうえ、」
 風を孕んだ帆のように豊かに張った声だった。行儀よく扉を閉じるが早いか、転がる仔犬のように日向に走り出る。
(――あれは)
「ラーサー」
「兄上!」
 子供は駆け寄る勢いのまま、兄の膝に飛びついた。いや、飛びつこうとして、その一歩手前ではっと我に返り、細い脚で床をぎゅっと踏みしめる。棒のようにまっすぐに背筋を伸ばし礼を執る幼い弟に、兄はブルネットを風に遊ばせたまま満足げに微笑した。
「兄上、今日はこちらにいらしたのですね」
「ああ。たまの休みゆえな」
 仲睦まじい兄弟の声を背中に聞きながら、ヴェインは休みだったのか、と園丁は奇妙な心地がした。休みだというのに執務室にいるのがおかしいし、そもそも、あの男に休日というものがあるのだというのが、どうにもしっくりこない。
 本当に休むことがあるのだろうか。あのヴェイン・カルダス・ソリドールが? 「ソリドール家の継子たるヴェイン」であるのを休むことが?
 傍目には庭師仕事に勤しんでいるようにしか見えないが頭の中は埒もない疑問に埋め尽くされている男を尻目に、ラーサーはその声をいっそう華やがせた。では兄上、ラーサーとお話ししてくださいますよね?
「お伺いしたいことがたくさんあるのです。聞いていただきたいことも」
「聞いてやる分にはいくらでも。話してやれぬこともいくらでもあるが」
「そうやって、ぼ――わたしを子供扱いなさる」
「子供扱いなどしておらぬ。年相応に扱っている」
「ではやはり子供扱いではありませんか」
 拗ね始めの声を上げるラーサーに、ヴェインは笑う。
「そう思うのならば、やはりおまえは子供ということだ」
「兄上!」
 それはいかにも他愛のない、ゆえに奇妙な兄弟の触れ合いだった。兄は歳の離れた弟を蔑ろにはせず、弟もまた兄に追いつこうと精いっぱいに背伸びをする。庭師にはきょうだいがなかったが、さて自分にそのようなものがあったとして、自分はヴェインのような兄として、あるいはラーサーのような弟として相対するものだろうか。
 切り落とした薔薇でバケツが満たされる。ラーサーは兄の向かいの椅子に一人前に座り、足りない座高を分厚いクッションで補われたことに頬を膨らませる。男は水と花とで持ち重りのするバケツを提げて、出来るだけ静かに場所を移しながら、そっと面を上げ眼前の光景を捉えた。
 上等な土から吸い上げた水を端々までみなぎらせた青葉はいよいよ濃く、今こそ盛りと心得た花の繚乱に陽光の金粉が降り注ぐ。
 貴婦人のショールのように綺羅を振り撒く風を辿れば、花弁を大きく開いたマグノリアが濃い影を落とし、その切り絵に彩られた美丈夫のゆるく波打つ髪が揺れる。
 その対面、何事かを褒められでもしたのか、はにかむ子供の横顔が猫柳のように輝く。
 炸裂し瞳孔をこじ開ける光彩、輪郭際立ちいよいよ深まる陰影、弾ける幼い声に低くしみ通る返答、丸く柔らかな頬と鋭く切れ上がったまなじり、それらすべての対比が綾なす一幅の絵画は、確かに祝福されていた。
 光の祝福。
 庭師は帽子を目深に被り直し、背を向ける。
 ――ここはひどく眩しい。

 使用人のための通路を男は歩く。敷き詰められた絨毯はいささか擦り減ってはいるが、それでも足音を吸った。左手に提げたバケツの中で水が跳ねる。
 かさりと揺蕩う薔薇の束は、一輪分だけ重さを減らしていた。庭を整え、ひっそりと辞そうとする男に声をかけたのは、かの少年だった。
「見事な薔薇ですね。よろしければ一輪、いただけませんか」
 椅子に腰掛けたままのラーサーは庭師を見上げたが、目の前の使用人がかつて旧市街で自分を抱え上げた唖だとは気付かなかったらしい。不思議なほど落胆の類は覚えなかった。覚えていないのが当然と思えた。
 少年の細い顎から続く頬はふっくらと水気に満ち、上目遣いは意外なほどに媚びない。束の中から一等美しいものが差し出されると疑わぬ、幼い傲慢。愛されることに慣れたというより、与えられるものを享受することを当然とするその態度はある種の諦念にも似て、ぞっとするような老成の気配を孕んでいた。わずか十歳やそこらの子供が。
 求めに応じ、庭師はバケツの中からとりわけ美しいものを選んだ。まだ開き切ってはいないから、綺麗な水をやればあと数日は楽しめるだろう。あどけない顔にはカップ咲きの方が似合いかと思ったが、中心に重なり合う花弁がすっくと天を指す高芯咲きを差し出したのは、少年の頑是ない野心に応えてのつもりだった。
 去り際、ヴェインの顔を伺ったが、彼は指先だけを静かに動かして、無用であると伝えた。庭師は安堵した。明日になれば枯れる花は、今日の庭にはなかったので。
 男は階段を降り、キッチンを目指した。新鮮な花をローズティーにできないか、料理人に相談するつもりだ。
 まばたきのたびに視界が強いコントラストの残像に揺れる。氾濫する光と影とが、目に焼き付いて離れない。

 4

 月日が巡る。
 ナブラディアが滅び、ダルマスカが降伏した。訪れたこともない都に寄せる想いのひとつもないまま草木の世話をする男をよそに、世界は急速に転がっているらしい。火薬と血と鋼とグロセアエンジンの焦げ付くにおいは、皇帝宮の庭には届かない。今は、まだ。
 庭師は少しだけ様子を見るつもりで、あの庭に足を踏み入れた。ここ数日は大広間に面した中央庭園にかかりきりだったが、清掃人に最低限の処置だけを任せていたヴェインの庭は、しかしあるじの立ち姿に似て端然としたままだった。
 この庭にあるとき、ヴェインは不思議に気配に乏しい。長身に鍛え上げられた筋肉の鎧を纏い、光を吸ってみどりに輝く黒髪をなびかせ、一声発せばこの宮殿の隅々まで通るような声を持つ、彼はそういう男だ。回廊を歩めばその姿が角を折れる前から、ああ閣下がいらっしゃる、と分かるほどの存在だから、彼はここにいるときは努めてその気を抑えているのだろう。
 ゆえに、垣根を分けた出会い頭にぶつかりでもしてはたまらない。使用人の裏通路から入った庭師は脱帽し、男の背丈より頭ふたつぶん高い生垣を大回りに越えた。
 ヴェインはいた。しかして、その身は庭ではなく執務室にある。世界地図を背にし、簡素な水差しだけを置いた重々しい机に両肘をつき、彼はジャッジの報告を聞いているようだった。
 この宮殿にあってジャッジの姿など珍しくもない。ジャッジマスターの名を冠される十八人の鎧兜のかたちは、庭師ももう記憶していた。今、ヴェインの前に背筋を正しているあれは――公安総局第九局、ジャッジ・ガブラス。
 庭師の知るどの獣にも似ていない角がぐねりと横に張り出している兜を、ヴェインに促されでもしたのであろう、彼はゆるゆると外した。髪を短く刈り込んだ精悍なおもてが神妙な顔をしている。
 あんな顔をしていたのか、と庭師は思った。ジャッジマスターの素顔を見る機会など、一介の使用人にはほとんどない。表向きには法を司りながら、実質は死刑執行人に過ぎぬと口さがない風評も絶えぬ。特に、兵士として駆り出された経験のある使用人たちからは、ジャッジマスターたちは一様に恐れられ、また嫌悪されていた。異国の出であるガブラスは、ことさらに。
 ――しかし、
(ふつうの人間だ)
 夕刻に差し掛かり、赤みを強く帯びた光を反射する硝子窓の向こうに立つジャッジは、単なる人間に見えた。戦地の風に晒した深い鋼色の鎧は確かにものものしく、腰に佩いた二刀の切れ味は疑うべくもないが、それだけだ。
 言われてみればアルケイディアとは違う血が流れているようにも見える頬骨のかたち、しかし切長の目はそう珍しいものでもない。やや太い鼻梁が男の顔立ちに一本、しゃんとした線を引いている。美男の部類に入るのだろうが、わずかに左右非対称の顎――戦士ならば不思議ではないが、古傷でもあるのだろう――と険しい角度の眉は、高貴な令嬢や気弱な民衆を怯えさせるには充分かもしれない。
 少しばかりの手入れを終えて、庭師は場を引き上げた。その十数分の間、ソリドールの三男とジャッジマスターは彫像のように動かず、表情筋の一筋も変えることなく、当然のことながら庭を一瞥することもなかった。

 5
 
 庭師が親しくしていた清掃人のひとりが、突然に職を辞することとなった。その話が耳に入った時には彼はすでに宮殿を去っており、庭師は夜の自由時間を割いて久方ぶりに市街地に降りた。
 かつての宮殿清掃人は一般市民らしい平服を着て、町外れの広場の隅で庭師を待っていた。よお、と片手を挙げる気安さはかつての彼のものだったが、精彩を欠く表情は夜闇にも隠しきれない。
 この男と庭師が知己となったのは、彼に手話の心得があったためだった。どういう経緯で身につけたものかは語られなかったが、皇帝宮で働き始めてからようやっと手話を学んだ庭師にとって、唖者ではないこの男は実践における教師のようなものだった。
『来てくれてありがとうな』
 皇帝宮の中では、彼は手を動かすのと同時に声を出すのが常だった。庭師が唇を読めるのを知っていたからだったし、もうひとつには、多くの人間が解さない言語で話し込む姿が好ましくは思われないであろうという気遣いからでもあった。しかし今夜、彼は口を噤んだまま指だけをひらめかせる。
『急なことで驚いたろう』
 実はおれも驚いてる、と、その時ばかりは冗談めかした目で笑った男は、当座の暮らしのことを話し始めた。
 辞職といっても何か問題を起こしたわけではなく、予想していた以上の一時金が支払われたこと。その金でアパートメントの一室を借りたが、取り急ぎ決めた部屋なので狭く使い勝手が悪いこと。絨毯の敷かれていない床を踏むのに違和感を覚えること。しかし、堅苦しい制服を着ずに済むので慢性的な背中の痛みが楽になったこと。市街に暮らしている妹夫婦には何の不利益もないこと。
 もとより「会話」の習慣のない庭師は、これといった相槌も打たずに元同僚の話を聞いた。一方的にまくしたてる近況報告を十五分ばかり聞いただろうか、時折通りすがる人々が手話を使うふたりの男を奇異のまなざしで覗き見るのを感じる。情報の支配するこの街では、人々にとって音声こそが最大の武器であり、それを持たぬ――実際には言葉を使役するやり方が異なるというだけだが――者が、何か欠けているように見えるのだろう。持てる者の傲慢だ。
『――心配してくれたんだよな』
 しばしの沈黙ののち、不意に投げられた問いに、庭師は頷いた。友人は気さくだったが、決して不真面目な男ではなかった。ねずみのようにくるくると動き、細かなところにもよく気がつく。使用人同士の揉め事に居合わせればまごつきながらも場を収めようと苦心し、己が道化となることも辞さないような男だ。その彼が何故、と思うのは庭師だけではない。
 友人は小さく息を吐き、前を向いたまま眼球だけをぐるりと動かした。猟師の気配を探る小動物のようにしばらくそうしていたが、急に腕を伸ばし、庭師の頭を抱えるように肩を引き寄せる。
「……おれは戦場に行く」
 その言葉は囁きよりも小さく、ほとんど吐息だけだった。戦場、と聞いてびくりと肩を強張らせる庭師をさらに強く引き寄せ、男は続ける。
「知ってるだろ、十三局」
 第十三局といえば、先だってのナブラディア侵攻の主戦隊であり、その最高責任者であるジャッジ・ゼクトが侵攻直後に消息を絶ったとあって、昨今の皇帝宮でも耳目を集める部隊だ。
 しかし、ただの使用人に過ぎず戦闘の心得もない彼が、どうして。
「兵隊じゃない、ジャッジマスターお付きと言や聞こえはいいが、単なる使い走りさ。少しわけがあってな――ま、某局からのご指名だ」
 局、という単語に庭師は目を見開いた。こうぼかすからには、第十三局の新たなマスターであるギースの要請ではない。ではどの局の、誰の指令なのだろう。
「詳しくは言えんし、何しろ俺も聞かされちゃいない。しかし前線に立つことはないし、半年もすりゃ、もとの職場に戻れるんだと」
 だから心配するな、と彼は庭師の肩をぐいと引き剥がした。いつもかぶっている帽子を奪い、友人は唖の髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。
「なあんだよ、おれがいない休憩室はそんな寂しいかあ?」
 泣くこたねえだろ、と大仰に混ぜ返すような声を出しながら、清掃人だった男の目は緊張に引き攣っていた。もう何も聞くな、何も言えぬと切実に訴えるまなざしに、庭師もそれ以上の追及を諦めざるを得ない。
 監視されているのだ、この男は。おそらくは、彼を第十三局に押し込んだ何某の下知によって、彼が秘密を漏らさぬようにと。出会い頭から途切れることなくまくしたてた他愛のない近況も、囁きの打ち明け話の前に視線だけで辺りを伺っていたことも、たった今、まるで脈絡の外れた揶揄で庭師の肩を叩いたことも、すべてそのせいなのだ。
 ひょっとしたら、と庭師は邪推する。市街に住んでいる妹夫婦が息災だというひとくだりを思い出すと、あるいは彼の唯一の身内である妹夫婦が人質に取られたのかもしれない。どの局の手配によるものかは分からないが、それがいずれであれ、ジャッジらしいやり口だ。
 彼は逆らえない。一生を宮殿の清掃人で過ごせれば平穏だったものを、ただ少しばかり機転が効いたばかりに、望みもせぬ場所に送り込まれてしまうのだ。何らかの厄介な、あるいは恐ろしい任務を負わされて、彼はもう数日もしないうちに第十三局の艦船に乗り込まなくてはならない。
 どこかに監視がいるのならば、これ以上、庭師に出来ることはなかった。この喉が常人のように動けばひとことふたこと言えたこともあっただろうが、望むべくもない。頑として震えぬ声帯をこれほど恨めしく思ったことはなかった。
 だから庭師は、出来るだけしおらしく俯き、手首から先を控えめに動かした。どうか元気で――どうか無事で、と言いかけたのを何とか堪えて。
「おう、ありがとうな。まあそのうち酒でも呑もうや、おまえの花を肴にしてさ」
 そうして戻された帽子のつばを、庭師はぐっと引き下げた。見送ってくれる友人の視線を背に感じながら、彼のついた嘘の通り、あたかも涙を呑み込んでいるかのように目元を隠したまま、中枢区に繋がるリフトを目指す。眼球はからからに乾いていた。

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