光の庭

第一章 ホワイトリーフ

 1
 
 男はインフォメーションセンターのカウンター前に立ち、数えられるホワイトリーフをじっと見つめていた。一枚、二枚、数多の手をわたり擦れたリーフはそれでも白く、カウンターのランプの光を反射して男の目を刺す。
「よくここまで集めたもんだね」
 センターの係員が感心したような声を出すが、男は首をわずかに動かすにとどめた。
 帝都アルケイディス、価値体系の狂った街。カネを払って買おうとすれば目の玉の飛び出るような額を求められるくせに、このホワイトリーフは他愛もないことで、思いもしないきっかけで、土に汚れたこの手に転がり込んでくる。
 男にリーフを差し出してきた二十八人は想像もしなかったに違いない。彼ら彼女らがほんの思いつきのように、それなりの憐れみとともに、己の慈善欲と自尊心を満たすことを目的として、犬猫にパンのかけらを恵むように与えたリーフが、これから男の人生を変えようとしていることなど。
 係員が二度目のカウントを始めた。男はまばたきもせずに重ね直されるリーフを見つめる。十二枚、十三枚。心は不思議と凪いでいた。今日まで幾度となく数え直したのだ。間違いなく二十八枚あった。万が一、この係員に誤魔化されたとしても問題はない。男はポケットに突っ込んだ手の中で二十九枚目のリーフを握り締めている。
「二十八」
 幸いにして、この係員はひとのリーフをちょろまかすような小悪党ではなかったようだ。ぱちん、と硬い音とともに二十八枚目のリーフが積み上がる。
 係員は目を上げて男を見た。存外に柔らかな目をしていた。
「おめでとう」
 そうして男はブラックフェザーを手に入れた。新市街に足を踏み入れてから、五年目の冬だった。

 2
 
 男は旧市街で生まれた。母親の顔は知らないが、父親は勤勉だった。学はなくとも幸い、草木の世話をして日々の糧を稼いぐことはできた。花や樹が好きなようには見えなかったが、実際のところ悪い職ではなかった。帝都の中枢に放棄され忘れられた旧市街でも――あるいはだからこそ――花が咲けば愛でられたし、実る果実は男と父に日々の糧をもたらした。
 父親はあまりに寡黙だったので、その息子がであることに気付くのが遅れた。息子が従順な性格であったことも災いして、専門科など持たない町医者に見せたときにはもう、男が声を出せるようになる見込みはなかった。父親は夜毎に己を責めたが、男は哀しくなかった。
 声は必要はなかった。語るべきことなどなかった。訴えたい想いも見つからなかった。土を掘り返し種や苗を埋め水を与え弱い芽を間引く毎日に、己の言葉などどれほどの価値があるだろう。
 喋ることができない代わりなのか、男の耳はひとよりも敏かった。土にスコップを差し込む音だけで地質が分かる。熟れ始めた果実を指で叩けばそれが食べ頃かどうか判別できる。数十歩の向こうにいる父が背を向けたまま男の名を呼んでも、すぐに気づくことができた。
 その耳が幸いして、親子はアルケイディスの市民権を得ることができた。警備兵の目をかいくぐって旧市街に降りてきた子供が、路地裏で足を痛めて泣いていたのを助けてやったのだ。
 この大それた冒険をやらかした子供はアルケイディス新市街でもそれなりの家柄の息子であったらしく、男が子供を見つけたその頃、高層部では上を下への大騒ぎだったらしい。見るからに身なりのいい子供が空き樽の隙間に挟まってしくしく啜り泣いているのを発見した男は、擦りむいた膝を洗い、挫いた足首にできるだけ清潔な布を巻いて、朝採れた林檎をひとつ食わせてやった。それから、泣き腫らした目の子供の手を引いて、旧市街と新市街を隔てる階段に立ち塞がる兵士に引き渡した。
 なにごとかと身構える兵士に対して事情を説明することは男にはできない。ただ子供を預けて去ろうとした男を引き留めたのは当の子供で、さすがに家柄がいいだけあるのか、迷子になったところをこの男が助けてくれたのだと辿々しくもはっきりと述べる。
「ですから、お礼がしたいのです。兄上を呼んでいただけますか」
「しかし、ラーサー様」
「お願いします。兄上に、どうか」
 兵士がためらいがちに呼んだ名には、さしもの男にも聞き覚えがあった。年老いた現皇帝の、目に入れても痛くない末子。それなりの家柄、どころの騒ぎではない。いよいよ面倒に巻き込まれるのはごめんだと踵を返そうとした男の袖を、子供の白く細い指がぎゅうと握り締める。
「あなたも、お願いします。ぼくはただお礼がしたいだけなのです」
 見開いた眼窩から零れ落ちそうな瞳が、男を見つめていた。この世に生をけてからまだ五年ほどしか経っていなはずなのに、硝子玉の瞳には真摯な威圧感がある。これが皇帝の血筋ということなのだろうか。男は降参して、子供と共に兵士の通信が終わるのを待った。
 結果として、子供の兄君は現れなかった。当然だ。いかに末弟が可愛かろうと、このアルケイディアをしろしめすソリドール家の男がおいそれと旧市街に降りるわけにはいくまい。
 代わりに子供を迎えに来たのはソリドール家の侍従という厳めしい老爺で、ことの次第を詳らかにせんと意気込む子供を掌ひとつで押し留めると男に相対した。
「このたびは殿下をお救いくださったこと、感謝申し上げる」
「……」
 男はぎくしゃくと頭を下げた。物言わぬ男に不審な顔をするでもなく、侍従は白手袋に包まれた手を懐に差し込む。
「ときに、ご家族はおありかな」
 返事の代わりに男はひとつ頷く。日が暮れ始めていた。住処では父親が帰りの遅い息子を待っているだろう。声は出ないが、こちらをまっすぐに見据える侍従には伝わるだろうと唇を大きくゆっくりと動かした。ちちおやが。
「あなた、声が」
 成り行きを見守っていた子供が、高く鋭い声を上げた。今の今まで気づかなかったのだろう。この子供は沈黙に取り巻かれているのが常なのかもしれない、と男は思った。誰もがしずしずと、余計なことなど言わずに立ち働いている。洗練された屋敷の、上等な調度品の並んだ部屋で、この子供は幽霊の静寂に包まれて生きているのかもしれない。想像すると、不意に子供がいじらしくなった。
「……お父上とおふたり、ということですかな」
 男はまた頷いた。言葉が必要な場面というのは己にとっては実に不便だが、唇を引き結んでこちらを凝視している子供を思うと厭わしい一方とも思えない。この侍従はどれほど子供と口をきいてやっているのかなどと要らぬ疑問さえ浮かんでいた。
 それでは、と侍従は掌を開いた。傾き始めた日のもとで輝くような白い絹の手袋の上に、乾いた骨のような金属片が三つ並んでいる。手品のようだ、と男は思った、その傍らで子供が喜色を満面にして笑う。
「こちらをお持ちください。お父上とご一緒に」
 閣下の、と侍従は言った。ヴェイン閣下直々の申し出です。弟を保護してくださった方に、正しきを成した者に、出来る限り報いたいと。
「ソリドール家は、あなたがたをアルケイディス市民として歓迎いたします」
 かちん、と軽い音と共に、三枚のホワイトリーフは男の手の中に転がった。呆然と立ち竦む男をよそに侍従は美しい姿勢で頭を下げ、子供は男の空いている方の手を握った。
「ほんとうに、ありがとうございます」
 いつかまた、どこかでお会いできたら嬉しく思います。
 侍従に手を引かれ階段をのぼってゆく子供の背が見えなくなり、それでも男はその場から動けなかった。
 ぽかんと口を開けた唖の男に、なりゆきを見守っていた警備兵は早口に警告した。失くすなよ、盗られるなよ。とっとと親父さんのとこ戻って、とっとと上に行きな。明日にでも、いや今日のうちにしな。おれがここにいるうちは、あんたの顔だけで通してやる。面倒な申請も聴取もなしだ、全部見てたからな。さあ、急ぎな、あと二時間で交代の時間になっちまう。考えるのは後だ。急ぎな。
 ついに背中まで叩かれて、男は弾かれるように走り出した。父親はホワイトリーフを見て椅子から転げ落ちんばかりに驚愕したが、速やかに荷物をまとめると住処をあとにした。焦れたように辺りを見回すあの警備兵に駆け寄りながら、残してきた畑や木々の世話を誰かに託すことができなかったのが気がかりだった。

 3
 
 親子はアルケイディス市民となった。旧市街とは比べ物にならぬほど壮麗な新市街の片隅で、老い始めた父と声を持たぬ息子はじっと息を潜めて様子を窺っていた。
 ふたりの人間に与えられたホワイトリーフは三枚だった。つまり、余った一枚は売却して当座の生活費に充てろということだ、と教えてくれたのはあの警備兵だ。その通りにして得たカネで、ふたりは住むところを決め、ほどなくして街の園丁の仕事を得た。
 アルケイディスは巨大な積み木細工のようなものだった。大地に触れているのはほんのわずかで、天を摩するばかりの建物が所狭しと立ち並ぶ。首が痛くなるまで見上げてもその先端には届かない。
 危ういばかりのバランスを保って伸び続ける街で、それでも市民は緑を求めていた。はるか下層から土を運び入れ、街路のあちこちに樹を植え、花壇を据える。情報などというまるで実体のないものをせかせかと追い求めるアルケイディス市民でも、花が咲けばそれなりに目をやるのだと思えばおかしかった。
 男はよく働いた。己の持つ情報こそが新しく貴重なのだと誇り合う人々を尻目に、彼の敏い耳は土の音だけを聴いた。種と種を擦り合わせて、その音の違いから芽吹かないだろうものを弾くのが得意だった。土に浸み込む水の音を聴けば、少なすぎず多すぎず適切な量を与えることができた。そのうちに、男はひときわ美しい花を咲かせる園丁だと言われるようになっていた。
 黙々と――声を持たぬ男にはそうするより他にないのだが――働いていると、ある日、老婦人に声をかけられた。ここのお花を世話してくれているのはあなた? 肥料を撒く手を止めて頷くと、婦人が一枚の金属片を差し出した。ホワイトリーフだ。
「いつも素敵なお花をありがとう」
 たまには情報以外のものにも価値を見出したくなったのだ、と笑う老婦人の言葉の意味はよくわからなかったが、男はリーフを受け取った。あの日、ソリドール家の侍従から受け取ったそれよりもいくらか古ぼけてはいたが、その白はやはり鮮烈だった。
 情報ではなく季節の花に対価を差し出す物好きは、それからも時折現れた。それはこまっしゃくれた子供であったり、したり顔の紳士であったり、甲高い声の娘であったり、あまり賢そうには見えない若い男であったりした。日々の暮らしは園丁としての賃金で賄えていたから、使い途のないリーフは貯めておくしかなかった。
 アルケイディス市民となって数年後、父が病に倒れた。今こそがリーフの使いどきと心得た男は仕事仲間のつてを辿り、医者を探した。唯一の家族だ。十枚ばかりあるリーフすべてを差し出しても構わない、どうか父を助けてくれと医者に頭を下げた次の日の朝、父は眠ったまま息を引き取った。医者への礼に二枚、父を葬るために三枚のリーフを使った。男はひとりになった。
 七日間の喪に服し、男は園丁の仕事に戻った。土塊をほぐし、水で和らげ、肥やしで補い、選った種を埋め、若い苗を植え、雑草を除き、弱い芽を間引いた。父がそうしていたように。
 男に割り当てられた区間では、季節ごとに見事な花が咲いた。ろくな身繕いもせず、使い慣れた道具を納めた袋を担いで身体のあちこちを泥で汚したままの男のことを、ほとんどの市民が黙殺した。美しく咲く花を愛でる彼らは、そこに美しい花が咲いているという情報のために、あるいは咲いている花が美しいと認識できる己の高尚さを仄めかすために、花を見るのだ。咲く花の傍らで、男は背景にすらなり得なかった。震えない声帯を持つ男は、目の前で花が手折られても見逃した。
 花は誰のものでもないことを、男は知っていた。仕事仲間は男の腕を褒めるが、己がおらずとも花は咲くし、咲いた花は美しい。すべてが定規で描かれたようなこの街の作法に従い花壇の中も一定の秩序のもとに整えたが、花は整列などしていなくても咲くのだ。肥やしをやらねば咲けぬ花は本当に美しいのだろうか。養分を奪うからと引き抜いた雑草の方が、立派な花を咲かせるのではないか。
 手ずから守り、育て上げた花をどうにも遠く感じながら、男はある子供のことを思い出す。何年も前に出会った子供、旧市街に忍び込んで、裏路地に迷って泣いていた子供。昨年十歳の誕生日を迎えたソリドール家の末子は、齢にそぐわぬ聡明さを早くも発揮しており、歳の離れた兄からよく学ぶという。あの子供は、と男は思う。
 あの子供は、花なのだろう。アルケイディアという庭の、ソリドールという温室の、いっとう奥に大切に大切に植えられた、たった一輪の花なのだろう。
 灌木の陰に屈み込んだ男は、誰にも見咎められず苦笑する。特異な環境に育てられた花は弱く、その盛りは短い。そんなものに喩えたことが分かれば、不敬と謗られるだろう。口がきけないのもたまには役に立つ。

 何か月かに一度、リーフを差し出す者が現れる。男はそれを受け取り、滅多に開けない鍵付きの小箱に収める。
 ある休日に思い立って数えてみたら、二十六枚あった。仕事仲間から聞いた話では、リーフ二十八枚でブラックフェザーと交換してもらえるという。
 ブラックフェザーの持ち主は、中枢区への立ち入りを許可される。中枢区にも花壇はあるだろうか。訪れる者もない狭い部屋、軋んだ音を立てるベッドに寝そべって、男はあの子供の声を反芻した。
 ――いつかまた、どこかでお会いできたら嬉しく思います。
 あの子供は、今の自分を見て気づくのだろうか、とぼんやり思った。上等な磁器のように華奢な膝が擦りむけ血を滲ませているさまを、今でも鮮明に記憶している。
 男は二十六枚のリーフを数え直し、箱に収めて鍵をかけ、出来るだけ人目につかないところに仕舞い込んだ。あと二枚、いや予備を含めて三枚。それだけ集めたら、フェザーを手に入れよう。そして仕事を斡旋してくれる当局に、中枢区で園丁の仕事がないか訊く。男の仕事ぶりは今や当局も認識するところだ、きっと悪いようにはなるまい。
 あの子供、ラーサーにもう一度会ってみたかった。会ったところで何をどうするあてもまるでなかったが――花を渡してやるのも悪くはない気がしていた。
 ほどなくして、二十九枚目のリーフが手に入った。一枚を残してフェザーに替え、最後の一枚は都市整備局の窓口に渡して中枢区での仕事を探した。男のことを聞き伝えに知っていたという係員が、ちょうどいい公募がひとつありますよ、と笑う。
 差し出されたファイルの勤務先には、こうあった。皇帝宮内部。

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