光の庭

第三章 ガブラス

 1
 
 それからしばらくして、ヴェインが旧ダルマスカの王都、ラバナスタに派遣されることが決まった。帝国政務官の筆頭、皇帝グラミスの継子である彼が、かの戦略的要地を抑えることになったのは当然のことだろう。
 そうなれば、この庭を見るものもなくなるか、と案じていた庭師に、当の本人が心配は無用であると言う。
「今はアルケイディアにとって極めて重要な時期だ。ダルマスカを疎かにするつもりはないが、情勢が安定するまではこことラバナスタを頻繁に行き来することになろう。しかし、」
 それは残暑の厳しい昼下がりのことだったが、シャツの袖を捲り上げ首元を大きく開けた庭師とは対照的に、ヴェインは正装の襟も乱さず涼しい顔をしていた。貴人というのは、身体のつくりからして違うのだろう。
「アルケイディアは『ここ』だ――我が愛すべき都は、アルケイディスをおいて他にない」
 鉄鍋の油に煮られるような暑さを、花壇に植えた向日葵だけが謳歌している。彼の庭に植えるにはいささか能天気過ぎるのではないかと懸念していたが、黄色い花弁を見上げるヴェインを前に、庭師は己の懸念が当たったことを知る。来年は他の花を植えることにしよう。
 当の本人から花を求められることは、もうなかった。たまさか訪れる幼い王子は庭師の姿を見れば花をねだったが、それは花の美しさを愛でるためでも、それを咲かせる園丁の腕を讃えるためでもなく、単に兄の歓心を惹くためである。白い繊手が折々の彩りを手に兄を振り返るたび、庭師は憐れみと空恐ろしさとを同時に感じた。
 ラーサーは聡明な子供だった。その父と兄を見れば血筋の優れたことは言及の要もないが、それだけでは説明しきれないものがこの子供にはあった。
 土と草木ばかりを相手にしてきた庭師にさえ、ラーサーがさまざまな意味で並外れていることはよく分かる。機敏な受け答え、選ぶ語彙、それだけならばこの伏魔殿じみた皇帝宮に生きる大人たちを真似ているのだろうとも言えたかもしれないが、真実恐るべきは、その洞察力だった。
 おそらくは使用人たちの、あるいは市街の民草たちの交わす断片的な噂話に、よくよく注意を傾けているのだろう。細かく切られたパズルのピースよりも頼りない情報の切れ端を集め、いま世界では――ラーサーの触れることの叶わない外の世界では――このようなことが起きているのではないか、と吟味の末に仮組みをする。そして、敬愛すべき兄の膝に懐きながら問うのだ。
 兄上、議会で紛糾している件が、帝国軍再編を見据えたものというのは本当ですか。
 兄上、ロザリア国内では何やら不穏な動きがあるそうです。西方総軍はどのように備えるのですか。
 兄上、ブルオミシェイスに流入する難民の数が急増していると市民の間でも話題になっています。我らも何らかの形で支援すべきではありませんか。
 兄上、兄上、あにうえ。
 ともすれば尋問じみた矢継ぎ早の質問、あるいは質問の形をとった答え合わせの要求に、ヴェインはさして動ずることもなかった。少なくとも庭師の見た範囲では。明晰なる王子様の兄上は、もっぱら質問に質問を返すことで場を凌ぎつつ、弟の器量を試しているらしかった。
 帝国軍を再編する緊急性がどれほどあると考えるか、今回の議案がどのように関連するか。
 今、我々が西方総軍を動かすことによってどのような影響が出ると想定されるか。
 支援と一口に言ってもさまざまな手法がある。今もっとも適切な「支援」とは何か。
 いかに賢いとはいえ、ラーサーもしょせん、初等教育を受けるべき年齢に過ぎない。問い詰めてやるつもりで却って追い詰められることに不満な顔をするのはいつものことだったが、兄君は彼を逃しはしなかった。
 考えよ、ラーサー。おまえは聡く、思考に足るだけの情報はすでにその手の中にある。
 考えなさい。おまえが答えを出すのだ。おまえにしか答えは出せないのだ。
「お言葉ですが兄上」
 一度、唾液を呑み込んでから、少年は反駁する。
「ぼくの――わたしの答えなど、取るに足らぬものです」
「何故」
「わたしに答えを出すことを求める者が、どれほどいるでしょうか」
 その時、庭師は清潔な水の循環する池のほとりに膝をついていたが、ラーサーのひとことに危うくひっくり返るところであった。何とも恐ろしいことを言えたものだ、ソリドール家の男ともあろうものが。わずかな沈黙の間、庭師はよもやヴェインが声を荒げるのではないかと肝を冷やした。
「この国の、アルケイディアの答えを出すのは、わたしではありません。父上であり、兄上で――」
「ラーサー」
 懸念に反し、ヴェインは静かなものだった。その静けさゆえに、幼い弟は押し黙るほかない。いっそ恬淡としてさえ見える態度を保ったまま、彼は断じた。
「私を失望させてくれるな」
 ソリドール家の男子たるもの、人々の安寧に尽くさねばならぬ。そのことを忘れたとは言わせない。故に我々は思考することを諦めてはならぬ。情動のみで成せることなど、およそ後先を省みぬ愚行に過ぎぬ。
 そして何より、
「命あるものはいずれ老い、衰え、死ぬ。父上も私も例外ではない。そうなればお前が立たねばならぬ」
 ラーサーは唇を噛み締めて兄の言葉を聞いていた。この歳の子供ならば、そんな理屈は知ったことではないと叫んで逃げ出して当然のことだろうに、彼は机の端を睨みつけたまま、血の気の失せた顔でじっと耐えている。
 いじらしいと言うべきか、哀れと呼ぶべきか。庭師は初めてこの庭でヴェインと相見えた時のことを思い出していた。明日には枯れる花とは果たして、偉大なるグラミス皇帝のことか、あるいはその先に垣間見える自身の末路を指すか。
「理解したな、ラーサー」
「……はい」
「今日はもう下がりなさい。私にも仕事がある」
「……分かりました。兄上」
 お邪魔をいたしました。俯いたままようようそれだけを吐き出した少年は、力なく扉を抜け、去って行った。
(いじらしいのか、哀れなのか、あるいは)
 あるいは、
(幸せなのかもしれない)
 そう考えたのはただの思いつきに近かったが、悄然たる弟の背を見送るヴェインの横顔を見ると、あながち間違いでもないのかもしれない。
 次期皇帝たるべき男は、常の鉄面皮を崩さぬまま、わずかに、ほんの少しだけ、唇を引き上げたのだった。ひどく満足そうに。

 ラーサーが立ち去ってからしばし、仕事があると言ったのは本当だったようで、ひとりの男がヴェインを訪れた。捻れて突き出した角の兜、あれはジャッジ・ガブラスだ。
「閣下、ご報告申し上げたき儀が」
「聞こう」
「は、しかし、」
 ガブラスは庭師を気にかけていた。諜報を担う第九局だ、ジャッジマスター直々にヴェインに報告するのならば相当の機密であろう。いかに庭のあるじが許そうと、ここに留まるわけにはゆくまい。庭師は並べたヒヤシンスの根が池の水に浸っているのを確かめ、速やかに立ち上がった。
「構わぬ」
「閣下」
「私がよいと言っている。――仕事を続けてくれ」
 表情のない兜と、兀然たる美丈夫との板挟みとなった庭師は、無論のこと狼狽した。藁にも縋る思いで常に控えているヴェインの侍従に目を遣ると、彼は無言のまま頷く。つまりは、あるじに従えということだ。
 考えろと怒られていたラーサーを哀れむ資格など、自分にはなかった。何も考えられぬまま、強いていえばその場の多数決をもって、庭師は作業を続行することにした。せめてもの気持ちで、机からは離れた茂みの裏に移動する。
 シャベルやら鋏やらを詰め込んだ道具箱を鳴らして大股に逃げる庭師の背に、ジャッジの視線が突き刺さる。焼けた杭でも打ち込むような視線だった。庭師が灌木に隠れるようにしゃがんだのを待つように、男たちは話し始める。
「――より入った情報――、――の動きが――――」
「――を当たれ、確証が――」
「すでに突き合わせており――――、――の夜に動きがあるのはほぼ――」
「浅はかな――」
 ジャッジ・ガブラスと哀れな庭師にとっては幸いなことに、絶えず流れ落ちる滝の音が会話のほとんどをマスキングしていた。もっとも、固有名詞のたぐいは庭師には聞いたとて理解できまい。知ったところで寿命を縮めるだけだと分かっているため、この空間の異物たる使用人は一心不乱に穴を掘り続けた。球根を植えるにはいささか深すぎると分かっていながら。
 そのまま数十分ほどが経っただろうか、侍従のものと思わしき声が会話を堰き止めた。どうやらヴェインには会議の予定があるらしい。がたがたと椅子が鳴り、足音が歩き去る。終わったか、と庭師は密かに安堵の息を吐いた。
 長いことしゃがみ込んだままでいたせいで、腰と膝が痛む。職業病の一種だが、己が歳老いた気がして嫌なものだ。久方ぶりの自由を味わうべく立ち上がり、伸びをして――庭師は心底から後悔した。
(ジャッジ・ガブラス――まだいたのか)
 彼は密談のためか外した兜を脇に抱え、庭師が隠れていた灌木の向こうに立っていた。鎧の擦れる音がしていたから彼も退出したものと思い込んでいたが、なるほど思い返してみれば去ってゆく足音はヴェインと侍従のものだけだったかもしれない。
 ガブラスは庭師が己の姿を認めたと見るや、大股で距離を詰めた。庭師は内心で嘆息する。ジャッジ連中の具足は鋭く、彼らが行き来したあとはたいてい、芝が傷んでしまうのだ。剥がれてしまえば修繕が厄介なことになる。が、差し当たってはそんなものに注意を逸らすわけにはいかない。
「貴様、名を何と言う」
 生憎と、その問いに答えるべき声を庭師は持たない。ジャッジマスターが手話を解するかどうかは分からなかったが、出来るだけゆっくりと手と唇を動かした。
『私は話すことができません』
 それから、名を刻んだシャベルの柄を示す。ガブラスは差し出されたものと庭師の顔とを見比べていたが、心得たように顎を引いた。
「そうか、声が出ないのだな」
 そのような者がいるとは聞いていたが――と口の中で呟いたガブラスは、いずれにせよ命ずべきことは変わらぬと考え至ったらしく、眉間に皺を刻んだまま言った。
「今日ここで見聞きしたものについては、他言無用だ。承知のこととは思うが」
 庭師は深く頷く。手話を能くする清掃人が去ってからというもの、使用人連中との交流では庭師は聞き役一方だったし、この庭にいることで知った何かを一言でも漏らそうものならどのような目に遭うかは、想像に難くない。
 くどくどと念を押されるかとも思ったが、ジャッジ・ガブラスは思いの外あっさりと踵を返した。庭には一瞥もない。庭師は底冷えのする音を鳴らす鎧を見送り、ガブラスの足跡を目で追ったが、予想に反して芝は傷みも剥がれもせず、やがて何ごともなかったかのように立ち上がった。
 珍しいこともあるものだ、と思う。この庭の芝を潰さずに歩く者を、庭師は自分を除いて二人しか知らなかった。あるじであるヴェイン、その弟であるラーサー。そこへいまひとりの名が加わった。ジャッジ・ガブラス。
 彼も花を愛でることがあるのだろうか。埒もない想像だった。

 2

 ヴェインはラバナスタに移った。帝都に残された恰好のラーサーはこのところ、宮殿で大人しくしているようだ。
「やはりヴェインさまと離れて、ラーサーさまも思うところがおありなのかもしれないね」
 と使用人の休憩室でしたり顔を披露するのは、あのベテランの洗濯婦だ。彼女は指先に貼り付いた糊の薄膜を爪で剥がしながら、恐らくはラーサーの私室があるのだろう方向を見つめてほうと息を吐く。
「元老院がラーサーさまを次期皇帝に……って話があるな」
「聞いたよ、おれも」
 ゴシップのたぐいを集めるのが好きな料理人が声を潜める。それに乗ったのは書庫係の若い男だ。手狭な休憩室に、さまざまな意味合いの詠嘆が広がった。
「どう思うね、ラーサーさま派のあんたとしては」
「やだね、派閥とかそんなんじゃないよ、あたしはただラーサーさまが心配で」
「皇帝にねえ」
「グラミス陛下だってまだまだ――」
「しかしご病気だって芳しくないと聞くぜ」
「そもそも順番で言えばヴェイン閣下が――」
「元老院が何を企んでいるものやら」
 宮殿に仕える者どもといえど、寄り集まればやっていることは市井のものと変わらない。一般市民よりもまともな点があるとすれば、ここでは情報の対価として飛び交うホワイトリーフがないことだ。代わりに茶請けのクッキーが人の手を行き来する。
「いずれにせよ」
 と少し声を張ったのは、宮殿インフラのメンテナンスを担当する機工士のひとりだった。
「あたしたちが今から心配するようなことじゃないね」
 より正しくは、自分たちが気を揉んでも何の意味もない、とでも言うべきであろうと庭師は思ったが、当然のことながら彼の思考を汲み取る者はここにはいない。

 庭を見るべきひとが不在であっても、然るべき調和は保たねばならない。ヴェインがいないのをよい機会と考えた庭師は、人工池に流れ込む滝を止め、水上花壇の大掛かりな手入れに取り掛かった。
 水中から花を咲かせるこの花壇は、前任の庭師の手によるものだ。完成品は大層なもので、煌めく水飛沫を浴びて咲く花の瑞々しさは一級だが、いかんせん世話のしづらいのが難点だった。水耕栽培に適した種を一年中途切れず取り回すのも頭の痛い点だし、水温が下がりすぎても上がりすぎても途端に力を失う繊細な草花たちを維持するのは骨折りだ。
 皇帝宮広しといえど、このような花壇を持つのはヴェインの庭だけだった。他は池や噴水を取り巻くように植えたり、鉢に咲くものを装飾に隠して並べたりするのが通例だ。そちらの方が世話も清掃もしやすい。しかし、庭師の一番の気に入りはつまるところこの庭だった。
 絶え間なく循環する水、帯のように流れ落ちる滝、霧のように舞う飛沫、雫を纏い輝く折々の花。真冬の厳寒期には滝は停止するが、代わりに厚く張った氷が雪華を散らし、この庭の豪奢な清廉さは一年を通じて保たれる。
 ヴェインの苛烈な在り様には、この庭がよく似合う。舞台に誂えた書き割りのように、どの季節でもこの庭を背景として立つヴェインは美しかった。執務の合間に彼は庭に出る。粛々と歩み出でては花々を見つめる、その鍛え上げられた背中を庭師は思い出せるようになっていた。
 後ろ手を組み背筋を伸ばしたその網膜に映るのは、あるいは庭ではなくその向こうの空であったかもしれない。飛び交うエアタクシー、天を衝く尖塔の数々、遠く足元に営々と続くひとびとの暮らし。帝都アルケイディスとはすなわちソリドールの街、ヴェインの都で、それを構成する要素のひとつひとつを数えるように、ヴェインは唇を引き結んだままこの庭に立っていた。
 彼が次にこの庭を見るときのために咲かせる花を考える。庭師は畢竟庭師であり、どれだけ頭を巡らせても殿上人の胸の裡など推し量れない。丹精して整えた庭が、ヴェインにとってどれほどの意味と価値とを持つのかなど判断できない。
 ヴェインに拘っている自覚はあった。過剰なほどに。それは突き詰めればあの夕方、明日には枯れる花を所望されたことに帰結する。
 庭師の仕事は花を育て咲かせることで、枯れさせることではない。枯れる前に鋏を入れて取り除くのが務めなのだから、「明日には枯れる花」など本質的には存在し得ない。
 その出生と地位の重圧に耐え続ける憐れな男の、ほんの気の迷いと断じてしまえば話は早い。奇矯な言動が却って人心の掌握に役立つこともあるだろう。あるいは単に、唖である自分との会話の切り上げ時を探りかね、苦し紛れに廃棄候補を求めたのかもしれない。後者ならばある意味において、ヴェインは庭師の務めに敬意を払ったことになる。咲かせる仕事を損なうことなく、切って棄てても問題ないひと枝を求めるというのなら、それも一種の思いやりだろう。
 分からない。庭師にはヴェインが理解できない。考えるだけ詮なきことと思いながらも、この庭が己の管理下にある限りは思考を止められなかった。
 初夏を超えたチューリップとヒヤシンスを取り除き、庭師は睡蓮を咲かせることにしていた。秋に向いた品種がたまたま、まとまった数手に入ったのだ。もっともヴェインはラバナスタに行ったばかりだから、この睡蓮が開くのを彼が見ることはあるまい、と男は半ば諦めている。
 出たばかりでまだ弱いひげ根を痛めぬよう、慎重に作業を進める。そのまま作業に集中していたが、庭師の鋭敏な聴覚がかすかな物音を捉えた。
(誰かが執務室に)
 庭と執務室を隔てる硝子戸はそれなりの厚さがあり、おそらく庭師でなければ聞き取れはしなかっただろう。清掃のものでも入ったか、と何の気なしに頭だけ振り返り――驚愕したのは庭師だけではなく、侵入者も同様であったらしい。
 「侵入者」はラーサーだった。白く膨らむ袖から華奢な手を覗かせたアルケイディアの王子様は、そこに庭師がいるとは予想していなかったのか、執務室から廊下に繋がる扉を閉じた姿勢で硬直している。供の姿はなく、これが彼お得意の「お忍び」であることはすぐに察せられた。
(逃げるだろうか)
 と思った。ラーサーのことであるから、この時間ここで仕事をする使用人がいないことくらい確かめてきたつもりだったのだろう。実際には庭師がおり、また運の悪いことに聞こえぬはずの物音を聞きつけて振り向いてしまったものだから、今頃あのかたちの良い頭に収まった脳みそが全速力で回転しているに違いない。三十六計逃げるに如かず、に則れば、最善の策は何事もなかったふりをして立ち去ることだろう。
 しかしラーサーは逃げなかった。むしろ真っ直ぐに庭を目指して歩き始める。その右手がトラウザーズのポケットに突っ込まれたままなのが、平素よく躾けられた彼にしては異様であったが、いずれにせよ王子様がそう来るのであれば、庭師に出来ることは立ち上がり、使用人らしく脱帽の礼を執ることだけだった。
 かちゃん、と音を立てて硝子戸が開く。少年は目元を緊張させたまま、それでもにっこりと笑ってみせた。
「こんにちは」
 こうべを垂れる庭師に向かって、ラーサーはひとつ咳払いをする。喉が絡むような歳でもないのに、と可笑しく思う。
「先日、ここに兄上を訪ねた時に忘れ物をしてしまって――留守の隙に入るのは無礼であると承知はしていますが、どうしても」
 本人は出来るだけ落ち着き払ったように見せたいのだろうが、残念ながらいささか早口すぎた。庭師にとっては、ラーサーがここに忍び込んだ理由などどうでもいいし、いちいちソリドール家の家宰に言いつけることもしないのだが、何にせよ少年は後ろめたい動機でここに来て、それを誤魔化すのに必死なようだった。
『ご安心ください、ラーサー様』
 伝わるとは思えなかったが、庭師は手話と唇の動きでもって、この子供を宥めようとした。丸い瞳がぱちくりと動く。
『私は何も見ておりませぬゆえ』
「あなた、声が出ないのですね」
 彼からこの言葉を聞くのは二度目だ。あれはもう七年ほども前になるだろう、かつて旧市街と新市街とを繋ぐ階段の下で、侍従とのやり取りを横で見ていた彼が同じことを言った。あの時は驚きを隠さぬ高い鋭い声だったが、今はむしろ低いささやきに近い。
「――もしや、あなたはあの時の」
 ようやっと思い出したのだろう、ラーサーははっと息を呑み、ひどく慌ただしい仕草で庭師の手を両手で包み込んだ。その拍子に何かがポケットから落ちたようだが、少年の注意はすっかり庭師に集中してしまった。
「覚えていらっしゃいますか、あの時助けていただいた子供です」
 覚えているとも、むしろ今の今まで思い出さなかったのはそちらの方だ。声帯さえまともならそう言ってやりたかったが、庭師は苦笑かたがた、傷ひとつない王子の繊手を軽く握り返す。
「そうですか、よかった――あの後どうされただろうかと思っていたのです、まさかこんな近くに」
 お元気で本当によかった、と繰り返し詠嘆する少年のことを、薄情だとは思わない。表層的な情報が飛び交う帝都、その頂に君臨する皇帝の幼い子供、この皇帝宮という名の温室に閉じ込められ、年相応を遥かに超えた世界に身を置く境遇を思えば、口のきけない男の顔を忘却したとて、責めることこそ薄情というものだ。
 ラーサーの手はひんやりと温度が低かった。先ほどまで水に手をつけていた庭師とほとんど変わらぬ冷たい手は子供らしくなく、しかしそれが似つかわしいのがラーサーだと感じる。その長い睫毛が頬に扇のような影を落とすのを見ながら、これがヴェインの弟か、と思った。
 ヴェインほど周到な演者はいまい。人々が目にする彼は「ヴェイン・カルダス・ソリドール」であり、それはすなわち皇帝の継子、ソリドール家の中核、アルケイディア軍の統括者、羨望と畏怖とを一身に集める類稀なる政務官であることを意味する。彼は常にそのように振る舞い、完璧な「ヴェイン・カルダス・ソリドール」として生きてきた。そこには一縷の綻びもなく、たとえ弟とじゃれるような言葉を交わす休暇中であろうとも、正しく公人としての姿を保つ。
 その徹底した無疵は、却ってひとの想像を掻き立てた。彼は演者としてはおよそ完璧だったが、ゆえにこそ、舞台裏の姿はいかなるものかと邪推させ易いのだ。濃くくっきりと引かれた公私を隔てる線の、その向こうにいるはずのひとりの男の姿を、ひとびとは想見せずにいられない。
 しかしラーサーは違う。ラーサーは「ラーサー・ファルナス・ソリドール」であると同時に、頑是ないひとりの子供だった。より精確に言えば、天衣無縫で好奇心旺盛で、かつ賢く礼儀正しい少年という、彼の天与の性質を統合する人物の名が「ラーサー・ファルナス・ソリドール」であり、ここに公私の別はない。この皇帝宮をひとつの舞台に擬えるならば、この子供はいつだって本人役として、演技のひとつもなくただあるがままに存在している。
 同じ血を引く兄弟でありながら演者と役柄の関係がこうまで違うのは、兄と弟それぞれにそうあれと命じる演出家がいるからであろう。演出家は皇帝か、あるいは――
「あなた、大丈夫ですか」
 場にそぐわぬ空想に耽っていた庭師は、ラーサーの声にはっと我に返った。彼は園丁の汚れた手を握りしめたまま、肌理の細やかな眉間に皺を寄せてこちらを見上げている。慌てて首を振り、何でもないと身振りで伝えた。
「そうですか。屋外での作業はどうしても体力を消耗するでしょうから、気をつけてください。こまめに休んで、水分を摂って」
 こまごまと言い募る内容がどうにもおかしかった。おおかた、自分が外に出る時に侍女あたりから同じことを言い聞かされてでもいるのであろう。まったく素直だ、周りに侍るものたちはこの子供が可愛くて仕方ないに違いない。
 男はうんうんと頷きながら、そういえばさっき何かが落ちたようだが、と思い出していた。ラーサーが自分の手を取った時、何か持ち重りのするものが芝を叩いた音を聞いた記憶がある。すいと視線を走らせれば、ラーサーの斜め後ろに水晶のようなものが落ちていた。
 卵に似た楕円型の結晶だ。表面はつるりと磨き込まれており、陽の光を受けて紫とも青ともつかぬ玄妙な色合いに揺れている。庭師はラーサーに目で断り、腰を屈めてそれを拾い上げた。さして大きくはなく、男の掌にちょうど収まるくらい、重さも大したことはなかった。
 どうぞ、と差し出そうとした瞬間、ラーサーの手が恐ろしく機敏に動き、その石を奪い取る。ほとんど引ったくると言っていいほどの勢いに、庭師は驚き、次いで恐縮した。いかに子供といえど貴人たるラーサーの持ち物を、使用人の汚れた手で勝手に拾い上げるべきではなかったと思い至ったのだ。庭師は一歩引き、深くこうべを垂れた。
「あ、あの、違うんです、その」
「……?」
「ただびっくりしてしまって、落としてしまったことに気づかなかったものですから――ありがとうございます、拾って頂けてよかった」
 ラーサーはラーサーで己の振る舞いに驚いたのだろう。落ち着かぬ口ぶりで礼を述べ、その不思議な石をポケットにしまい込んだ。
「これは、その……あまりに綺麗な石でしたから、兄上にお見せしようと思ったのです。兄上がお戻りになった時にびっくりさせたくて、忘れ物のついでに机の上に置いておこうとしたのですが、よく考えればただの不審物ですよね」
 嘘だな、と庭師は直感した。ラーサーは嘘を言っている。彼は何かを探りに執務室に来たのだろう、その「何か」は恐らく、この石に関係している。
 とはいえ、所詮は園丁に過ぎぬ男にそれ以上の推測は出来ず、たとえ声が出ようとも使用人ふぜいが王子を問い詰めるわけにもいかない。話はそれで終わりだった。

 3
 
 気まずそうな顔をなんとか平然とした表情の下に押し込めようとするラーサーに、ここらが潮時であろう、と庭師は腰から下げた道具入れから鋏を取り出した。足元に積んでおいたチューリップ――植え替えのために取り除いたもの――の山から、出来るだけ状態のよいものをいくつか見繕い、要らぬ葉を切り落とす。
『どうぞ、お持ちください』
 明るい色を選んだ。白と黄と薄紅に茎の濃い緑が映える。差し出されたラーサーは、やはりためらいなく即席の花束を受け取り、無垢な子供の顔で破顔した。
「綺麗ですね。ありがとう、頂戴します」
 差し出されるものを受け取ることを当然とするその笑顔は、彼が兄に懐きながら薔薇をねだった時と同じように見えたが、よくよく探れば他の色が見えたのかもしれない。そうできなかったのは、庭師が目を凝らそうとした瞬間に飛び込んできた声のせいだった。
「ラーサー様、このようなところに」
「ああ、ガブラス」
 庭師とラーサーはほとんど同時に声の主を見た。ヴェインの執務室と庭とを隔てる硝子戸を後ろ手に閉め、兜を脇に抱えたジャッジ・ガブラスは――当然のことながら――ラーサーだけをまっすぐに見据えている。
「閣下がご不在だというのに、何故こちらにおられるのですか」
「この方が庭にいらっしゃるのが、廊下から見えたものですから。よくお花を分けていただくのです」
 チューリップを抱えたラーサーが、上体をわずかに傾けて庭師に目線を送った。そこには見つかってしまった焦りも、嘘をついている後ろめたさもなく、ただ親しい仲の者に同意を求める、他愛ない媚びのかけらだけがある。庭師は努めて頬を引き締め、黙礼した。
「兄上はラバナスタへ行ってしまわれたというのに、こちらの方はこうして庭を整えてくださっているのです。もったいないと思いませんか、ガブラス」
「それは……そうですが」
 大いに苦笑を含んで言い淀むジャッジマスターの様子に、庭師は喫驚にも似た感慨を覚えた。厳めしく、しかつめらしい顔ばかりして、下々には横暴なくせにお偉い方にはへりくだる、それがジャッジという生き物で、こんな連中を束ねるジャッジマスターなどまともではない、使用人連中は一様にそう言っていたのだが。
 そうして思い出すのは、夏の盛りの日に覚えた違和感だった。こんなに重い鎧を纏い大股に早足に歩くガブラスが、芝をわずかも傷めなかったことに気づいた、あの時のことだ。たかが芝を散らさなかったくらいで善人扱いとは純朴が過ぎるとわけ知り顔の得意なひとびとは笑うだろうし、庭師自身もそう躊躇わないでもないが、その躊躇を目の前のやりとりが塗り替えてゆく。
「そうだガブラス、あなたも少し頂いてはどうですか。部屋が明るくなりますよ」
「お気持ちだけ頂いておきます。閣下の庭から花を頂くなど畏れ多い」
「何が畏れ多いものですか、このまま捨ててしまう方がよほど冒涜です。ねえあなた、ここのチューリップはどこかで使う予定があるんですか? なければもう少し頂いても?」
「では私などではなく、もっと情趣の分かるものへお下げ渡しください」
「ガブラス、ぼくはあなたに花鳥風月を愛でる心がないと思ったことは一度もありませんよ」
「殿下、」
 実の兄弟がするよりよほど気安い会話の応酬は、見るからにガブラスの分が悪かった。それはしかし身分の差によるものというよりは、単にラーサーのよく回る口にガブラスが追いついていないからだ。庭師の唇は自然と綻び始めた。ラーサーの一人称が「わたし」でなく「ぼく」のままであることが、いかにも分かりやすく微笑ましい。
「殿下、どうか。お気持ちだけで充分です」
「もう! それならこれを差し上げます。ぼくが貰ったものをあげるのですから、それでいいでしょう」
 ラーサーはわざとらしく頬を膨らませて、自分が抱えていた花をガブラスに押し付けた。これまでにどれだけの血を浴びてきたのだろう、その想像だけでひとを震え上がらせる鋼の鎧に押し付けられた暖色の束は場違いな舞台にも臆さずしゃんと伸び、ようやっと小手に包まれた指に受け取られる。
「それはあなたのものです。ぼくはまた別の花を頂きます」
「花瓶の持ち合わせがありません」
「煮え切らない人ですね、そんなに気に入らないならドレイスにでも贈ればいいでしょう」
「気に入らないのではありませんが……では、殿下からと言付けておきます。ドレイスも喜びましょう」
「違いますよガブラス、それはもうぼくのものではありません。あなたのものなのですから、あなたからの贈り物です」
 ぱしりと言い切る姿勢だけは、怜悧な兄の振る舞いを真似たように有無を言わせなかった。それから大きなまなこをくるりと巡らせて庭師の顔を伺う。
「……あの、すみません。もう一度選んでいただけますか。ぼくの分を」
 ふはっ、と吐息が唇で爆ぜた。声の出せない男にとって、これが文字通りの爆笑だった。
『喜んで、殿下』
 いそいそと屈み込む庭師の隣に、ラーサーも膝を折る。高貴な身分にあるまじき姿に苦言を呈したいのだろうガブラスがいくばくかの逡巡ののちに小さくため息をつくのを聞きながら、こんなに愉快なことはない、と庭師は思った。それから、次に植える花は切花にふさわしいものを増やそうと。
 ヴェインが不在であっても、彼が花を囲い込もうとせずとも構わない。ラーサーの喜びそうな花を探そう。その花のいくらかがガブラスの手に渡ることも想像しながら。楽しい仕事になりそうだった。
 視界の端に、柔らかく重なる花弁が揺れている。ガブラスはどうやら、いかつい小手で花束を潰さぬよう苦心しているようだった。

 4

 世界は皇帝宮の外側にあって、恒星を軸に駆ける天球のようにめまぐるしく回転している。翻って常に静寂を保つ宮殿の庭を渡り歩く男がその報せを受けたのは、ラーサー、ガブラスとの再会から数週間経ったある夕方のことだった。
「おい、聞いたかおまえ」
 一日の仕事を終えて休憩室に入るなり、顔なじみの料理人が庭師の腕を強く掴む。その顔は緊張と興奮がないまぜになり、奇妙な引き攣り方をしていた。
「第八艦隊が全滅だ。ジャッジ・ギースも戦死したらしい」
 庭師は息を呑んだ。艦隊まるひとつが全滅し、ジャッジマスターも死んだとなればおおごとに違いない。一体何が――
「反帝国勢力との戦闘だって話だろ」
「どこの誰だよ、艦隊ひとつ潰しちまうなんて」
「ロザリアじゃないか」
「他の艦隊は何してたんだよ」
「ビュエルバが裏で新型戦艦を建造してたって噂は」
 飛び交う情報もまた憶測と流言の繰り返しに過ぎず、まるで要領を得ない。しかし庭師はそれどころではなかった。
(第八艦隊、第十三局)
 ――おれは戦場に行く。知ってるだろ、十三局。
(ジャッジ・ギース――)
 ――ジャッジマスターお付きと言や聞こえはいいが――
 ――前線に立つことはないし、半年もすりゃ――
 ――だから心配するな――
 喧騒の中、立ち尽くす園丁の脳裏を巡るのはひとりの男の声だった。気のいい清掃人、どうしたわけだか手話が使えて、調子のいいことも言うが、それでも真摯な男だった。密命を拝して人知れず皇帝宮を去り、その身を案じる庭師の肩を力強く叩いた、その温度がもう思い出せない。
 彼は。彼はどうなった。あのお人好しは。くるくるとよく働く、庭師の数少ない友人は。
「おい園丁さんよ、ずいぶん顔色が悪いぜ」
「そりゃあたしたちが騒ぐからさ……ほらあんた、こっち座りなよ」
 まさか第八艦隊に知り合いでもいたのかい、と機工士のひとりに問われて、庭師は震えるように頷いた。この時ばかりは声が出ないのに感謝するしかなかった。声が出せれば、あの友人の名を叫んで喚いていただろう。彼が第十三局に送り込まれたのは機密ゆえだということも忘れて。
 庭師が放心したように座り込むのを見て、休憩室のひとびとは一斉に憐れみをあらわにした。先ほどまで声高に騒いでいた若い連中も、口を噤んで視線を逸らす。
「……気の毒だけど、兵隊ってのはそういうもんさ」
「そんな言い方しなくても」
 誰かが庭師の肩を抱いて背を撫でた。ゆっくりと背骨をたどる掌の感触を不気味に感じて、男はがくりと項垂れる。
 違う、あいつは兵士じゃない。軍人じゃない。清掃人だ。親切な清掃人だった。ごみの分別を丁寧に教えてくれた。どこぞの貴族の落とし物を拾ったと言って下品なデザインのブローチを見せてくれた。酒に弱くても酒盛りが好きだった。手話が使えた。妹がいた。誰にでも愛想がよかった。
 あいつは望んで行ったんじゃない。ただ誰かに命じられて、家族を人質に取られて、無理矢理行かされたんだ。行きたくもなかっただろうに、逆らうことなど許されずに行ったんだ。そして死んだ。巻き添えを食らって死んだ。
「ひょっとしたら、脱出できたかもしれないよ」
「そうだ、ジャッジ・ギースのいた艦が爆心らしいが、離れてた連中のいくらかは助かったらしいぞ」
「明日にでも官報が出るだろうさ、落ち込むのはまだ早いよ」
 かたちの上では励ましながら、実質は慰めと変わらない同僚たちの言葉に、庭師はようようのことで頷いた。逃げ延びた者がいたのならそれは幸いだ。しかし、友は還らないだろう。命令通り、ギースの傍らに侍っていたのであれば。

 それから毎日、戦死者と帰還者の名を伝える官報が発行された。文書担当が写しを休憩室の壁に貼っていたが、何日待っても友人の名は戦死者の欄にも帰還者の欄にも現れなかった。庭師は、友の存在が抹消されたことを知った。

 5

 最後の官報が発行された日、皇帝が死んだ。第八艦隊の壊滅を機にラバナスタから戻っていたヴェインは、父の死を元老院の策謀によるものと断じ、烈火のごとき粛正に着手した。
 その苛烈な断罪は、元老院がソリドール体制に異を唱え得る唯一の勢力であるため、というだけではなかった。死人はグラミスだけではないのだ。先帝陛下の信ことに厚かりしジャッジマスター・ドレイスもまた、命を落としている。元老院の謀略から身を挺して皇帝を守らんとし、しかしその犠牲は報われなかった。真にアルケイディアの平穏を、その指導者たるグラミス皇帝の無事を最期の瞬間まで案じつつ死出の旅路に発ったジャッジマスターは、一夜にして「恐るべき死刑執行人」から「崇敬されるべき帝国の守護者」に成り上がった。
 ジャッジ・ドレイスは派閥入り乱れるマスターたちの中でも、親グラミス派として聞こえていたという。父王の意を汲み、未だ幼いラーサーの目付け兼護衛のような役目も果たしていたそうだ。となれば、かの王子の悲嘆はいかばかりだろうか。
 亡き皇帝とジャッジマスターとを悼むため、宮殿のありとあらゆる庭から白い花を刈り集める。あちらこちらに無様な歯抜けを晒す庭のことなど、誰も気に留めない。
 季節が悪かった。悼花が足りぬ、と家宰や役人連中から小言を言われるが、空気は晩秋の冷たさを孕み始めている。そもそも庭師が育てる花はひとびとの目を楽しませ憩わせるためのもので、誰かの遺骸に捧げることを念頭に置いてなどいなかった。市中の花屋も仕入れに汲々としているらしいが、大地から離れたこの帝都では限界がある。
 まだ硬い蕾のものも含めて切り取った束を抱えて、庭師は回廊を急ぐ。腕の中は澄んだ白と濃い緑でいっぱいだ。原罪から解放されたことを示す純潔の白、死者の栄光が永久に言祝がれることを祈る常盤緑。刈り取られたばかりの枝から立ち昇る青い芳香がやたらと虚しい。皇帝宮から出せる花木はこれで打ち止めだった。
 一般市民が足を運ぶ献花台はゼノーブル区に設置されているが、儀礼用の正式な祭壇は皇帝宮の広間にある。個人としては特定の信仰を持たなかった皇帝の遺志に基づき――彼はキルティア教をたびたび庇護してきたが、それはあくまでも政治的なパフォーマンスに過ぎなかった――葬送は無宗教式で行われることになっていた。アルケイディアでは珍しいことではない。

 庭師は先帝のことを思い出そうとしていた。近年のグラミスは民草の前に姿を現すことに決して積極的ではなかったため、彼をひとりの人間として認識するのは難しい。仰々しい衣を身に纏い、厳しい顔を皺に埋もれさせ、非人間的な鎧のジャッジたちに囲まれて、長く静かな回廊をのろのろと歩く。思い出せるのはそんな様子ばかりだ。
 強いヒュムには見えなかった。老いさらばえた肉体では到底闘えなかったろうし、ランディスやナブラディア、ダルマスカといった諸国を滅ぼした強権的侵略者といった風情も感じさせぬ、それはたった一個のヒュムの男に過ぎなかった。仮にも民選皇帝の地位にありながら、晩年は元老院を抑え込むのに苦心惨憺であったと聞けば、なるほどそうもあろう、と思わせるほどの無力さが際立っている。庭師が遠目に見たことのあるグラミスというのは、つまるところその程度の老人に過ぎない。
 いま少し若かりしころはそうではなかった、とは長く勤める使用人たちの言だ。今から十数年前までは、アルケイディアの指導者といえばグラミス陛下をおいて他にない、と誰もが頷く立派な為政者であったと。その威光に翳りが差したのは、末子ラーサーが産まれた直後に起きた、ソリドール家長男・次男の叛逆未遂事件からであるという。
 栄光華々しきソリドール家の唯一にして致命的な汚点となった実子による実父への謀反について、当然のことながら詳細は伝えられていない。当時を知る者たちの口も重く、庭師が知っているのはただ、長男と次男が何らかの思惑あって父王に叛旗を翻したが失敗に終わったこと、鎮圧から処刑の一連のプロセスにおいて枢軸となったのが、当時まだ十代半ばに過ぎなかった三男のヴェインであったということだけだ。
 ヴェインの兄たちが父帝を弑さんとするに至った陰には、当時のグラミスの専制を快く思わなかった元老院の陥害があったとも噂されている。真実はもはや藪の中だが、あのラーサー贔屓の洗濯婦が言うことには、ラーサーが生まれる前の三兄弟はまこと仲睦まじく、互いに補い合い懇ろに支え合う姿の美しいことは世の賞賛の的であったそうだ。そんな兄弟が、互いに刃を向け合うなど誰も想像できなかったことだと。
 しかし、二人の兄は裁かれた。裁いたのは弟であるヴェインだった。
 ある面から見れば皇帝位を揺るがす大逆事件だが、別の面から見れば単なる御家騒動に過ぎない。それを特異な事件と成しているのは、やはりヴェインの果たした役割だ。帝位を簒奪せんとする兄たちに手を下したのは、本来ならば全責任を負って然るべき父ではなく、当時年端もゆかぬ末弟であったというのだから、ソリドール家はやはり尋常ではない。
 使用人のひとりに言わせれば、そこがヴェインの献身と忠誠の粋らしい。つまり、身内殺しの罪を、この大帝国を率いる皇帝に犯させるに忍びなく、自ら一種の捨て石となったのだと。
 彼の言葉を借りれば「御家にとんでもないケチがつく」ような泥沼に関わらずに済んだことは当時まだ目も開かぬ赤子のラーサーにとって実に幸運であり、ヴェインが返り血に汚れたことを誹るものが現れようと、純潔のまま長じたラーサーがある限りソリドール家は依然として安泰、という筋書きなのだそうだ。
 この穿った憶測――ほとんど妄言に近い――は使用人休憩室を数十分ばかり盛り上げたが、それで終わりだった。何しろアルケイディアは国を挙げて喪に服し始めたばかりであり、使用人たちはひとり残らず、弔い仕度に忙しかったのだ。喪章を制服の肩や胸に刺し、皇家のスキャンダルを話の種にしたことに後ろめたさを覚えながら、庭師を含む使用人たちはそれぞれの持ち場に戻った。

 庭師が花をかき集めているうちに、時刻はずいぶんと遅くなっていた。宮殿のあちこちを静かに、しかし忙しなく行き来していたひとびとの姿はすでに見当たらない。
 自分も急がなくてはならなかった。明日の朝も早くから仕事がある。庭師は腕の中の荷を抱え直し、祭壇の設けられた大広間へと急いだ。
 グラミス先帝の祭壇は大広間にあるが、殉死したジャッジ・ドレイスのものはその隣、普段はサロンとして使用している小部屋に据えられていた。小さいといっても大広間に比べればの話であって、弔問者を迎えるならば充分な空間はある。
 庭師は花束をざっと半々に分け、まずグラミスの祭壇に歩み寄った。儀典通りに最敬礼してから、死体を収めた棺を遠巻きに避けて定位置に花を追加する。細かい見栄えは明日、しかるべき者が修正するだろう。花を飾るのは庭師の仕事ではない。
 残りの半分はドレイスのものだ。サロンに続く扉は薄く開いており、誰かがいるのだろう、弱い明かりが漏れている。それが誰であれ、死者との密やかな対話を邪魔だてするには忍びない。ひょっとしたらラーサーかもしれぬ、と一種の期待に近いものを抱きながら、庭師は長い毛足の絨毯を踏み、素人なりに気配を殺して扉に近づいた。
 確かに先客があった――ゆらりと揺らめく蝋燭だけが灯りのサロンはおおよそのところ闇の帷に覆われていたが、不規則にちらつく炎を鈍く反射する全身鎧は見落としようがない。
 鉛色にも錫色にも見える甲冑、濃緋の紋章を縫い込んだマントは薄い板のように小揺るぎもしない。兜を外し、双剣も帯びぬその背中は恐ろしく無防備で、庭師がその人物を同定するまでに数秒の時間が必要だった。
 それはジャッジ・ガブラスだった。彼の全身はほとんど脱力し、膝だけに頑なな力の入った二本の脚でかろうじて棺の前に立っている。遠目に見ているだけでは呼吸さえ定かではない。作りかけの不出来な彫像が、芸術家のアトリエの隅に放置されてでもいるように見えた。
 ガブラスはただそこに立っていた。ただ立ち尽くし、棺を見下ろしていた。静物画に似たその光景は、庭師を扉の陰に釘付けにする。
 何をしているのだろう、と思った。庭師にはそれが分からなかった。死んだ同僚の死体を収めた棺の前に立ち尽くす人が、故人を悼む以外に何をするかなど凡庸な男にはまるで見当もつかず、しかしジャッジの俯いた頬には涙の一筋もなかった。
 だらりと垂れた指は手甲に包まれたまま、鎧から覗く首元は精悍な戦士らしく筋が浮き、顎のラインだけがときおり静かに形を変える。まばたきさえもひどく遅い。
 庭師は抱えた花を潰さぬように、しかし音を立てぬようにいるので精一杯だった。棺を凝視するガブラスこそが屍に見えた。同僚への葬送とは、果たして本当にこんなかたちをしているのだろうか。ましてや、始終権力争いに汲々としているはずのジャッジマスター同士が。
 何かがあったのだ、ガブラスとドレイスの間に。それはゴシップ好きを華やがせるような甘ったるい色恋などではなく、もっと痛烈で、はるかに陰鬱で、ずっと寂寞とした、苦衷に満ちた何か。それが何なのか、庭師には当然のことながら分からない。
 虚飾の祭壇に押し潰されそうなガブラスの姿を、これ以上は見ていられなかった。揺らぐ燭光の影に身を埋めたまま棺を見つめる男の姿は、見るに耐えなかった。
 庭師は殉死したジャッジに捧げるべき花を皇帝の祭壇の隅に重ね、足音を必死に殺しながら広間から退出した。照明の抑えられた使用人の回廊に飛び込むまで、ガブラスの唇が音を紡がずに動いていたことを思い出していた。庭師の知らぬ祈りを、あるいは懺悔を紡ぐ乾いた唇を。
 ガブラスはあの花をどうしただろう。ラーサーに押し付けられたおとぎ話のように愛らしい花を、ドレイスに渡したのだろうか。
 分からない。もう知ることもない。二度と。

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