噛みつく

 やわらかな微睡みから、スコールは覚醒した。人のいないプールから静かに浮上するように、朝に引き揚げられる。瞼は閉じたままで、カーテン越しのほのかな光を知覚した。そう遅くはないだろう、静かな朝だ。
 深く息を吸い込む。ぐっと膨らんだ胴に、重くあたたかなものがのしかかっていることに気づいた。同時に、同じ質感と温もりを持ったものに自分が頬を寄せていることにも。
(ああ、)
 やわやわと開ける視界がクリアになる前に、頭頂部の髪が吐息で揺らされるのを感じる。彼はまだ夢の中にいるらしい。
 明るい金の髪と、額に互い違いの傷跡を持つ男は、眠っている間の身動ぎが少ない。おまえ、昨日ずいぶん寝相悪かったぜ、と揶揄われるのはいつでもスコールのほうだった。今日もこうして、自分だって窮屈だろうに、眠りに落ちた時の姿勢のまま、決して華奢ではないスコールの身体を抱き込んでいる。
(また、腕が痺れただの何だの言われるな)
 スコールを抱えたのはサイファーだし、その腕を外さなかったのも、そのまま朝を迎えたのもサイファーだ。文句を言われるすじあいはないのだが、わざとらしくイテェイテェ背中が凝ったと騒ぐ時のサイファーは見るからに楽しそうなので腹立たしく、いつも無視している。
 というか、文句を言いたいのはこちらのほうだ。これだけがっしり抱き込まれてしまうと、抜け出すどころか姿勢を変えるのも難しい。下になっていた肩がだるいので仰向けになりたいのだが。
 依然として安らかな深い寝息を頭に感じる。起こしてしまうのがどうにも躊躇われて、スコールはふうと息を吐いた。さっきからサイファーの胸板しか見えていない。スコールよりも体格に恵まれた男は、食べても鍛えても彼ほどは肉のつかない(とはいえ、スコールとて立派な男性で戦闘員なのだから、世間並以上ではあるのだが)恋人が内心悔しがっていることに気付いているだろう。
 唐突に、男の逞しい胸板についた小さな傷が目に飛び込んできた。いつの間についたのか。新しいひっかき傷、ということは下手人は恐らくスコールだろう。いや、恐らく・だろう、じゃなくて間違いなくおまえだ、という突っ込みを幻聴する。そんなに爪が伸びていた感覚はないが、悪いことをした。
(いや、おれが悪く思う必要はないんじゃないか?)
 がっちり拘束されているので今すぐには確認できないが、どうせスコールの身体のあちこちに、男が刻んだ痕が散りばめられているはずだ。上になっているほうの肩や脇腹、内股とふくらはぎがじわじわ痛むのは噛みつかれたからだろう。
(羽目を外すとすぐこれだ)
 位置も数もまるでお構いなしに吸い上げる男を何度叱ったことか。朝の挨拶と同時にキスティスやらセルフィやらから首元を確認されるこっちの身にもなれと言いたい。急に腹が立ってきた。
 首をわずかにずらして、隆起した胸元に唇を寄せる。シャツの襟元を広めにはだければ見えるかもしれないぎりぎりのラインを狙って、ぐうと吸い付いた。
 「ロマンティック」に言えばキスマークだが、要は内出血だ。毛細血管が損傷するくらい吸ってやればいいのだろう。念を入れて長めに食いついて、もういいかと顔を離した。
(……おかしい)
 よく見なければそれと分からないくらいの薄い跡が、唾液でうっすらと覆われているに過ぎない。こんなはずではなかった。これでは数時間と経たずに消えてしまうのではないか。ちゃんと内出血しているかどうかも怪しい。意地になって同じ部分に吸いつくスコールは、自分がまだ寝惚けていることに気づいていなかった。
 吸っては確かめ、首を傾げ、を繰り返すスコールの頭を、ついにサイファーの掌が押さえつけた。
「!?」
「……なぁにしてんだよ」
 厚い胸筋に鼻先から衝突して息を呑んだ。寝起きの掠れた声だが語尾は明瞭だ。
「おっ起きてたのか」
「そりゃ起きるだろ、おまえ」
 ずいぶん熱烈なおはようのキスだな?というサイファーは完全におちょくりモードに入っている。スコールは自分の顔から耳までかあっと熱くなるのを感じた。
「忘れろ!」
 サイファーから、この状況から抜け出そうともがもが暴れるスコールを見下ろして、男は声を上げて笑う。ぐいと腕を突っ張って顔を離し、その勢いのまま、スコールはサイファーの身体に乗り上げた。ひゅー、と品のない口笛を吹くサイファーは完全に覚醒している。寝起きはもともといいのである。
「レオンハート指揮官がキスマークの付け方もご存じないとはね」
「うるさいっ」
「僭越ながら、小官がお教えしましょうか?」
「黙れ!」
 いいざま、スコールは歯を剥いて男の肩口に噛みついた。悔しいのと恥ずかしいので完全に周りを見失っている。犬歯が食い込むくらいの力を込めると、反射的にサイファーの肩が震えた。
「痛えっつうの」
「……知るか、馬鹿。馬鹿サイファー」
「何がしてえんだおまえは朝から」
「うるさい、馬鹿サイファー」
「こっちのセリフだバカスコール」
 いいから質問に答えろ、と迫られるが、答えられるものか。サイファーの首元に顔を埋めて倒れこむスコールの耳に、上機嫌で忍び笑う唇が触れた。