the witness

 必要なのは深い穴だ。具体的には、埋め戻したあとの深さが地表から2.5メートルは欲しい。鼻の利く獣はいくらでもいる。
 幅の広さはそこまで重要ではない。これから埋めようとしているものは、ある程度嵩を減らすことが可能だ。使うマテリアはちゃんと持ってきた。
 この手の仕事に使う道具は少ないに越したことはない。どこから足がつくかも分からないし、何かの拍子にひとに見咎められるかと気を揉むのも厄介だ。ここでもマテリアが役に立つ。あえてクエイクのまま育てずにおいた大地のマテリアを起動するのに、少しばかり手を加えてやればシャベルを担ぎ出すこともない。
 ヴィンセントは夜闇の底で静かに呼吸しながら、手順を改めた。
 大地のマテリアを使って穴を掘る。自分が穴の中に立って両手を伸ばしても地表に届かないほどまで掘ったら、埋めるものを底に落とす。こちらはファイガまで使える炎のマテリアを起動させて、埋めるものを速やかに燃やす。燃え切ったところで鎮火させるのには、トルネドを応用するのがいいと最近気がついた。それまでは冷気のマテリアで作った氷をぶつけて消火していたが、大量の水蒸気と爆音が発生してしまうのがいただけない。それよりも、威力をごく弱めたトルネドで火元を覆い、酸素の供給を絶って鎮火させるのが効率的だ。あとは埋め戻して、用心のために一帯にヘイストをかける。勝手に育つ雑草が、穴の痕跡を覆い隠してくれるだろう。
 手違いさえなければ、四十分ほどで全工程が完了するはずだ。画面の輝度を最低まで落とした通信端末を確認すれば、一通のメッセージが届いていた。
『帰る時に連絡してください。今日はポットパイにしようと思ってパイ生地を買ってきました』
 悪くない。きっと中身はビーフシチューだろう、ティファから質の良い肉を分けてもらったと今朝言っていたはずだ。赤ワインが合うに違いないから、帰りしなに酒屋に立ち寄ることにする。
 では、始めよう。身の程知らずの愚か者を丁重に葬る、慈悲深い作業を。

「……ウド、クラウドったら」
 ごはんの最中に考えごとなんて、お行儀悪いわよ! そう頬を膨らませるマリンの声に、クラウドははっと意識を引き戻した。その拍子に左手からフォークが滑り落ちて、皿とぶつかる甲高い音にデンゼルが眉を顰める。
「もうクラウド、聞いてるの?」
「――聞いてる、悪かった」
「にんじん嫌いなの? 好き嫌いしちゃだめよ?」
 日に日にこまっしゃくれた言い回しの増えてゆくマリンに、クラウドは曖昧に微笑む。さっきまで齧っていたのが人参のバターソテーであることも分かっていなかった。マリンの言葉に何を思ったものか、デンゼルが無言のまま大口を開けて鮮やかなオレンジ色を放り込む。
「あんまりうるさく言うなよ、クラウドだって仕事があるんだから」
「みんなでごはんなんだから、仕事のことは考えちゃだめ!」
 本人なりに取りなそうとしてくれたデンゼルも、返す刀でぱしんと切り捨てられて口を閉ざす。結局、ティファがたしなめて四人の食卓は外見上の平穏を取り戻した。
 週に一度のセブンスヘブンの店休日は、揃って食事を摂るのが決まりごとになっていた。今日がその日で、ティファが市場で買い求めた「店に出すにはものが良すぎる」牛肉のステーキをメインにした夕食は、確かに上の空で味わっていいものではない。
「美味しい」
「でしょ、ソースを新しいレシピにしてみたの」
「わたしもそのソースがよかったあ」
「ワイン使ってるから、マリンはもう少しお姉さんになってからね」
「うーん」
 絶妙な加減で火の入った肉の断面に、深いボルドーブラウンのソースを絡めて口に運ぶ。バターのコクに赤ワインのかすかな酸味、全体を上手くまとめているのははちみつの甘みだろう。セブンスヘブンをビストロと紹介していた情報誌を読んだことがあるが、ティファの腕はなるほど場末の酒場の域を大きく超えている。
 白い皿に広がったソースの色が悪い。クラウドを釘付けにする映像が、記憶からまた蘇ってしまう。

 その光景を目にしたのは全くの偶然だった。細々とした配達の最中、小回りの利かない相棒を大通りの駐車スペースに置いて路地から路地を渡り歩いていた時のことだ。
 表通りからは喧騒が響き、クラウドの歩いていた小路のそこかしこに人の気配があった。気安い価格の賃貸物件が集まるエリアは夕暮れ時に差し掛かって活気をいや増して、だからこそ些細な物音などを気に留める者は少ないだろう。誰もが帰途に足を早める頃合いに、わざわざ入り組んだ路地裏を覗き込むこともない。
 だから彼は、その場所を選んだのだろう。
 重い箱を運び終えて少し怠さの残る腕をぶら下げたクラウドの耳が、ある音を捉えた。ぷし、とくぐもった破裂音だ。炭酸飲料の缶を開けたようなそれの正体に、しかしクラウドは気づいてしまう――消音装置によって殺された発砲音だ。
 気づいたものを見過ごすわけにはいかなかった。配達中にバスターソードを担ぐ物騒なデリバラーではないから丸腰なのが不安要素だったが、相手がよほどの手練れでなければ肉弾戦でも問題はない。クラウドは足音と気配を抑え込んで、音のした路地に身体を滑り込ませた。
 小路というより単に建物と建物の隙間に過ぎない通路は、積み重なる廃棄物やガラクタの山でひどく見通しが悪かった。よくよく慎重に場所を選んだらしい。反対側から回り込むべきだったか、いざとなれば壁を伝って一気に距離を詰める必要がある。全身の筋肉を緊張させて進むクラウドの足が、不意に動かなくなった。
 止まったのではない、動けないのだ。そこに立っていたのは、既知の背中だったから。
 ビールケースの隙間から立ち昇る硝煙は、クラウドの判断が正しかったことを示している。銃を握る下手人は、厚手の黒いパーカーと何の変哲もないジーンズを身につけていた。足元はおそらくスニーカー、頭にはやはり黒のニット帽を被って髪をしまい込んでいる。しかし僅かに覗いた横顔の、その秀麗な鼻筋のかたちをクラウドは知っていた。
(――ヴィンセント)
 いつものマントも、ガントレットもブーツもない彼の姿は、その辺りにいくらでもいそうな服装であるだけに極めて異様だった。この距離では確証はないが、彼が提げている銃もいつものものではなさそうだ。恐らくは旧神羅軍の一般兵に支給されていた、大量生産品の拳銃だろう。
 ヴィンセントは何かをじっと見下ろしていた。肩のラインが動かない静かな呼吸はやはり彼のものだ。そのまま三十秒ばかりそうしていたかと思うと、不意にパーカーのポケットから眼鏡を取り出す。どこでも売っていそうな黒縁の眼鏡をかければ、全体の印象としては野暮ったい学生のようだった――その足元に、人間の身体がうずくまっていなければ。
 クラウドは逡巡した。ヴィンセントが殺人を犯したのはほとんど間違いない。彼の落ち着き払った態度を見れば、それが衝動的な、あるいはやむに止まれぬもののいずれでもないことが察せられる。彼は殺そうとして殺したのだ。何らかの理由で、ひとを一人殺すために、似合わない服を着て手に合わない銃を調達して、この時間を見計らってこの路地裏を選んだ。
(何故だ)
 ヴィンセントが理由もなく命を奪る人間ではないことをクラウドは知っている。何かがあったのだ。ヴィンセントに、己の過去を慚じる彼にそれでも手を汚させるだけの何かが。それはきっと、彼自身にかかわることではないだろう。己に対する危害ならばその場で返り討ち、侮辱ならば柳に風と受け流すはずだ。綿密な準備までしても殺さなくてはならなかった理由が。
 そんなもの、と眩暈を覚えた。そんな理由はひとつきりに決まっている。ヴィンセントが再び手を汚すというのなら、それは他でもない――
(ッ!?)
 クラウドは鼓動が一瞬停止したのを感じた。全身から冷たい汗がぶわりと噴き出す。ヴィンセントが振り返った。振り返り、こちらを見ている。気のせいなどではなく、クラウドを見据えている。安っぽいプラスチックレンズ越しの瞳は、今は黒曜石のように昏い。
 ヴィンセントは微動だにしなかった。足を踏み出して近寄ってくることも、銃を提げた腕を持ち上げることもなく、ただ同じ場所に立っている。しかし、その影から伸びた触手に四肢を絡め取られたように、クラウドは凍りついたままだった。喉笛に締め上げられるような圧迫感がある。その感覚は忘れようもない、死の恐怖そのものだった。
 不意に、ヴィンセントがポケットから何かを取り出した。薄い板のようなそれは、携帯端末だ。彼は気配を変えぬまま指を動かし、端末を耳にあてがう。数秒後、クラウドの端末が通知音代わりに振動を始めた。
 ヴィンセントの唇が動く。でんわにでろ。
『――クラウド』
 震える指でかろうじて通話ボタンをタップすると、ヴィンセントの声に名を呼ばれた。ごく小さく抑えた、囁きのような声だ。
『何か見えたか』
 その問いは実に平坦で、同じ質問を旅の間に何度か聞いたのを思い出させた。それはたいてい飛空艇のブリッジにいる時で、流れてゆく海や空や大地を眺めて物思いに耽る――時には酔いをごまかす――クラウドを、彼なりに解そうとしたのだろう、旅の終わりに近づくほどにそう尋ねられる回数は増えていった。しまいにはシドが真似するようになり、同じように窓の外を眺めることの多かったナナキやユフィとちょっとした大喜利合戦になっていたのさえ思い出すが、たった今クラウドの頸椎に忍び込んだ冷たい圧迫感は全く和らがない。
『おまえは何も見ていない、そうだな』
 何か見えたか、そう訊かれて、別に何も、と答えたことが何度もある。そうか、と肩を竦めるヴィンセントは、そのうち何か見えるだろうな、と微笑していた。何も見ていない、そんなことは一度も言わなかった。
「……ヴィン、」
 こんなヴィンセントは知らない。
『違うか』
 ヴィンセントのこんな声を、こんな言葉を、こんな姿を、クラウドは知らない。
「……何も、見てない」
 誰が知っているのだろう、このヴィンセントを。知らないのは自分だけなのか、それとも知ってしまったのが自分だけなのか。クラウドは奈落の底に叩き落とされたような寒気に襲われたまま、ようやっと声を絞り出した。
『ありがとう、クラウド』
 そう言って通話が切れるのと同時にヴィンセントの左足が動き、クラウドの視界は砂埃に覆われた。足元の土塊でも蹴飛ばしたのだろう、そう推理する妙に冷静な頭の一部を置き去りにして、クラウドは来た道をよろめきながら辿り直した。後ろを振り向くことはできない。ありがとう、というヴィンセントの声が反響する。

 子供たちを風呂に入れ、歯を磨かせておやすみの挨拶を終えてから、ティファが一杯どう、と笑顔を見せた。帰宅してからこのかた、様子のおかしいことを気遣わせていたのだろう。クラウドはなんとか口角を引き上げて、あまり深酒はしないぞ、と応じてみせた。
 何かつまめるものあったかな、とキッチンを探るティファに、グラスを出すくらいのことはしなくてはと思いながらも身体が動かない。ソファに転がしていた携帯端末を起動すれば、メッセンジャーアプリの画面が開く。
 宛先はリーブ、書きかけのまま未送信のメッセージは『話したいことがある』。
 指先が画面上を惑う。送ってしまうのは簡単だ、所定の位置を軽く叩けばそれで済む。しかし、とクラウドは眉を寄せる。これを送ることは、本当に正しいことなのだろうか。自分はリーブに何を話そうとしているのか。
 ヴィンセントの声が蘇る。ありがとう、クラウド。
 分かっている、彼のしたことは殺人であり、許されないことだ。モンスターを駆除するのとは違う。それが仲間に危害を加える目的があったとしても、殺してしまってはいけない。そんなことをしてもリーブは喜ばないだろう。ヴィンセントが誤った道に在るのなら、正してやりたいと思う。彼は仲間なのだから。
 しかし、ヴィンセントはすべてを分かった上で実行したのだ。激情や気の迷いでの行いではないし、自分の行為が知れたときにリーブがどのように思うかなど、クラウドよりはるかによく知っているのがヴィンセントだ。その上で行為に及んだ彼に、今さらクラウドが何を言っても届くとは思えない。あるいは、従容と法の裁きの場に頭を差し出すかもしれないが――それで何が解決するというのか。
 ヴィンセントが手を汚すのなら、それはリーブのためでしかないだろう。リーブの生命と誇りを毀損したがる輩は掃いて捨てるほどいる。そのうちの一粒を取り上げてヴィンセントがリーブの傍らを離れれば、敵たちに好機の芽を差し出すようなものだろう。残された自分たちが代わりを務めてやることは不可能ではないが、世界再生機構の頭領にとって深刻な醜聞となることは避けがたく、ヴィンセントもリーブもさまざまに傷ついてしまうことは間違いない。
 それは本当に正しいことなのか。ヴィンセントのしたことは、本当に間違っているのか。天地がぐらぐらと狂い始める。決断しなくてはならない。今日の出来事を白日のもとに晒すことか、あるいは全てを呑み込んで墓場まで持ってゆくことか、そのどちらかを。吐き気を覚え始めたクラウドの耳に、ティファの声が届く。
「ねえ見て、リーブから」
 ぎくりと肩を震わせたのを、彼女は急に声をかけたせいだと勘違いしたらしい、ごめんごめん、と言いながら突き出してくる端末の画面は、リーブから送られてきた写真付きメッセージを表示していた。パイ生地に覆われたスープマグと赤ワインの注がれたグラスとが手前と奥にひとつずつ、そのさらに奥には白いドレスシャツの袖から覗く手が指を組んでいる。白い右手、鋭い爪を残した左手――ヴィンセントの。
『美味しいお肉ありがとうございました』
「今日のお肉、ちょっと多かったからお裾分けしたの。ステーキも美味しかったけど、シチューも美味しそうだよね」
 ほらこれ見て、珍しいよね。そう続けて画面を送ったティファが笑う。二枚目の写真。口を開けて、スプーンに乗せたシチューを頬張るヴィンセント。鋭い目尻は柔く解けて、カメラのレンズを向けられていることに照れのようなものを見せている。彼のこんな表情を見ることは滅多にない――リーブ越しでなければ。
「明日はうちもシチューにしようか、鶏肉があるからクリームシチューがいいかな」
「……そうだな」
 クラウドは握り締めていた自分の端末を放り、まずはティファのグラスに酒を注いだ。答えは出ないまま判断と決意を先送りにする己の姑息さから、目を逸らすために。

 ひょこりと顔を出したヴィンセントは、外気の冷たさをまとったままだった。
「おかえりなさい、ヴィンセント」
「美味そうな匂いがするな」
「そうでしょう」
 リーブはふふ、と笑ってミトンをはめた手を振る。実にいいタイミングで帰ってきてくれたものだ。ちょうどパイにいい焼き色がついたところだった。
「手洗いうがいしましたか?」
「念入りにな。知っているかリーブ、バースデーソングが手を洗うのにちょうどいい長さだそうだ」
「それ、子供の学校で教えてるやつでしょう。うちの部下が同じこと言ってましたよ」
 あなたそんなことどこで聞いてきたんですか、と揶揄うつもりだった言葉は、目の前に突き出されたヴィンテージワインのラベルにごまかされる。
「奮発した」
「これはまた……今日は誰の誕生日なんです?」
「さてな」
 ヴィンセントは白いドレスシャツの裾を払って、オーブンの前にしゃがみ込んだ。ボトムスは黒いシンプルなスキニーパンツ、彼はこういう恰好が実に似合う。
「リーブ、焦げそうだ」
「おっといけない、開けてください」
 がちゃんと重い音を立ててオーブンを開けば、焼けるパイと温まったシチューの織りなすかぐわしい香りが一気に広がった。熱気に顔を直撃されたらしいヴィンセントが顔をぎゅっと顰めるのが猫のようで笑う。
「さ、早く頂きましょう。せっかくだからデキャンタージュをお願いします」
「任された」
 年代ものの赤は熟成が進んでいるから、デキャンタに移した方が香りが立つだろう。棚からコルク抜きやグラスを出すヴィンセントを眺めながら、冷蔵庫に冷やしておいたサラダや前菜を取り出してダイニングに並べる。
 どうということのない一日だったが、たまにはこんな贅沢もいい。今日のリーブは決裁資料を捌くのに忙しかったから、舌も滑らかに動きそうだ。
 準備を整え、ダイニングテーブルに向かい合わせに座る。澱の落ち着いたワインを注ぎ、せっかくだからと一枚写真を撮る。
「匂わせ写真、てやつみたいになりました」
「何だそれは」
 小さく笑い合ってからグラスを掲げて乾杯。まずは彼の話を聞いてみよう、返答はおおよそ想像がつくが。
「今日はどうしてました? 僕が仕事してる間」
 ヴィンセントはスプーンでパイ生地を砕きながら、どうということのない顔で肩をすくめた。
「散歩だ」