局長、風邪ひいたってよ。

 リーブは決して虚弱ではない。が、頑健強壮というほどでもないので、たまに風邪をひく。
 たいていの場合は喉の違和感から始まり、一日二日熱を出して、それで落ち着く。場合によっては咳を伴うこともあり、今回もその定型に当てはまるようだ。扁桃腺が腫れるやら咳のしすぎで胴回りの筋肉が痛いやらで、ベッドの上をごろごろしている。
 ――という話を、たまたま道で行き合ったユフィにした。何しろリーブがかくのごときありさまなので、おおよそ生活運営全般に馴染みのないヴィンセントが家事と看病を担わなければならない。せめて何か食べやすいものを、と買い出しがてら店を覗いて歩いていた時のことだ。
「それなら枇杷だね」
「びわ」
 目から鼻へ抜けるような端的さで断定され、ヴィンセントは一瞬反応が遅れた。確か果物の一種だった気がする、くらいの認識しかない。
「枇杷はねえ、喉にいいんだよ。甘くて柔らかくて食べやすいし、葉っぱはお茶にすると咳に効くって言うよ」
 ヴィンセントからすればユフィは「いまどきの若い子」だが、なかなかどうして博識である。博識というか、周囲の年長者の話をよく聞いて覚えているのだろう。そういえば飛空艇酔いした彼女が、やはりグロッキー寸前のクラウドに「手のここのツボを押すといい」などと青い顔で話しかけていたのを見た記憶がある。
 閑話休題。
「それで枇杷はどこに売っているんだ」
「電話屋でないことは確かだね」
 あからさまな揶揄に、ヴィンセントはむっと眉を寄せた。決して目つきのいいわけではない男がそんな顔をすればそれなりに迫力もあるはずなのだが、何しろあちらはユフィでこちらはヴィンセントである。ウータイ娘はけらけらと笑ってからくるりと踵を返した。
「こっち。さっき見かけたからさ、それですぐに出てきたってわけ」
 ユフィが言うことには、枇杷というのは初夏の果物だそうだ。ようやっと春が始まったばかりの今の時期には本来出回らないものだが、たまたま通りかかった青果店に並んでいるのを見て、珍しい、と思ったそうだ。
「高いだろうけどね」
「構わん」
 と肩をすくめるだけで済ませたのは、今ごろベッドで無聊をかこっているだろうリーブの顔を思い出したからだ。のど飴も蜂蜜も飽きたとぼやいていた。高価だといったって何万ギルもするわけではなかろうし、目新しい果物が病人の気晴らしになるのなら大した負担ではない。
 ほどなくして件の青果店に到着した。あれだよ、とユフィが指差す先には、ぽってりした雫の形をした果実が、鮮やかな橙色を纏って少し高い位置に鎮座している。
「あれが枇杷か」
「え、食べたことない?」
「記憶にないな」
 どころか、枇杷と言われて思い浮かべていた果物が枇杷ではなかったことが今ようやくわかったほどである(思い浮かべていたのはどうやらライチであったらしい)。籠に下がった値札は確かにそれなりの値段だが、想定していた最高値よりもだいぶ下だった。
 つつがなく買い物を終え、ユフィからは「オッサンにお大事にって言っといて」と伝言を受け取って、ヴィンセントは帰宅した。枇杷はハウス栽培だとかで、完熟までは至らないが充分に美味しく食べられるはずだ、と聞いている。
 青果店の店員によると、中に大きな種が入っているため、皮を手で剥いてそのままかじりつくのが一番いいのだそうだ。冷やすべきだろうか、と考えながら流水にさらして洗い、まずはリーブの様子を確認することにした。寝ていれば起きるまで冷蔵庫に入れておけばいい。
 寝室のドアを開けると、果たしてリーブは起きていた。どころか、仕事用のタブレットを手に半身を起こしている。
「熱はどうだ」
「今は下がってます、ご心配をおかけしまして」
「本当にそう思っている人間は寝間着で仕事などせんだろうな」
 呆れのままにささやかな嫌味を言うと、リーブは肩を縮めてタブレットをサイドボードに置いた。
 喉は多少落ち着いたものの、まだ痛むと、軽い咳混じりに言う。寝っぱなしのせいであちこちに寝癖がついているのが妙に哀れを誘った。
「何か食べられそうか」
「そうですね、軽いものがあれば」
「待っていろ」
 ヴィンセントはキッチンに取って返し、洗ったばかりの枇杷をボウルに盛って戻った。リーブがおや、と目を丸くする。
「枇杷なんて珍しい」
「たまたま見かけてな――見かけたのはユフィだが」
 ベッドサイドには、普段は寝室の窓際に置いてあるカウチを移動させてある。そこに腰を下ろし、膝の上にボウルを置いた。
「何年ぶりでしょうかね、枇杷なんて」
 リーブの声を聞きながら、ヴィンセントは逡巡した。果たしてこれは剥いてやるべきものなのか、それとも本人に剥かせた方がいいのか。ちらりと半病人を見やると、彼は両手の指を組んでこちらを見つめている。
「……リーブ、その」
「あなたが剥いてくださるなんて、嬉しいなあ」
 ごほごほ。
「…………分かった」
 甘ったれたことをいうな、と跳ね除けるのは簡単なはずなのだが、空咳を引き連れた強引な「おねだり」を交わす気にもなれなかった。ほだされている。
 柔らかな産毛をまとう果実をひとつ摘み上げ、ヘタの部分に爪を立てる。他愛なく剥けるだろうと思っていたが、その期待に反してヴィンセントの指先にはほんの欠片程度の皮しか残らなかった。
 ふん、と鼻から息を吐き、今しがた剥いた部分の隣にまた爪を差し込む。慎重に、皮目に沿って、と気を遣いはするが、児戯のようにちまちまとしか剥けない。
 リーブは指を組んだまま、にこにことヴィンセントを眺めている。いつもなら、あなたは存外不器用ですね、と笑いながら手を出してくるはずのところだ。しかし今日に限っては、風邪をいい理由にして受益者の身分を堪能する腹づもりらしい。
「リーブ、うるさいぞ」
「ひとことも喋ってませんよね」
「視線がうるさい」
「いやあ、今日もヴィンセントは美しいなと」
「黙れ」
 などとじゃれているうちに、ようやっとひとつを剥き終えた。やれやれ、と顔を上げると、当然とばかりにリーブが口を開ける。
「……おまえというやつは」
 ヴィンセントはできるかぎり重々しくかつ嫌々を装ってため息をつき、ぱっかりと開いた口に枇杷を放り込んだ。放り込んでから、これで窒息でもされたら面倒だな、と思ったが、リーブは何ということもない顔でもごもごと咀嚼する。
「おいひいれすねえ」
「そうか、それは何よりだ」
 種は別の皿に出させて、ねだられるまま次を剥く。二つ目は多少楽に剥けたが、ヴィンセントの指はいつの間にか果汁でべたべたになり始めていた。
 三つ目を食べさせたところで、リーブがおもむろに手を伸ばした。ヴィンセントの膝の上のボウルから枇杷をひとつ取り、剥き始める。
 おおかた、要領を得ないヴィンセントの手つきに痺れを切らしたのだろう。お役御免か、と思っているうちにするすると皮が剥け、つるりとした果実が姿を現した。上手いものだ。
 本人もつつがなくやりおおせたことに満足したのだろう、にっこりと笑うと剥いたばかりのそれをヴィンセントに突き出した。
「どうぞ、ヴィンセント」
「おまえに買ってきたもので……」
 と口を開いた隙に押し込まれる。食べる口と喋る口が同じなのは構造上の欠陥だ。仕方なく唇で受け取り、種を歯で支えるようにして果肉を噛んだ。なるほど確かに甘いが甘ったるくはなく、みずみずしい。
 リーブはヴィンセントを眺めながら次のひとつを取り上げ、やはりよどみなく皮を剥いた。剥けたのだから食べればいいものを、ヴィンセントが種を吐き出すのを待っている。
「私はもういい」
「まあまあ、そう言わずに」
「おまえが食べろ」
 などと言い合ううちにも、枇杷はヴィンセントの唇めがけて押しつけられる。諦めとともに口を開くヴィンセントを見て、リーブは相変わらず笑っている。
「僕、ヴィンセントが剥いたやつしか食べませんから」
「……なんだそれは」
「ほら早く次剥いてください。がんばらないと全部あなたのお腹に消えちゃいますよ」
 はいどうぞ、とボウルの中身をひとつ握らされる。もうひとつはリーブの手の中で、呆気なく剥かれてゆく。ヴィンセントの手は掌まで果汁まみれなのに、リーブは指先をわずかに濡らしているだけだ。
 それが無性に悔しくて、ヴィンセントは左手に枇杷を握ったまま、右手の小指から手首に伝う果汁を舌で受ける。リーブの咎めるような吐息を聞けば、少しは溜飲が下がる気がした。