you said, but

 not for me. それがリーブの口癖であるようだった。
 not for me, just not for me. うたのようだ、と思ったことがある。リーブの舌と唇が紡ぐ音は諦念と憧憬に嫉妬を巧妙に混ぜ込んで、それはぼくのものではないと繰り返す。
 not for me. 三音節のループは途切れないままヴィンセントの頭にある。リーブが今までにこのフレーズを用いて語った事象があまりに多かったので、最も記憶に新しいnot for me以外の何がリーブにとってnot for meなのか思い出すのは、早々に馬鹿馬鹿しくなってやめた。

「――not for me」
 口の中に転がしたフレーズは、極めて自然に腹の底に落ちる。使い勝手のいい言葉であることは確かで、実際のところヴィンセント自身もしばしば使う。誰かの専売特許というわけではない、と考えて不意に思い出したのは、近年とみに自我の強くなってきたマリンがピーマンの乗った皿を前にしかめ面で絞り出したnot for meだった。あれをティファは何と言って叱ったのだったか。
「it’s just not for me」
 戯れの独語に合わせて息が白くなる。即席の霧氷は静かに耳を傾ければさりさりと音を鳴らす。この音に詩的な名前がついていたはずだ。少し考えたが思い出せず、さりとて追求する気もなく、このささやかな疑問符はヴィンセントの頭の中で棚上げにされた。
 not for me. 遠慮しておきます。私向きではありません。苦手なので。私には合いません。私のためのものではありません。
 好きとも嫌いとも言わず、善し悪しの判断を留保し、ただ一線を引いて己から何かを遠ざける態度だ。ある意味では究極の拒絶であり、この話はこれで終わりだという切断の仕草に他ならない。
 身じろぐヴィンセントの足下、ブーツの底で黒い砂がぎしりと軋む。夏の盛りには地衣類や蘚苔類に覆われ湿原となるこの一帯も、一日の八割が夜に包まれる冬の今はただ凍った土が広がるのみだ。視線を上げれば休火山が厚い氷に覆われている。あれが仮に噴火したとすれば、ミディールやゴンガガさえもがその影響を免れないという。

 not for me. 記憶に焼きついたリーブの横顔が言う。最も記憶に新しいnot for meを聞いたのは数か月前のある夜のこと、ヴィンセントはリーブのフラットに招かれ酒を酌み交わしていた。
 二人の酒の肴はたいてい決まっていて、いくらかのナッツとドライフルーツ、仲間たちの近況、それからヴィンセントの土産話だ。その日もテーブルに並んだのは、特筆すべきところのないピスタチオと至って平凡なドライアプリコット、一切れを半分ずつにしたレーズンバター、酒だけはリーブのとっておきで上等な蒸留酒だった。
 会話の合間にぱたりと訪れた沈黙は、決して居心地の悪いものではない。短くはない付き合いの中で何度も経験した静寂を、今さら恐れる必要はなかった。
 だからあの時、ヴィンセントの口を突いて出た言葉はどこまでも真摯だった。その場の繋ぎでもごまかしでもなく、ただタイミングだけを図りかねていたものがついにまろび出た、それ自体は不随意にも等しい動きだったかもしれないが、想いは常に在ったのだ。
「――おまえと道行きを共にする者は、しあわせだろうな」
 ヴィンセントはリーブから目を離さなかった。何の脈絡もないその言葉を、言ってしまったと悔いることもしなかった。ヴィンセントから見えるリーブは横顔で、そのこめかみがぴくりと震えたのも、薄く開いていた唇がゆるりと閉じたのも、彼が意識してまばたいたのも、よく分かった。
 リーブは口を引き結んだままボトルを取り上げ、まずヴィンセントの、それから自分のグラスを満たした。彼は手にしたボトルのラベルを確かめるように親指を走らせ、彩度の高い琥珀色がその掌に明るい影を落とす。
 二回分の呼吸を数えたあと、リーブは顔をヴィンセントに向けて微笑んだ。綻んだ唇が耳慣れたリズムを刻む。
 not for me. it’s just not for me.
 話はそれで終わった。二人は無言のまま手の中の一杯を干し、それからリーブが観た映画の話をした。

 何がnot for meなのだろうか。
 道行きを共にする者など要らないというのか。
 しあわせなど知ったことではないというのか。
 こんなおためごかしのような言葉は聞きたくないという意味か。
 ヴィンセントは考える。考えながらリーブの家を辞し、エッジを拠点とする面々に挨拶をし、シドの飛空艇に遠回りしてもらってこんな極北の地に立っている。
 考えても分からない。当然だ。ヴィンセントはリーブではなく、二人の思考回路はまるで似ておらず、むしろその相違こそが二人を心地よく繋げていた。互いの思考をトレースする試みに実りはないと知っているからこそ対話はいつでも興味深く、そして新鮮な驚きを伴っていた。だから、ヴィンセントから見たリーブが、リーブから見たヴィンセントが、何をどのように考えているかなどに頭を悩ませる必要はなかった、はずだった。
 ヴィンセントは考える。あの夜からずっと考え続けている。not for meが反響する頭蓋を抱えて、ライフストリームと同じ色をした氷河を眺めながら、零下十度の空気に吐息を凍らせて考えても、答えは出ない。
 だが、必要でなくとも、答えが見つからなくとも、
(not for me、ではないだろう)
 そうだ、ヴィンセントはそれがずっと気に入らなかった。すなわち、リーブがnot for meで全てを仕舞い込むそのやり口が、ヴィンセントには気に入らない。
 否定しない、審断しない、ただ距離を取る。自分自身をさまざまな事象の埒外に置いて、それら事象に右往左往する人々から数歩離れて、巻き込まれぬよう細心の注意を払いながら静かに微笑している。そのまなざしは、なるほど諦念と憧憬と少しばかりの嫉妬で出来ているのだろうが――それはただの逃避ではないのか。
 おまえがnot for meと退けてきたものたちの、そのうちのいくらかはおまえのものだったろうに。
「……腹が立ってきたな」
 やや遅きに失した感のある感情を自覚しつつ、ヴィンセントは通信端末を取り出した。ひょっとしたらと思ったが、幸いなことに通信圏内だ。我ながら覚束ない手つきで画面をタップし、必要な情報を取得する。それから目当ての人物に短いメッセージを送信した。二種類の異なる七桁の数字、それだけを。
 ヴィンセントは手近な岩に腰を預けた。さすがに冷えるが、どうということはない。もう少しここにいてもいいだろう、幸い辺りに他の人の気配はなく、世界の果てに見紛う氷河と荒野は今のところ自分だけのものだ。
 it’s for meとはなかなか言わないが、そう思い上がることも何かの役には立つ。例えば今のヴィンセントのように。
「達観するにはまだ早いぞ、若造が」
 あと十分もしないうちに端末は通知を鳴らすだろう、ということをヴィンセントは知っている。何故なら「それ」はヴィンセントのものであり、またリーブのものでもあるからだ。