沈殿する赤

 何故リーブがこんなものを持っているのか、気にならないわけではなかったが訊かないことにした。どうせまともな返答は期待できまいし、何通りか予測される回答はいずれも嘘くさいか、嘘をついてもらった方がましか、あるいはひどく退屈なもので、尋ねるメリットはないと考えられたからだ。
 いずれにせよ、ここはリーブの自宅で、より詳しく言えば寝室のベッドの上で、時刻はまもなく日付が変わるところで、ヴィンセントは重ねた枕に背を預け、投げ出した足をリーブに捕らえられている。先ほどシャワーを浴びたばかりの肌にはまだひたりと湿った温かさが留まっていて、骨の張った甲から爪先を掠めるリーブの指はご機嫌だった。
 彼のもう片手には、奇妙なかたちの小瓶がある。瓶本体はファセットカットを模した意匠の分厚い硝子で、掌に容易く握り込めるほどの大きさしかない。奇妙なのは瓶の頭を塞ぐ蓋にあたるパーツで、長さ15センチはあろうかという黒い錐体がまっすぐに伸びているのだ。上手くすれば暴漢などを撃退するのに使えるだろう。例えばティファやユフィに使わせれば、エッジ近郊をうろつくモンスター程度なら倒せそうだ。しかし実体はさにあらず、リーブが手にしているのはとある有名ブランドのマニキュアなのである。
 ヴィンセントは伸ばした脚の長さの向こうに胡座をかく男の頭からつむじの位置を探ろうとしている。強い既視感を覚えるのも無理のない話で、世界再生機構の頂点に立つこの名士はどうしたわけかヴィンセントの足先を愛でるのがことのほか気に入っているようだった。硬い骨に張り詰めた筋、ほとんど脂肪の層のない肉が素っ気ない皮膚に覆われている、持ち主にしてみればどうということのない足だ。ヴィンセントは傅くのも傅かれるのも御免こうむりたい向きなので、初めてリーブに跪かれた時は想定外に動揺した。その馬鹿げた真似をやめろ、不愉快だ、おまえにはプライドというものがないのか、気持ち悪い、などなどの至極まっとうな抗議はいっこうに聞き入れられず、先に匙を投げたのはヴィンセントだった。
(いや、この件に限らんな)
 たいていの場合、根比べに負けるのはヴィンセントだ。リーブはある局面においては恐ろしく頑固になる。昼間はよく回る口で理屈なんだか屁理屈なんだか分からないことを並べ立てて政治の茶番を切り回して見せるくせに、ヴィンセントに対して頑なになる時は、比喩ではなく本当にうんともすんとも言わなくなるのだ。髭に囲まれた唇をぐっと引き結んで、鳶色の瞳がヴィンセントを見つめるばかりになる。そうなればあとは時間の問題で、虫眼鏡で集められた日光が白い紙を焦がして穴を開けるように、ヴィンセントは両手を挙げるしかない。ああ、もういい、好きにしろリーブ、おまえの好きにしたらいい、私の意思などどうでもいいのだろう。子供じみた拗ね気を語尾に滲ませたところで、リーブが怯むはずもない。それはどうもありがとうございます、では好きにさせていただきますねとにっこり笑われるのが関の山だ。
 つまり、今夜もヴィンセントは負けていた。抵抗するつもりはない。リーブがどこからともなく手に入れたマニキュアをヴィンセントの足の爪に塗りたいのだと言うのだから、今から数分のうちに実行されるのだろう。足の爪に塗るならばマニキュアではなく別の呼び方をするはずだったが、それが思い出せないのが目下のところ一番の問題だった。
 マニキュアだかプリキュアだか――違う、それはマリンのお気に入りのアニメーション番組だ――とにかく爪に塗る化粧品にはさまざまな色があるものだと思っていたが、件のブランドは赤のバリエーションばかり提供しているのだという。赤がブランドのキーカラーなのだそうだ。言われてみれば、赤いソールのピンヒールなどをどこかで見たことがある、あれがそのブランドのものだったのだろう。靴屋が化粧品も売るとはよく分からんな、とひとりごちたら、ブランドっていうのはそういう風に使うんですよ、としたり顔をしたリーブが小憎らしい。もと技術屋のくせに、商売を分かったような口を利く。あのねヴィンセント、今時は「エンジニア」と「マーケティング」って言うんですよ。ほうそうか、もう忘れたな。聞いてすらいなかったでしょうに。こういう他愛もないやり取りは、ヴィンセントもまあ嫌いではない。
「それじゃあ失礼して」
「まったく失礼極まりないな」
「これはどうも」
 こういう時のリーブから出てくる言葉にはほとんど意味が含まれない。片手には瓶を握ったまま、いそいそと体勢を整える――クッションをふたつ積んで、その上に毛布を折り重ねて、さらに汚してもいいように使い古しのタオルをかけて、やっとヴィンセントの足を安置する――男を見ていると、もうどうにでもなれという気分だ。ふう、と唇を尖らせて細い息を吐き視線を斜め上に飛ばす。照明のシェードが傾いて見えるのは、本当に傾いているのか、はたまた投げやりな気分がそうさせるのか。
 きゅるきゅると耳に障る音、それから有機溶剤の臭気が鼻孔を刺した。リーブは長い蓋をペンのように持って、瓶の口で筆先をしごく。どろりと重たげな赤い液体は、生物に危険を告げる刺激臭と相まってひどく醜悪に見える。内臓を損傷して吐き出した血塊のようだ。胃より下の臓器をやられるとあんな具合に暗いくすんだ赤が出る。ヴィンセントは知っているし、見たこともあるし、何なら自分の口から同じ色の血を吐いたことも何度かある。そんなことを口にしてしまえばまたぞろリーブがおかしな方向にスイッチを入れてしまうだろうから、言わないが。
「換気をすべきではないか」
「そうですねえ」
 リーブの背後に覗く空気清浄機がぐうんと唸り始める。いかにも身体に悪そうな臭いを吸い込もうとする小さな機械が健気に見えた。窓を開ければ晩秋の空気に部屋が冷やされるだろう、それを嫌がってか単に億劫がってか、ヴィンセントの言葉に肯定らしい返事をしたリーブは動くそぶりも見せずに小さな刷毛を動かし始めた。
 ぺとり、と奇妙な感触が右足の親指の爪に乗る。くすぐったさの二歩手前、とでも言うべきか、合成塗料に濡れた刷毛が、痛点を持たぬ爪の表面をなぞる。でこぼこする爪を均しもせずに塗っても、うつくしい色は乗るまいに。
(まあ、手間をかけられても困るが)
 この夏、あれはクラウドの誕生日だったか、珍しく爪先の出るサンダルを履いていたユフィの姿を思い出した――サンダルじゃなくてミュールだよ、おっさん――つくりもののようにつるりと滑らかな色彩が片足に五片ずつ、きらきらと煌くラメを載せていたり、動物の毛皮のような柄になっていたりとずいぶん手が込んでいた、あれが本来のネイルアートというものなのだろう。しかし今リーブが施そうとしているのはそんな御大層なものではない。アートと呼ぶなどおこがましい、強いて言えば児戯だ。絵の具で遊ぶことを許された幼児が、紙に飽き足らず床やら壁やらに塗りたくり始めるのと大差はない。
「じゃあ次は左やりますからね。まだ乾いてないので、じっとしててください」
「承った」
「よいお返事で」
「畏まり仕りて御座います、局長殿」
「ずいぶんお行儀が良かったんですねえ、昔のタークスってやつは」
「恐縮の至り」
 クッションから下ろされた右足を見ると、爪先が赤く染まっていた。何の細工も工夫もなく、ただ単純に色を載せただけの爪だ。目の前に引き寄せてちゃんと見れば粗が分かるだろう。こいつは何がしたいのだ、と左足の位置を調整しているリーブを眺める。
 リーブは何がしたいのだろう。彼と近しくなってから幾度となく反復してきた問いは、未だに答えを得られぬままヴィンセントの後頭部に張り付いている。ヴィンセントには分からない。リーブが何を求めているのかも、何を期待しているのかも、何を得ているのかも。話せば退屈を覚えることはなく、ふざければ笑えて、触れ合えば心地よく、くちづけが深まれば酩酊し、肉を交わらせれば陶酔する、ふたりの関係はそれで必要十分だが、ヴィンセントは何故と思わずにはいられない。
 何の忌憚も衒いもなく手の中にあるものを差し出すような愛し方をするリーブに、ヴィンセントは未だに怯えている。怖気づいて、いつでも後退りができるように片足を引いている。その引けた腰を拘束されないことにいっそ不気味なものさえ覚えているから、リーブがたまさかの戯れに持ち出したマニキュアの色から吐血を連想するような悪趣味な真似に走ってしまう。見ようによっては愚かしい虚勢なのかもしれない。ちょうど、身を危険に晒したことでリーブに叱られている(というか小言を受けている)ユフィが、たちの悪い冗談を口走るのと同じで。
 己の中にある想定以上の稚気に気づいてしまったヴィンセントが眉をぎゅっと寄せると、同時にリーブが素っ頓狂な声を上げた。
「あっ、はみ出した」
「おい」
「あなたが動くから、爪小さいのに」
「今のが動いたうちに入るか」
 足首がぴくりと痙攣しただけの、不随意な動きだ。責められても困る。
「あーあー……まあええやろ」
 ひとさまの足を好き勝手にしておいて、まあええやろ、とはとんだ言い草だ。これも今に始まったことではないので、ヴィンセントはそれ以上の言及を避ける。見れば、薬指に赤い塗料がべたりと伸びていた。はみ出した、などと可愛いものではない。爪の大きさが倍にもなってしまったような有り様だ。
 どうしてくれる、と無言のまま眺めていると、リーブはおざなりに小指に筆を乗せた。興が醒めたのであればそれはそれで構わない、はみ出したマニキュアは乾いてから剥がせばいいだろう。しかし、筆を瓶に突っ込む男はヴィンセントの予想を裏切って蓋を閉めなかった。再び引き上げられた黒い錐体の先には、ぼってりと重い赤がわだかまっている。
「……何をする気だ」
「はみ出してしもたらもうあとは一緒かなと」
「なんの話だ、おい、リーブ」
「はは」
 そこからの攻防は一瞬だった。脚を引こうとするヴィンセント、その足首を思いがけない握力で捕らえるリーブ、足を高くして寝そべる姿勢がヴィンセントに災いした。次の刹那、筆先から塗料がぼたりと滴り、足の甲にいびつな円を描く。
「いいかげんにしろ」
「はいはい、ええ加減にさせてもらいますね」
「貴様」
「怒った顔も美人ですねえ」
 知ってましたけど、と胡散臭いことこの上ない笑みを浮かべる目だけが笑っていない。抵抗を許さない暗い光を灯す水晶体にマニキュアの赤が映り込む。

 ふたりを知るものは、ヴィンセントがリーブを一方的に振り回しているのだと思っているらしい。どいつもこいつもひとを見る目がないのが残念だ。
 前触れなしに旅に出ては戻って来たり戻って来なかったりするヴィンセントは、なるほどリーブの気も知らず好き勝手に振る舞っているように見えるのだろう。そこまでは当たっている。ヴィンセントは誰かに強いられてひとところに留まるほど殊勝ではなく、誰かに求められているからという理由で帰るほど傲慢ではない。実際のところは耐えきれなくなって飛び出し、やはり耐えきれなくなって戻る、つまるところはただの臆病者だった。
 臆病者は何に耐えきれなくなるのか。ヴィンセントを傷つけぬよう細心をはらって用意された全てに耐えかねて行方も告げずに去り、それら全てを受け取るはずの己がなくともやはり用意されているはずの数々が空虚を抱いて待っていることに耐えかねて帰るのだ。癇癪を起こす子供同然の自家撞着は、リーブの体温を知ってからずっとヴィンセントの腹の奥で暴れている。
 おかえりなさい、と柔らかく迎える声も、季節を問わず快適な室温も、座り心地のよいソファも、押し付けがましさのない音楽も、かぐわしく甘やかな酒も、すべらかなシーツに乗った少し固めの枕も、完璧に調整されたそれら全てが自分のためのものだとヴィンセントには分かっている。この部屋のあるじは、今や彼が求めればたいていのものは手に入るだろうに、そんなそぶりはまるで見せずにどうということのない顔をしてせっせと働く。
 ――ヴィンセント、暑くありませんか。今日は少し湿気がありますね。先にシャワーでも浴びてさっぱりしてきてください。着替えも用意しておきますね。もう一杯いかがですか、水もちゃんと飲んでください。こっちの皿は食べましたか、あなたが気に入りそうだと思って。そういえばこの間こんな話があったんです。あなたが好きだって言ってた映画監督の古い作品が見つかったんです、観ませんか。ああ、こんなところで寝ないで、ちゃんとベッドに行きましょう。
 一体どこの誰が、とヴィンセントは思う。一体どこの誰が、こんな密室に耐えられるというのか。自分ひとりのためだけに一分の隙もなく完璧にお膳立てされた全てを、平気な顔で受け取ることだけが許されたこの密室で安穏と過ごすことをよしとする、そんな人間が果たして存在するのだろうか。するのかもしれないが、それは少なくとも自分ではない。
 そのように取り扱われることにヴィンセントが耐えられないと知りながら、それでも嬉々として立ち振る舞うリーブにはいっそ空恐ろしいものさえ感じる。この男が仮に自分を愛しているのだとしたら――愛しているのだろう、リーブの言動を信じるのであれば――そしてその愛とやら故に背筋が寒くなるほど居心地のいい部屋を整え続けるのだとしたら、とんでもないものに捕まってしまったものだ。

 足の甲に落ちた緋色に着地した筆先がずるりと滑る。ぼってりと重い質感の液体が、中指から足首に向かって一条の直線を描く。合成塗料が塗り広げられる冷たい感触にヴィンセントの足がわなないたが、リーブはもう責めることはなかった。
 一本目の直線に斜めに交差する形で二本目の線が伸びる。小指の付け根から土踏まずを目指したそれはところどころ掠れている。三本目、四本目まで描いたところでいよいよ色を失った筆先が、また小さな瓶から塗料を拾い、五本目は足首をぐるりと回った。
 我が身を寸刻みにされるような心持ちで息を呑むヴィンセントを放り出して、リーブはひどく真面目な顔をしている。まばらに生えた体毛をものともせずに走る筆は向こう脛を奔放に逍遥する。でたらめな線が絡みつく左脚は、リーブが手を動かすたびにヴィンセントから乖離してゆく。
 また一条、新しい線が伸びる。ふくらはぎの中ほどを横切る赤。絡め取られる脚。決裁書類を熟読する時と同じ顔をしたリーブ。ヴィンセントはもはや身じろぎひとつ出来ずに瞼を閉じた。

 きっとリーブはヴィンセントを憎んでいる。その情愛と同じ強度と同じ深度の憎悪がある。
 何度でも出奔するヴィンセントを愛するが故に母親の子宮より居心地のいい箱庭を手ずから用意し、何度でも帰還するヴィンセントを憎むが故にこうして奇矯な手遊びで責め立てるのだ。まるで支離滅裂だった。
 いや、そうではない。ヴィンセントは自嘲に唇の端を歪める。そうではない、支離滅裂なのはリーブひとりではない。どころか、ヴィンセントこそが惑乱の極みにある。
 リーブのもとを離れてやっと呼吸ができると安堵しながら、骨が朽ちても自分を待つのだろうリーブを思って臓腑が引き千切れそうになる。戻るたびにおかえりなさいと出迎える男を恐ろしく感じるのは、結局のところ、その掌に四肢を委ねる自分がいるからだ。リーブが決して口にはしないだろう言葉を、すなわち二度とここから離れるなと命ずるひとことを、意識の奥底で待ちかねている己に気付いてしまうからだ。
 ここにいなさい、もうどこにも行ってはいけません、あなたのいるべき場所はここだけです、そう言って足枷と首輪を与えられることを切望しているのだと、認めるわけにはいかないからだ。

「……おや、」
 何度目かもわからない蓋と瓶のぶつかる音のあと、それまで口を引き結んだままだったリーブが不意に気の抜けた声を上げた。ヴィンセントは薄目を開けて男を見る。
「なくなってしまいました」
「……」
「大した量じゃなかったんですね、それなりの値段だったんですけど」
 膝の下に触れた筆はリーブの言葉を裏付けるように乾いた感触を伝えてくる。どうやら瓶一本を使い切ったようだ。ヴィンセントは細く深く息を吐きながら上体を起こした。
「――よくもここまで」
「はは、悪くないでしょう」
 もう何がよくて何が悪いのかもわからない。ヴィンセントの左脚は足先から膝下まで真紅の線に拘束されていた。掠れた線は痩せたり太ったり途切れたりと不恰好極まりなく、それでも執念深いほど縦横無尽に絡み付いている。
(この糸が、)
 乾いたエナメルの鈍い艶が脚に喰い込むのを幻視する。肌を裂き筋肉を溶かし血管を千切って骨に染み込む赤い糸、そうして腐り落ちる左脚とそれ以外の身体の、果たしてどちらをリーブは愛でるだろうか。
 ざわりと蠢いた腹の奥の気配に舌打ちをしたヴィンセントをよそに、リーブは蓋を閉めた瓶を放り出した。毛足の長いラグに吸い込まれた落下音を掻き消すように、ヴィンセントは改めて押し倒された。
「さて、しましょうか」
 足元に積んだクッションをリーブが蹴り飛ばす。脚一本を犯しても満たされないらしい男はヴィンセントを愛でる作法を知り尽くしながら、今夜も素知らぬ顔で笑う。