剥製

 リーブの部屋には鳥籠があった。私の記憶している限りでは長らく空のまま趣味の悪いオブジェとしてリビングの片隅に置かれていたが、ある時ついに住人を得た。大雨の日に泥汚れを被ったような薄汚い灰色の斑を散らしたその鳥は、陰鬱な目つきで彫像のように止まり木から動かなかった。
 私には動物のことは分からない。これがオウムであればいずれ勝手に喋り出すのだろうと思ったが、彼(ないし彼女)は身動ぎもせず、当然のことながら私に何の注意も払わないように見えた。
「どうぞ、おくつろぎください」
 リーブは私の肩からマントを剥ぎ取るように奪い、ハンガーに纏わせて壁のフックに掛けた。だらりと垂れ下がった緋色の布はこうして見ると私の絞首死体によく似ている。もっとも、実際に吊るされたところでその姿を私自身が見ることは叶わない。目の前に鏡でも置いてくれれば確かめられるわけだが、下手人にそこまでの手を煩わせるつもりは今のところなかった。
 この家における私の定位置であるソファの左端の座り心地はいつも硬い。リーブはここには座らないのだろう。酒瓶とグラスとを手にした彼は、私が鳥籠の中身に気を取られているのに気づいていながら何も言わなかった。
 鳥は虚空を見つめている。そのぎょろりと真円の瞳に私の存在は映らない。

 リーブは饒舌だが、重要なことは何ひとつ口にしなかった。その性質は齢を重ねることで完全な悪癖と化した。彼はすでに四十の半ばに至ろうとしていた。
「先日、偶然見つけたんです。期待せずに入った酒屋だったんですが、棚の隅に埃を被ったままこれが置いてあって。ひょっとしたら店主が隠しているうちに忘れてしまったんじゃないでしょうか、ともあれ僕には儲けものでした」
 空白を恐れるリーブは話し続ける。磨かれていないグラスをつんと鼻をつく香りの液体で満たし、ことんと音を立てて私の目の前に差し出すが早いか立ち上がり、今日は何をかけましょうかと呟きながらレコードを並べた棚の前にしゃがみ込む。杯を打ち合わせる相手を失ったまま、私はグラスに唇をつける。
 リーブは空白に耐えられない。無言を避けて益体もない話を繰り返し、息継ぎの間を埋めるように音楽を鳴らし、棚は一分の隙もないほどレコードと本で埋まっている。一日の予定も間断なく詰め込まれているらしい。陸に引き揚げられた魚が身をのたうって水を求めるように、リーブにとっての空白は恐ろしい死病なのだ。
「これはこの間かけましたね、なかなかいいアルバムなんですがちょっと今は気分じゃないかな」
「……何でも構わん」
「あなたはいつもそうだ」
 ことさらに拗ねたくちぶりでありながら、リーブは同じくらいわざとらしく笑いを噛み殺してみせる。私は首を捻ってその後頭部を見ようとしたが、視界の端に鳥籠が映って興を削がれた。

 私とリーブの関係を説明する言葉を、私は持たなかった。恐らくはリーブも。
 彼の部屋の空調はいつでも完璧で、湿度も見事にコントロールされていたし、差し出されるグラスの中身を気に入らなかったことはない。少し硬いソファの座面も頬に押しつけられる清潔なシーツのなめらかさもたいそう心地よかったが、持つべき名を持たない夜を重ねることに私は飽いた。
 リーブはくちづけが巧みだった。私の肌に触れる指に迷いはなかった。粘膜を暴く痴劣な欲望が私を傷つけることはなかった。この身体を押し潰すように組み敷き、抗いようのない浅ましい肉悦に引き摺り込まれる私を見下ろす瞳に色はなく、時折本来であればそうすべきであることをたった今思い出したとでもいうように、端的な言葉で息継ぎもままならない私を嬲った。
 私を憐んでいるのか、と一度だけ訊いたことがある。ほんの気の迷いだった。訊くべきではなかった。リーブは汗に乱れた髪を鬱陶しそうに掻き上げて、甘えるのもいいかげんにしなさい、と低く吐き捨てた。バスルームに消えた彼が戻る前に、私は己を恥じて逃げ出した。
 にも関わらず、また私はこの部屋に足を踏み入れてしまう。何事もないという顔で私を出迎えるリーブは目尻の皺を深く微笑しては、止め処なく喋り続ける。彼の恐れる空白とは、すなわち孤独の異名だった。
(――実際のところ、)
 私がいるが故にリーブは話さなくてはならないのだ。何らかの実体が存在すれば空白が意識される。誰とも空間を共有しなければ、リーブが幽霊のような孤独に追い立てられることはないはずだ。彼の舌が虚ろな言葉を紡ぎ出すことも、切り落とされた髪のように冷たい笑いを浮かべることもない。つまり、こうして彼を駆り立てているのは私自身に他ならなかった。

 気づいてしまえば成すべきことは明らかだった。名付けられぬまま始まった関係を終わらせるための言葉が必要なのかは分からなかったし、正直に言えば私がこの関係を終わらせる必要は必ずしもなかったが、畢竟、私は耐えられなかったのだ。何よりも、私自身がリーブを追い詰める亡霊となることに。

 その日に限って、私が引き倒されたのは寝室のベッドではなかった。目の粗い麻のカバーで覆ったソファは腰をかけるにはよかったが、シーツよりもずっと不躾な感触で私はずっと不愉快だった。
 狭いソファだけが問題なのではない。皓々と照る天井の灯り、飲みかけのグラスが撒き散らす酒の香り、常よりも執拗な愛撫、そしてリーブの肩越しに見え隠れする鳥籠とその中身、全てが私の神経を逆撫でした。
 やめろ、と鋭く突きつけたはずの拒絶は哀れっぽく掠れてみっともない有様だった。リーブは意に介さず指と唇と舌を使ったが、その戯れが執拗であればあるほど、無機質に精確な作業じみてくることに気付いてしまった。脊椎が鉄の棒のように冷えたが、内臓と神経は煮えるように熱かった。吐き気に似た震えに喉を塞がれる。
 リーブがさらに背を屈めて腰を齧った瞬間、籠の中身がばさりと翼を広げた気がした。やはり薄汚い泥の跡のような水玉模様の羽を一度だけはためかせ、折り畳んだその鳥は、確かにこちらを向いていた。その瞼のない瞳と視線が交差した錯覚に、私は息を呑んだ。
 観察されている。彫刻のように鳴かない鳥は、確かに私を観察しているのだ。その主を今から裏切ろうとする私を見て、咎める声もなく泰然としている。被害妄想なのは間違いないことだったが、私にとってはそれが事実だった。
 短くはないが長くもない行為が終わるまで、鳥は同じ姿勢でいた。ソファのカバーには潤滑剤と体液が醜い模様を作っていた。もう使えないだろう。

 わずかに微睡んだ後、私たちは交代で浴室を使った。私がシャワーを浴びている間にリーブは脱ぎ捨てた服を全て畳み、身に付ける順に積み重ねてくれていた。
 ドライヤーの騒音を嫌い、私は髪を湿らせたままリビングに戻った。リーブは珍しくベランダに出ずに煙草を吸っていた。煙は鳥籠の方には流れていなかった。
「……リーブ」
 そう呼んだ時、彼には何もかもが分かっていたのだろう。すいと音もなく顔を上げたリーブの瞳からは一切の色彩が脱落し、焼けた骨のような灰褐色だった。あの鳥の羽に似ていた。
「ここにはもう来ない」
 リーブは、そうですか、と頷いてまた煙草に口をつけた。ちりちりと刻みが燃える。深く吸い込んだために伸びた灰を、骨張った指先が全く危うげなく灰皿に叩き落とす。私はひどく喉が渇いていたが、そのまま背を向けた。唾液を呑み込み貼り着く粘膜を引き剥がしながら、絞首死体のようなマントを手に取る。
「……」
 何かを言いあぐねたのは私だけだった。リーブはいつものようにフィルターのぎりぎりまで吸うと、最早燃える余地のない巻を灰皿に転がしたようだった。
「ヴィンセント、どうぞお元気で」
「――おまえもな」
 籠の鳥は眠っていなかった。剥製なのだから当然のことだ。嘴を開いて何かを言いかけたようだったし、実際に何かを言ったのかもしれないが、私の耳には届かなかった。夜明け前の通りに出てから後悔したのは髪を乾かさずに出て来たことだけで、それ以外に何らかの感傷が生まれることはなかった。