うつくしいひと

 惚れた欲目を抜きにしたって、ヴィンセント・ヴァレンタインは美しい男だ。
 雪花石膏のように無機質に白い肌、バンダナに覆われた額はつるりと滑らかで、なだらかな稜線を描く眉はすっと通った鼻梁に繋がる。つんと尖った鼻先、感情を露わにしない薄い唇、完璧な線対称で歪みひとつない細い顎。そして何より、その瞳。彫りの深い眼窩に嵌め込まれた赤瑪瑙は光を吸い込んでとろりと芳醇に輝き、深みを覗き込んだら最後、瞳孔の奥まで引き摺り込まれてしまうその深紅。全てのパーツが完璧なバランスで配置されたかんばせは、黒く艶めく髪に縁取られて物憂げだ。

 こんなにも美しい男が存在していいのだろうか。感嘆の吐息を呑み込むリーブがいつも思い出すのは、確かウータイのあたりの神話だ。
 この世界を作った女神は、締めくくりに人間を手掛けた。はじめは手ずから泥を捏ね、一体ずつ造形しては命を吹き込んでいたのだが、そのうち飽きてしまった。そこで女神は縄に泥を染み込ませ、ぶんぶん振り回して散った泥にヒトに成れ、と命じた。そういうわけで、同じヒトでも上出来なのとそうでないのがいる。この話に則れば、ヴィンセントは間違いなく女神のたおやかな手にかたちづくられた存在であるはずだった。
 もちろん、リーブは彼の見た目が美しいからというだけで愛しているわけではない。この美しい殻を纏ったひとには、存外に粗雑でずぼらな部分もある。ごみの分別が分からないのでそのまま放置したり、脱いだ靴下が裏返しのままだったり、携帯通信端末の充電を忘れたり逆に充電したまま持ち歩くのを忘れたり、そういうことだ。腹が立つこともないではないが、これも彼が自分に甘えているからだと思えば可愛くもある。
 そんな惚気話はともかくだ。ヴィンセントは美しい、ゆえにさまざまな人間を惹きつける。下は十代から、上は腰の折れたご老人まで。性別問わず。近寄りがたい雰囲気をものともしない手合いはどこにでもいるもので、先日は八百屋と魚屋でそれぞれオマケを貰うことに成功した(買い物をしたのはリーブで、ヴィンセントは後ろをついてきただけなのだが)。ぱんぱんに身の詰まったトマトとザルに山盛りになった小鯵はその日の夕食となってふたりの舌を楽しませてくれたのだから、役得とはこのことだった。

 しかし、ものごとには限度というものがある。待ち合わせ場所にしていたバーの扉を押し開いたリーブは、視界に飛び込んできたものに思わず眉宇をひそめた。
 落ち着いた雰囲気と出しゃばらない接客が心地よい、ふたりの行きつけのバーだ。酒もさることながらフードメニューもなかなか気が利いていて、ここのトリッパ煮込みはふたりの定番だった。
 明日はリーブの公休だ。せっかくだからデート気分でも味わおうと、現地集合にしたのがどうやら裏目に出たらしい。
 カウンターの隅に腰掛けたヴィンセントの隣に、見も知らぬ男が陣取っている。対するヴィンセントはまっすぐ前を向いたまま、男の話に相槌を打つでもなく頬杖をついていた。
 リーブが扉を開けたことでベルが鳴り、カウンターの中に立つ初老のバーテンダーが柔和な笑みを浮かべて常連を歓迎する。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
 声が聞こえたのか、ヴィンセントが顔を上げた。彼の関心を惹こうと必死な男はリーブに気付かないようだ。
「すまないが、席を開けてくれるか。連れが来たのでな」
「えっ……」
 慌てて姿勢を正した男は、まだ三十になろうかどうかの青年だった。それなりに仕立てのいいスーツを着込んではいるが、端々に青臭さが覗く。リーブがことさらに申し訳なさそうな顔で微笑んでやると、彼はさっと顔色を失くした。
「すっ、すみません」
「いいえ。退屈しのぎに付き合ってくださったようで、ありがとうございます」
「いえ、そんな……」
 もごもごと口を動かす青年は席を立ち、移動するかと思ったが横にずれてウェイターに会計を頼んだ。そそくさと金を払い店を出てゆく背中を見送って、まだ生温さの残るスツールに腰を下ろす。
「追い出したみたいで悪かったですね」
「とんでもない。本日もご来店ありがとうございます」
 折り目正しく会釈するバーテンダーにビールを頼み、ふうと息をついた。壁に背を預けて座るヴィンセントが、半分ほどまで減ったグラスを傾けながら口角を上げる。
「大したものだな、局長殿。あの顔色を見たか」
「その呼び方はやめてください、ヴィンセント。遅くなってすみませんでした」
 あの青年はリーブのことを知っていたのだろうか。であればあたふたと去って行ったのも無理はない。ともあれ黄金色の泡が弾けるグラスを受け取って、まずは乾杯だ。
「それで?」
「それで、と言うと」
「どんな話してたんですか?」
 サービスのナッツを口に放り込んだリーブが問うと、ヴィンセントはひょいと肩を竦めた。
「さあな。何が言いたいのか今ひとつ要領を得なくて」
「そうですか」
 それは可哀想に。きっと彼なりにがんばってヴィンセントを口説き落とそうとしていたのだろうに、この美しいひとはその努力を訳が分からないと切り捨ててしまって、それでおしまいだ。リーブが喉を潤しながら密かに溜飲を下げていると、そういえば、と聞き捨てならない台詞が聞こえた。
「横顔が綺麗だ、と言われたな」
「……なるほど?」
「あまりに脈絡がなくて面食らったな。最近の若い連中の話し方にはついて行けん」
 諸事情あって実年齢と外見年齢に大きな乖離のある男は、そう言いながら気のない様子でピスタチオの殻を玩んでいる。
「で、なんて返事したんですか? 口説き文句としては悪くないじゃありませんか」
「……なるほど、私は口説かれていたのか」
「私にとっては遺憾ですが」
 微笑するヴィンセントが首を傾げて、悪戯な目を向けて寄越した。あんな若造にどうこうさせてやるつもりはまるでないけれど、それでもリーブだってやきもちくらい焼く。拗ねたところを隠そうともしないリーブに、ヴィンセントは言った。
「よく言われる、と返したら笑われたな」
「そうでしょうとも」
 ことあるごとにその美しさに詠嘆するリーブをヴィンセントはたまに煩わしそうに見ていたけれど、言葉の方は一応届いていたらしい。そんな彼が、いまさらぽっと出の小僧に綺麗だなんだと言われたところで動じるはずもなかった。
「若いというのも良し悪しですね」
「どういう意味だ」
「勇気と勢いは大したものですが、やはりまだ視野が狭い」
 お待たせしました、と差し出された煮込みにヴィンセントが目を輝かせる。食べ物になんか興味はないと言わんばかりの見た目をしておいて、彼はなかなか食い気が張っていた。それも、リーブがあれこれと美味いものを食わせたからだと思うと優越感もひとしおだ。
 さっそくトリッパに手をつけるヴィンセントをとっくりと眺める。髪、おとがい、首筋、肩、手、指、背中から腰、そして脚。どこを切り取っても彫像のように美しいこのひとは、確かに生きている。生きて食べて呑んで眠り、また目を覚ます。一度はカオスに呪われたその身体は生きる営みを取り戻し、穢されなかった魂と共にこうしてリーブの傍らにある。
「あなたはどこもかしこも綺麗ですよ」
 横顔だけではない、美しいのはヴィンセント・ヴァレンタインという男そのものだ。そんなことも分からない輩には髪の一筋だって渡してはやれない。分からせてやるつもりも毛頭なかった。このひとの尊さは、見せびらかすようなものではないのだから。
「お褒めに預かり光栄の至りだ」
 そんなことより食わないのか、と口をもぐもぐしながら皿を押し出してくるヴィンセントに笑いかけて、リーブはグラスを干した。ああ、今夜はいい酒が呑めそうだ。