V.V.V. – 第四章 螺旋宮

     1

 気がつくと、ヴィンセントは壁の前に立っていた。軽い眩暈を覚えて、一歩後退る。ブーツの底で乾いた砂が小さな音を鳴らした。
 びょう、と風が吹き抜ける。さして強くもなく、何の香りもない風は舞台の演出のように味気ない。雨に湿ったマントの裾が静かにはためいたが、今この場所の空気は乾いていた。辺りに生き物の気配はない。
(……ここは、)
 視線を上げて壁を見上げる。首の可動域いっぱいに反らしてもその上端が見えない壁は、決然と、あるいは無表情に佇んでいる。首を傾げるヴィンセントのことなど興味はない、といったような風情だ。死んだ珊瑚のように白い壁は、欠けもヒビもなく続いている。目を眇めてもその果ては見当たらない、どうやら壁そのものが大きく湾曲しているようだった。
(ここはどこだ――何が起きた?)
 エッジからミッドガルの廃墟を駆け抜け、瓦礫とガラクタに囲まれた広場でヴィンセントはあの男と対峙していた。しとしとと降り止まぬ雨は崩壊したプレートを伝ってふたりを濡らしていたはずだ。ケルベロスを引っ提げたまま、男の言葉を反芻する。

 ――不在証明と引き換えだ、と申し上げたはずです。
 男は突きつけられる銃口に怯むことなくそう嘯いた。デンゼルを返せと迫るヴィンセントに、とある場所まで一緒に行ってくれれば子供は解放しようと答えた、その続きだ。
 貴様の口約束など信頼できんと跳ね除けると、信じてもらえないのなら仕方がない、子供を返すわけにはいかないと、平行線を辿ろうとする「話し合い」にヴィンセントが焦れた時だった。
 ――もうすぐ貴方のお仲間たちがここにやってくるでしょう。その前にご決断頂かなくては、あの子のためにもね。
 ――デンゼルに何をするつもりだ。
 ――単純ですよ。我々がここを去る前にお仲間が来れば、私はあの子を殺さなくてはならない。そういう仕組みなのですから。
 脅し文句は幼稚で、であるが故にヴィンセントを躊躇わせた。手の届くところ、せめて目に見える場所にデンゼルがいたとしたら、馬鹿なことをと一笑に付して引き金を引いただろう。仲間たち、つまりクラウドたちがこちらに向かっているのであれば――どうしてこの場所を探り当てたかは分からないが――なおのこと好都合だ。しかし、肝心のデンゼルは依然としてこの男の手の中にある。
 ――仕組みとはどういう意味だ。
 ――貴方もいらっしゃれば分かる。いずれにせよ、貴方がここから消えることとあの子供が帰ることは交換条件です。
 シンプルでいいでしょう、と笑う男の吊り上がった口角が不愉快だった。相手のペースに乗せられたままというのは大変に気分が悪い。しかしこれといった打開策もなかった。
 ここでこの男の頭を撃ち抜くのは簡単だが、それではデンゼルが取り戻せない。デンゼルは勇敢な少年だが、とはいえまだ年端も行かぬ子供だ。どこかも分からぬ場所で心細い思いをしているだろうし、怪我を負わされている可能性を考えれば悠長なことはしていられない。
 得体の知れぬ男の言うなりになるのは気が向かなかったが、デンゼルに自力で脱出させるより、ヴィンセントが行って戻ってくる方が確実なのは間違いなかった。少なくとも自分には武器があり、今のところ傷もなく闘うことができる。正直なところ「追いかけっこ」のせいでいくらか疲れてはいたが、それだけだった。
 ――分かった、どこへでも連れてゆけ。
 その言葉に満足げに笑う男の声が、廃墟の空に響く。同時に携帯端末を収めた左胸から己を呼ぶ声が聞こえて、ヴィンセントは息を呑んだ。いつの間に繋がっていたのだろうか。銃を構え直す仕草に紛れて、端末――左胸を二の腕で押さえる。小さな端末はリーブの叫びを吐き出してかすかに震えていた。
 では、と男が手を打つ。一度、二度、三度目が鳴った瞬間、ヴィンセントは白い光に呑まれていた。

 つまり、ここがあの男の言っていた「ご一緒いただきたい場所」ということらしい。そのくせ、男の姿はどこにも見えないのだから勝手なものだ。ヴィンセントは行儀悪く舌打ちをひとつ、改めて辺りを見渡す。
 先ほどから何かがおかしい気がしてならなかったが、ようやく分かった。ここには影がないのだ。
 太陽というべきか、とにかく強い光源は壁を向いたヴィンセントのやや後ろ、天頂からわずかに傾いた位置にある。だから普通ならば、ヴィンセント自身の影が壁に向かって伸びるはずだった。それがない。
 色のない空、温度のない強い光、白い砂利の転がる大地、果てのない壁、消えた影。ヴィンセントを取り巻く世界は現実感を見失って寂然と広がる。身動ぎに合わせて鳴るガントレットと弱い風に舞うマントの裾、それだけが異物のような音を滲ませていた。
 体軸が定まらず、ぐらりと視界が揺れた。不出来な作りものの世界に引き摺り込んで、あの男は自分に一体何をさせたいのだろう。ともあれここに立っていても仕方がないと、ヴィンセントは一歩を踏み出した。
 方向を見失わぬよう、持ち歩いていたナイフで壁に印を刻む。枯死した樹、あるいは焼かれた白骨のようにかさついた石は脆く、切っ先を容易く受け入れた。体感で百メートル進むごとにナイフを動かしながら、大きく緩いカーブを描く壁を伝って歩く。
 歩き始めてしばらくは全く無心だった。いつどこから何者かが現れるとも限らない。およそ生命の息吹というものを感じさせない世界、この高く聳える壁の他は視界を遮るものはない空間で、当てもなく警戒し続けるには集中力が必要だった。銃を得物とするヴィンセントは神経を研ぎ澄ますことには並の人間とは比べ物にならぬほど慣れていたが、未だかつて経験したことのない奇妙な空白に放り出されても平然としていられるような肝では、さすがになかったらしい。
 十一回ナイフを動かした頃、霞むほどの彼方に置物のようなものが見えた。ここに来て初めての、壁以外の人工物のようだ。柄にもなく逸る気持ちを努めて押し殺して、深い呼吸を二度。左手に提げた相棒のフレームを親指で撫でながら、前方を見据える。敵か、あるいはその仕掛けた罠か。
 茫漠として広がる白と自らの影のないことが、ふたつの感覚を狂わせる。ひとつは方向と平衡の感覚、もうひとつは時間の感覚だ。今自分がどこに向かっているのか、自分は果たして真っ直ぐに立って歩けているのか、ここに来てからどれだけの時間が経ったのか、どれも常であれば意識さえせぬほどに確かであるはずなのに、今は一歩踏み出すごとに砂礫となって指の隙間から滑り落ちてゆくような錯覚を振り払えない。
(笑えない冗談のような世界だな)
 目指す「何か」には、少しずつ近づいているようだ。遠目に見た時には置物か何かかと思ったが、どうやらヒトのかたちをしたものが座り込んでいるらしい。砂漠の民がそうするように薄汚れた布を幾重にも巻きつけて、その端が緩く吹く風に静かに靡いている。本体はぴくりとも動かないから、それが生きた人間なのかどうかまでは見定めることが出来ないが。
 全く無意識に溜め息を吐いていた。「追いかけっこ」による肉体の疲れは大したことはなかったが、あらゆる直感を少しずつ削られてゆくような砂地を彷徨うことには気疲れし始めている。背骨が脆く萎えてゆくような、脳味噌が頼りない綿の塊に置き換えられてゆくような、情緒がぐらりと傾いで不意に叫び出しそうな――これが寄る辺ない、という感覚なのかもしれない。
 よくない兆候だ。その手の拷問のひとつに、真っ白な何もない部屋に閉じ込めておくというのがあったのを思い出す。今の状況とどちらがましだろうか。少なくとも歩き続け、自分が――どこへかはともかく――進んでいることを確かめる手段と認識力があるうちは、狭い牢に押し込められるよりいくぶんかまともだろう。たとえ、一度でも立ち止まればもう二度と足を動かせなくなるのではないかと、その空恐ろしい懸念が脊椎にべったりと貼り付いていたとしても。
 十四個目か十五個目の印を刻んだ時、そういえば携帯端末を持っていたのだということに気がついた。ここに飛ばされる直前、ヴィンセントの名を呼ぶリーブの声を吐き出したあの端末だ。まるで期待は出来なかったが、ナイフを持ったままの手で懐を探る。
 いつもグローブやガントレットをはめているからタッチパネル式のものは使えないだろうと、リーブがわざわざ探してくれた物理キー付きの少し古いモデルだ。小さなボタンでテキストを打つのが億劫で、彼の心遣いはあまり有効活用されていないのが実情だが。
(通信圏外か)
 当たり前といえば当たり前の結果だった。画面を指先でなぞり、それから着信履歴を確認する。乱数のようにでたらめな番号は、およそ三十分前にこの端末と通話していたと表示されていた。
(器用なやつだ)
 恐らくメンテナンス用の回線を乗っ取って無理やり繋げたのだろう、今夜セブンス・ヘブンに集まっているはずの面々を思い浮かべてみても、そんなことが出来そうなのはリーブくらいしかいなかった。いつもは書類の決裁だ、当局との交渉だと事務員じみた顔しかしないくせに、送られてきた暗号をいとも容易く解読したどころかその元となるコードを作ったのだとか、それなりに長くそれなり以上に深い付き合いのつもりでいたヴィンセントにも知らない側面を、彼は持っている。
(――悪くないものだな)
 状況を忘れて、ふ、と小さく笑みが零れた。今は世界再生機構のトップとして立つ男の来し方を、彼に深く根を張る経験を、そこから生ずるのだろう自負や悔恨やあるいは欠落に似た傷を、ヴィンセントはあえて暴こうとはしてこなかった。直視しようとすれば未だにじくじくと膿んで痛む過去を胸の裡に眠らせたままのヴィンセントには、彼が自ら開示しないものを探り起こす権利はないと思っていた、けれど。
(こうしておまえのことを知るのは、悪くない)
 手札をありったけ晒し合うような関係は、ヴィンセントには遠すぎる。互いのすべてを知り尽くさなければ情念に焦がされて焼け死んでしまうような、そんな錯覚に支配される恋に、ヴィンセントはついに触れたことがなかった。
 そのことを惜しいとは思わない、別に「何を今さら」としたり顔で嘯く自意識のせいではなく、単に詳らかに明かさないだけのいろいろをポケットにしまったまま歩くのが心地よいからだ。
 相手のポケットからたまに見え隠れする何かを覗き見たり、あるいは見ないふりで受け流したり、ともすればよそよそしいと傍からは見えるかもしれない関係の織り方を、そしてそういうふうに在ることを、内心はどうあれ受け容れるリーブという男の温度を、ヴィンセントは本心から愛おしく思っていた。

「……しまった、」
 思索の海に沈み込んだせいで、壁に印を残すのを忘れていた。最後に刻んだところからどれくらい進んだのだろう、軽く振り返って目を凝らすが、インクを使ったわけでもない目印は無色の光を反射する壁のどこにも見当たらない。
 意図せず漏れた己の声に肩を竦める。進行方向を向けば、もう間もなく蹲る何かに辿り着くところだった。わざわざ戻るのも馬鹿馬鹿しい。どうせあと数百メートルだ、あの目標が蜃気楼でもなければ、だが。
 端末を定位置に収め直して、歩幅を広げる。夏の逃げ水を追うように延々とあのオブジェを目指し続ける羽目になったら、という懸念は当たらなかった。拍子抜けするほど呆気なく、ヴィンセントはその物体の目の前に立つ。
「悪趣味極まりないな」
 覗き込んだ物体は、崩壊しかけた人間の白骨死体だった。この期に及んで骸骨くらいで騒ぎ立てるような可愛げは、生憎と持ち合わせていない。
 悪趣味だ、とヴィンセントに独語させたのは、そのしゃれこうべの首に巻かれた布だった。直射日光に何年も晒されたように退色したそれは、けれどまだ微かに赤い色を留めている。からからに乾いた頸椎の凹凸にかろうじて引っかかっているそれは、長さといい質感といい、ちょうどヴィンセントが巻いているものとそっくりだったのだ。
 よくよく観察してみれば、胴に巻きつく服の成れの果てはヴィンセントのものとは違う。やはり色褪せてはいるが、元々は黒かったのだろう。ずたずたに裂けたマントが吹く風に小さく身を捩る。これは、恐らく。
(――親父)
 何十年も前に使ったきりのその呼称は、声帯を震わせることはなかった。自身ではなく父親――グリモアを模した白骨に、ヴィンセントは呼ばれたのだ。
 まやかしであることは分かっている。グリモアの遺体はとうの昔に葬られた。魂はライフストリームへ、器は土へと還ったのだ。ここがどこであれ、そう、たとえ地獄の入り口であったとしても、父の遺骨がこれほどまでに完全な状態で残っていようはずもない。
 こんなものでヴィンセントを動揺させるつもりなら、ずいぶんと舐められたものだ。父の衣装を纏った骨組みを見せられたことよりも、侮られていることが腹立たしい。ふん、と鼻を鳴らしたヴィンセントは、落としていた視線を前に向けた。
 骸骨が寄り掛かっている横は、岩戸のように切り取られていた。手を掛けられそうな箇所はなく、ぴったりと閉じた扉はヴィンセントの身の丈の倍ほどの高さだ。試しに押してはみたが、案の定びくりとも動かない。この壁の向こうに進むことが正しい道なのかどうかは分からなかったが、少なくともこのまま壁伝いに進み続けるよりは事態を進展させてくれそうだった。
 では、どうやってこの扉を開けるかだ。一歩退いて辺りを眺めわたした。不愉快な骨の他には相変わらず何も見当たらないが、その手の中に何かが光っていることに気づく。そっと背を屈めて観察すると、それはマテリアのような水晶球だった。ヴィンセントは出来るだけ骨に触れぬよう、注意深くその球体を摘み上げる。
 井戸から汲み上げた水を凝縮させたようなそれを天に翳すと、また眩暈に襲われた。体軸をぶらされるような、眼球が滑るような眩惑。すうと細く息を吸うヴィンセントの脳が、何者かの声を知覚する。
 ――ようこそ、私の螺旋宮へ。ヴィンセント・ヴァレンタイン。
 その声はヴィンセントの鼓膜を振動させなかった。不安定に上ずる語尾が側頭葉の聴覚野に直接侵入し、記憶の残骸を掘り起こす。神経質な息遣い、人の目を見ずに吐き出される刺々しい言葉、丸まった背中、癇症にわななく指の動きまでが鮮やかに甦る。
「……宝条、」
 ヴィンセントがこの手で二度葬った男、破裂した自意識の妄執に囚われ続けた哀れな科学者、響く声は彼のものに他ならなかった。やすりをかけたようにささくれた呼び名に、声が耳障りな笑いを吐く。
 ――進むがいい、そして戻れ。ここは螺旋宮、永久の円環。十の扉を通り、出口から入口へ還り、いずれ乾いた骨になれ。
「何が望みだ」
 ――進め、そしてまたここで会おう。螺旋宮の果ては螺旋宮の始まり、終わらぬ終焉に赦されるまで。
「復讐か、宝条、哀れなものだな」
 ――私を憐むな、ヴィンセント・ヴァレンタイン。憐みなどとうに厭いた、正しくも美しくもない、そこからは何も生まれん、私には何の役にも立たん。
 ひゃひゃ、と神経を逆撫でする笑いと共に、目の前の扉が音も立てずに左右に開く。それきり沈黙した水晶を握り締めて、ヴィンセントは螺旋宮の招きに応じた。父を模した死骸には一瞥もくれることなく。

    2

 扉の向こうには同じような壁がそそり立っていた。螺旋宮、という名から推察するに、この壁は渦を巻いて中心に収斂してゆくのだろう。であれば扉などくぐらずとも歩き続ければいつか中心に辿り着くはずだが、果てしなく続く外周を思えば大人しく扉を探した方がよさそうだった。馬鹿正直に歩き続けるうちに干からびて死ぬのは御免だ。
 先ほどと同じように壁に印を残しながら歩く。考えることは、ヴィンセントの脳に直接語りかけてきた宝条のことだった。
 ディープグラウンドの闘いを経験した今、あの男がどのような形であれ断片を残していることに驚きはなかった。問題は、宝条の残滓が元タークスの男に何故手を貸したのか、ということだ。
 白茶の髪の元タークス――そういえば名前も分からない――の目的は、ひとことで言えば神羅を否定したリーブへの復讐だろう。その手段として、リーブから自分を引き離そうとしている。かつてのタークス、神羅の暗部の手脚であった特殊部隊の人間があの強大な機構に心酔するのは想像に難くないし、ヴィンセントのかつての同僚たちにもその手の人間はいくらでもいた。
 故に、タークス・オブ・タークスとさえ呼ばれた男が「裏切り者」に付き従っているのは許せないのだろう。ヴィンセントはリーブの部下でも側近でもないが、傍からはそう見えても仕方がない。
 しかし、宝条の方はさほど単純ではない。あれは神羅の権力と資源を使い潰し、妄想に似た己の理論を証明することにのみ汲々としていた男だ。彼を突き動かすのは劣等感と敗北感、そこに神羅への忠誠や使命感などはかけらもなかった。最期はついにヒトであることすら放棄し、自分自身を「科学」の贄と捧げた哀れな男。それが何故、元タークスに力添えするのか。
(……分からんな)
 ふう、と小さく嘆息する。考えてみれば昔から、つまりヴィンセントも宝条もまだただの人間だった頃から、あの男の考えることを理解できた試しはなかった。推測するだけ無駄かもしれない。
 しばらく歩くと、外周と同じように骸骨が蹲っていた。足早に近づきその姿を改める。この演出を考えたのがどちらかは分からないが、ともあれヴィンセントの神経に障ることだけは確かだった――次の死骸はルクレツィアの白衣を纏っていた。
 扉の端に凭れかかる骨と化した死体からは皮膚も髪も剥がれ落ちていたが、その頭には幅の広い黄色のリボンが絡み付いている。首にかかったネックレス、レース付きの青いカットソー、黒いタイトスカート。彼女の気に入りだったコーディネートだ。
 敵の意図は理解した。こうしてヴィンセントの知己を模倣した白骨を見せて、動揺を誘おうとでもいうのだろう。
 ずいぶんと侮られたものだ。宝条は、この先に十枚の扉があると言っていた。メテオ戦役の仲間たちに、グリモアとルクレツィアを加えてちょうど十人だ。次に出て来るのはクラウドあたりだろうか。
 ルクレツィアの魂がここにないことは分かっている。だからヴィンセントはしごく冷静にその骸骨を探った。先ほどと同じように、水晶球があるのではないかと考えたからだ。果たしてそれは、白衣のポケットに入っていた。
 無造作に手を突っ込んで取り出すと、やはり水で満たしたような珠はぎらりと剣呑な光を放った。咄嗟に目を細めて顔を背ける。ホログラムのような虹色の輝きはやがてひとりの人間のかたちに凝集した。
「……ルクレツィア」
『ヴィンセント』
 彼女の声は、水底から響くように揺れていた。思わず呼んでしまった名前を悔いて唇を噛み締める。焦点の定まらない瞳で、彼女の幻が微笑した。
『あなたはこれから、いくつの扉を抜けて行くの?』
「何を……」
『答えて、ヴィンセント。あなたの行く先には、いくつの扉があるの?』
 泉の水面が揺蕩うように、ルクレツィアの幻影が揺れる。奇妙に共鳴し合う音素の問いに、十、と答えかけてヴィンセントは息を呑んだ。
 違う、十ではない。
「――私が正しく答えれば、残りの数はひとつ減るわけだな」
 その答えに、女のかたちをしたものは満足げに笑う。きゅっと吊り上がった唇の端から、鱗粉のような光の粒子が散ってゆく。次の瞬間、さあ、と吹いた風に掻き回されて、ルクレツィアの似姿は消滅した。扉が静かに開く。
 想定が正しければ、あと九回はこれを繰り返すのか。陰鬱とした気分が脊髄に貼りついたが、ここで止まるわけにはいかなかった。

 結果として、ヴィンセントの想像は正しかった。次の扉の前ではクラウドの、その次はティファ、バレット、エアリス、ナナキ、ユフィ、シド。ケット・シーが見当たらなかった、どんな骸骨が用意されているかと期待さえしていたのだが。
 それぞれがルクレツィアの幻と同じように謎をかける。どれも似たり寄ったりの問題で、創造力がないのは宝条だけではないようだ、とヴィンセントは肚の中で笑いさえした。
 ゴーグルを頭に乗せた死骸の横を通り抜けて、最後の扉を目指す。いつの間にか壁の湾曲がずいぶんきつくなっていた。中心に近づいていることは間違いないようだ。
 いくらかの空腹と喉の渇きを覚える。今夜はティファの心尽くしのご馳走が出るからと、朝兼昼の軽いものしか食べていなかった。まさかこんなことになるとは、戻ったらバレットとユフィには特に詫びなくてはならない。今ごろリーブが平身低頭謝っているだろうから、食傷しているかもしれないが。
 歩き出してすぐに、ヴィンセントは最後の白骨を見出した。
「……なるほどな」
 案の定というべきか、それは肩の張り出した、丈の長い上着を纏っていた。色は古びて褪せた青、その裾に縋り付くように王冠を被った猫のぬいぐるみがうつ伏せている。
 今までの死骸と違ったのは、いささか古風なその衣装の下の骨がばらばらに砕けていることだった。吹き抜ける風に突かれた頭蓋骨がごろりと落下する。後頭部にヒビの入っていたしゃれこうべは、地面に衝突して散り散りに破片を飛ばした。
 つくりものの死体でさえ痛めつけずにはいられないのだろうか、ちょうどこの骨のような色をした髪の男の顔を思い浮かべる。顔面にべったりと貼りついた仮面のような笑顔は温度も湿度もないように見えたが、存外に激情家なのかもしれない。
 ぬいぐるみを摘み上げると、引き裂かれた腹から水晶が落ちた。発光。
『ヴィンセント』
 こちらは予想に反して、現れた幻影は五体満足で怪我のひとつもなかった。強いてひとつ指摘するとすれば、ケット・シーの姿がない。ぬいぐるみまで用意したのなら、幻のリーブの肩にでも乗せておけばいいものを。
 腕を組んでまやかしのリーブの問いかけを待つ。いちいち名前など呼んではいられない。ヴィンセントの精神に揺さぶりをかけるのが目的なのであれば、こうも執拗に同じパターンを繰り返すべきではなかった。もう飽きた、うんざりだ。
『あなたはここに来るまでに、いくつの扉を抜けて来たのですか?』
 質問の方は想定通りだった。どうせ最後の問いはそんなところだろう、と歩きながら考えていたのだ。ここは螺旋宮、同じところを巡り続けて始点と終点が一致するというのなら、答えは迷うまでもなかった。
「くだらん。私は『ここ』にいた、初めから――そうだな、宝条」
 その言葉に、感情など見せぬはずの紛い物が不服げに顔を歪めた。そして、風が吹く。今までにないほど強く激しく荒れ狂う風陣、巻き上げられた砂塵が竜巻のように襲い掛かる。息を詰めて目を腕で覆うヴィンセントの懐で、何かがひくりと蠢いた気がした。

     3

 マリンとデンゼルは眠っている。目の届かないところに置いてまた何かあってはとソファ席にブランケットを重ねた簡易ベッドだが、拐われて戻ったばかりのデンゼルも、そのデンゼルを待ち侘びて不安にくたびれたマリンも、横たわってすぐに寝息を立て始めていた。
 護らなくてはならない存在の無事が分かり、ヴィンセントの行方が知れないとなるとリーブたちに出来ることはなかった。ミッドガルの中を改めて探索するにしても、氷雨の降る夜中では効率が悪いし要らぬトラブルを引き起こす懸念もある。今のところは彼を信じて待とう、ということになった。
 ナナキとユフィの腹が同時に鳴って、みな忘れていた空腹に気づく。ティファが昼のうちから用意していた料理の数々を無駄にするのも忍びなく、しかしアルコールを開ける気には誰もならなくて、静かな晩餐が続いていた。
 リーブも空腹ではあったが、量は進まなかった。何を口に入れてもまるで味がしない、ティファには申し訳ないことだったが。形だけナイフとフォークを手にしたまま、テーブルの木目を見つめる。
「リーブ、水はスパークリングでいいのか」
 クラウドの声に、はっと顔を上げる。彼はリーブの消沈するさまをあえて指摘することはなく、スパークリングウォーターのボトルを差し出してくれた。礼を言い腰を浮かせて受け取る、その拍子にジャケットのポケットから何かが滑り落ちた。
「何か落としたぞ」
 隣に座るバレットが言う。リーブが自ら手を伸ばす前に、それは逆隣のナナキによって拾い上げられた。
「かわいいね。マリンにプレゼント?」
 どうぞ、と笑顔を作るナナキの口には、猫のマスコットがぶら下がっている。本物よりかは精巧さに欠けるが、単純にデフォルメされた姿はそれはそれで可愛らしい。ケット・シー本体にも見せていなかったから、リーブの肩に乗った彼がそれをまじまじと見つめた。
「――そうだ、」
 がたん、と音を立ててリーブの座っていた椅子が倒れる。眠る子供たちは一瞬ぴくりと身動いだが、また夢の世界へ戻って行った。何事かと目を丸くする一同の視線がリーブに集中する。
「ヴィンセントのところへ向かいます」
 その言葉に、誰かがカトラリーを取り落とした。しん、と沈黙の降りた店内に、空調のモーター音だけが通奏低音のように広がってゆく。
「どうやって?」
 口の中のものを呑み下したシドが、口許を拭いながら問う。ケット・シーを除く残りの顔ぶれも、同じように疑問符を浮かべていた。リーブの相棒、猫のぬいぐるみだけは真っ直ぐにこちらを見つめている。
「詳しい説明は省かせてください。いつもケット・シーにしていることを、ヴィンセントの持ち物に対して行います」
「ケット・シーにしていること……って、どういう意味?」
「簡単に言えば操縦です、使うのは電波ではありませんが」
 リーブは深く息を吸って、表情筋を支配しようとする不安を跳ね除けた。彼らに自分の異能力について詳らかにしたことはなかった。わざわざ話す機会がなかっただけのことだが、これが終わったらきちんと説明しなければならない。しかしそれは今ではなかった。
「そんなことできるの? ヴィンセント、どこにいるかも分からないのに」
「幸い、今日ヴィンセントに渡したものがあります。偶然ですが、それなら操縦が可能です」
 酒屋の前で話題にした、小さなケット・シーのストラップ。ぬいぐるみの素体は売られていたものだが、そこに手を加えたのはリーブ自身だ。ひとりの夜のつれづれに仕込んでいたリーブは、あの一体に「接続」していた。掌に収まるサイズのそれを動かしたところで何の役にも立たない、ただ、子供たちの目の前でぬいぐるみを歩かせてやったら面白いだろうかと思っただけだ。
 そのぬいぐるみが、ヴィンセントの手に渡った。引っ張り出したひとつが偶然にも「接続済み」の個体だったのは、今となっては僥倖だった。
「その、渡したものっつーのは間違いなくヴィンセントが持ってんのか?」
「そう信じるしかありません。ミッドガルのどこかに落ちていたら、本当に打つ手なしです」
「てか何渡したの、まさかそのちっこいやつ? それ動かして何とかなんの?」
 身を乗り出すユフィに、返す言葉がない。
 ケット・シー本体のように慣れたものならいざしらず、一度手慰みに接続しただけの物体、しかもどこにあるのかも分からないものを操作するのは初めてだ。果たしてそれが可能なのか。そして、ちゃちなマスコットを動かしたところでヴィンセントの力になることができるのか。まるで自信がなかった。
 ケット・シーはリーブの内心を察しているのだろう。彼はじっとリーブの顔を見つめている。まるで確証のない賭け、しかしこれしかないのだ、ヴィンセントに辿り着くためには。
「……分かった。他に手段がないなら、任せる」
「クラウド」
 口を閉ざして成り行きを見定めていたクラウドの言葉に、ティファが戸惑ったまなざしを向ける。初めて出会った時よりもずっと精悍さを増した男は、月光のように冷たい金髪を揺らしてリーブを見た。
「そうじゃないと、あんたの気も治まらないだろうからな」
「ええ。やってみて駄目なら仕方ありませんが、出来ることがあるならすべてしておきたい」
「そうだな。……それに、あいつひとりに抱え込まれるのは不本意だろう」
「その通りです――独り占めするなんて、ずるいですよね」
 リーブの言葉にクラウドが目を細めて笑うと、もう誰にも口を挟むことは出来なかった。ケット・シーがリーブの右腕にしがみつく。
「すみませんがケット・シー、いったん『終了』しますよ」
「……なんや、残念やなあ。一番ええとこ見られへんやないの」
「我慢してください」
 今からしようとしていることがどれほどのエネルギーを要するものか、リーブにも皆目見当がつかなかった。全精力を注ぎ込むつもりでかからなければ後悔するだろうということだけが分かる。ケット・シーを動かすために供給している微弱な力さえ、今は惜しかった。
「ほな、ボクちょっと寝ときますわ。マリンちゃんと添い寝してええかな」
「ぬいぐるみのくせに図々しいぞ!」
「ぬいぐるみだったらいーじゃんねえ」
「だな」
「むしろ喜ぶんじゃないかなってオイラ思うけど」
「テメエらは黙ってろ!」
「静かに! あの子たちが起きちゃうでしょ」
 仲間たちの軽口が、未知の賭けにややもすれば萎縮しそうになるリーブを鼓舞する。右腕をぎゅっと抱き締めた猫が離れ、ぴょんぴょんと跳ねてマリンの枕元に座り込んだ。
「リーブはん、終わったらちゃんと起こしてえな」
「もちろんです」
「したらみなさん、おやすみなさい」
 ひらひらと手を振ったケット・シーが、一拍置いてかくりと首を落とす。それを見届けた六対の瞳がリーブを見た。
「……そこのソファをお借りします。意識が飛んでも、起こさないでください」
 ヴィンセントだけに片をつけさせるつもりはなかった。たとえ彼のように闘えなくとも、護られる一方だなんて御免だ。リーブにはリーブの闘い方がある。持てる能力の限界を超えて、自分が彼と並び立つ資格があるのだと証明したかった。他の誰でもない、自分自身に。

     4

 砂嵐が去った。顔を覆っていた腕を下ろし、瞼を開く。聳えていた高い壁は、もうどこにもなかった。何もない、溢れんばかりの白い光の中に立つひとつの影の他は。
「お待ちしておりました、ミスター・ヴァレンタイン」
 それはあの元タークスの男だった。灰茶の髪は一筋の乱れもなく撫でつけられ、「追いかけっこ」の時と同じ、冴えない中年男の服を纏っている。武器らしいものも持たないというのに、すっと伸びた身体には隙がなかった。
「必ずいらっしゃると信じておりましたよ――螺旋宮の最果てへようこそ」
「ここが果てなら、貴様が私の『終焉』か」
「さあ、それはどうでしょうか」
 対峙する男は、突きつけられた銃口にちらりと視線をやった。親しい友人の無作法を窘めるような目つきだ。とっくに臨戦態勢のヴィンセントに向き合っておきながら、彼からは一縷の殺気も感じられない。
「ではお約束通り、質問にお答えしましょう」
「まず一つ目、宝条はどこだ。何故奴が貴様に手を貸す」
 その質問は、男にとっては想定外だったらしい。一拍置いてから、ふう、と細い息を吐き出す。
「宝条博士は死にましたよ、あなたが殺したんだ」
「分かっている。奴の意識の断片がネットワークを彷徨っていることもな。どこで手に入れた」
「手に入れた、という表現には語弊がありますが……それより、私の正体を聞いてはくださらないのですか?」
「興味はないな。貴様が誰であろうと知ったことか」
 ヴィンセントのいらえに、男は実に不満そうに唇を歪めた。タークスらしからぬ自己顕示欲、その薄っぺらな発露に対する返答にクラウドの口癖を借りるくらい、この男そのものはどうでもよかった。
「……まあいいでしょう。私が元タークスであったことはご承知ですね」
「ああ」
「結構。私はあなたより五年遅れてタークスとなりました。その頃、あなたはすでにタークス・オブ・タークスと呼ばれてお忙しくしていらっしゃいましたから、ご記憶ではないでしょう」
 ケルベロスの銃口は微動だにせず男の額を狙っている。にも拘らず、男の口調はまるで昼下がりの茶飲み話のようにゆったりとしていた。
「あなたが失踪して数年後、私は実力を買われて主任に昇格しました。宝条博士と面識を得たのはその頃です」
「……」
「私にとって、宝条博士のひたむきさは好ましいものでした。目標に向かって一心不乱に研究に取り組む、私はそういう専門家が好きなのです。博士のリクエストにお応えして検体を調達したことも何度もありました」
「検体、か」
「ええ。希少種や、古代種の血を引くと思われるものなどはずいぶん集めたものです。次第に博士も私を信頼して、さまざまな研究テーマについて教えてくださいました」
 平然と語られる昔話のおぞましさに、ヴィンセントは眉宇を顰める。そういえばエアリスとナナキも同じように宝条に囚われていたのだと聞いた。よもやこの男があのふたりを捕らえたわけでもあるまいが、ガストの研究を乗っ取っただけでなく捻じ曲げ続けた宝条の執念、それに手を貸して何とも感じないこの男に吐き気を覚えた。
「私は門外漢ですが、古代種というのは非常に高度な文明と知識を持っていたようですね。マテリアといい、ジェノバを封じたことといい、全く私にしてみれば御伽話の魔法使いのようですよ」
 あれが絶滅してしまったのは本当に惜しい、と嘆息する男が不愉快だった。誰のせいだ、と胸中で吐き捨てる。
「博士は古代種の技術を現代に転用することも研究されていました。いかな博士といえどそのほとんどは実用に至らなかったわけですが、いくつかは模倣に成功しています――ここは、その成果のうちのひとつですよ」
「……なるほどな」
「なんでも、かつての古代種がジェノバを封印するのに使った技術の亜種だそうです。対象を異空間に閉じ込めるものだと博士はおっしゃっていました」
 より正確な言い方をすれば、対象を核として、それ以外のものには侵入できない檻を作り、次元の位相をずらすことで脱出を不可能にするのだという。その説明の間、男の口調が時折辿々しくなるのが、彼がこの方面に明るくないことを裏付けていた。
「対象を核として、か。封じる対象がなければ空間は作れない……つまり、デンゼルはここに隠されていたのだな」
「その通りです。あの少年を核としてこの空間を作りました。ああ、ご安心ください。少年はあなたのお仲間たちのもとに戻りましたよ。何しろ、これが問題だったのですが、この檻には定員がありましてね。ふたりまでしか入れないのです」
「私と引き換えに、とはそういう意味か」
「はい。あなたに来ていただければ、あの少年にはもう何の用もありませんから。元タークスの矜持にかけて、あの子の無事は保証しましょう」
 デンゼルが無事であるらしいと聞いて、ヴィンセントは表には出さず安堵した。タークスの矜持など何の役にも立たないし、少年がクラウドたちと共にいるという確証があるわけではないが、男が人質を取り続ける理由もないのであれば今のところは男の言葉を信じるしかない。
「さて、ご質問に戻りましょう。何故宝条博士が私に手を貸したか……でしたね」
「簡潔に説明してもらえるとありがたいな、気が長い方ではない」
「それは失礼、では手短に。ネット上に散らばった宝条博士の断片のひとつが、私の目的を知ってコンタクトを取って来たのです。あなたがあの男の近くにいる可能性を示唆してくれたのも博士でした」
 リーブが憎いのなら消してしまえ、と宝条は男を唆した。反機構勢力に加わろうと情報を集めていたところを感知されたのだろう。舞台装置なら貸してやると提供されたのがこの異空間を創り出す技術、その詳細を収めた神羅のマザーサーバーはミッドガルの壊滅に奇跡的に耐えて休眠状態だった。
 宝条の残り滓の助けを得ながらデータベースから情報を引き出す際、作成者としてリーブの名が残っているファイルもまとめて引っ張り出した。そのうちのひとつが、例の言語だったという。
「博士はあの男よりもあなたに関心がおありのようでしたがね。つまり、ご自身の研究成果の行く末をお知りになりたかったようだ」
 ヴィンセントはその言葉を鼻であしらった。あの男に執心されているのも、まるで創造主気取りでヴィンセントを扱うのも単純に気分が悪い。しかもその宝条は正気だけでなく命も失っており、この男をけしかけたのは複製されたコピーデータなのだ。ぞっとしない話とはこのことだった。
「リーブが憎いお前と、私が憎い宝条の利害が一致したというわけだな」
「まとめればそうなりますね。博士の示唆通り、あなたがあの男の護衛をしていると分かった時は驚きました。なぜタークス・オブ・タークスとまで呼ばれたあなたが、あんな小物に肩入れするのかとね」
「では次の質問だ。何故お前はリーブを憎む」
 その問いに男の左眉がひくりと跳ねた。しかし、刻み込まれた笑みは崩れない。
「あの男が世界を裏切ったからですよ」
「明確な回答とは言いかねるな。説明しろ」
「神羅の最高幹部にまで昇り詰めておきながら、情勢が悪いと見るやゲリラどもの片棒を担ぐ。この星を守るだなどと大それたことを言って指導者気取りだ。これを卑怯な裏切りと言わずに何と呼べばよろしいので?」
 後ろ手を組んでいた男が、やはり芝居がかった仕草で腕を広げる。まるでここが舞台で、今は物語のクライマックス、勇敢な英雄が悪役を告発する、そんな雰囲気に酔っているように。
「神羅は滅びた、ライフストリームを貪った報いを受けてな。神羅の支配が恋しいというのなら諦めろ。覆しようのない結末はとうに過ぎた」
「はは、神羅の支配? 馬鹿げたことを言っちゃいけません、私はそんなもの、これっぽっちも懐かしんではいませんよ」
 物分かりの悪い生徒を相手にする教師のように男が首を横に振る。はあ、と白々しい溜め息さえ吐いて、男は続けた。
「私が許せないのはね、ミスター、あれが意志薄弱な変節漢だからですよ。お分かりになるでしょう、その時々で都合のいい方に肩入れして、漁夫の利ばかり血眼で狙っている。思想も信条もない権力の亡者だ」
 並べ立てられる侮蔑と罵倒に、今度はヴィンセントが笑う番だった。この男も妄執の虜になっている、かつての宝条とまるで同じだ。自分の見たいようにしか世界を見ることができず、独り善がりな怨嗟に惑溺してますます妄想の深みにはまってゆく。
 その思い込みを正すことは出来ないだろうし、する気もなかった。それでも、言わずにはいられない。
「あいつを馬鹿にするのはやめてもらおう。貴様には到底理解出来んだろうがな」
「一応伺っておきましょう……あの男の、何を私が見誤っていると?」
 問われるヴィンセントは、口角を吊り上げて笑っていた。自らが笑顔を浮かべていることに気づかぬまま、しかしその笑みが雪花石膏の肌を凄艶に彩る。
「リーブ・トゥエスティを見くびるな――あの男の覚悟を」
「覚悟ですって?」
 敵は大仰に目を見開いた。笑い皺に埋もれていた眼球がぎょろりと剥き出しになり、緑みがかった灰色の瞳が鈍く輝く。
「奴の覚悟は、他の誰にも背負えん」
「おっしゃることを理解しかねますね、ミスター・ヴァレンタイン。風見鶏にどんな覚悟があるというのです、風に吹かれてくるくる回るだけではないですか」
「言っただろう、貴様には理解出来んとな」

 リーブの決意――星の生命を削り、束の間の繁栄のみを優先した神羅の選択を過ちと認め、幹部唯一の生き残りとして犯した罪を償う。死の臭いのする男、と口さがない連中から呪われながらも、結局は神羅と同じように武力に拠らずにはいられないことに忸怩たる思いを抱えながらも、それでも彼はこの道を選んだのだ。
 少し前、ミッドガルの開発に携わっていた頃のリーブの話を聞いたことがある。彼から直接聞いたのではない、かつて神羅の都市開発部門で働いていた、今はゴンガガエリアでバレットに協力しているある女性だ。たまさかその地を訪れたヴィンセントのことを彼女は知らなかったが、互いにバレットの友人であると分かって夕食を共にした、その時のことだった。
 ――リーブさんは、なによりも街の人々の幸せが大切だといつも言ってました。上層も下層も関係ない、ミッドガルに生きるすべての人々に、当たり前の暮らしやすさを行き届かせるのが我々の仕事なんだって。
 当たり前の暮らしやすさとは、と首を傾げるヴィンセントに、わたしも、何だろう、と思って聞いたことがあります、と彼女は言った。その時リーブはすでに部長の座にあったが、他の幹部連中ではあり得ないほど下っ端とも距離が近く、どんな話でも必ず応えてくれたのだという。
 ――例えば蛇口を捻ればきれいな飲み水が出てくるとか、雨風を凌げる家があるとか、衣食住を満たして趣味を楽しんでも困らないだけの賃金が払われるとか、子供たちに望むだけの教育を受けさせてやれることだとか。
 ――教科書通りだな。
 ――ええ、わたしもそう思ってちょっと不満でした。でも、今になってなんとなく分かってきた気がするんです。そういう当たり前を実現するのって、なんて大変で報われないんだろうって。
 報われない、という言葉にヴィンセントも同感だった。生の営みを支えるものごとは、一度当たり前になってしまえば誰からも目を向けられなくなる。安全な水や住まいをありがとう、と感謝されるのははじめのうちだけで、功労者が見向きもされなくなるまであっという間だ。良きにつけ悪しきにつけヒトはいろいろなことを忘れてゆく、それを責めることはできない。
 ――報われないからこそ、誰かがやらなくてはいけないんですよね。わたしは気づくのが遅かったけれど。
 ――遅すぎることはないさ。あの男もまたやり直しているんだ。何度でも無駄にはならん。
 ヴィンセントの言葉に目を瞬かせた女性は、そうですね、と微笑んだ。
 彼女は魔晄に代わる資源の探索の傍ら、各地に初等教育機関を設立するプロジェクトを進めている。ゴンガガに建設中の学校は掘っ建て小屋も同然だったが、かつて神羅に蹂躙され無気力に陥っていた村人たちが見出した新しい希望でもあった。
 ――上手くいかないこともたくさんあります。勉強なんかさせたら働き手が減ると、ゴンガガでもよく言われました。でもそうじゃない、今だけがよければ先のことはどうでもいいなんて、それじゃ神羅と同じですよね。
 子供たちの未来を狭めることと、ライフストリームから奪い続けることは相似関係にあると彼女は言う。唯一違うのは、子供たちが長い人生の中で生み出せるエネルギーには限りがないことだと。
 ――奪えばあっという間に尽きてしまうけれど、与えればそれ以上のものを咲かせてくれるって信じてます。それが人間だから。だから学校なんです。
 ゴンガガの面倒をしばらく見たら次はコレルに向かうと話していた彼女は、リーブに会うことがあればお礼を伝えておいて欲しいとヴィンセントに依頼した。
 ――あなたの植えた種は芽生えています、少し時間がかかってしまったけれど、ちゃんと育って次の種を増やしています。リーブさん……部長も、お身体には気をつけて。
 その伝言を受け取ったリーブは、照れくさそうに鼻の頭を掻いて眉尻を下げていた。大したものじゃないか、と称賛するヴィンセントから目を逸らして、僕は何もしていません、ただ都市開発部門の皆と一緒に働けたことは本当に幸せでした、そう小さく呟いた。
 リーブはすべてを引き受けたのだ。ひとりの人間には到底背負えない罪と向き合い、生涯をかけて償い続けることを誓った。誰の手も借りず、さりとてそのヒロイズムに酔うこともなく、己の手で出来ることを見定めた結果が世界再生機構だ。そして、彼がかつて蒔いた種は花を咲かせ始めている。たとえ今のリーブから死と硝煙の臭いが漂っていたとしても。
 止まりも戻りもしない時間を生きてゆく人間にのみ果たせる覚悟の、未来を見据えるまなざしの、研ぎ澄まされた美しさ。かつて時の環から外れたヴィンセントは何よりもその尊さに魅せられたのだ。時計の針が動き始めた今も、変わることはない。

「貴様にリーブを理解などさせてやるものか」
 神羅の亡霊に囚われた過去の残骸が、彼を理解したつもりでいる。それがヴィンセントには赦せない。ヴィンセントが引き金を引く理由は、それで充分だった。
「……残念です、ミスター・ヴァレンタイン。あなたには理解して頂けると信じていたのに」
「貴様の敗因を教えてやろう――思い上がりだ」
 リーブを、そしてヴィンセントを理解したつもりでいた。独り善がりな解釈で見えるものを捻じ曲げ、断罪しようとした。男は間違えていたのだ、すべての始まりからずっと。
「私を撃つのですか?」
「ああ」
「結構ですよ、そうすればあなたはここから出られない。あなたをここに連れて来たのは誰だとお思いですか?」
 くだらない脅しを、と切って捨てることはできなかった。古代種の技術に狂人が手を加えた成果がこれだ、脱出方法など皆目見当がつかない。
 ヴィンセントが歯噛みする、わずかなその隙を突いて男の右腕が動いた。ぱん、と乾いた音と共に、たなびくマントに穴が開く。
「さあ、おしゃべりはお終いにいたしましょう。あなたを殺し、その首をあの男に届けなくては。どんな顔をするでしょうね。せいぜい苦しみ、絶望してもらいたいものですが」
 男が手にした銃を構え直す。ヴィンセントでも反応し切れなかった速度、脊椎に冷たい緊張が疾る。
「相手があなたであっても遅れを取るつもりはありません。ヴィンセント・ヴァレンタイン、せめて美しい死に様を見せてください――あの男などに肩入れしたことを恥じながら」
「よく回る口だな」
 ヴィンセントもケルベロスの標準を合わせ直す。遮蔽物もない空間では再装填が間に合わないから、無駄撃ちはできない。握り込んだグリップとレザーグローブが軋んだ音を奏で、ヴィンセントと男が揃って息を吸い込んだ時、何かがヴィンセントの胸元を転げ落ちて行った。
「待ちなさい、ヴィンセント!」
「――ッ?」

     5

 薄氷で覆われたように張り詰めた空気の中、リーブはセブンス・ヘブンの隅に置かれた一人用のソファに腰を下ろしていた。瞼を下ろし、意識を脳の内側に集中させる。
 接続を開始する。目標は、ヴィンセントに渡したあの小さなマスコット。「接続履歴」を探り、ヴィンセントの端末をハックした時のように回路を辿ってゆく。
(――行けるか)
 暗く狭い洞窟の中を這うようにゆっくりと、しかし確実に意識の触手を伸ばす。一度接続してあったとはいえ、どこにあるかも分からないものに繋げるのは簡単ではなかった。逸る気持ちを抑えながら、アリアドネの糸を手繰る。繋がる先は迷宮の奥深く、ヴィンセントに辿り着くためのたったひとつの手がかり。
(これやな……!)
 かちり、と何かが嵌まる音と共に、閉ざされた視界が色を変えた。暗い赤。もう一度かちりと鳴ると、聴覚野が音を受信する。びょうと吹き荒れる風の音、布のはためき。さらにもう一度、触覚が同期してどくどくと脈打つ拍動を感じる。嗅覚は省略して、最後の接続でボディの操作を確立した。
「お待ちしておりました、ミスター・ヴァレンタイン」
(……成功や)
 聴こえてきたのは、あの男の声だった。第一段階は上手くいったらしい、リーブの接続したぬいぐるみはちゃんとヴィンセントの懐の中に残っていたようだ。ほっと息を吐き、ふたりの会話に耳をそばだてる。
「ここが果てなら、貴様が私の『終焉』か」
「さあ、それはどうでしょうか……ではお約束通り、質問にお答えしましょう」
 ヴィンセントの言葉が振動となって接続したボディに伝わる。どうやら答え合わせが始まるようだ、しばらくはじっとしているべきだろう。リーブはヴィンセントのマントの薄闇に身を潜めて成り行きを見守った。
 男の話はいささか冗長だった。どうやらヴィンセントは古代種のロストテクノロジーによって亜空間に引きずり込まれたらしい、道理で携帯端末の接続が切れたわけだ。そこに宝条が噛んでいると知って、喉奥に苦いものがこみ上げる。
「では次の質問だ。何故お前はリーブを憎む」
 ヴィンセントの問いに対する答えは、リーブ自身とうに聞き飽きたありきたりな罵倒だった。変節漢、風見鶏、裏切り者。今さらどう呼ばれたところで、リーブは考えを改めるつもりはない。紋切り型の誹謗ごときで折れるような心なら、今ごろとっくに田舎に引っ込んで畑でも耕している。こんな男に振り回されたのかと呆れていると、ヴィンセントの口から思いがけない言葉が出た。
「あいつを馬鹿にするのはやめてもらおう。貴様には到底理解出来んだろうがな」
(え……、)
「リーブ・トゥエスティを見くびるな――あの男の覚悟を」
 ヴィンセント、と漏れそうになった声を慌てて呑み込む。このマスコットは子供たちの防犯用にと、音声が出るスピーカーを付けていたのだ。うっかりものを言えば彼らに聞こえてしまう。
「奴の覚悟は、他の誰にも背負えん」
(……あなたという人は)
 リーブは、己の局長としての想いを明確な言葉でヴィンセントに伝えたことはなかった。機構を設立した理由、その動機くらいは話したことがあったかもしれないが、背筋にべったりと貼りついて離れない罪悪感を吐き出すことは自分に禁じていた。ヴィンセントがそうであるように、リーブも、あるいは他の人間たちも、拭い切れない悔恨を抱えて歩いているのだ。己の選んだ荷をわざわざ披瀝する必要はないと思っていた。
 けれど、伝わっていた。ヴィンセントは分かっていたのだ。ある意味ではリーブを縛り続ける枷であり、別の一面から見れば己の存在意義を守るためにしがみついているものでしかないそれを、彼は覚悟と呼んでくれた。
 リーブ本体の目から零れそうになる熱いものを必死で堪える。様子の分からない仲間たちを心配させてはいけない。湧き上がる歓喜を噛み締めてふたりの会話に再び意識を戻したリーブは、男の台詞にさっと青ざめた。
「――そうすればあなたはここから出られない。あなたをここに連れて来たのは誰だとお思いですか?」
 そうだ、この男を倒すだけでは済まない。この世から隔離された空間から、ヴィンセントを解放しなくてはならないのだ。その手がかりを掴むまでは男を殺すわけにはいかなかった。しかし、どうやって。
 凍りつくリーブをよそに、剣呑な空気が高まってゆく。発砲音、ヴィンセントの首をリーブに届けるという男の言葉。ヴィンセントが銃を構え直す。駄目だ、止めなくては。
 ぬいぐるみの小さな可動域いっぱいに四肢を暴れさせて、ヴィンセントの懐を飛び出す。マントをそよがせる風に乗って、リーブは飛んだ。マスコットのこめかみ――目に仕込んだライトのスイッチを全力で押さえながら。
「待ちなさい、ヴィンセント!」

     6

 その奇妙な声と共に放たれた青白い光は、正面から男の網膜を焼いた。咄嗟に地面を転がった男が砂埃を立てる。
「な、なんだ、」
 驚きを隠せない声を上げる男、言葉を失うヴィンセントの目の前で、ぼてりと掌ほどの大きさのものが転がる――にんまり笑う猫のぬいぐるみ。酒屋の前で、リーブに押し付けられたあのマスコットだ。
「……ケット・シーか?」
 その問いかけに、ぬいぐるみはちゃりちゃりと音を立てながら首を横に振る。頭から生えたストラップを邪魔そうに引きずりながら、短い脚でヴィンセントの膝に飛びついた。
「私です、ヴィンセント」
「リーブ! 何故、」
「話は後です。殺してはいけません」
 よじ登ろうとするぬいぐるみを摘み上げたのと同時に、男の銃が再び火を噴く。ヴィンセントは大きく横に跳んで弾丸を避け、敵から距離を取った。
「殺してしまっては脱出できないでしょう」
「どうとでもなる」
「何を根拠に!」
「騒ぐな、何だそのサイレンのような声は。頭に響く」
「仕方ないでしょう他に発声器官がないんだから」
 ふたりののやり取りを聞いていた男が、ゆっくりと立ち上がった。その唇はわなわなと震え、歪んだ三日月型を描く。
「これは驚いた……その玩具があの男ですか」
「のようなものだ」
「おかしな力を持っているものですね。気に食わない」
 ゆらり、と体勢を整えた男の銃口が、三度ヴィンセントに向けられた。赤い布に覆われた額を正確に狙う。
「自らは安全地帯にいながら、そうやって口だけ出す。あの男らしい卑怯ぶりだ」
「何とでも言いなさい、私が憎いのなら私の命を狙えばいい!」
「馬鹿馬鹿しい、そんなことで赦してなどやるものか。お前は苦しみ続けなくてはならないのだ」
 標準の向こうに男の目が見える。血走って乾いた瞳、こんなに明るいのにその瞳孔は拡大して、底知れぬ憎悪を滲ませていた。
「貴様は世界から見放されるのだ、リーブ・トゥエスティ」
「何だと……?」
「私が全て叩き潰してやる――貴様に関わる者は全てだ。男も女も、子供だろうが容赦はしない。手足を捥ぎ、陵辱し、消えぬ傷を残してやろう。そして貴様は孤立する、そうなっても世界を守るだなどとおためごかしを言えるか?」
 ひい、と引き攣れた呼吸が男の喉を鳴らした。ひいひいと続くそれが嗤いであるとヴィンセントは気づく。貼り付いていた仮面の下には、歪み切った偏執と醜い加虐欲が煮え滾っていた。
「――言えますよ」
 ヴィンセントの右肩に捕まったぬいぐるみが、奇妙な合成の、しかし芯の通った声で答える。
「私は、私を支えてくれる人への見返りに世界を守っているわけではない。誰からも愛されず見捨てられたとしても、それでも私は私の務めを果たします。そう決めましたから」
「何が務めだ! 貴様とて星を貪ることに何の疑問も覚えていなかったくせに、都合のいいことを吐かすな!」
 激昂する男が髪を振り乱す。白茶けた毛先が額に垂れ、ひくひくと痙攣する目に突き刺さっても男はリーブから視線を外さない。
「だからです。我々は――私は間違っていた。そのことに気づいた、だから守るんです。二度と同じ過ちを犯さないように」
「裏切り者! 神羅を潰したのは貴様だ、貴様さえいなければ世界は守られた!」
「……もう黙れ」
 ヴィンセントは吐き捨てると共にトリガーを引いた。弾はあやまたず男の膝を撃ち抜く。
「貴様の言う『世界』はもう戻らん。リーブがいようといまいとな」
「ぐ……ぅ……!」
「諦めろ。私をつけ狙うだけならともかく、他の連中に手を出すと言うのなら許すわけにはいかん」
 リーブを宿したぬいぐるみがひくりと跳ねる。先ほどの男の呪詛を思い出したのだろう。
 男も女も子供も軒並み傷つける、彼らがリーブから離れてゆくように。リーブが恐れるのは孤立することではなく、仲間や身近な人間が痛めつけられることだ。その悪意には終止符を打たなくてはならない、今ここで。
「出口ならば何とでもなる。古代種が手ずから封じたジェノバでさえ解放されたのだからな、宝条の作った劣化コピーなら必ずどこかに穴がある」
「ヴィンセント……」
「さあ、今度こそ話は終わりだ」
 じゃきん、と重い金属音を響かせて、ケルベロスが鎌首をもたげる。男は乱れた髪の隙間から、どこか茫然とヴィンセントを見つめた。
「ミスター・ヴァレンタイン」
「黙れと言ったのが聞こえなかったか」
「何故……何故理解してくれないのですか、何故その男を庇うのですか……」
 撃ち抜かれた膝から血を迸らせた男が、がくりと崩れ落ちた。
 哀れな男、この男こそ空洞だった。その皮膚の下に広がる空白に耐え切れず、神羅という虚像を詰め込んでかろうじてヒトの形を保っていたのだろう。拠るべきものが消失し、自らのアイデンティティの根源を葬り去ったリーブが憎くて仕方がなかったのだ。
 ヴィンセントには男の空虚を感じることができた。かつてタークスの中のタークスと呼ばれたヴィンセント自身、任務をこなすごとに自己が希薄になっていく感覚に襲われたことを覚えている。自分は何のために手を汚すのか、何のために命を賭けるのか、何のために存在しているのか。そうして生まれた意識の隙間に「神羅」が忍び込む。身体も魂も組織に預けてしまえば楽になれる。何も考えなくていい、悩まなくていい、ただ命じられるがままに指令を実行していればそれでいい。
 どこかで引き返せるポイントがあったはずだった。神羅のひとつのパーツでしかない自分に気づき、組織と自己を同一視することをやめ、タークスである己とヒトとして生きる己を切り分けることができたのなら。この男が、彼自身として生きることができたのなら。
 最早惜しんでも仕方のないことだった。男は引き返せなかった。タークスでなくなったとしても、神羅そのものが消えてさえ、もう彼は代わるものを見出せなかった。それがこの男の終着点だったのだ。
「ヴィンセント」
「止める気か。ここで終わらせてやるのが慈悲だと思うがな」
「……止めませんよ。でも、あなたひとりに任せる気もありません」
 ぬいぐるみがヴィンセントの腕を伝って手の先へと移動してゆく。そこだけ切り取れば子供向けアニメのような光景と、硬く張り詰めたリーブの声の織りなす違和感にヴィンセントは片眉を跳ね上げる。
「どういう意味だ」
「彼を生んだ神羅の残党として、責任を果たします。――ケルベロスをお借りしますよ」
「リーブ、待て、」
 猫の手が撃鉄に触れる。まさかその身体で撃つ気か、とヴィンセントが息を呑んだ次の瞬間、ぬいぐるみはくたりと力を失って落下した。
「おい、リーブ……っ!」
 ぐん、と手の中のケルベロスが身を捩らせる。銃身が大きくぶれ、グリップが震える。マズルがのたうち、引いたはずのセーフティが再びロックされた。
 これは、まさか。ヴィンセントの脳裏を、いつか聞いたケット・シーの言葉が過ぎる。ここだけの話やけど、リーブはんのチカラはな……。
「そこにいるのか、リーブ――ケルベロスの中に」
 その言葉に応えるように、撃鉄が鳴った。
 ――リーブはんはモノを操ることができんねん。モノ言うても、無機物に限るんやけど。ボクも実はそれで動いてんのや、驚いた?
「なるほどな……無茶をする」
 あなたほどではありませんよ、とでも言いたいのか、弾倉の中の弾がかちゃりと音を立てる。ケット・シーやあのマスコットのように彼自身が手を加えたものならば操れても今さら驚かないが、まさかケルベロスに入り込むとは。
 さしものヴィンセントも驚愕して、目の前の男のことを一瞬忘れていた。ぱん、と火薬が弾けて、頬に痛みが疾る。焼けた鉄棒を押し当てられたような感覚に、意識が引き戻された。
「ああ……ッ」
 自我を保てぬ哀れな男が喘ぐ。その腕は不随意にわななき、もう標準を合わせることもできないだろう。裂けた頬を伝う血を感じながら、ヴィンセントはケルベロスの――リーブと接続した愛銃のボディをそっと撫でた。
「待たせたな」
「何故、何故……ヴィンセント・ヴァレンタイン、あなたは、あなたなら、」
「私の名を軽々しく呼ぶな」
 セーフティを解除する。銃口は真っ直ぐに男の額を狙う。トリガーが動く。ヴィンセントの手によってか、銃自身によってかは、誰にも分からない。
「終わりだ」

 銃声。

第五章 空洞の帰還(PictBLandへ遷移します)


本章における問答は ギョルゲ・ササルマン著(住谷春也訳)『方形の円 偽説・都市生成論』東京創元社、2019年「モエビア、禁断の都」から引用しました。