V.V.V. – 第三章 風切羽

     1

 ヒーリンロッジへ向かう道中に起きた襲撃のあと、リーブたちは束の間の平穏を得た。
 ヴィンセントに一方的に叩きのめされ、現地警察に引き渡された襲撃者たちは、窃盗や恐喝、銃火器の違法取引などの余罪と併せて司法の場に立件された。
 押収された情報の中にはリーブとヴィンセントを狙う人間とのやり取りも含まれてはいたが、リーダー格の男が言っていた通り、発信元は誰でも取得できるフリーメールアドレスで、通信情報を見ても世界中のサーバーを経由しており、遡ろうにもある時はエッジ、ある時はミディールとさまざまな土地でログが途絶えていた。
 情報処理技術者だったリーブだが、通信の方面には明るくない。通信記録データを取り寄せてみることも考えたが、警察側が提供を渋ったこともあり、こちらから相手を追うのは難しかった。
 ごろつきたちからの情報で唯一有用だったのは、依頼人からの指示内容だった。曰く、「殺す必要はない。何発か痛めつけてやったら逃げていい。髭の男の方を狙え」。幸か不幸かこの証言がメールの履歴からも見つかったことで、彼らは殺人未遂ではなく傷害未遂での立件と相なったのだった。
 一方、ツォンたち現タークスはさすがと言うべきか、手掛かりになり得る情報を速やかに収集してくれた。ヴィンセント「失踪」直後からツォンの主任就任までの間のタークス在籍者のリストには、在任中の経歴、特筆すべき担当案件、引退したタイミングとその後の足取りが追える限りまとめられている。三十年分ともなれば膨大な量になるリストをヴィンセントが吟味して、被疑者の数は十人程度にまで絞られていた。
 ほんまに危ない仕事だったんやな、とは、そのリストを覗き込んだケット・シーの台詞だ。生存ステータスにフィルタをかけて殉職者を弾くだけで、リストの人数は半分ほどまで減った。ぎゅっと顔を顰めるケット・シーを見下ろして苦い笑みを浮かべるヴィンセントに、リーブは何も言えなかった。
 ともかく、リストの残りにさらにフィルタをかける。モールス信号がタークスの必修技術だったのは十二年前までだ。おおよそ三十代半ばまでの人間がここでふるい落とされる。あとは個々のプロフィールを見て取捨選択した。タークス引退後の生活は人によってさまざまだ。田舎に引っ込んで農業などを営む者もいくらかはいたがその手は除外して、エッジ近辺に拠点を置いている人間を残した。リーブの構築した言語を理解できるという点で、情報処理技術に知見のありそうな者をピックアップする。
「本人に知識がなくとも、この方面に明るい協力者がいる、という可能性はありませんか」
「否定はしきれんが、恐らく犯人は単独犯だ」
 コーヒーにミルクを混ぜながら問うリーブに――胃を悪くするからミルクを少しでも入れろ、と秘書女史が口を酸っぱくして言うので――ヴィンセントは首を振った。
「タークスは基本的に外部に協力者を求めない。タークス同士ならともかく、他人と連んで行動するのは苦手な連中が多いな」
「なるほど……」
「それに、ストーカーは単独犯と相場が決まっている」
 その言葉に、乾いた笑いを漏らすしかなかった。いささか詩情に酔い過ぎた感のあるメッセージといい、確かにストーカーらしさがある。
「そうですね。あまり候補を広げ過ぎてもキリがありませんし、まずはこの範囲で調べていただきましょう」
「ああ」
 チェックしたリストをツォン宛に送信する。すぐに返信が届き、五日あればひと通りは調べがつくだろうとのことだった。
 今のところ打てる手は打った。夕焼けの赤い光が射し込む執務室で、リーブは過去のメッセージをプリントアウトしたものを取り出す。
「『超新星』は時限爆弾、『獣の咆哮』は銃撃でしたね」
「残りは『風切羽』と『螺旋宮』か……まったく、まどろっこしくてかなわんな」
 こちらはエスプレッソを飲み干したヴィンセントが嘆息する。あなただってなかなか詩的な言い回しをすることがあるじゃないですか、と言って肩をどつかれたのは数日前のことなので、リーブは沈黙を守った。大人になるとはきっと、言うべきでないことを言わずに胸に秘めておけるようになることなのだろう。
「いずれにせよ、あと二回何かが起こればケリがつくな」
「それじゃまるで事件が起こるのを待っているみたいじゃないですか」
「それが一番、話が早い。ツォンには悪いが」
「だからって……あと二回も付き合わされるのはごめんです」
「世界再生機構の局長殿ともあろう方が弱腰だな」
「ヴィンセント」
 リーブは人差し指を立てて左右に振った。この男はまだ、リーブの性格をきちんと理解していないらしい。
「ことが起きるのを座して待つのは性に合わないんです。出来ればこちらから叩きに行きたいところですね」
「……なるほど、局長殿は存外、気が短くていらっしゃる」
「攻撃は最大の防御と言うじゃないですか。それに」
 勢いに乗って転げ出かけた言葉を、慌てて呑み込む。やれやれ、大人になったと思った途端にこれだ。気をつけなくては。
「それに、何だ」
「いやいや。あんまり長いこと付き合わされても、仕事に影響が出ますからね」
 ヴィンセントが呆れた顔をした瞬間、執務室の扉がノックと同時に開く。飛び込んできた秘書は、あらヴィンセントさん今日もいらしてたんですね、と素っ頓狂な声を上げた。

 リーブがさして気の長い方でないのは本当だ。柔らかい物腰と注意深い傾聴の姿勢から皆勘違いしているようだが、リーブとて神羅で一部門を預かった元幹部、今や星を守る組織の長なのだ。場の支配権を、どこの馬の骨とも知れない人間に握られっ放しでいるのは気に食わない。奪えるものなら奪ってやりたかった。ゲームの終わりを告げるのは勝者ではなく、ゲームのルールを掌握する者なのだ。
 それに、リーブには気に入らないことがもうひとつあった。つまり、ヴィンセントが犯人の真の狙いではないか、ということだ。
 襲撃事件の前に思い至ったその仮説は、犯人からのメッセージを読み返す度に確からしく見えてきた。理由はどうあれ、犯人はヴィンセントに何らかのかたちで執着している。『大いなる空洞の帰還に祝宴を』――三十年もの間、行方も知れず死んだものと思われていたタークス・オブ・タークスが、今こうして生きていることを、犯人は言祝ごうというのだ。
 ことのはじめ、一通目を発信した時には、もしかしたらまだヴィンセントの存在に確証を持てなかったのかもしれない。だから、リーブに対する悪意はもともとは独立して存在していたものなのだろう。しかし、爆弾騒ぎをヴィンセントが解決したことによって、その生存と彼がリーブの近くにいるということが確かになった。それで、二通目のメッセージで初めてヴィンセントに言及したのだ。
 犯人はリーブを恨んでいる、それは一通目からすでに明らかだった。彼はリーブを死ぬよりも悲惨な目に遭わせてやるつもりでことを開始した。しかし、一度目の試行はヴィンセントによって阻止される。伝説の名を冠する元タークスが、よりによって「世界の簒奪者」を庇護する立場にある――犯人にとって、それがどれほど許し難いことだろう。
 二度目の試行はいささか稚拙だった。元兵士のごろつきどもを二束三文で雇って襲撃させたが、殺せという指示は出さなかった。死んだ方がマシな目に遭わせてやる、という犯行予告も踏まえると、あれはこれからも続くであろう一連の事件の、ほんの幕間のようなものだったのかもしれない。
 いずれにせよ、自分ひとりが狙われている方がよほど気が楽だった。ヴィンセント――長い間、刻む時の轍から外れて孤独に闇の中を彷徨っていた男は、その身体に巣食っていた穢れた怪物とついに決別した。今の彼は傷ついてもひとりでに治癒はしないし、致命傷を負えば命を落とす。要するにリーブと同じ「人間」なのだ。いくら彼が秀でた戦闘技術の持ち主であったとしても、最悪のケースを必ず免れるというわけにはいかない。
 ヴィンセントにはこのまま生きて、老いてもらわなくては困るのだ。あのうつくしい容貌にどんな皺が刻まれてゆくのか、自分の寿命が尽きるまでは見届けなくてはならない。それが、リーブのこれからの人生における最大の楽しみなのだから。

 そんなリーブの内心を知ってか知らずか、ヴィンセントは相変わらずの無表情で秘書の手から郵便物の束を受け取った。その一番上に、例の透かしの入った封筒が乗っている。
「これ、ケットちゃんから聞いたんですけど、大事なお手紙なんですって? 届いてたら真っ先に届けて欲しいと言われてました」
「ええ……ありがとうございます」
 努めて穏やかな笑顔で返すリーブのカップが空になっているのを見て、女史は茶を汲みにキチネットに向かった。コーヒーがいいんですが、と遠慮がちに述べる雇い主に、今日のコーヒーは終わりですとにべもない。
 ケット・シーは別件で出かけているから、今回はヴィンセントがいつものラップトップを取り出した。秘書から暖かいハーブティーを受け取りながら、ふたりの間に会話はない。
 時計の針が午後五時を指して、秘書が帰って行った。即座にコードの解読にかかる。今度の文面はこうだった。

   『大いなる空洞は裏切り者の檻の中、
    解放するには風切羽が要る。
    走り飛べ、
    空洞の不在証明と引き換えに忘れ形見が戻るだろう』

 はあ、と溜息を吐いたのは同時だった。度重なる襲撃に気が立っている時に、こんな訳の分からないものを読まされるこっちの身にもなれというものだ。
「……要するに、ターゲットはいよいよ私というわけか」
「そのようですね。あなたを僕から引き剥がしにかかるということでしょう」
「くだらん。私を狙って何になる。それに、忘れ形見とは何のことだ」
「僕に訊かないでくださいよ……神羅の遺産か何かじゃありませんか」
「神羅の遺したものなど要らんだろう」
「うちの運営資金にしていいなら助かりますけどね」
 一日の終わりに読むと疲れを増幅させる文面に、揃って頭を抱えた。そのまま打ち捨てて一杯呑みに行きたい気分だが、これだけは釘を刺しておかなくてはいけない。
「ヴィンセント、何かあっても独りで突っ走らないように。いいですね」
 返事はなかった。ひょい、と竦めた肩がそうだったのかもしれないが。

     2

 三通目の脅迫状を受け取ってから数日後のバレットの誕生日は、あいにくの雨模様だった。
 しとしとと降る小糠雨が折からの寒さをひときわ鋭くする。リーブはマフラーを掻き寄せるようにして白い息を吐いた。隣を歩くヴィンセントはというと、こちらは冷気など意に介さないような風情で賑やかなアーケードを眺めわたしている。
 ミッドガルが壊滅して早数年。その外周に新しく建設されつつある街エッジは、そぼ降る雨にも拘らず活気あふれる人出だった。数か月前に完成したアーケードも大いに貢献しているのだろう。行き交う人々は濡れた傘を畳み、冬に彩りを添えるネオンやイルミネーションに引き立てられて笑いさんざめいている。
 少し気を抜けば肩をぶつけてしまいそうな人混み、寒さを打ち消そうとする人いきれの中で、リーブは上機嫌だった。これだ、これこそがひとの手による復興だ。物資もエネルギーもまだ充分とは言えないけれど、この地に生きる人々が大地を均し、建物を造り、日々の生活を営んでいる。百年は草木も生えないと言われた廃墟跡に、人々の笑顔の花が咲くのだ。迷いながらでも、自分たちは正しい方向に進んでいる、それが喜ばしかった。
「楽しそうだな、リーブ」
 玩具を手に駆けてゆく子供に長い脚を取られぬよう、するりと猫のように身体を捻ったヴィンセントが笑う。そんなに分かりやすく顔に出ていたか、と気恥ずかしく思いながらも、リーブは頷いた。
「ええ、とても」
「それは何よりだ」
 素っ気ない言葉だが、今ばかりはヴィンセントの声色に揶揄はない。リーブや親しい仲間たちでなければ気づけないほどに密やかな笑みを刷いた横顔は、この一年の終わりを惜しんで飾り立てられた街の灯りに照らされて穏やかだった。
 バレットの誕生日パーティは、いつもの通りセブンス・ヘブンで開かれる。油田開発にあちこちを飛び回っているバレットも、自分の誕生日から年末まではエッジで愛娘と共にのんびり過ごすのを常としていた。ユフィもすでにエッジに到着し、数日前からティファのもとに間借りしているらしい。数週間前にコスモキャニオンを訪れていたヴィンセントによれば、ナナキはいつも通り、シドの飛空艇に乗って一緒にやって来る手はずだそうだ。
「そういえば、ケット・シーはどうした」
「ティファさんのお手伝いに貸し出してます。人手が欲しいというので」
「なるほどな」
 人手と言ったって、要はパーティの始まる前から元気にはしゃぐ子供たちの相手が必要なのだ。デブモーグリに跨る猫のぬいぐるみは、マリンお気に入りの玩具でもあった。
「覚えてますかヴィンセント、あなたの誕生日の時」
「ああ、マニキュアの話か。あれは可笑しかった」
 最近化粧の類に興味を持ち始めたらしいマリンが、子供用のマニキュアセットを持ち出してきたのだ。どうやらクラウドが買い与えたらしいそれ――あの男もマリンとデンゼルにはひどく甘いところがある――を満面の笑みでお披露目したマリンは、さっそく即席のネイルサロンを開店した。
 ユフィの爪を塗っているうちはまだよかったのだが、それが済むとナナキに狙いを定め、彼が爪を握り込んでキッチンに逃げ込むと今度はリーブ、シド、ヴィンセントと順番に「ネイルアート」を施した。主賓のヴィンセントには大サービスだともったいつけて小花柄のシールまで貼って、大騒ぎだったのを思い出す。
 当然、彼女お気に入りのケット・シーが無事でいられるはずもなく、一本ずつ色の違うマニキュアをはみ出させた猫は、ぶつぶつ言いながらも自然に剥がれるまでそのままで過ごしていた。爪を塗料で覆われるもぞもぞとした違和感に、リーブとヴィンセントは早々に音を上げたのだったが。
「マリンは猫が好きなようだな」
「ええ、ですから、こんなものを用意してみたんです」
 あなたもおひとつどうぞ、とリーブが差し出したのは、小さなケット・シーのストラップだった。輪になった組み紐の先に、掌ですっぽり握り込めるくらいの大きさのぬいぐるみがにんまりと笑みを浮かべてぶら下がっている。
「よく出来ているが、私はいらんぞ」
「まあそう言わずに。これ便利なんですよ、頭押すと目が光るんです」
「……凝っているな」
 リーブの言葉通り、こめかみを両側から挟まれた小さなケット・シーの両眼が青白い光を放つ。暗いところで鍵穴を探すのに便利そうだ。ヴィンセントの称賛は、制作者を満足させるには至らなかったが。
「ロットの関係でいくつか作らなきゃいけなかったんです。なので、ひとつ貰っておいてください」
「盗聴器でも仕込んであるんじゃなかろうな」
「なるほど、その手がありましたね」
 わざとらしく手を打つと、これまたわざとらしく顔をしかめたヴィンセントはひとまずそのストラップを懐に収めた。セブンス・ヘブンかリーブの家か、とにかく適当なところに放置するつもりなのだろう。
「子供にはいざという時に役に立ちますよ。尻尾を引っ張るとサイレンが……おっと、ここですね」
 とリーブが足を止めたのは、エッジでも指折りの品揃えを誇る酒屋だ。バレットへのプレゼント用ではなく、みんなで呑むための少しいい酒をティファに頼まれていた、それを引き取らなくては。
 重い扉に手をかけると、それは店内から開かれた。勢い余ってたたらを踏むリーブの鼻腔に、喫煙者独特のいがらっぽい煙のにおいが刺さる。
「おっ、悪ぃな……って、リーブじゃねえか!」
「シド」
「ようヴィンセント、なんだ、オメエらも酒か?」
 額のゴーグルで前髪を上げ、機械油の染みがついたボンバージャケットといういつも通りの恰好のシドは、ふたりの姿を認めて破顔した。片手にはこの店の紙袋を提げている。重たげなそれは、蒸留酒の瓶であるらしかった。
「いえ、僕らはみんなで呑むワインを引き取りに」
「おまえは酒にしたのか、シド」
「おう、毎回毎回同じで芸がねえが、ヘタなもん渡すよりはいいだろうってな」
「違いないな……ウィスキーか?」
「いんや、ジンだ。最近流行ってんだろ、クラフトジン。なかなか面白え奴を見つけてよ」
 そう話すシドの肩越しに見えた店内は、なかなか混雑しているようだった。人々が着膨れているせいもあり、棚の間ですれ違うのも難儀しそうだ。こちらは注文してあるものを引き取ってくるだけだから、自分ひとりで行けばいいだろう。そう考えたリーブは、ヴィンセントを振り返った。
「僕、ぱっと行ってきますね。ここで待っていて頂けますか」
「ああ、頼む」
 シドも一緒に待ってくれるようだ。彼と入れ替わりに、リーブは店内に足を踏み入れた。

 シドという男はなかなか凝り性だ。興味のないことにはまるで耳を傾けないが、ひとたび関心を惹かれれば頭のてっぺんまでのめり込まずにはいられない。今の彼はクラフトジンに興味津々のようだった。
「……そんでよ、アイシクルにいろんな蒸留所があるんだと。あの辺はジュニパーベリーの産地だからな」
「なるほど。寒い地域の酒だったのか」
「とも限らねえんだなこれが。原料は麦とかイモだからどこでだって作れんだが、香り付けに何使うかってのが工夫のしどころで……」
 ヴィンセントも酒は嗜むが、呑んで美味ければそれでいい口なのでシドほど熱心に語ることはできない。こういうところはリーブに通じるものがあるな、とぼんやり思いながら、酒屋のショーウィンドウに背を預けた。
「この間なんかよ、ウータイにも蒸留所ができてんだって聞いたぜ」
「ウータイにか、それは意外だな」
「だろ? なんでもあそこでしか穫れねえ、なんとか言う柑橘類が香り付けにいいとかでよ」
「ユフィに持ってきて貰えばよかったのではないか」
「いんや、まだ出荷にゃ早えんだと。蒸留酒は時間かかるからな」
 そういうわけで、今回のシドが用意したのはアイシクルのものなのだそうだ。クラフトジンのご多分に漏れず生産量も流通量も少ないのを、なんとか手に入れたらしい。バレットへのプレゼントと言いながら、どうせ今夜のうちに開封してみんなで呑んでしまう腹づもりなのだ。
 ひとしきり喋って気が済んだらしいシドが、煙草を取り出して火をつけた。上を向いて、美味そうに吸い込む。その吐き出した紫煙の行く先を、何気なしに追いかけ始めたところで電話の着信音――シドのものだ。
「おっ、何だよ……悪いなヴィンセント」
「構わん」
 電話をかけてきたのはどうやらシエラのようだ。パートナーへの態度とは思えないほどぞんざいな口ぶりのシドだが、目尻がそこはかとなく緩んでいる。この男にもそういう可愛げがあるのだと思うと、ひどく微笑ましかった。
 ショーウィンドウ越しに店内を覗くと、レジには長い列が出来ていた。その真ん中辺りに並ぶリーブが、ヴィンセントの視線に気づいて眉尻を下げる。時節柄、混雑は仕方のないことだ。ヴィンセントは軽く片手を上げてまたウィンドウに寄り掛かった、その時だった。
「――こんばんは」
 目の前に立つ壮年の男の姿に、わずかに目を瞠る。気づかなかった――この距離に近づかれるまで、どころか、声をかけられるまで。いくらぼんやりしていたからとはいえ、ヴィンセントには有り得ないことだった。
「……どこかでお会いしたか」
 内心の動揺を気取られぬよう、ことさらにゆっくりと口を開く。赤の他人にいきなり声をかけられて少しばかり困惑している、そんなふうに見えるように。
 ヴィンセントの問いに、男は小さく笑った。これといって特徴のない男だ。流行遅れの型のコートに、どこにでも売っていそうなマフラー、どちらも色褪せ、古ぼけた写真のようだ。コートの裾から伸びるのはチャコールグレーのスラックス、靴だけがまるでたった今買ってきたかのように艶めいている。
「ご記憶頂けませんでしたか、残念です」
「あまり記憶力の良い方ではなくてな」
「ご冗談を」
 そう嘯く男の目尻が垂れ、笑い皺を深くした。
 見れば見るほど、何もかもがちぐはぐだった。第一印象を説明するならば、「年頃の娘に口を聞いてもらえず、妻からも邪険にされているような冴えない中年男」というところだろう。しかし、その姿のあちこちに隠した剣呑さがある。
 ポケットに両手を突っ込み背を丸めているので一見してそうとは気づかないが、上背はヴィンセントよりもさらに高いだろう。寒さを耐えるように縮めた体躯は、背筋を伸ばせばそれなり以上の筋肉に覆われているのが分かるはずだ。散髪を億劫がっているような髪は白髪混じりの榛色、その隙間から覗く耳は典型的なボクサーの潰れ方をしている。
 何より、この男には香りがない。人間というのは良かれ悪しかれ何らかの匂いを漂わせているものだ。この男くらいの年齢であれば、典型は整髪料やシェービングクリーム、あるいは重ための香水に加齢臭を添えて、といったところだろう。その一切がヴィンセントの嗅覚に届かない。それはちょうど、この男が気配もなくヴィンセントの目の前に立ったのと同じように。
「それで、何の用だ」
「もしよろしければ一杯ご一緒に……と思いまして」
 決まり文句までとことん冴えない。その徹底した野暮が、今となっては却って怪しかった。ヴィンセントは男から視線を外さぬまま、鼻を鳴らす。
「生憎だが、連れがいる。他を当たれ」
「なるほど……やはり一筋縄では行きませんね、ミスター・ヴァレンタイン」
「……何だと、」
「おや、お電話のようだ。出なくてもよろしいのですか?」
 呼ばれた名前に、今度こそ身構えたヴィンセントの懐で通信端末が鳴動する。先ほどからひとすじも変わらぬ笑みを浮かべたままの男を睨みつけたまま、ディスプレイに視線を走らせる――ティファだ。
「私のことはどうぞお構いなく、ミスター・ヴァレンタイン。緊急事態かもしれませんよ」
「貴様……」
 ちらりと振り返ったシドは、新しい煙草に火をつけてまだやにさがった顔をしている。リーブはまだ会計の列だ。舌打ちを殺しもせず、ヴィンセントは受話ボタンをタップした。
「どうした」
『あっ、ヴィンセント! よかった出てくれて……あのね、デンゼルがおつかいから帰ってこないの、本当は三十分前には戻るはずだったのに』
 息せききったティファの言葉に、鋭く息を呑んだ。目の前の男は仮面のような笑いを貼りつけてヴィンセントを見ている。
『クラウドたちが探しに行ってくれてるんだけど、ナナキの鼻でも追えなくて、もう心当たりがなくて……今どこにいるの? シドにも電話したんだけど話し中で』
「シドならここにいる、リーブもだ。……貴様、あの子に何をした」
『えっ、何? ヴィンセント、誰かいるの?』
「今のところは、何も。今のところは、ですが」
『ヴィンセント!』
「ティファ、デンゼルは必ず連れ戻す。マリンから目を離すなよ」
『ねえ待って、ヴィンセント!』
 通話を打ち切り、手の中の端末がひしゃげるほどに力を込める。ぎり、と音さえしそうな烈しさで貫くヴィンセントの視線をものともせず、男は髪を掻き上げた。
「そうそう、ご質問の件ですが……お会いしましたよ、二週間前、ジュノンのパーティで」
 そうだ、ヴィンセントは確かにこの男を見ていた。あの日、バンケットホール前にたむろする人々を掻き分けて、リーブにぶつかったあの男だ。髪を後ろに撫でつければ間違いなかった、どうしてこの瞬間まで気付けなかったのか。
 割れんばかりに奥歯を噛み締めるヴィンセントに向かって、男が片手を差し出した。冴えない中年男には似つかわしくない、芝居がかった仕草で。
「デンゼルをどこにやった」
「なに、ちょっとしたかくれんぼですよ。私にお付き合いくださるのなら、お返ししましょう」
「何が目的だ」
「その話は後で。ほら、無粋な連中が戻ってきてしまいますよ」
 からん、とドアベルが鳴って扉が開く。顔を出したのは、辟易した表情のリーブだ。申し合わせたようにシドも長い通話を終えて振り返る。
「いやいやすみません、レジが大混雑で……ヴィンセント?」
「悪ィ悪ィ、シエラのやつがまーた、って、どうしたよ?」
 リーブとシドが、隠しきれない殺気を放つヴィンセントに気付いて硬直した。対峙する男を見て、リーブの全身に緊張が走る。
「あなたは、」
「おまえたちはティファと合流しろ、デンゼルが拐われた」
「あんだと!?」
 気色ばむ「無粋な連中」の視線を、羽虫でも払うようにいなした男が誘う。
「さあ、こちらへどうぞミスター・ヴァレンタイン。かくれんぼの次は追いかけっこと参りましょう」

     3

 次の瞬間、男とヴィンセントの姿は消えていた。だんっ、と地面を打ち鳴らす音さえ置いて、ふたりの背中が建物の隙間に翻る。
「ヴィンセント!」
 リーブが声を上げた時にはもう、ヴィンセントのマントの裾すらも路地裏の闇に溶けていた。通行人のいくらかが、何事かと遠慮がちな視線を向けてくる。あんぐりと開いたシドの口から、吸いさしの煙草が落ちた。
「なんだってんだよ、オイ」
「……そういうことか……ッ」
 三通目の脅迫状が脳裏を過ぎる。『空洞の不在証明と引き換えに忘れ形見が戻るだろう』――忘れ形見とはデンゼルのことだったのだ。メテオとライフストリームの衝突に巻き込まれて亡くなったリーブの母親、彼女が護っていた子供。
 何が神羅の隠し遺産だ。他愛無く片付いた襲撃のせいで完全に侮っていた。クラウドたちに脅迫状の話さえ共有していなかった。犯人の狙いがリーブとヴィンセントである以上、仲間である彼らを巻き込まないはずがないというのに。
 視界がどす黒く染まるほどの怒りを覚えて、リーブは拳を握り締めた。自分の責任だ、事態をあまりに甘く見ていた。もっと警戒していれば防げたかもしれない。クラウドとティファに話をしていれば、デンゼルをみすみすひとりで使いに出すこともなかっただろう。ナナキでもユフィでも誰でもいい、誰かがついていれば、たいていの敵は返り討ちに出来たはずだ。
「おいリーブ、何が起きてんだ? アイツ、何に巻き込まれてんだ?」
「すみませんシド、私のせいで……」
「アァ? んだよワケ分かんねえな!」
 震えを抑えられないリーブの胸ぐらを、シドの乱暴な手が掴んで揺さぶった。がくん、と首に衝撃が走る。
「テメェが何したかはどうでもいいんだよ! とりあえずティファんとこ行くぞ、そこで全部説明しろや!」
 俺ァ長え話は聞いてらんねえからよ、と吐き捨てるシドが、リーブを引きずって走り出す。
 悪いな、通してくれや、どけどけ、と騒がしい男を避けて割れた人混みを、ふたりはセブンス・ヘブン目指して駆け抜けた。

 店の前では、ケット・シーとナナキがそわそわとふたりを待っていた。がちゃがちゃと酒瓶を鳴らして走るシドたちの姿を認めると、真っ直ぐに駆け寄ってくる。
「ふたりとも! 早くはやく!」
「マリンちゃんは大丈夫です、クラウドはんたちも戻ってきました!」
 こんなに全力で走ったのはいつぶりだろう。雪崩れ込むように扉を開けて店内に飛び込むと、クラウド以下あの旅の面々が一斉に立ち上がる。
「オッサン! 何があったか説明しなさいよ!」
「ヴィンセントは? デンゼルに何があったの!」
「犯人はどこのどいつだ!?」
「落ち着け、事態を整理しないことには」
「クラウド! そんな悠長なことをなあ!」
 飛び交う怒号がただでさえ酸欠の頭をぐわんぐわん揺らしていた。ティファの差し出してくれた水を飲み干して、なんとか呼吸を落ち着ける。わあわあと騒がしいバレットとユフィ――本当ならば今日は彼らの誕生日祝いだったのだ――をナナキたちが宥めすかして、いったん全員が腰を下ろす。リーブは深呼吸を繰り返した。
 テーブルの上には美味そうな料理がところ狭しと並んでいる。ティファが腕によりをかけて用意したものだ。空のワインクーラーは、リーブとヴィンセントが持ってくることになっていたワインを待って水滴を纏っている。グラスやカトラリーが照明を反射してきらきらと輝き、壁には折り紙を切り抜いた「Happy Birthday」の文字。クッションをいっぱいに積んだソファの上には、マリンがデブモーグリと一緒にブランケットをかぶって膝を抱えている。楽しく心温まるはずだった夜を、台無しにしてしまったのはリーブだった。
「……皆さん、本当に申し訳ありません」
 深く頭を下げるリーブにバレットが何かを言おうと腰を浮かせるが、ティファに服の裾を取られて渋々口を閉ざす。リーブを見つめる彼らの目は、一様に硬く険しかった。
 ――懺悔している時間はない。今は、デンゼルを救い出すのが何よりも重要だった。そして、あの得体の知れない男を追って消えたヴィンセントを取り戻さなくては。
 唇をぐっと噛んでから、リーブは面を上げる。ここで全てを説明するのが、リーブの果たすべき務めだった。

 一連の出来事を話し終える。ケット・シーも補足しながらの説明の間、リーブが胸に抱える罪悪感は加速度的に重く沈み込んでいくようだった。
「……それで、ヴィンセントが主犯と思われる男を追っているわけだな」
「はい。犯人の素性は分かりませんが、ヴィンセントの推測が正しければ……」
「そいつも元タークス、ってか。クソ、神羅の連中はロクでもねえ奴揃いだな」
 腕を組んだバレットが天井を見上げた。その向かい、椅子にちょこんと座ったナナキが、でもさ、と控えめに声を上げる。
「デンゼルはちゃんと帰ってくるのかな……ニオイを追っかけたんだけど、道の途中で途切れちゃってて」
「車かバイクで拉致されたのかもしれないな」
「わかんない。あの辺、色んなニオイが混じってたから」
 建設途中のエッジは日ごとに街並みが変わる。その一帯に住んでいる者でさえ、突然現れる新しい道や通行止めに右往左往するのが常だった。ましてこの辺りは往来も激しく、人々がどこから来てどこへ向かうのか、どの建物に誰が出入りしているのかを把握するのは極めて難しい。
「てかさ、ヴィンセントはどこで何してんの? 犯人と追っかけっこして、デンゼルが戻ってくるって保証もないのにさ」
「だな。リーブよお、ヴィンセントの野郎が今どこにいんのか分かんねえのかよ」
 ユフィとシドの言葉に、リーブは眉根を寄せる。正直なところ、彼に何度発信器の類を付けようと思ったか自分でも分からない。その誘惑に駆られるたび、彼を不当に束縛するような真似だけはしないのではなかったか、と良心に咎められて断念していたのだった。
 ――実のところ、それは良心ではない。ただの怯えだ。もしそんなことがヴィンセントに知れたら、彼は今度こそ帰って来ないかもしれない、そんな臆病な予感がリーブの手を抑え込んでいただけだ。
 思わず自嘲の沼に沈みかけるリーブの耳に、苛立ったバレットの言葉が飛び込んだ。
「何とかならねえのかよ、こう、向こうが電話取らなくても繋げるようなよ」
「バレット、それは無茶よ」
 窘めるティファの横で、ケット・シーがぴょんと飛び上がる。リーブもはっと息を呑んで、猫のぬいぐるみと目を合わせた。
「バレットはん、ナイスアイデアや!」
「はあ? そんなんできんの?」
「……出来ます、恐らくですが」
 この店に飛び込んで以来、初めてリーブの口から出た肯定的な言葉に一同が目を瞠る。その視線を受け、リーブは肩に飛びついてくるケット・シーと頷き合った。

 それはひと昔、ふた昔前のギークにとっては通過儀礼のようなものだった。すなわち、通信端末へのクラッキングだ。
 クラッキングと言えば少々ややこしく聞こえるが、原理としては電話のタダがけと変わらない。要は通信ネットワークの管理者権限を擬態して、テスト用回線に潜り込むのだ。難度は目標となる端末のセキュリティレベルに応じて様々で、公衆電話のベルを鳴らして通行人を驚かすといったものから、それこそ神羅のような大企業のイントラネットに忍び込んで情報をくすねてくるものまで、当時の、つまりまだ一介のエンジニアだったリーブが入り浸っていたギークコミュニティにはさまざまな「戦果」を誇り合う連中がごまんと存在していた。
 リーブもご多分に漏れず何度か試したことがある。気に食わない上司の業務用端末からアダルトサイトにアクセスして恥ずかしい履歴を作る(この手のログは厳密に管理されていたので、何回か履歴が溜まると勤怠記録と共に人事に情報提供されていたのだ)とか、その程度の可愛らしい悪戯が主だったが。
 一度だけ、当時出回り始めていた携帯端末をクラックしたことがある。でたらめな番号に繋げたら持ち主は神羅の一般兵で、夜勤の見回り中に同僚と猥談に興じているのが聞こえてきた。つまらなかったのですぐ切断した――クラッカーにとって重要なのは「クラックできた」という事実であって、手に入れた情報の質はどうでもよかったのだ。
 つまり、リーブはヴィンセントの端末をクラックすることが可能だ。話しかけたところで応えはしないだろうし、犯人を追跡中であれば邪魔だてはするべきではないが、少なくとも生死と位置情報は把握できる。
「ほな始めましょか」
 ティファに借りたラップトップに、リーブの携帯端末を接続した。何の変哲もないありふれたラップトップだが、回線を辿るには充分だ。契約だの支払い手続きだのを面倒くさがるヴィンセントを手伝う形で、同じ通信サービスプロバイダと契約していたのも幸運だった。
「始めましょか、って、アンタ何かすんの?」
「いやいや、ボクの仕事は特にないんやけど、気分?」
「アンタねえ」
 ユフィとケット・シーのやり取りに、張り詰めていた空気が和らぐ。リーブもわずかに唇を綻ばせて、出来るだけ速やかに手を動かした。
 自分の端末を通じてプロバイダのネットワークに潜り込む。目標はヴィンセントの端末、彼が追跡の最中にどこかに落としでもしていないことを祈るしかない。
 キーボードに指を滑らせる。打鍵音はあくまで控えめに、最小の動きで最も効率よく命令を下す。コマンドプロンプトが叩き込まれたコードを羅列してゆくが、その指示内容を理解できる人間はここには他にいないだろう。
 さして長くもないコードを入力し終えた。エンターキーを叩き、サーバーの反応を待つ。しばしの沈黙、シドの吐き出す紫煙にナナキが小さく咳き込み、煙草を取り上げたクラウドが、店内は禁煙だ、と釘を刺した。マリンはいつの間にか眠ってしまったようだ。
 かりかりと微かな音を立ててメモリが回る。ビープ音が三度続き、黒い背景に点滅していたカーソルがひょこりと動いた――『access granted』
「……セキュリティ甘いなあ、他のとこに変えた方がええかも」
 思わず漏れた呟きに、横から覗き込んでいたティファが小さく噴き出す。
 管理者権限の擬態も難なく済ませれば、あとはヴィンセントに「電話をかける」だけだ。普通の架電と違うのは、この管理者権限をもって回線を強制的に開かせることができる、という点だった。
「――繋がりますよ」
「えっ、もう!」
「やるじゃん」
 ユフィが品のない口笛を吹いた。通常のコール音とは違う、ぶつん、という音のあと、風を切る布のはためきがスピーカーから流れ出す。その音の向こう、今は聴こえないヴィンセントの脈拍と呼吸を探るように耳をそばだてながら、リーブは地図アプリを起動した。

     4

 ヴィンセントは感嘆さえしていた。あの男、すべての黒幕であるはずの男は、恐ろしいほどの身体能力でもってヴィンセントに距離を詰めさせない。
 ふたつの影が雨のそぼ降るエッジの夜を駆ける。壁を蹴り、排気ダクトを伝い、フェンスを越え、建設中のビルの骨組みをよじ登り、アパートメントのバルコニーに飛びついて屋根に手を掛け、宙に躍り出たひとつの影を、マントを靡かせたもうひとつの影が追う。
 男は真っ直ぐに進んでいた。比喩ではなく、文字通り「真っ直ぐ」に、立ち塞がる建物も壁も乗り越えて。目指しているのは恐らくミッドガルの中央部――崩壊した神羅ビル跡地だろう。
 間もなくエッジを抜ける。並ぶビルの狭間、電線に飛びついた男が反動をつけて上方に跳躍した。追うヴィンセントは、雨に濡れた空調の配管を掴んで猫のように壁を駆け上がる。非常階段の踊り場で一服つけていた女性が目を丸くして固まっていた。
「失礼」
 彼女の横の手すりを蹴って空中で一回転、壁に手をついてビルの屋上に飛び上がる。ターゲットの男はヴィンセントをちらりと振り返り、笑ったようだった。
「さすがは」
「……」
 間を置かず、男がビルから飛び降りた。ヴィンセントも躊躇うことなく身を投げる。腕を広げ、翼のように広げたマントで風を受けるイーグルダイブ。真下ではなくやや前方、エッジとミッドガルを隔てる有刺鉄線のフェンスが踏みつけられて、絹糸のような霧雨を注ぐ空に高い悲鳴を響かせる。
 男は間違いなくタークスだった。ソルジャーよりも「人間」だが、並の人間を超えた身のこなし。ありとあらゆる障害物を巧みに選び、前へと進むための足がかりに変える瞬発力と判断力。十数メートルの高さから空中へと飛び出す胆力は、己の能力に対する自負に裏付けられる。目的を果たすためならば手段に拘泥しない、それがタークスの美学だ。
 フェンスを足場に跳んだ先には、もうエッジの光も届かない。月も星も、雨雲の緞帳の向こうに秘匿された夜。男の白茶けた髪、掘り起こされた骨のようなその色だけが黒く凝る闇の中に浮かび上がる。
 閉鎖されたとはいえ、未だこの廃墟に生きるひとも少なくはないのだろう。闖入者の様子を遠巻きに伺っているらしい複数の気配を感じる。面倒ごとに巻き込まれたくはない彼らは、駆け抜けるヴィンセントたちを追うこともなく沈黙を守った。
 瓦礫の山を乗り越えて男を追うヴィンセントの動作には、一切の無駄がない。その両手は胴を持ち上げ押し出すために、その両脚は足場を捉えて前に進むために、その視線は次とその次とさらに次の足がかりを探すために、その呼吸はより高く、より遠く、より速く飛ぶために。ただひたすらに、目的地に最短距離で到達するように最適化された身体の使い方、それはターゲットを撃ち抜くために整備された銃の、各機構が寸分の狂いなく噛み合い作動するさまによく似ていた。
 その数メートル先を、男が駆ける。ヴィンセントが追ってくることを疑いもせずに、影の密やかな重なりを縫い、あらゆる障害物を踏み越えて、ただ進む。
 タークスとはそういうものだった。その働きが明るみに出ることがあってはならない。神羅という巨大な怪物の影にあって、その歩みを妨げるものは何であれ、いかなる手段を用いてでも排除する。ヴィンセントのいた頃は、自分たちの任務を自嘲して「濡れ仕事」と呼んだものだ。あの頃、ヴィンセントの手はいつでも濡れていた。血に、泥に、雨に、誰かの涙に。
 あの男の手も同じもので濡れていたのだろう。そのはずだ。そうでなければヴィンセントにこんな勝負を仕掛けたりはしない。自分たちは同じ生き物なのだ、そのことを嫌悪する余地もないほど、歴然とした事実として。
 あの男がそうであるように、ヴィンセントもまた香りを纏わなかった。そこに自分がいたという痕跡を残すことは許されなかったし、「濡れ仕事」のせいで麻痺した嗅覚にはいかなる芳香も無意味だった。鼻腔から脳の感覚野に繋がる神経だけがぷつりと切断されたように、香りを理解はしても感じはしなかった。花の香りからそれが薔薇か百合か判別できても、美しいとか芳しいとは思わない。パンの焼ける香りは小麦粉が焼けているという事実を伝えるに過ぎず、その香りに安らぎや空腹を覚えることはなかった。あの頃は。
(……あの頃は、か)
 不意に勝手な方向へと走り出す思考を振り払い、ヴィンセントは濡れた地面を蹴る。ひしゃげた鉄骨に飛びつき左手を支点にして鮮やかなターンヴォルト、着地と同時に後ろ向きに宙返りを打ち、垂れ下がるワイヤーを捉えた。前を行く男が焼け焦げたトタンを踏み、その音を追って大きく振った下肢の勢いのまま前方へ飛ぶ。
 ディープグラウンドにでも向かうつもりだろうか。オメガとの闘い以降、ディープグラウンドへ繋がる全ての通路は徹底的に破壊された。瓦礫を埋めコンクリートを流し込まれた入り口は、相当量の火薬で爆破しない限りは開かないはずだ。万が一にでも男の姿を見失わぬよう、ヴィンセントは目を凝らす。暗闇に慣れた瞳孔が拡がり、その瞳は常よりも重い輝きを見せていた。
 ――灰茶の髪の男が、不意に立ち止まった。もとは市場でも立っていたのだろうか、山積する瓦礫に囲まれた空間がぽかりと口を開けている。廃自動車のボンネットを踏み跳躍し、音を殺して着地するヴィンセントに乾いた拍手が捧げられた。
「お見事です、ミスター・ヴァレンタイン」
「……くだらん」
「あなたがニブルヘイムで失踪してから、もう三十年ですか。御手腕、衰えのないことをお喜び申し上げますよ」
 ヴィンセントは応えず、銃を抜いた。子供の腕ほどもある鉄の塊、ケルベロスと名づけられた銃の照準を合わせながらセーフティを解除する。懐で何かがぷつんと音を立てたが、構ってはいられなかった。
「デンゼルを返してもらおう」
 男は口許の笑みを深める。笑い皺に見えた目尻の刻印は、微動だにしなかった。

     5

『……デンゼルを返してもらおう』
「ヴィンセントだ! ホントに繋がった!」
 こじ開けた回線からややくぐもったヴィンセントの声が聞こえて、ナナキが身を乗り出した。やるじゃねえか、とバレットが小さく感嘆する。リーブは地図アプリを操作し、ヴィンセントを――正確にはヴィンセントの端末を――示す赤い点の位置を確認した。
「ミッドガルの中ですね」
「どこだ」
「これは……旧八番街スラムの辺りです」
「ってこた、あいつら真っ直ぐミッドガルに突っ込んでったってことか?」
 あのオヤジ、ウータイのニンジャかよ、とシドが呆れた声を上げる。火をつけない煙草を未練がましく咥え、わざとらしい目つきでユフィを見た。
「うるさいなあ。ヴィンセントの話が聞こえないじゃんかよ」
『あの子……返し……、――てくださ……ら……』
「相手の声はさすがに聞こえないわね」
 張り詰めた表情を崩さないティファに、これが限界ですと返す。集音機能は通信とは独立した機能なので、こちらからは触れなかった。
『口約束を信じろと言うのか』
 ヴィンセントの言葉から推察するに、何らかの取引を持ちかけられたようだ。相手の言う通りにすればデンゼルは返す、そんなところだろう。
「デンゼルくん、近くにおるんやろか」
「考えにくいな。シドの言う通りに街を突っ切って行ったとしたら、デンゼルを抱えての移動は不可能だ」
 ケット・シーとクラウドのやり取りに、リーブも頷いた。
 ヴィンセントとあの男が去ってから今まで、時間にして三十分程度。位置情報から計算すると彼らの移動距離は直線で十キロメートル弱、つまり移動速度は時速二十キロメートルといったところだ。エッジからミッドガルに続く真っ直ぐな道などないから、ヴィンセントたちはあらゆる障害物を乗り越えて行ったに違いない。犯人がソルジャーでもない限り、十を超えた男児を抱えてのパルクールは現実的ではなかった。
『――じて……のですか…………なら――――』
『ふん、くだらんな。ここで済ませるぞ』
「くっそー、何の話してんのかなあ」
 苛立ちを隠さないユフィの後ろで、クラウドが立ち上がった。
「クラウド?」
「リーブ、ヴィンセントの位置情報を送ってくれるか。行ってくる」
「おいっ、おまえひとりで行くっつーのかよ!?」
「悪いなバレット、さすがにあんたと二人乗りはできない」
 走って追いかけてくれても構わないが、と言いながら、彼は壁に立てかけたままだった合体剣を担ぐ。血の気の多い連中が俺もアタシも、と立ち上がろうとするのを見上げた、その時だ。
『……分かった、どこへでも連れてゆけ』
「ッヴィンセント!」
 ひどく落ち着いたその声色は、何かを諦めたようにも聞こえた。通話回線は開いている、咄嗟に名前を呼ぶリーブの声が届くはずだ。しかしヴィンセントは応えない。男の遠い声が切れ切れに笑う。
『――――くて結構、……が…………』
「ヴィンセント、待ってください! ヴィンセント!」
 ぶつん、と音を立てて接続が切断された。慌てて視線をラップトップの画面に戻す、コマンドプロンプトに表示されたエラーは、接続先端末は電源が切れたか、電波の届かないところにあると示唆していた。
「切れちゃったの?」
「再接続してみます。クラウド、行っていただけますか」
「ああ。ナナキ、走れるか」
「うんっ!」
「あっ、アタシも行くっ」
 通用口の扉を押し開けて駆け出すクラウドをナナキが、続いてユフィが素早い身のこなしで追う。すぐにエンジンの駆動音が響き、遠ざかって行った。
「オイ、リーブ! どうなってんだよ!?」
 接続要求を繰り返すが、同じエラーが吐き出される。電源が入っていないか、電波受信圏外か。あの数秒の間に、一体何があったというのだろう。
 指は忙しなくキーボードを叩きながら、最悪の想像が脳裏を過ぎる。ヴィンセントはいつも、携帯端末を左の懐に入れていた。その端末が突然応答しなくなったということ――いや、ヴィンセントに限って一対一の戦闘で遅れを取るはずがない。相手が誰であれ――しかし、あの男がヴィンセントに匹敵する身体能力を持つことは証明されている、一瞬の隙が命取りになるのかもしれない。
「……クソッ」
 六回目の試行も失敗に終わり、リーブは押し殺しきれない苛立ちのまま、拳をカウンターに叩きつける。鈍い音を立てたそれを、ティファが強引に包み込んだ。
「大丈夫、ヴィンセントのことだもの、きっと充電が切れたとか、そんなことよ」
「……そう、ですね」
 得意のごまかし笑いは見事に失敗した。昨晩、彼の端末を充電器に接続してやったのは自分だ。ろくに触られないヴィンセントの端末が、たかだか一日で充電切れになるとは思えなかった。ティファの精一杯の笑顔も、正面から見ることができない。
「リーブはん……」
「あいつらもすぐ現場に着くだろ。まあ落ち着けや、一服するか?」
「マリンの前で煙草なんか吸いやがったらタダじゃおかねえぞ、この野郎」
「へーへー」
 どっかりと背もたれに寄りかかって煙草を突き出してくるシドに、バレットがギミックアームを振りかざす。彼らなりに気を紛らわせようとしてくれているのだろう。リーブはまたしても出来損ないの笑みをシドに向けた。
「お言葉に甘えて、一本頂けますか」
「おお、高えぞ」
「ふたりとも、吸うなら外出てね」
 ティファの苦笑に見送られて、今しがたクラウドたちの出て行った通用口の扉を開く。雨は相変わらず陰鬱に、しとしとと降り続いていた。

 何本分かのタールの苦味が舌に貼り付き、冬の夜雨に煙草を挟む指がかじかみ始めた頃、ケット・シーがリーブの端末を手に顔を出した。
「クラウドはんです」
 その表情は、安堵と憂慮がないまぜになって引き攣れていた。それを横目で見たシドが、眉宇を顰めたまま次の一本に火をつける。
「……代わりました」
『デンゼルを見つけた。無事だ』
「そうですか! よかった……』
『だが、ヴィンセントがいない。敵もだ』
 クラウドの報告は簡潔だった。記憶していた位置情報通りの地点に到着すると、そこには毛布に包まったデンゼルがひとり横たわっていた。いち早く駆け寄ったナナキの毛にくすぐられて目を覚ました彼には一筋の傷もなく、手にはティファに頼まれていた調味料を握ったままだった。
 デンゼルに聞けば、お使いの帰り道、後ろから呼び止められて以降の記憶がまるでないのだという。彼に声をかけたのは大柄な男性だったという以外のことは分からず、ひとまずは彼に異常のないことが幸いだった。
 瓦礫に囲まれたその空き地には、弾痕も、空の薬莢も、血痕のひとしずくも残ってはいなかった。ただ、真新しい足跡がいくつか。先の尖ったものが恐らくヴィンセント、紳士物の革靴らしきものが敵だろう。ナナキは本日二度目となる残り香探しを敢行したが、結果は不調に終わった。そもそも微弱すぎるふたりぶんの香りは雨に流されるまでもなく、足跡の残っていたところから突如として消えたとしか思えない、とのことだった。
『とにかく、一旦そっちに戻る。それから考えよう』
「ええ……そうですね」
 ありがとうございます、とかろうじて絞り出した声は、隣のシドがあからさまに舌打ちするくらい消沈していた。
 いけない、しっかりしなくては。自分ひとり落ち込んでいる場合ではないのだ。ヴィンセントを取り戻す、そのために出来ることはなんでもやらなくては。クラウドたちのように闘うことはできなくとも、後方支援はお手の物のはずだった。
 とはいえ、一度口を突いて出た声の調子はごまかしが効かない。電話の向こうでクラウドが何かを言いかけて――
『リーブ、あのな……あっ、おい、』
『もしもし! ユフィちゃんですけど!』
 突如として割り込んできた少女の声に、思わず目を丸くする。鼓膜にきぃんと痛みさえ走る音量で、さすがにシドの耳にも届いたのだろう。煙草のフィルターを噛んで、にやりと笑う。
『オッサンがしょぼくれてんのとか、見てらんないんだけど! アタシたちが戻るまでに少しはしゃっきりしといてよね』
「は、はい……」
『だいたいさあ、ヴィンセントがどっかフラっと行っちゃうのなんか、いつものことでしょ? オッサンもいいかげん慣れなよ、どーせ帰ってくるんだからさあ!』
『ユフィ、その辺に』
『それともナニ? 訳わかんないタークス上がりにアイツがやられるとでも思ってるワケ? ばっかみたい!』
 ガサガサとノイズが走り、言葉もないリーブの耳に再びクラウドの声が届く。その向こうでは、まだハナシ終わってないんだけど! と元気よく騒ぐユフィと、それを宥めようとするナナキの声が交錯していた。
『……そういうわけだ。じゃあ、戻るからな』
「はい、お待ちしてます」
 通話を切って吐き出した溜め息は、我ながら煙草臭かった。もうしばらくここにいよう、クラウドたちもすぐに戻って来るはずだ。
 通用口の薄く開いた扉から、ティファが顔を覗かせる。物言いたげな彼女から目を逸らして、リーブは路地の暗がりを睨みつけた。
 止まない細雨が世界を銀の紗で覆う。雑然と積み上げられた木箱に投げ込まれた割れ硝子の破片、足元に散らばる踏みにじられた煙草のフィルター、首吊り死体の脚のように壁からぶら下がる排気管、表通りの薄汚れたネオンが下品な紫とピンクの光を撒き散らしては、ごみとがらくたを押し込んだ路地裏に立ち竦むリーブを嘲るようにちかちかと色を変えていた。
 握り締めた携帯端末ごと、右手をスラックスのポケットに突っ込む。硬い布が擦れた肌が痛むほどに冷え切っていたが、そんなことはどうでもよかった。

 行くな、と、その一言さえリーブに言わせずに消えた男の背中を、路地裏の闇に幻視する。彼はいつだってそうだった。
 すべてが終わり、忌まわしい獣がその身を去ってなお、ヴィンセントはひとところに留まるようにはならなかった。かつての仲間たちと近いエッジやジュノンに身を定めたらどうだと皆に言われながら、その言葉を聞き流してはある日突然、ふらりとどこかへ行ってしまう。この広くない世界なんて隅々まで見飽きただろうに、まるでどこかにある忘れ物でも取りに行くような風情で。
 世界再生機構を抱えて身動きの取れないリーブは、彼を待つしかなかった。いつ帰ってきても、おかえりなさい、と迎えてやるのが自分の務めで、唯一それだけを許されているような気さえしながらヴィンセントのいない日常を生きる。
 リーブの執務室の机の引き出し、秘書にもケット・シーにも触らせないその奥深くに眠っている一通の書類に、ヴィンセントはきっと気づいている。世界再生機構とのエージェント契約書、担務と報酬は空欄のままの半端な紙切れには、ヴィンセントを己に繋ぎ止めようとするリーブの浅ましい欲がインクに溶けて黒々と刻まれていた。
 ヴィンセントが帰ってくる度に、彼と夕食のテーブルを囲みながら、リーブはその書類のことを思い出す。どう話を切り出そうか、今日こそは彼に胸の裡を明かすべきかと逡巡しながら、彼が旅の中で見聞きしたものごとの話に耳を傾ける。グラスの中身を干しては今だ、いや今ではない、ああでもないこうでもないと喧しい意識を抑え込んで相槌を打つのはいつものことだ。
 そうしてうやむやのうちにベッドに転がって、いくらかのアルコールで高まった彼の体温に触れてしまえば、もうひとたまりもない。夜が明けて、しばらくはここにいると言うヴィンセントにいつまでですかと問うことも出来ずに日は流れる、数日、数十日、数週間。今度こそ腰を据える気になったのかという淡い期待は、ある夜明け前に無惨に裏切られる。
 暁の足音さえ聞こえない、夜の最も深く暗い時間。ヴィンセントは必ずこの闇に紛れてリーブの元を去る。音もなく起き上がり、衣擦れさえ押し殺して身支度を整え、夜の軌跡を辿るように密やかに寝室を出てゆくのだ。朝の訪れと共に目を覚ますリーブは、最早彼の体温さえも残らないシーツに掌を這わせて悟る、彼は行ってしまったと。次はいつ戻るとも、どこへ行くとも、何故行くとも、リーブの疑問には何ひとつ答えぬまま、ヴィンセントは行ってしまった。
 だからリーブは、彼に行ってらっしゃいと言ったことは一度もない。帰りを迎えることはできても、行くのを送り出すことは許されていなかった。一体、誰が許さないのだろう。ヴィンセントか、あるいはリーブ自身か。後者かもしれない、と彼の去った部屋に立ち尽くして思う。彼の背中が遠ざかってゆくのを見れば、行かないでくれ、ここにいてくれと喚くだろう自分自身が許せないのかもしれない。
 日は昇る、新しい一日が白々しい顔つきで世界を塗り替える。昨日までと何も変わらないようなそぶりで誰もが正しく働くこの世界は、ひとつのパーツを失ったことなどまるで意に介さずにリーブを急き立てる。残り香さえ置いては行かない彼を見失った部屋はがらんどうだ。
 大いなる空洞。ヴィンセントを形容するに、これ以上相応しい表現はなかった。彼の実在は、彼の不在によってしか証明されない。言葉遊びのようなトートロジーを手の中で弄びながら、またリーブは待つ。消失した男がたったひとつ残した空白に茫然と囚われたまま、彼がここにいないということだけを証明するように、忙しなく、健全で、脅迫的で、清潔な日常に沈み込む。
 ――あなたはいつだってそうだ、ヴィンセント。送り出すことも、引き留めることも、どちらも僕には許さない。接続は必ずあなたから遮断される。
 彼を愛し始めた時から分かっていた、ヴィンセントは彷徨い続けるのだと。放浪することでやっと呼吸ができる、そういうひとなのだ。そういうひとと分かっていてなお愛してしまったから、だからリーブが彼に留まって欲しいと願うことは本当は酷い裏切りなのだ。飛ぶ鳥の翼を捥いで鳥籠に閉じ込めて愛でるような欲望は、リーブが死ぬまでひた隠しにしなければならないものだった。
 頑是ない子供を演ずるには、リーブは分別というものを弁えすぎていた。他愛のない冗談を装って想いを吐露すれば、ヴィンセントは困ったように笑うだろう。懇願すれば、せめて送り出すことくらいは認めてくれるかもしれない。けれど重ねすぎた年齢が、その道中で拾い集めた良識とプライドが、稠密な粘液のように纏わりついてリーブの口を閉ざす。愛したひとの、彼を彼たらしめる性質を憎むように恨みながら、その昏い焔を何食わぬ顔で封じ込めるのだ。くだらぬ虚勢、あるいは惰弱な愛情ゆえに。
 例えば自分がもっと若ければ、何かが変わっていたのだろうか。不遜な顔で彼にエージェント契約書を差し出し、高慢な手つきでサインを強いて、彼と共寝をする夜は怯えながら深い眠りに抗い、必ず同じ部屋に帰ってくる彼を喜び勇んで愛でるのだろうか。
 馬鹿馬鹿しい空想は数えるのも嫌になるほど繰り返したから、今さら笑いすら漏れてはこない。そんな男を、一体どうしてあの美しいひとが愛するだろうか。卑怯で、傲慢で、愚かで、底の浅い、みっともない男。それは確かにリーブの一部ではあったけれど、身を委ねるわけにはいかない。
 愛したひとを送り出すことも引き留めることも出来ない哀れな男の、それが最後の矜恃だった。

 闇を裂くように一条の光がリーブを照らす。胃の腑を突き上げるようなエンジン音、タイヤが砂利を噛む音、バイクのヘッドライトが降り続く雨を煌めかせる。
 バイクと並走していた獣の尾に燃える炎が、大きく左右に揺れた。鉄馬を操る男の背にしがみつく少女が、その腕の中の子供を抱え直す。勢いよく開いた通用口から、ティファたちが駆け出して行った。
「――クラウド、デンゼル!」
「ちょっとー、ユフィちゃんのこと忘れてないー?」
「オイラもっ」
「デンゼル、心配させやがって!」
 どたどたと走るバレットの背に続きながら、リーブは一度だけ顔を掌で覆った。
 何食わぬ顔は得意なはずだった。大丈夫だ、今度だって上手くやり果せてみせよう。ヴィンセントは帰ってくる。その時にはいつものように言ってやるのだ。おかえりなさいと。独りで行ったことも、何も言わずに行ったことも、きっと自分ではない誰かが小言にしてくれる。その傍らで少し困った顔をして、まあまあと取り成す、それが「リーブ」の役割なのだから。

第四章 螺旋宮