V.V.V. – 第一章 超新星

     1

「そろそろ機嫌を直しては頂けませんか、ヴィンセント」
 返事はなかった。正確には、ふん、と鼻を鳴らしたのが回答だったのだろう。車のハンドルを切る彼の手は、今日はガントレットではなく黒いレザーグローブに包まれている。薄く開けた窓から流れ込む初冬のひんやりした空気がヴィンセントの髪を揺らすのを、助手席のリーブは苦笑混じりに眺めていた。
 車は海沿いの道を滑らかに走る。かつて、ミッドガルと同様にジュノンの上下を隔てていた鋼鉄の城壁はすでにない。
「そんなに殺気立たれては、参加者が怯えます」
「せいぜい怯えさせておけ」
「ヴィンセント」
「おまえには狙われているという自覚がないのか」
 深い赤瑪瑙がきろりとリーブを睨みつける。はは、と情けない笑いを漏らすしかない雇用主に、薄い唇が警告した。
「『超新星、獣の咆哮、風切羽』」
「……」
「『螺旋宮の最果てに終焉が待つ』――続きをどうぞ、局長殿」
「……『世界の簒奪者に報いを。その脈拍が絶えぬことを嘆くがいい』」
 過不足なく言葉を継いだリーブを、ヴィンセントが前を向いたまま笑う。くっ、と喉を鳴らす嗤いは、餌の震え上がるさまを認めた獣のそれだ。彼はいよいよご立腹らしい、予想はしていたことだったが。

 ことの発端は、一通の脅迫状だった。
 世界再生機構の局長を務めるリーブのもとには、ありとあらゆる形態のメッセージが日々山のように届く。手紙や小包、電話のようなクラシカルなルートはもちろん、電子メールに社内ネットワークなど、数え上げればキリがない。人間というのは実に勝手なもので、こちらの都合などお構いなしに言いたいことを言いたいだけ言うものだ。
 部下の寄越した稟議書をひとつ決裁する間に、メールボックスには少なくとも片手の指の数に相当するメールが届き、未処理の書類ケースには報告書やら社内報やら新規案件の提案書が積み上がり、電話は三回鳴る。次の書類に手をつけようか、それともメールを処理しようかと悩んでいるうちにすべての数は倍になる。倍が倍になりさらにその倍、とある部下の戯れの計算によればメールサーバーは日没と共に悲鳴も上げずにパンクし、山となった書類は明日の夜明けまでには月に到達するはずだった。
 その悲劇あるいは歴史的快挙を未然に防ぐため、各種メッセージの処理はもっぱらリーブの秘書が担当している。この秘書というのが大変に有能な中年の女性で、リーブの五倍の速度でメールを処理し、六倍の速度で郵便物を仕分け、七倍の速度で茶を汲み、八倍の速度で喋ると評判なのだが、一人娘がまもなく初産だというので二週間の休暇を取っていた。その間、別の局員とケット・シーが彼女の穴を埋めていたのだがいかんせん力及ばず、本来であれば秘書によって開封されていたはずの封筒を手に取ったのはヴィンセントだった。
 三か月ほどどこかを放浪していたヴィンセントがリーブのオフィスに顔を出したのは、二日前の昼下がりだ。ふらりとやって来て扉を開くなり目に飛び込んできた惨状――応接用のソファセットから崩れ落ちそうな郵便物と書類の山――に、さしものヴィンセントもその切れ長の目をわずかに丸くした。
「何の騒ぎだ」
「ああ、ヴィンセントおかえりなさい……すみません、今お構いできる状況ではなくて」
「それは構わんが」
 タイミング悪く鳴り出した電話に思わず舌打ちしたリーブを可笑しそうに見ていたヴィンセントは、ぬいぐるみのくせにぐったりしているケット・シーからことの次第を聞いたらしい。郵便物を不特定多数向けの広告とそれ以外に仕分けるくらいならば出来ると言って、積み上がった封筒の山を引き受けてくれた。
 エッジ支局から仕掛かり中の案件に関する報告を受け十五分ほどの通話を終えたリーブに、ヴィンセントが声をかける。
「リーブ、これを」
「何でしょう」
 差し出されたのは一通の白い封筒だった。宛名書きには「世界再生機構 局長リーブ・トゥエスティ様 親展」とプリントアウトされている。受け取ると指の先ほどの硬い感触が厚手の封筒を押し上げていた。
「勝手に開けさせてもらったが、怪しいな」
 中から出て来たのは、一般に出回っている電子記録媒体だ。その辺りの商店でもレジ横に置いてある大量生産品、その他には何も入っていない。
「心当たりは」
「ありませんね……差出人も書いていませんか」
「手掛かりなし、だ。捨てるか」
 リーブは顎先に指を当ててしばし考える。矯めつ眇めつした封筒は相当に上等な紙を使っていると見えて、滑らかな指ざわりだった。よく見れば隅に唐草模様が透かしになっていて洒落ている。新手のダイレクト・メッセージにしては手が込んでいるようだ。好奇心をくすぐられるのは確かだった。
「どう思いますか、ヴィンセント」
「興味をそそられないわけではないがな。ご多忙な局長殿が時間を割くほどかどうかは」
「ほな、ボクがちょっとのぞいてみましょ」
「ケット・シー」
 ふたりの間、机の脇からひょこりと顔を出したのは猫のぬいぐるみだった。リーブの掌から記録媒体を取り上げると、とことこと作りつけの棚に向かってゆく。
「スタンドアローンのラップトップ、ここにあったと思ったんやけど」
「準備がいいな」
「ただの型落ちですわ」
 新しいものに置き換えてもう使わないそれを、何かの役に立つかもしれないからとしまっておいたのは例の秘書だ。溜め込み癖というのも何かの役に立つ。ラップトップはデータを空にして社内ネットワークから切断されているから、記録媒体の中身がウィルスの類であったとしても心配はなかった。
「リーブはんは仕事しててええですよ、ボクらで確認しときますさかい」
「悪いですね、頼みました」
「何入ってんやろか」
「局長殿の秘蔵写真あたりが定石だな」
 しごく真面目な表情のヴィンセントの言葉に、機械仕掛けの猫と制御者が揃って噴き出した。せやったらどうしましょヴィンセントはん、決まっているだろう複写して全支局に配布だ、ははあそりゃええボーナスやなあ、ちょい季節外れやけど。そんな馬鹿話をしている間にラップトップが起動する。
「ふーん、データを書き出したやつの情報はナシ……やな」
「だろうな」
 媒体に入っていたのはテキストファイルがひとつだけだという。先にプロパティを確認したケット・シーがヴィンセントと共に肩を竦め、ファイルを開封した。
「わ、なんやこれ」
「……文字化けか」
「いや、ちゃいますね、なんかのコードや……形式、なんやろか」
「分からんのか」
「うーん、データベースにヒットせん……リーブはーん」
 教えてもろてた形式に合うやつありまへんねん、と助けを求められて、結局こうなるかとリーブは席を立った。休憩ということにしてしまおう、かれこれ三時間以上座りっぱなしだったのだ。
「どれどれ……」
 モニターを覗き込み、一見でたらめに見える文字列を追ったリーブは鋭く息を呑んだ。隣のヴィンセントが左眉を跳ね上げる。
「どうした」
「これ……これは、ずいぶんと」
「何ですのん、もったいぶらんと教えてや」
 無意識に指を伸ばして、画面を横断する文字の羅列を撫でていた。たった今まで忘れていた、ひどく懐かしく、そしてほろ苦い切なさを伴う記憶だ。忘れていた、けれど間違いようもない。これは。
「これは……私の作った言語です」

     2

 当時、リーブはまだ一介のエンジニアだった。情報処理技術の専門家として神羅に入社、魔晄炉の出力制御設計などを担当し、それなりに経験も積んだころだ。社内システムのセキュリティを強化するためのプロジェクトに指名されたリーブに与えられたのは、プログラミング言語をゼロから構築しろ、という何とも壮大な命令だった。
「その頃から神羅はいろいろな団体と揉めてましてね。システムをクラックされる事件が相次いでたんです」
「なるほどな、それで独自のファイアウォールを構築しようとしたわけか」
「ええ。でもまさか、言語から作らされるなんて、さすがに驚きましたよ」
 他に参照しようのない独自言語でシステムを組み上げれば強靭性が増す、とは極めて安直な思いつきだった。リーブの上司も、何も言語から作らなくても他にやりようはある、と散々抵抗したようだったが、大きな組織の常で上の決定には逆らえないのが被雇用者の哀しさだ。困り果てた上司は、リーブが白旗を揚げるのを期待して指令を伝達した、ところが。
「私はわくわくしてしまって」
「わくわくやと〜?」
「ええ、新しい言語を作るなんて、この上ない栄誉だと思ったんです。情報処理屋の夢ですよ」
「理解できんな」
「同じく」
 ヴィンセントとケット・シーが顔を見合わせて首を振る。このふたりは妙に気が合うのだ、ことリーブをこき下ろすことに関しては。
「一年の納期で、と言われたので、必死でした。トゥエスティは神羅ビルに住んでるなんて言われるくらい朝から晩まで働いて」
「目に浮かぶようやわ」
「今思えば、一種のランナーズハイだったんでしょうね。はじめは目を閉じると文字列が浮かんできたんですが、しばらくすると閉じなくても視界にテキストが流れてくるようになるんです」
「病気だな」
 その秀麗なラインを描く眉根を寄せたヴィンセントに、リーブは小さく笑ってみせた。この話には落ちがある。ごくありふれた、どこでも起こるような落ちが。
「でも半年経ったところで、プロジェクトは打ち切りになりました」
 ある日の明け方、会議室に椅子を並べて寝ていたリーブは、同じくプロジェクトの一員だった同僚に叩き起こされた。中止だと、と怒鳴るような言葉をすぐには呑み込めず、呆然とするリーブは同僚に引きずられ、三つ隣の会議室に顔も洗わぬまま放り込まれた。待っていたのは上司とプロジェクト管理者で、ふたり揃って蒼白を通り越して土色になった顔で、すまない、とリーブに告げたのだった。
「なんで打ち切られたんやろ? ゼロから開発するんやって、そうとうエライさんの肝煎りやったんやろうに」
「それが問題だったんです。総責任者にあたる人間がクビになりまして」
「何をやらかしたんだ」
「セクハラにパワハラ、取引先から賄賂を受け取って、接待帰りに飲酒運転で追突事故を起こして、そのどさくさで横領がバレた、と」
「ロイヤルストレートフラッシュやな……」
 そういうわけで、作りかけの言語は行き場を失った。リーブは失意のうちに、しかし諦めきれぬまま開発を続けていたが、その水子が日の目を見ることはついになかった。プロジェクト中止から三か月後、リーブに異動の辞令が下る。都市開発部門へ。
「どこの誰が知っていたんでしょうね、これのことを……」
 出来損ないのコードたちは神羅の共有サーバーに保存したままだったが、ミッドガルの壊滅と共にすべてが永久に失われた、そのはずだった。流れた胎児が産声を上げるのを聴いたような、そんな驚きと喜びの入り混じった気持ちだった。
「誰がと言ったって、神羅の関係者以外にはいまい」
「そうですね、確かに」
「懐かしんでいる場合ではない。何が書いてある、読んでみろ」
 促すヴィンセントの表情は険しかった。それでリーブもはっとする。神羅ビルを出ることはなかったコード、それを使ったメッセージを送ってくるということは差出人は間違いなく神羅の関係者だ。星の危機のどさくさで偶然データベースにアクセスできた外部の人間という可能性もゼロではないが、よりによって開発者のリーブ親展で送ってくるということは神羅の内情に詳しい人間、まずは残党と考えるのが自然だった。
 そして、リーブは旧神羅の人間すべてから支持されているわけではない。かつてはこの星に君臨した強権的な組織――それは一企業を遥かに超えた権勢を誇っていた――の幹部でありながら、組織の犯してきた罪を認め、立ち上げた世界再生機構は神羅同様に軍事力を得て、この星の新たな指導者となりつつあった。神羅のイデオロギーに疑念を抱かなかった者、良かれ悪しかれ生活を依存していた者にとっては、リーブの存在は決して快いものではなかったのだ。
 浮かれている場合ではない。リーブは緩んだ頰を引き締めて、キーボードを叩いた。
「……このままでは読めませんから、他のコードに変換します」
 納期までわずか一年だったということもあり、リーブは言語構築にあたって複数のプログラミングコードを参照した。一般に使用されているものではなく、いくつかのギークコミュニティで公開されていたオープンソースの言語を寄せ集め、それぞれの脆弱性を互いに補い合うようなものを目指していたのだ。構文規則の主要な参照元となった言語はのちにとあるソフトウェアに採用されたため、今となっては解読はさほど困難ではない。
 スクリプトは長くはなかった。恐らくは短いテキストメッセージを吐き出すだけのものと見たリーブは、ヴィンセントたちの見守る中、手早く解析を進める。現場を離れて長年が経つとはいえ、昔取った杵柄は伊達ではない。内心自尊心をくすぐられているうちに、翻訳作業は完了した。
「なになに……んん?」
 リーブの肩に乗り上げたケット・シーが画面を覗き込み、文字列を三回追って首を捻った。それは確かに、奇妙な文章だった。

   『超新星、獣の咆哮、風切羽。螺旋宮の最果てに終焉が待つ。
    世界の簒奪者に報いを。
    その脈拍が絶えぬことを嘆くがいい』

「ずいぶん詩的やなあ」
「感心している場合か。……要は脅迫状ではないか」
 真鍮色のガントレットに包まれた人差し指が、文章の後半をなぞる。こつん、と硬い音に引き寄せられるように、リーブも視線を動かした。
 ――世界の簒奪者に報いを。その脈拍の絶えぬことを嘆くがいい。
 物騒で単純ではあるが、ひとつ奇妙なのは「脈拍の絶えぬこと」という表現だった。
 世界の簒奪者というのは間違いなくリーブを指す言葉だろう。メテオ戦役の後の世界を建て直そうと奔走するリーブだが、元プレジデント派の人間の目には彼が我が物顔で世界の主人を気取っていると映っても無理はない。新たな世界を創るために、古い世界の因習を破壊する。それはリーブ自身、陰日向なく公言していることだった。
 しかし報いと言うのなら、生命を奪うと続くのが常套句だろう。実際、脅迫どころか明らかな殺害予告をリーブが受け取ったのは一度や二度ではない。しかし今回は「脈拍の絶えぬこと」だ――どういう意味なのだろうか。
(……死んだ方がましな目に遭わせたる、てことやろか)
 モニターに注視するヴィンセントの横顔を覗き見る。大理石から削り出してきたばかりのように無機質に美しい男だ。鋭角な鼻梁は芸術的な線を描き口許に着地する。彫りの深い眼窩に嵌め込まれた深紅の瞳はルビーよりガーネットに喩えるのが相応しい。瞳孔の小さなその眼がふとリーブを見た。
「何をぼんやりしている」
「あっ、いや……どういう意味だろうと」
 分かりやすい言い訳はヴィンセントに受け流される。見惚れとったくせにと茶々を入れるケット・シーの首根っこを摘むリーブに、ヴィンセントが問うた。
「近々、どこかで会合の予定はあるか」
「はい。明後日、ジュノンの議会堂落成式に招かれてます」
 何の責任もないお義理のパーティだが、相手がジュノンで、その自治の証である議会堂の完成記念では断るわけにもいかない。顔だけ出してくるつもりだった。
 なるほどな、と頷いたヴィンセントはリーブに向き直る。
「スーツを用意してくれ」
「……はっ?」
「護衛が必要だ。私が出る」
 これは提案ではなく決定事項だと、その眼が宣言する。呆気に取られているのはケット・シーも同じ――ではなかった。
「ほな、リーブはんがいつもお願いしてるお店にお願いしましょか。お仕着せのやつ、丈合わせるくらいやったら間に合いますやろ」
「だといいがな。店はどこだ」
「ちょお待ってくださいね、今から電話して訊いてみますよって」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 慌てて声を上げたリーブに二対の視線が突き刺さる。胸ポケットから携帯情報端末を取り出そうとしているケット・シーに、ヴィンセントなどさっそく何が不満だと言いたげに胡乱なまなざしだ。リーブは両手を挙げてふたりを制する。
「ヴィンセント、落ち着いてください。ケット・シーも先走らないで」
「落ち着くべきなのはおまえだな」
「まあまあヴィンセントはん、脅迫状届いたらなんぼなんでも混乱しますって」
「かわいげのあることで結構だ」
「だから!」
 いささか大きすぎるその声に我ながら驚く。ヴィンセントは腕を組み、首を小さく傾けた。
「護衛のひとりくらい、増えたところで構わんだろう。まさか着席のディナーか」
「いえ、立食ですが……」
「ならばなおさら構うことはない。安心しろ、社交の邪魔にはならん」
「分かってます、けどヴィンセント、」
「大袈裟だとでも言いたいか。局長殿は平和ボケあそばされているらしいな」
 会話の応酬、というよりヴィンセントの勢いに負ける一方のリーブの様子を、猫のぬいぐるみがさも可笑しくてたまらないという顔で眺めている。なおも畳み掛けてくるヴィンセントのせいで、そちらに釘を刺す暇がなかった。
「場を荒らさぬようにスーツを着てやろうと言っているんだ、何が不満だ。イブニングドレスの方がお好みか」
「冗談はよしてください」
「黒無地でいいだろう、ネクタイは適当なものを借りるぞ。そうだケット・シー、靴が要る。グローブもだ」
「がってんしょうち。装備はどないします?」
「最小限だな、局長殿の面子を潰すわけにはいくまい」
「そら残念、小型のバズーカくらいまでやったら用意できますよって、いつでも言うてください」
「頼もしいな」
「ふたりとも!」
 今度はどちらも止まってはくれなかった。リーブの情報端末をいつの間にか取り出したケット・シーが、液晶画面をつるつると操作して地図を確認している。
「お店、ここですわ。ここから歩いて十五分くらい、その三軒隣に靴屋さんもあります」
「好都合だ。裾直しが間に合うか訊いてくれ」
「ラジャー」
 咄嗟に端末を取り上げようとするリーブの手をすり抜けて、通話ボタンをタップすることに成功したケット・シーが愛想よく話し始めた。
「毎度お世話になってます、リーブ・トゥエスティのところのものです。どうもどうも。いやいやこちらこそ。で、いきなりで恐縮なんやけど、今日これから……。そう、ちょい急ぎなんですわ……」
 王冠をかぶった後ろ頭をため息混じりに見やり、リーブはヴィンセントに視線を戻した。彼はいつも携帯している銃を改め、サイズを確認しているようだ。
「ヴィンセント」
 名を呼ばれた男が目を上げた。鉱物のように硬質な色をした瞳の底に、愉快そうな色が残っている。
「どういう風の吹き回しですか」
「どうもこうも、おまえの身に危険が迫っているようだからな。看過できん」
「それは……ありがたいですが」
 ヴィンセントの言葉に虚を突かれた。その表情は疑いようなく真剣で、本心からリーブを案じていることがわかる。そんな場合ではないのに、リーブは肚の底がそわそわと落ち着かなくなるのを感じていた。
 ――リーブにとって、ヴィンセントはただ友人という枠だけに収まる存在ではない。ディープグラウンドソルジャー、そしてオメガとの闘いを経てふたりは想いを通い合わせ、平たく言えば恋仲になっていた。その体内からカオスが去り、超人的な再生能力を失い老いもするようになったヴィンセントは相変わらず各地を放浪しているが、数か月に一度帰ってくるのはリーブのところだ。
 恋人に心配されて迷惑に思うような薄情者ではない。嬉しくも情けないような気分に浸りかけるリーブに向かって、ヴィンセントが微笑した。
「何事もなければそれでいい。趣向の変わったデートだとでも思っておけ」

     3

 そんな経緯だったから、今日くだんのパーティに向かうために合流したヴィンセントがひどく不機嫌なのがリーブには少しばかり意外だった。
 一時間ほど前のことだ。長引いた会議から自室に戻ると、ヴィンセントはソファに腰を下ろしてリーブを待っていた。リーブ馴染みのお針子が愛想よく引き受けてくれたという裾直しを終えたスーツは、お仕着せの既製品とは思えぬほどに似合っている。
 わずかな光沢のある黒い生地に彼の髪の艶やかさが映え、かっちりしたスクエアショルダーが硬質な雰囲気を際立たせていた。細身のヴィンセントにはシングルブレストがことのほか合うようだ。ケット・シーのいたずらなのだろう、ラペルホールには世界再生機構のシンボルを象った小さな銀のピンバッジが刺さっている。黒い革靴はクラシカルなストレートチップ、その爪先が小刻みに揺れていた。
 護衛然としたといえば確かにそうだが、それにしたってしっくり来過ぎている。カタログか雑誌のグラビアにでも載っていそうな完成度の高さに、リーブは思わず感嘆の息を吐いた。この男の美しいことは重々承知していたつもりだったが、こんな恰好も恐ろしく似合うものだ。
「そんなところに突っ立ってどうした」
「ああ、お待たせしました。すみません、今着替えますね」
「構わん、まだ時間には早い」
 来客用のコーヒーカップを傾けるヴィンセントの声がどこか刺々しいのに気付いて、リーブはガーメントバッグを開きながら首を傾げた。何かありましたか、と当人に尋ねたところで、ろくな返事は貰えまい。こういう時に役に立つケット・シーは、どこぞに散歩にでも行ってしまったようだ。
 ヴィンセントは決して短気ではないが、待たせてしまったせいだろうか。ともあれリーブは、手早く着替えてしまうことに集中した。一応めでたい席だから、こちらが着るのはシルバーグレーのスリーピースだ。生地の細かい織りが上品な光沢を広げる一揃いは気に入りのものだった。
 肌を重ねるほどの仲とはいえ生着替えを披露するのは気が引けて、リーブはキチネットに引っ込む。狭いスペースでもぞもぞとスラックスを脱いだところで、ヴィンセントが何事かを呟くのが聞こえた。
「え、なんですか? 聞こえません」
「ジュノンにはセキュリティの概念がないのか、と言ったんだ」
 そのひとことで、ははあ、と納得する。取り寄せていたパーティ会場の警備計画書に目を通したのだろう。今朝届いたそれを、リーブも確認していた。
 いわく、出席予定者は総計で五百名程度を見込む。ジュノン住民の他、世界再生機構や大手建設会社をはじめとしたさまざまな企業・組織が招待されていた。会場への入り口は二か所、隣接する公園との境界にある通路は閉鎖されるが、全長一キロメートルほど続く柵は高さ四メートル少々のなんの変哲もない鉄柵で、やろうと思えば木立に紛れて入り込むことなど造作もない。入り口では警備員の目視による手荷物検査のみ、設営段階からケイタリングや内部装飾などの業者がひっきりなしに出入りしている。警備人員は入り口の検査員を除いて総計二十名。その上、パーティ前の施設見学ツアーまで行われる予定だという。
 ヴィンセントが機嫌を損ねるのも無理はない。彼からすれば、今日の議会堂にはテロの現場としてはこの上ないほどの好条件が揃っているのだ。
「仕方ないでしょう、議会堂の落成パーティなんですから、そんなに厳重にはできませんよ」
「平和な世の中も考えものだな」
「ヴィンセント」
 窘めるような、というより咎めるような調子の声が出た。キチネットから顔だけ出してソファセットを見ると、ヴィンセントが、まるでこの穴だらけの警備計画を立てたのはリーブだとでもいうような目でこちらを睨みつけている。
「平和ボケ、結構じゃありませんか。一般のみなさんが平和に呑気に暮らせるように、我々がいるんです」
「『我々』に私を含めるのはやめてもらおうか」
「何でも構いませんけどね」
「第一だ、重要招待客はおまえひとりではないだろう。考えが甘すぎる」
 空になったヴィンセントのコーヒーカップが、ソーサーにぶつかってがちゃんと鋭い音を立てた。スムースレザーのグローブを纏ったヴィンセントの左手指が、細かく素早いリズムを刻んで動く。
「あなたがいれば大丈夫でしょう」
「おためごかしを言うな。最悪の可能性はゼロにはならん、決してな」
「承知してます。……そうだ、会場ではどう立ち回ればいいか教えてください」
 言われた通りにしますから、と言えば、ヴィンセントはわずかに歪めていた唇を開いた。
「ホールの中央には立つな、できれば通るな。可能な限り、窓の近くにいろ。いざというときにガラスを割ってでも飛び出せ。壁を背にしていろ、四方を人に囲まれるな。近場のテーブル下は私が確認する、不審なものがあれば合図を出すからさりげなく距離を取れ。飲食物は私が手渡すもの以外口にするな。それから――」
 注意事項はまだ続くようだった。そのいちいちにきちんと頷きながら、リーブはガーメントバッグからネクタイを取り出す。ネイビーとボルドー、いずれも落ち着いた色味を基調としたそれらのうち、ボルドーを自分の首許に巻きつけた。いつの間にかアスコットタイが似合うような歳になっていたのだと、どこか場違いな感慨に浸りながら。
「――そんなところか。あとは私の指示に従え」
「分かりました、ありがとうございます……さあ、こちらをどうぞ」
「ああ、ネクタイか。ありがとう」
 リーブの差し出した青い布を受け取ったヴィンセントも、淀みない手つきでタイを装着した。セミウィンザーノットの慎ましい結び目を鏡も見ずに整える彼は、首に絡みつくものの色など気にも留めはしないようだ。リーブに赤、ヴィンセントに青。所詮はリーブの自己満足に過ぎない、はじめから分かっていたことだが。
(デートだって言ったのはあなたなんですけどね、ヴィンセント)
 うっかり漏れた溜め息未満の吐息の方は耳ざとく聞きつけたヴィンセントが、どうかしたのかと目線で問う。首を軽く振ってごまかして、身支度の整ったふたりは出発した。

     4

 議会堂の駐車場に車を駐め、リーブとヴィンセントは正面入り口に向かった。夜の帳が落ち始め、議会堂の向こうの水平線は昼を夜へと結ぶグラデーションに染められている。
 あちこちに鋭い目線を飛ばすヴィンセントを半歩後ろに伴いながら、リーブは頭を切り替える。油断はできないが、今日はあくまでも地元との関係強化が目的だ。リーブまでぴりぴりしていてはジュノンの人々が怪しむだろう。ヴィンセントとてただの兵士上がりではないのだから、会場に足を踏み入れればきちんと弁えた振る舞いに徹してくれると信じていた。
 まもなくエントランスというところで、見知った顔に声をかけられる。町役場で都市開発を担当している中年の男性だ。
「これはリーブさん、ようこそお越し下さいました」
「この度はおめでとうございます、お招きに預かりまして光栄です」
 その男性は恰幅の良い腹を揺らしながら、リーブに右手を差し出した。握手に応じつつ、晴れてよかったなどと他愛のない世間話を交わす。
「しかし、さすがは世界再生機構の局長殿だ。そちらは護衛の方ですかな?」
「ええ……その、念のためにと」
「そうですかそうですか。いや、分かりますよ。誘拐事件などあっては大変ですからな」
 ははは、と冗談を言う男に苦笑を返す。ちらりと見たヴィンセントは少し離れたところに立ち、眉一筋動かさない。
「まあ、こんなところでそんな物騒なことは起こりやしませんよ。ああ、お引き留めして申し訳ない、また後ほど。リーブさんにご指導願いたい案件がひとつありましてね」
「そうですか、私がお力になれるといいのですが。ではまた中で」
 去って行く男性を見送り、建物の中に入る。ヴィンセントは本当に護衛に徹するつもりのようだ。ものも言わず、影のようにリーブに付き従う。
「退屈でしょうが、早めに切り上げますから」
 周りに聞こえぬよう声を潜めて言えば、彼は小さく頷いた。
「私のことは構わんが、撤収は早い方がいい。話の長い人間に捕まるなよ」
「努力はします」
 そうしている間にも、さまざまな人がすれ違いざまにリーブに声をかける。決して華美ではないが細やかな装飾の施されたホールはそれなりの人口密度で、天井に反響するざわめきがひどく賑やかだった。近くに置かれた花瓶から、強い百合の香りが漂う。量を過ぎた香水を嗅がされるように空気が重かった。
「出来るだけ早くバンケットルームに入っていただけるか、局長殿。視界が悪すぎる」
「はいはい、では向かいましょう。――おっと、失礼」
「ああ、いや、こちらこそ」
 促されて一歩を踏み出した瞬間、横手から歩いてきた人物とぶつかりそうになった。リーブよりも少し背が高く、かなりがっしりした印象の男性だ。白髪混じりの榛色の髪を後ろに撫でつけ、どこにでも売っていそうなダークカラーのスーツを着ていた。ぶつかる寸前に踏み止まったリーブに、柔和な笑みを浮かべて会釈する。
「お怪我はありませんか、リーブさん」
「とんでもない、失礼しました」
「いえいえ、急に飛び出したのはこちらですから。……では」
 その男性はあっという間に人混みに紛れてしまう。短いやりとりを何の気なしに反復して、リーブははっと顔を上げた。
「どうした、財布でもすられたか」
「いえ、そうではなくて、あの人、私の名前を……」
「知り合いではなかったのか」
 彼の姿はもう見えない。白茶の髪、立派な体格、目尻に刻まれた皺、彼を構成していた要素はいくつか思い出せるのに、どれもばらばらでひとりの人間の形を結んではくれなかった。奇妙な男だ。確かにそこにいたのに、次の瞬間にはもう思い出せなくなってしまう。
「……おまえは有名人だからな。そういうこともあるだろう」
「ええ、そうですね……」
 折りよく、まもなく開宴です、と知らせる声がホールに響く。釈然としないものを抱えたまま、リーブは人の流れに乗ってバンケットルームに吸い込まれた。

 市長さんもまったく人が悪い、と冗談めかして言ったのは本心だった。言われた方は白い髭をたくわえた口許をにこにこと吊り上げている。
「さすがはリーブさん、急なお願いにもそつのないことと言ったら」
「せめて事前に知らせていただければ、もう少しまともなことをお話しできましたのに」
「ご謙遜を」
 はっはっは、と鷹揚に笑う市長の前で眉尻を下げながら、こいついっぺん本気でどついたろか、と思うリーブだ。
 パーティは形式通り、市長の挨拶で始まった。ヴィンセントの指示通り壁際に立ち、彼の持ってきたシャンパングラスを手にしたリーブは、やはり定型文通りのスピーチを聞き流していた――のだが、続く司会の一言に度肝を抜かれた。
「それでは本日、来賓の皆様を代表しまして、世界再生機構代表のリーブ・トゥエスティ様からひとこと頂戴致します」
 ステージへどうぞ、と促されて、豆鉄砲を喰らった鳩のように凍りつくリーブの横ではヴィンセントが目を見開いていた。そんなことは何も聞いていない。周りを固めていた役場の職員たち――どいつもこいつも人の悪い笑みを浮かべている――に背を押され手を引かれ、気がつくとリーブはステージ上でスポットライトを浴びていた。
「えー……ただいまご紹介に預かりました、世界再生機構代表、リーブ・トゥエスティでございます。この度は議会堂の落成、誠におめでとうございます。……」
 その後、いったい自分が何を喋ったものかさっぱり思い出せない。頭が真っ白になるとはこのことか、と感心さえしてしまったリーブが覚えているのは、ステージ下に立つヴィンセントがジャケットの内側に手を突っ込んでいたことだけだった。どの銃を持って来たかは聞いていないが、何かあれば光より早く発砲するだろう。何も起こるなと、このホールの中で誰よりも強く祈っていたのは、間違いなくリーブだった。
 ともあれリーブの挨拶はそれなりのかたちに収まった。話を締めてステージを降りようとしたら、乾杯の発声もしてくれと司会が言うのでやけくそで声を張り上げた。グラスの打ち付け合う音と共に弦楽四重奏の演奏が始まり、パーティは無事開宴したのである。
 恨み言のひとつでも言ってやらなくては気が済まない。リーブはからからに渇いた喉をシャンパンで潤すと、無表情の下にやる方ない憤懣を隠したヴィンセントを伴って、市長のもとにやって来たというわけだった。
「ちょっとした悪戯というやつですよ、それもこれもリーブさんであればとご信頼申し上げておりますゆえで」
「悪戯というにはずいぶん過激でしたね? うちの連中が粗相でもしましたでしょうか」
 ひとこと言ってやると意気込んだわりに、嫌味にもなり切らないことしか言えない自分に呆れているだろうか――そう思いながら背後に立つはずのヴィンセントの気配を探った。
(……おや?)
 ヴィンセントがいない。リーブの言葉に恐縮するでもなく大口を開けて笑っている市長をよそに振り返ると、果たしてヴィンセントは広間の扉を開けて戻ってくるところだった。彼はそこここに立つ人の群れを擦り抜けて、まっすぐにこちらに向かってくる。近づくにつれて、その目に宿るただならぬものにリーブも気付かざるを得なかった。

     5

「――お話中、失礼いたします」
 彼は護衛のお手本のような態度で、折り目正しく腰を折った。何事かと目を瞬く市長には一瞥もくれず、胸許から携帯端末を覗かせる。
「局長、お知らせしたいことが」
「……分かりました。市長、すみませんが少し外します」
「ああいや、どうぞどうぞ。相変わらずお忙しいようですなあ!」
 くだらない悪戯を仕掛けてきたことはともかく、細かいことをとやかく言わないのは首長としての美徳だ。リーブはよそゆきの微笑と共に会釈をひとつ、すぐさま踵を返して出口に向かった。ヴィンセントは半歩の距離を保ったまま着いてくる。
「どうしました?」
「広間を出たら左へ。『超新星』を発見した」
 超新星、その単語に思わず肩が震えた。リーブの作った言語に暗号化されていた脅迫状、その始まり。
 足早に廊下に出ると、警備スタッフの腕章を巻いた若い女性が工具箱を抱えておろおろとふたりを待っていた。正確にはヴィンセントを待っていたのだろう、彼がリーブを伴っていることに気づくとぎくりと緊張している。ブルネットをひっつめた彼女の手から工具箱を受け取ったヴィンセントは、存外に柔らかな声を出した。
「ご協力、感謝する。警備責任者への報告は」
「は、はいっ。完了しております、ご指示の通りに、と」
「助かった。あなたも持ち場に戻ってくれ、あとは私が引き受ける」
「ですが、」
 食い下がる警備スタッフの声に、ヴィンセントはゆるく首を振った。手に提げた工具箱ががちゃりと音を立てる。
「必要であれば呼ぶ。集中させてくれ」
「あのっ、局長殿は……」
「私の近くにいてもらう。あくまでも護衛が任務なのでな。話は終わりだ、時間が惜しい」
 立ち尽くす女性の横を擦り抜けて、ふたりは近くの小部屋に入った。どうやら打ち合わせや応接に使うらしい部屋は、シンプルな机と椅子のセットの他には何もない。その机の上に、服飾ブランドのロゴを印刷した紙袋がぽつんと置かれていた。
「ヴィンセント、これは、」
「覗いてみれば分かる。ふん、比喩としては単純だったな」
 入り口をロックしたヴィンセントが、ジャケットを脱ぎ捨ててシャツの袖を捲った。リーブは促されるまま、恐る恐る紙袋を覗き込む。色とりどりのコードが絡む金属の塊、ちくたくと刻む秒針の音、これは――
「爆弾、ですか」
「ああ」
 簡潔この上ない回答に、リーブは息を吐いた。オールドスクールな時限爆弾、紙袋の方もシャツやバッグではなくこんなものを腹に収めさせられてさぞ驚いていることだろう。
「私にお手伝いできることは」
「特にないな。大人しく座っていてくれ」
 先にこれを返しておく、と差し出されたのは、リーブが貸したネクタイだった。手許で細かい作業をするなら確かに邪魔だろう。紙袋から時限爆弾を取り出すヴィンセントの向かいに腰を下ろし、手持ち無沙汰にネイビーの布切れを丸める。
「退屈させてすまんな。爆弾の解除とおまえの護衛、両方やるとなるとこれしかなかった」
「お気になさらず。立ち話にも疲れてきたところでしたから」
「……落ち着いているな」
 かすかな驚きを孕んだその声に、リーブは小さく笑う。侮ってもらっては困る、仮にも「世界の軍隊」の長なのだ。この程度で取り乱す可愛げはどこかへ捨ててしまったし、それに。
「あなたがいますからね」
「……茶化すな」
「まさか。本心です」
 信頼してますよ、と敢えてわざとらしいほどに明るく言ってやれば、ヴィンセントもその唇を歪めて笑ったようだった。照れているのかもしれない。
「話しかけても?」
「返事を期待するなよ」
「ええ、もちろん。……アナログ時計制御ですか? クラシックですね」
「いや、こいつは飾りだ。制御盤はカバーの下にある」
「残り時間は?」
「十七分三十秒を今切ったところだ」
 素早くドライバーを操る手が、アルミニウムの覆いを外す。なるほど、その天面に張り付く時計盤に繋がる線はない。剥き出しになった配線を、レザーグローブをはめたままの指が辿ってゆく。
「誰が発見したんですか」
「私だ。おまえが市長と立ち話をしていた横のテーブルの下に放置されていた」
「それは……」
「偶然だろうな、狙って置いたのだとしたら大したものだ」
 話しながらも、ヴィンセントの目は構造を追うのに集中していた。もとより鋭い眦には力がこもり、目許には睫毛が扇状の影を落とす。慎重に線を手繰っては、薄い唇がわずかに動く。リーブは彼の邪魔にならないよう、静かに爆弾を観察した。
 カバーを外した下の天面には、ふたつの電光パネルと三つのモジュールが組み合わさっていた。パネルの片方はデジタル時計で、一秒にひとつずつ数を減らしてゆく。そのテンポとアナログ時計の秒針の音はわずかにずれており、アナログの方が飾りであるというのは間違いなさそうだった。もう一枚のパネルには何も映し出されていない。
 モジュールのひとつは黒いボタンだった。どこかで見覚えがある――そうだ、これはモールス信号の電鍵だ。その横、中央のモジュールは液晶パネルで、縦横六個ずつの小さな正方形が規則的に並んでいる。そのうちの三分の一ほどがグレーアウトし、あとは白く光っていた。パネルの下にはご丁寧にもタッチペンが嵌め込まれている。それから、最後のモジュールは絡み合う五色のワイヤー。それぞれのパーツは黒い配線で繋がれており、ヴィンセントは配線から構造を読み解いているようだった。
「……なるほどな」
 ヴィンセントが小さく呟いた時、残り時間は十五分を切っていた。リーブは内心焦りを覚える。
 彼を信頼している、と言ったのは本当だ。ヴィンセントは元タークス、その中でも「タークスの中のタークス」と称された極めて優秀な特殊工作員だった男だ。数十年の眠りを経てさえ、その知識と経験に基づく手腕は衰えてはいなかった。機構の兵士たちの練度がまだ低かった頃から、彼の手を借りた回数は両手の指でも足りない。しかし、残り十五分でこの複雑な仕掛けを解除できるのだろうか。
 十五分あれば、この爆弾を抱えて漁師の船を借り、沖に放り投げて戻って来ることも不可能ではないかもしれない。リーブでも抱えられるくらいの大きさだ、甚大な被害にはなるまい。しばらくの間漁に影響は出るかもしれないが、人命には替えられない。そう考え、口を開こうとした時だった。
「神羅軍の昇進試験を見たことがあるか」
「……いえ」
「同じ試験問題が、タークスの採用試験に使われていたことは」
「知りませんでした」
「この装置は、その試験に必ず出題される問題の一パターンだ」
 ヴィンセントは目を眇めてモジュールをなぞる。黒革を纏う指先が金属の塊を這う様は、恐ろしく禁欲的でありながら、どこか背徳感のようなものを覚えさせる動きだった。
「このトンツーで要求される単語を打刻する、それが第一段階だ。真ん中のパネルは簡単な迷路で、暗転した四角を避けて一筆書きにすればクリア。最後は正しい順番で配線を切断する。試験の制限時間は七分だったはずだ」
「……」
「ずいぶんと見くびられたものだな」
 ヴィンセントが背もたれに体重を預け、安っぽい椅子がぎしりと鳴った。その唇がいっそ優雅な曲線を描く。
「つまり、犯人は神羅関係者で間違いないですね」
「それもタークス関係者だ、十中八九な」
 軍ではなく、タークス。その推測にリーブは首を捻った。
 神羅軍はハイデッカーの配下だったこともあり、元兵士のリーブに対する心証が良くはないことは容易に想像できた。しかし、ツォンをはじめとするタークスたちと現在のリーブの関係者は、決して悪くはない。世界再生機構最大の出資者はルーファウス、神羅亡き後も彼の手足となって働くタークスたちが、何故こんなことをするのだろうか。
 その疑問を察したように、ヴィンセントが言う。
「今のタークスではない。恐らく、ツォンより数世代前の連中だな。今時、モールス信号など使うまい」
「と言うと……」
「おまえより少し歳上だろうな。今頃五十代かそこらだ。タークスは引退が早い、おまえの知らない人間ということもあり得る」
「お手上げですね」
「この話は今しても仕方がない。――見ろ、最初の指示が出るぞ」
 同時に、ツー、ツー、と電子音が鳴り、今まで沈黙を守っていたパネルに文字が流れてきた。
「……『Love letter』?」
 荒いドットを組み合わせた文字は、確かにそう読めた。ふん、とヴィンセントが鼻で笑う。
「あれはどうやら恋文だったようだな」
「あの脅迫状が、ですか?」
「悪趣味にもほどがあるな。始めるぞ」
 言うが早いか、ヴィンセントの指が凄まじいスピードで打鍵を叩き始めた。長短の組み合わせによる単純なコードが、例の文面を忠実に再現する。最後の長点を打ち込むと、再び電子音が鳴る。
 息を詰めたリーブが見守る中、ヴィンセントは止まらなかった。すぐさまタッチペンを取り上げ、一瞬の逡巡もなく一筆書きを完成させる。そのペンをリーブに差し出して、記念に取っておけと冗談さえ飛ばしてみせた。つい受け取ってしまったちゃちな棒を弄びながら、リーブはヴィンセントの言葉を反芻する。
 ——ずいぶんと見くびられたものだな。
 ヴィンセントによれば、これはタークスとして採用されるためにクリアすべき試験問題の典型だ。確かに、タークス・オブ・タークスと呼ばれた男に解かせるには稚拙に過ぎるだろう。
「……?」
 そこで、新たな疑問が首を擡げる。あの脅迫状の送り主は、リーブを狙っているのではなかったか。犯人がこの仕掛けを用意したのは偶然か、己の正体を仄めかすためか、それともヴィンセントの存在を素性まで含めて知っているということなのだろうか。彼がリーブのパートナーであるということ、リーブが危険に晒されれば間違いなく姿を現すだろうと、そこまで知っているというのか。
 背筋を冷たいものが駆け抜ける。自分ひとりが狙われているのならまだ話は単純だ、しかし今回はそう単純な図式ではないような気がした。
 思考に沈み込むリーブを、ぱちん、と弾けるような音が引き戻す。はっと焦点を合わせた視界に、ワイヤーケーブルを切断し終えたヴィンセントが手招きをしていた。
「終わった」
「えっ、もうですか」
 示されたデジタル時計は、残り十一分八秒で停止している。その横の文字パネルの方には、「Congrats!!」と脱力するようなメッセージが点滅していた。
「『おめでとう』ですか……」
「つくづく見くびられたな。馬鹿馬鹿しい」
「これで解除完了、ですね」
「ああ」
 ふう、と長い息を吐いたリーブの向かいで、ヴィンセントが上体を伏せた。ぐんと猫のように伸びをするその手を取って、リーブは唇を落とす。グローブ越しだが文句は言えない。
「ありがとうございます、ヴィンセント。あなたのおかげでみんな無事でした」
「結果的にな。もっと警備体制がまともなら、そもそもこんなものは置かれてはいまいが」
「いいじゃないですか、終わったことです」
「おまえはそういうところが甘い」
 手の中でもぞもぞと動く指を捕らえる。もう少しこの雰囲気に浸っていたかったが、そういえば当の警備スタッフたちは今頃生きた心地もせず待っているはずだ。彼らに解除を知らせなくてはならない。
「スタッフの皆さんに報告したら、帰っちゃいましょうか」
「いいのか」
「ええ、義理なら充分果たしましたよ。僕も、あなたも」
 そう言うと、机にへばりついたままのヴィンセントは笑ったようだった。遠慮がちなノックがふたりを呼ぶまで、リーブはヴィンセントの手を離さなかった。

第二章 獣の咆哮