待ち合わせ

 夕暮れが赤く染める通りを歩くティファは上機嫌だった。秋の市場は楽しい。盛りの茸は香り高く、まるまると太った根菜は身が詰まってずっしりと重い。柔らかそうな子羊のヒレ肉は豪気にキログラム買いして、ぴかぴか光る林檎は子供たちのおやつに。ぱんぱんの買い物袋を両肩に提げ、紙袋を両手に抱えて、意気揚々と帰路に着く。うっかり漏れた鼻歌を慌てて呑み込んで、誰か聞いてなかったかしらと辺りを見渡した。
「……あら、リーブさん」
「ああ、ティファさん、こんにちは」
 いやもうこんばんはですかね、とにっこり笑う、見るからに人の良さそうな男。広場の噴水の縁に腰掛けて、買い物袋に埋もれそうなティファを見上げている。
「ご機嫌ですね、いい仕入れができましたか」
「ええ、おかげさまで」
 いやいや僕は何も、と言うが、ティファは彼の尽力を知っている。かつては標的のひとりですらあった男は、今はこの世界の建て直しに奔走している。ティファがこうして満足のいく買い物ができるのも、彼と彼の組織あってのことだ。
 柔和な微笑みを絶やさないリーブは、今日は少しおしゃれをしているようだ。落ち着いたブラウンのセットアップに、艶々に磨かれたウィングチップのドレスシューズ。襟元はネクタイなしで、薄手の黒いセーターをシャツに重ねている。
「デート?」
「ははは、いやいや」
 顔の前で手を振る顔に、わずかに照れ臭そうな色が走る。デートだわ、間違いないわ、と内心確信するティファの後ろで、そうだねとくすくす笑う彼女の声が聞こえた気がした。
 日が落ちると冷えますね、と言いながらリーブが背筋を伸ばした。その拍子にスラックスの裾から覗いたものを見て、ティファは思わず相好を崩す。
「かわいい靴下」
 黒地に、カラフルな猫の模様だ。ケット・シーのことといい、この男は相当な猫好きらしい。いいでしょう、お気に入りなんですと髭に囲まれた唇を綻ばせる。
「ごめんなさい、そろそろ行かなきゃ」
「ああこちらこそ引き留めてすみません。荷物持ち、できたらよかったんですが」
「気にしないで、待ち合わせでしょう?」
 紙袋をよいしょと抱え直して、ティファは指先をひらひらと動かした。いつでも呑みに来てね、と本心から言えば、もちろん、ぜひ、と誠実に笑った。

 ザンガン流で鍛えた腕が、この程度の荷物でヘタれるはずがない。荷物の重さと格闘はなんの関係もないのだが、無事に食材を運び終えたティファはキッチンに入って、夜の仕込みを始めた。これだけ質の良い食材が並ぶと、気分も浮き立つ。
 茸の埃を落とし終えたところで、店の裏に重い排気音が止まった。どどどどど、と短いアイドリングの後、少し建て付けの悪い裏口の扉が開く。
「おかえり、クラウド」
「ただいま」
 チョコボ頭が顔を覗かせた。今日の配達は何事もなく終わったようだ。カウンター席に腰掛けたクラウドに、さっき淹れたコーヒーを出してやる。
「さっき、リーブさんに会ったの」
「そうか」
「なんだかオシャレしちゃって」
 靴下の柄を思い出して微笑むと、クラウドもそういえば、と口を開いた。
「ヴィンセントに会ったな。珍しい恰好だった」
「へえ、どこで?」
「ケバブ屋の横だ。広場の裏の」
 あら、とティファは顔を上げた。
「リーブさんは広場にいたの」
 ふたりで目を合わせたまま、しばし沈黙する。WROの支局があるとはいえ、エッジにリーブがいるのは考えてみれば不思議だし、ヴィンセントが珍しい恰好をしていたというのも気になる。その上、ふたりは別々に近くにいたという。
「リーブさん、誰か待ってたみたい」
「……ヴィンセントも人待ちだったな、待ち合わせの時間を過ぎたのに来ないとぼやいていた」
 これはもしかすると、ひょっとして。同時に何かを言いかけたふたりを、こちらは表口から帰ってきたマリンとデンゼルのただいまが遮った。

「で、なんであんなとこにいたのか聞きましょうか」
「広場は人が多いと言ったのはおまえだろう」
 スパークリングワインのグラス越しに睨み合う。ティファがリーブを、クラウドがヴィンセントを見かけてから、さらに一時間後。ふたりはとあるレストランのボックス席で向かい合っていた。洗練された、しかし肩肘の張らないこの店は、リーブの部下のおすすめで、味にも雰囲気にもうるさいヴィンセントも気に入っていた。
「分かりやすいところがいいと言ったのはあなたですよ、ヴィンセント」
「だからあのケバブ屋の横にすると言っただろう」
「いいえ、広場の噴水で合意しました」
「してない」
「しました」
 お互いに一歩も譲らぬ構えだ。すくっと首を伸ばすフルートグラスの中で、細かな泡が立ち昇る。乾杯だけはともかくも交わしたが、メニューも決めずに静かな言い争いは続く。ウェイターがこちらをちらりちらりと窺っているが、それよりも責任の所在を明らかにしなければふたりとも気が済まなかった。
「だいたい、あの辺にケバブ屋がいくつあると思ってるんですか」
「赤いテントのケバブ屋はあそこだけだ」
「赤いテントだなんて、昨日ひとことも聞いてませんからね」
「言った」
「言ってません」
 一往復ごとに子供染みてくるやりとりだ。ヴィンセントがこちらから視線を逸さぬまま、アミューズのフロマージュシューを口に放り込む。
「ティファさんが電話くれなかったらどうなっていたことか」
 完全にすれ違っていたふたりが合流できたのは、ひとえにティファの親切心あってのことだった。彼女も店の準備で忙しいだろうに、リーブに電話を寄越して教えてくれたのだ。
『あのねリーブさん、もしかしてヴィンセントと待ち合わせしてる?』
 はいそうです、と答えると、途端に可笑しくてたまらないという声で笑い出した彼女は、電話の向こうに、やっぱり、と言った。
『クラウドがね、ヴィンセントを見かけたんですって。まだ広場にいるわよね?』
 そこから西にワンブロック入ったところのケバブ屋の辺りに彼はいるはずだ、と聞くが早いか、リーブは立ち上がって足早に広場を抜けた。大理石に座りっ放しだったから、尻がひどく冷えていた。
「ぼんやり座ってなどいないで、探せばよかっただろう」
「それですれ違ったらどうするんです」
「私は動かん」
「僕が動かずに、あなたが動いてくれてもいいんですよ」
「すれ違ったらどうする」
 売り言葉に買い言葉、ですらない。不毛極まるやりとりに、先に折れたのはリーブだった。はあ、と溜息をひとつついて、放置したままだったメニューを手に取る。
「もういいです」
「なんだその言い草は」
「次から待ち合わせ場所は書面にしましょう」
「署名して一部ずつ持つのか」
 グラスを傾けたヴィンセントが、わずかに笑いを含んだ声で言う。ほんまにやったろか、と思いながら、リーブはむずむずする鼻を擦った。

 どさり、とベッドに倒れ込む。スプリングの効いたマットレスが、ふたりの体重を受け止めて弾んだ。
 下になったリーブは、ああジャケットがシワになるな、とぼんやり思う。デザート代わりにした貴腐ワインのとろりと甘い感触が、まだ口の中に残っていた。
 身体の上に乗り上げるヴィンセントを見上げる。その後頭部で涼やかな光を放つのは、今年の誕生日に渡したいくつもの贈り物のうちのひとつだ。
「やっぱり似合いますね」
 手を伸ばして、そのかんざしに触れる。装飾はなく、すっと通った銀の表面に抽象化された蔦のような模様が刻まれたそれは、ほんの思いつきで選んだものだったが、ヴィンセントの艶やかな黒髪を上品に彩っていた。
「なかなかいい趣味だ」
「光栄です。さっそく使って頂いて」
 重力に従ってするりと落ちる髪の感触を楽しみながら言えば、彼の鋭い眦がふっと緩んだ。その手がリーブの腹の辺りに掛かる。ニットごとシャツを掴んで引っ張り出そうとする動きに、リーブは苦笑して上半身を起こした。
「ヴィンセント、先に風呂です」
 わざとらしく小首を傾げるのが、可愛くて憎らしい。中身は自分よりももっと歳上の、もう壮年と言って差し支えない男のはずなのに、こうしてふたりで身を寄せているときは外見相応の歳よりもさらにあどけない顔をするものだからたまらない――当然、大いに戦略含みだということさえ、分かってはいても。
 押さえつけてもまだもぞもぞと動く指に自分の指を絡める。その瞬間、くしゅんとくしゃみが出た。
「失礼」
「風邪か?」
「いや、そういうわけでは……っくし」
 原因は間違いなく夕暮れの待ちぼうけだろう。吹きっ晒しになっていたのはヴィンセントも同じはずなのだが、彼は平気な顔をしている。まさか、これが「歳の差」というやつなのか。いやいや、こちらは事務屋、あちらは戦闘員、もともとの体力からして違うのだ。仕方がない。
 鼻腔の入口をくすぐられるような感覚に顔を歪めるリーブを見て、ヴィンセントは呆気なくベッドを降りた。そのままバスルームに向かって行く。リーブも起き上がって浴室を覗くと、水が勢いよく流れ出す音が始まった。
「ありがとうございます」
「風邪をうつされたらかなわんからな」
「風邪じゃありません」
「じきに風邪になる」
「不吉な予言はやめてください」
 そう言われると、背筋に寒気が走るような気がしてくる。バスタブに湯が満ち始め、暖かな湿気が漂った。身体が冷えていることは認めなくてはならないようだ。
「おまえが先に入れ」
「いいんですか?」
 遠慮するわけではないが、たいていは先に風呂を使うヴィンセントがそう言うので聞き返す。レザージャケットを脱いだ彼はひょいと肩を竦めて、
「準備があるからな」
「ああ……」
 それはつまりそういうことだ。リーブもそういうつもりではあったのだが、流し目でそう言われると咄嗟の反応に困る。もくもくと広がる湯気に包まれて立ち尽くすリーブを尻目に、ヴィンセントは洗面台の前に立つ。右手を持ち上げてかんざしに触れ、そこでぴたりと動きを止めた。
「どうかしましたか?」
 髪が絡まってでもいるのだろうか、そうは見えないが。訝るリーブと鏡越しに目を合わせたヴィンセントは、きゅっと口角を上げて笑った。
「外してくれ」
「髪、引っ掛かりました?」
 問うのに首を振る。疑問符を浮かべたまま近づいて、滅多にお目にかかれないうなじの白さに、やられた、と思った。
「おまえがくれたものだからな、おまえが外せ」
「……ヴィンセント、」
 溢れる湯気に曇り始める鏡の中で、赤瑪瑙が愉快で仕方ないと笑っている。思わず舌打ちしそうになるのをぐっと堪えて、かんざしを抜き取った。何の抵抗もなくするりと解けた黒髪が、しなやかに首筋を隠す。
「悪ふざけが過ぎますね」
「何のことだ」
 ヴィンセントが振り返り、リーブの手からかんざしを取り上げた。その先端を唇に這わせて婉然と笑う。ああもう、と毒づいた勢いのまま、その細い顎を捕らえて唇を重ねた。体温に染まった銀の感触ごと舐め上げる。その深い紅の輝きにまんまと誑かされたことが、愚かしくも心地よかった。