tread

【tread】踏みつける、踏みにじる。タイヤや靴の跡。階段の踏み段。
※「frail」の続き。ハッピーじゃないかもしれない異界設定。

 アーロンとブラスカがやって来た。やって来た、などというほど生易しいやり方ではなく、結局はアーロンが力業で閉ざされたままの扉をぶち破って、いつぶりかも分からない陽の光とともに、ティーダが最も恐れていたものが訪れた。すなわち、「救済」の手だ。
 家中を支配する澱んだ空気に、アーロンは舌を打ちブラスカは眉を寄せた。昼日中だというのに、リビングの床に座り込んでソファの座面に頭を預けたティーダを見つけたふたりの顔は痛ましさに歪む。差し伸べられた手に怯えて身を竦めるのをどう解釈したのか、ブラスカがようやっと絞り出したひとことは「もう大丈夫だよ」だった。
 大丈夫ではない。大丈夫なものか、これで全部台無しだ。全てが露呈してしまった。ティーダの犯した罪も、ジェクトを苛む罰も、愚かなふたりがひた隠しにしようとした咎の全てが明らかにされてしまう。引きずり起こすようにして痩せた身体を抱こうとするアーロンの腕がひどく恐ろしくて、ティーダは声にならない悲鳴を上げた。
 オヤジ、と呼ぶ声が掠れている。オヤジ、オヤジ助けて、怖いよ、その涙声に、ブラスカのスリプルを唱える声が重なった。

 目を覚ますとそこは病院であるらしかった。白い天井、白い壁に白い床、白いフレームのベッドに白いシーツ。消毒薬のにおいがいやに鼻を突いて、持ち上げた腕を見るとやはり白い包帯が袖からのぞいていた。だらりと伸びているのは点滴の管だろう。
「目が覚めたかい」
 ブラスカが静かに部屋に入ってくる。ベッド横にちゃちな椅子を置いて、そっと腰掛けた。この男は滅多に物音を立てない。じっと見つめてくる視線に責められているようで、ティーダは反対の方に視線を飛ばした。
「……傷は手当てさせてもらったよ。点滴はただの栄養剤だ」
「……」
「どこか痛むところはあるかな」
 低いが威圧感のない柔らかな声だ。ティーダを問い詰めたくて仕方がないだろうに、そう気取られないよう努めているのが分かる。ティーダは無言で首を振った。
 本当は、ずっと痛い。けれど、その痛みは薬でも魔法でも取り除けない。軋るように走る痛みが心臓を押し潰すように感じて、けれどそれはただの錯覚だと知っている。痛むのは身体や臓器ではない。心が痛い、だなんて陳腐にもほどがある台詞を吐いたところで、ブラスカを困らせるだけだろう。第一、この男こそが痛みの元凶なのだ――それが単なる八つ当たりだと、気づいてはいるけれど。
「ティーダ」
 ブラスカが名前を呼ぶ。ずっと呼ばれたかった名前。けれど、この声が欲しいんじゃない。逃げるように布団を引き上げるティーダに小さく溜息をついて、ブラスカはそっと立ち上がった。
「……すまなかった」
 落とされる言葉に、叫び出したい衝動を必死で噛み殺す。足音も立てずにブラスカは去っていった。行き所を失った叫びが、涙になって目からこぼれた。

 隠し通せるわけがなかった。そんなことははじめから分かっていた。
 アーロンもブラスカも悪くない。彼らは正しいことをした。何よりもティーダとジェクトを案じてくれるのは彼らをおいて他にはいない。自分たちの幸せを心の底から祈り、そのための助力は決して惜しまないだろう。
 けれど、とティーダは思う。硬いマットレスと無愛想な布団の間に挟まって、薄闇の中に身体を縮こませて唇を噛む。彼らの思う「しあわせ」と、自分たちにとっての「しあわせ」が一致しない時、彼らはどうするのだろう。すまなかった、と言うブラスカの声が反響する。彼らは戸惑い、途方に暮れているようだった。当然だろう。悪夢に魘される父親と、その慰みに身体を差し出す息子を見て、正しい生き方しか知らない彼らに一体どうしろというのか。
 分かっている、彼らは優しくて正しい。間違っているのは自分たちの方だ。それでも、土足で踏み込まれた、踏みにじられた、と思ってしまう己の身勝手さに反吐が出る思いだった。
 腕に刺さったままの点滴針が疎ましい。ざらりとした感触の包帯の下で、あの噛み合わない歯型もすぐに消えてしまうだろう。

 自分で思う以上に身体の方も参っていたらしい。そういえばこのところ、ろくに食事も摂っていなかった。
 やはり清く正しい医者と看護師に不摂生を懇々と諭されて、我ながらぞんざいに頷く。大丈夫です、気をつけます、ちゃんと食べます。プロのスポーツ選手だったとは思えない返事だ。
(ブリッツ、か……)
 プールの中の感覚をもう忘れてしまった。あそこが自分の居場所だと思っていたのが嘘のようだ、と思ったことに驚愕する。どうしてだろう。なぜそう思って平気でいられるのだろう。異界に来てすぐの頃、かつてのチームメイトに待ってるぜ、と言われたこともちゃんと覚えているのに、頷いた自分の姿がひどく遠い。
「……いつ退院していいんすか」
 唐突に口を開いたティーダに、一瞬面食らった医師が、体力が回復したら、と答える。そうですか、とだけ返事をして、ティーダは窓の外を見た。
 現金なものだ、たった今まで忘れていたくせに、気づいた途端に水が恋しくなっている。無意識に手を開いて、見えないボールを掴んでいた。上の空のティーダに、看護師が呆れた顔をした。

 相変わらず何くれとなく面倒を見てくれるアーロンに、ブリッツボールが欲しいと言うと心底から呆れた顔をされた。その後ろで一足先にブラスカがくすくすと笑い出している。
「入院中の身の上だと分かっているのか、おまえは」
「わーかってるって、でもおれ、べつに骨折ったわけでも手術したわけでもないしさ」
 体力回復には好きなことをするのが一番だ。そう理屈にもならないことを言うティーダを見る二人の目の奥には、安堵とほんの少しの躊躇いがある。
 病院に運び込まれて数日、点滴は外れたが退院許可はまだ降りない。暇を持て余すティーダは、まだジェクトのことを口に出さない。アーロンとブラスカが交互に出たり入ったりしているから、同じ病院のどこかにいるのだろうという気はしていた。きっとそれなりの「治療」を受けているのだろう。
 その日の午後にさっそく手に入ったボールを手で転がしながら、窓の外を眺める。少しずつ暮れてゆく黄昏時の空が、今日は燃えるように赤い。

 
 昼寝をし過ぎて、消灯時間を過ぎて日付が変わっても眠くならなかった。病棟はしんと静まり返っている。何度目かの寝返りを打ったティーダは、眠りに就くことを諦めて起き上がった。
 薄いカーテンの向こうから湿った匂いがする。雨が降り出したようだ。夕焼けが赤いと次の日は雨になると教えてくれたのは誰だったか。アーロンのような気がするが、それがジェクトだったらいいと思って苦笑した。
 ジェクトがどんな扱いを受けているのか、と考えると怖かった。どんなに控えめに言っても、ふたりの間に交わされていたのは虐待だ。アーロンもブラスカも何も言わない。きっとティーダが訊くのを待っている。
 児童虐待の罪に問われるのだろうか。アーロンたちが上手いことごまかしてくれればいいが、どうだろう。世間の明るみに出てしまえば誰もが非難するだろう行為を、違うあれはおれたちに必要だったんだ、とどれだけティーダが訴えたところで意味はない。子供の心をこんなに歪めるなんて、と心証が却って悪化するのが関の山だ。
 極力音を立てないように、ベッドを降りる。傍らに置いていたボールを手に、摺り足で部屋を出た。巡回の看護師は十分ほど前に来たばかりだから、半時間ほどは見咎められることもないだろう。
 真っ暗な廊下を、ところどころ人工的な光が照らす。非常口を示す緑、消火装置の赤、ティーダが目指す方向とは逆にナースステーションの灯りが見える。誰もいないことを確かめて、暗がりを辿って歩き出す。
 廊下の突き当たりに、非常階段があることは知っていた。重い鉄の扉をそっと閉めて、階段を昇る。眠れない夜の退屈しのぎに過ぎないが、見つかったら怒られるだろうというスリルが手持ち無沙汰を慰める。
 数階分を昇り、屋上へと続く扉に辿り着いた。駄目もとで押してはみるが、当然ながら開かない。ちぇ、と舌打ちをして、階段に腰を下ろす。

 今夜の雨は細く降っているようだ。水の跳ねる音は聞こえず、さあさあとしとやかなホワイトノイズが辺りを包んでいる。こんな雨の降る日に、海の中から空を見上げるのが好きだった。手の中のボールがくるりと回る。
 ひどく安らかな気持ちだった。痣も傷跡も消えてしまった腕で膝を抱えて、つるりと滑らかなボールを指先に弄びながら静かな雨を聴いている。自分の呼吸さえ夜の闇に調和しているようで心地よい。
(ブリッツ、してえなー……)
 ごつごつと突起の付いたボールを転がして、あの水を想う。しばらく忘れていたことが嘘のように、水が恋しかった。
 本当はずっと夢だった。ジュニアユースの頃から。プロになってから。このチームのエースはおまえだと、誰もがそう認めてくれるようになってから、ずっと、胸の内にしまっていた夢。
 他に誰もいないプールで、ゴールネットがなびいている。こぽり、と湧き立つ気泡が光を閃かせて、ティーダはたったひとりの敵に向き合う。絶対的王者、ブリッツの神の寵愛を受けた男。彼の深紅の瞳が自分を、自分だけを見据えてぎらりと輝く。ふたりは同時に笑い、そしてひとつのボールを奪い合う。己の全力を尽くして、息が尽きるまで互いを翻弄する。そんな夢だ。
(もう無理なのかな)
 この夢は諦めなくてはならないのだろうか。やっと見つけたのに、やっと出会えたのに、奇跡のように再会できたのに。越えるべき壁はたちの悪い夢魔に囚われて満身創痍、彼を引き揚げる術を持たないティーダの無力を嘲笑っている。
(アーロンたちに、話さなきゃ)
 まだ手遅れではないと信じたかった。自分たちの犯した罪が重いことは分かりながら、これで全てが終わりだなんて考えたくなかった。諦めるわけにはいかない。ジェクトを失うわけにはいかない。
 ティーダは顔を上げた。視線の先には音もなくわだかまる闇がある。この闇にジェクトが引きずりこまれるなら、引っ張り出すのが自分の務めであり、望みだった。もう逃げない。目を逸らさない。自分の手で取り戻すのだ。

 明日朝一番に話をしよう、と思った時だった。がちん、と押し殺した鉄のぶつかる音がして、ティーダははっと頭を上げる。こんなところまで見回りをするのだろうか。
 足音はティーダのそれよりも重くゆっくりだ。一段一段踏みしめるように近づいてくる誰かの気配が、少しずつ明らかになってゆく。
(どうして……)
 息を呑み身じろぎもしないティーダに、向こうも気づいたのだろう。数秒、ぴたりと止まった足音は、逡巡するようにうごめいて、それから再び昇り始める。
 啓示を待つ迷い子のように、ティーダは背筋を伸ばした。もうそこまで来ている。あと数歩で、そこの踊り場に現れる。彼が。
「……よお」
「オヤ、ジ……」
 その姿は闇に紛れて定かには見えない。ティーダを見上げて軽く片手を挙げたようだ。外では弱く風が吹いたようだ。濡れた土の匂いが強くなる。リノリウムで覆われた段を十六段、それがティーダとジェクトの今の距離だ。
 指先から滑り落ちたボールが、ぽん、ぽん、と軽い音を響かせて落ちてゆく。夜の中ではひとりでに輝くように映える白を、ジェクトの手が危うげなく受け止めた。
「何してんだ、こんなとこで」
「オヤジこそ」
「俺ぁいいんだよ、特別だからな」
 嫌という程聞いた、嫌という程反芻したその言葉に、鼻の奥がつんとする。ばーか、と絞り出すと、いつもそうしていたように鼻で笑った。
「あのよう」
「……なに」
 折り重なる影の中にジェクトは立っている。ボールが作り物のようにくるくると回転していた。何かを言い淀んだ父親は、言葉を探しあぐねて首筋をがりがりと掻く。
 いつものジェクトだ。「俺様は特別だからな」と言うのも、鷹揚に鼻で笑うのも、首筋を掻く癖も。そう思って、それから「いつもの」が異界に来てからは見えなかったことを思い出した。あの悪夢に苛まれるようになってから、ずっと。
「……悪かった、ってよ」
 ジェクトの言葉に、背筋がびくりと震える。そんな言葉は聞きたくなかった。そんな、「父親」然とした言葉は。世間の良識が求めるような謝罪は。やめろよ、と言おうとした言葉は声にならなかった。
「……言おうと思ってたんだが、やめた」
 雨の降る夜だというのに、空は不思議と真っ暗ではなかった。だから、ジェクトからはティーダが見えているだろう。凍りついたまま、ジェクトの言葉を待つティーダの姿が。
「おまえがいてよかった」
 声のもとを見る。闇はまだそこにわだかまったまま、ジェクトの姿を隠蔽している。ボールは回転を止めていた。
「おまえが、止めてくれてよかった」
 静謐に声が響く。ティーダは自分の喉がひくりと震えるのを感じた。
「……なんだよ、それ」
「……」
「そんなん勝手だよ、あんたはさ、いつだって」
 高まる声を必死に押し殺す。誰かに見つかる訳にはいかなかった。ジェクトはじっとこちらを見つめている。
「おれ、嫌だったんだ、ぜんぶ、ぜんぶ嫌だった、許せなかった」
 『ジェクトの息子』と呼ばれること。見知らぬ異世界に放り出されたこと。自分の生きたはずの世界がまやかしだと認めること。ユウナと世界を守るために、自分が消えること。ジェクトをこの手で殺めること。悪い夢に魘されること。悪夢に苛まれるジェクトを見ること。それら全てが。
「でも、一番嫌だったのは、」
 闇の底で、深紅の瞳が浮かび上がる。目を逸らさずに、全てを従容として受け容れるような静けさだ。
 その目が。その目が暗黙のうちに伝えようとする言葉が。
「あんたが、おれから離れていくこと、なんだよ……!」
 アーロンとブラスカがやって来る前からもう気づいていた。全てが露呈すれば、きっと自分はジェクトから引き離される。そうして、もう二度と戻れない。親子としても、人間としても、もうどんな関係も築き直すことは許されない。
「そんなん、おれは嫌だからな」
「……」
「おれから離れるのなんか、許さねえからな!」
 吐き出した想いに、今度はジェクトが息を呑んだ。頰を涙が伝ってゆくのが分かる。泣くな、と奥歯を強く噛んだ。泣くな。こんな泣き落としみたいな真似してたまるか。さっき決めたはずだ、ちゃんと自分の手で全てを取り戻すと。
 数瞬の沈黙の後、はあ、とジェクトが息を吐いた。また首筋を掻いて言葉を探している。俺はな、と話し始めても、まだ何かを掴みあぐねている。
「おまえを、傷つけたんだぞ」
「わかってる、よ」
「一番やっちゃいけねえやり方で、傷つけた」
「そんなん、知ってるよ」
「俺にどんな理由があろうと、だ。だからおまえは俺を許しちゃならねえ」
「知らねえよ、そんなん……!」
 もう雨音は聞こえない。湿った空気の香りも分からない。ティーダは汗にまみれた手を握りしめて、何ひとつも間違えてはならないという強迫観念に突き動かされるように、ジェクトの言葉に応えていた。
「許すとか、許さねえとか、そんなん俺の勝手だろ」
「そうもいかねえよ、分かんだろ」
「知らねえよ!」
 不意に、ジェクトが腕を動かした。手首を軽く捻って、手にしていたボールを投げる。それは過たずティーダの正面に飛び、とっさに広げた掌の上に落ちた。
「なあ、ティーダ」
 欲しかった声が、呼ばれたかった名前を呼ぶ。貪られる時にしか呼んでくれなかった名前だ。こんなに静かで、慈しむような響きを伴って呼ばれるのは、初めてだった。
「愛してる」
「……」
「……だからもう、おまえのそばにはいられねえよ」
「いやだ、」
「俺なら大丈夫だ、テメエのことくらい何とかするさ。なあティーダ、分かるだろ」
「いやだ、分かんねえ」
「ティーダ」
 聞き分けのない子供を窘めるような声に、その場で立ち上がる。すっと眇められた暗い赤の輝きから、目を逸らさずにティーダは言った。
「あんたがおれのそばにいられないって言うなら、おれだって同じだよ」
「おい、」
「うるせえ。おれだって、あんたと同じだ」
「やめろ、」
「なあ、どこにも行くなよ。ここにいてくれよ。あんたがいてくんなきゃいやだ」
 手の上で泳ぐボールを抱き込む。喘ぐように酸素を吸って、ティーダは最早声を殺さずに喚いた。
「あんたがおれを傷つけたなら償えよ、おれから離れんな、ここにいろ、どんな形でもいいからさあ」
 ぐらりと揺らいだ脚に力を入れて踏みとどまる。咄嗟に受け止めようと動いたジェクトが、やっと影から姿を現した。
 異界に来てから伸ばしっぱなしの黒褐色の髪。顔を横切る傷跡。他に見たことのない深い紅の瞳。髭に囲まれた唇が、今はぐっと引き結ばれている。
「あんたが必要なんだよ」
「ティーダ」
「おれにはあんたが必要だよ、あんたが誰でも、何でも、どんなひどいことしても、だから、」
 だから。
「……もう、どこにも行くなよ」
 クソ、と吐き捨てたジェクトが、手すりを拳で打った。がぁん、と反響する音が止まぬうちに、長い脚が数段飛ばしで階段を駆け上がる。十六段分、ふたりを隔てていた距離は瞬きの間にゼロになる。ふわりと漂った香りは、エタノールに消毒されてはいたが、確かにジェクトの纏うものだった。
「……この、クソガキが」
 逞しい腕に拘束されている。何段か下にいるはずのジェクトはティーダを見下ろすように立ち、掌で乱暴に頭を掴んでその胸に押し付ける。薄い布越しの体温に、ティーダは深く息を吸った。
「馬鹿野郎、おまえは、ほんとうに」
「……馬鹿でいいよ、」
「どうしようもねえ、クソ、ガキが意地張りやがって」
 ふたりをわずかに隔てるボールを、ジェクトの手が叩き落とした。転がって、踊り場の隅に止まる。その行く先を追うティーダを、今度こそ全身で抱き締めたジェクトは熱い息を吐いた。
「おれのせいでいいよ、なあ、どこにも行かないでよ」
「……いいんだな」
「いいも悪いもないだろ、馬鹿はあんたの方だよ」
「泣いても喚いても、もう逃がさねえからな」
「こっちのセリフだって」
 そっと顎を持ち上げられる。重なる瞬間、開いたままの目を掌で覆われた。

 乱れた呼吸をやっと整えて、ティーダは口元を拭った。いつの間にか雨は止んだらしい。風に泳ぐ雲の隙間から、下弦の月がさやかな光を零している。
「……そろそろ戻らねえとまずいだろ」
「ん、」
 頰の上で乾いた涙の跡を擦る。それを窘めるようにジェクトの指がなぞった。自分よりも少し高い体温が離れていくのが名残惜しくて、つい視線で追うと苦笑が漏れる。
「ンな物欲しそうな目ェすんなよ」
「してねえよ、クソオヤジ」
 足並みを揃えて階段を降りる。ジェクトの病室はティーダの階のひとつ上だという。転がったままのボールを拾い上げて、ことさらにのろのろと踊り場を回った。
「てかあんた、大丈夫なのかよ。その、夢は」
「あァ、まあそれなりにな。時間はかかるだろうが、たまに面白えぜ」
「は? どういうこと」
「要は精神療法をいろいろとやらされてんだよ。昨日は箱庭作らされたぜ、家だの木だの人形だの並べられて、どうぞ好きに作ってくださいってよ」
 ガキの遊びみてえで悪くねえわな、と笑う横顔を見上げる。虚勢を張っているきらいはあるが、それでも状態が少しずついい方向に向かっているのは確かなようだ。
「箱庭って、悪趣味だよな」
「まあな。でも立派な療法なんだとよ」
「他にはどんなことすんの」
「そうだなあ、いろいろあるぜ。思いつく単語をどんどん連想させてくとか、踊らされるとか」
「……踊んのかよ、あんたが」
「ジェクト様を舐めてもらっちゃ困る」
 わざとらしく片目を瞑る男の肩を、拳でどつく。いつの間にかジェクトの病室の階まで来ていた。
「……おれ、いっこおすすめのやつあるよ」
「お、おぼっちゃまにそんな素養があるたあ意外だな」
「うるせえなっ」
 ローキックで脛を狙って――避けられたが――、ジェクトを見上げる。やはりまだやつれたままの頰が、それでも緩く笑んでティーダの言葉を待っている。
「ブリッツ」
「あ?」
「ブリッツで勝負、が一番効くんじゃねえの? おれらにはさ」
 その顔の前で、人差し指に乗せたボールを回転させる。呆気に取られた顔をしたジェクトは、すぐににやりと破顔した。
「いーい度胸だ、このジェクト様に宣戦布告とはな」
「言ってろよ、今のあんたなら一瞬で叩きのめしてやるから」
「クソガキ、目にもの見せてやるぜ」
 ジェクトが背を預ける扉の向こうから、誰かいるんですか、と中年女性の声がした。やべえ、看護師だ、と青くなるジェクトを見捨てて、ティーダはひらりと階段を駆け下りる。ずりいぞ、と言うのに、わざとらしくあっかんべーを送って、少年は息を殺して笑った。