frail

【frail】か弱い。脆い、壊れやすい。儚い、意志の弱い。
※ハッピーじゃないかもしれない異界設定


 よろめくようにシャワーブースに入る。実際のところ、全身の骨が砕けそうに痛んでいた。壁に縋り付くようにしていても膝が震える。まるで力のこもらない太腿ががくんと落ちて、ティーダは冷えたタイルの上に尻もちをついた。びたん、と間抜けな音、それから尾骶骨を突き上げる痛みに、漏れた息は笑いになり損ねてぐしゃりと崩れる。
 胎内からどろりと零れる生温い液体の感触に、自分が酷く打ちのめされていることに気づいた。これが初めてでもないくせに、とまた自嘲しようとして、今度こそしゃくり上げた。夜の底で世界から隔絶されたティーダは、寄る辺なく膝を抱えた。

 異界にやってきた頃、毎夜魘されるのはティーダで、悲鳴を上げて飛び起きる度に宥めてくれるのは他でもないジェクトの掌だった。
 もう大丈夫だ、頑張ったな、ここには恐ろしいものなど何もないと背をさする体温にやっと安堵の息を吐いて、疲れ果てて夢も見ない眠りに落ちるまでジェクトは隣にいた。意識が夜に呑まれる瞬間、額にかさついたものが触れて、ごめんな、と呟く。
 謝って欲しくなどなかった。謝るつもりもなかった。ブラスカが遺し、アーロンが繋いだ道はこのひとつだけで、ジェクトにもティーダにも他の方法など結局見つけられなかったのだから。自分たちは立派に務めを果たした、ユウナやワッカたちも。死の螺旋は断ち切られ、世界は守られた。祈り子たちの夢の終わりと引き換えに――すなわち、夢の産物であるジェクトとティーダの消滅を以て、全てが終わったのだ。
 だから、この異界で揃って目を覚ました時は何かの間違いではないかとふたりで目を回した。ブラスカとアーロンが言葉を尽くしてやっと、これでよかったのだと納得できた。十年待ち続けたブラスカは、かつてスフィアで見たそれに比べて張り詰めたもののない笑みを絶やさなかったし、背負い続けた重荷をやっと下ろしたアーロンは眉間の皺こそ健在でも、やはり穏やかな雰囲気を纏うようになっていた。
 きっと上手く行くと思っていた。一度はしくじった親子の関係を、今度こそやり直せると。母はついに見つからなかったけれど、ぎこちないながらも始まった父子の生活はやがてひとりでに回り始め、ティーダが悪夢に怯える夜も減っていった。
 けれど、訪れる悪夢は海に沈んでしまったわけではなかった。寄生する先を変えた夢魔は、ふたりを嘲笑うようにジェクトを侵し始めた。

 本当は、ジェクトもずっと魘されていたのかもしれない。だから毎夜、荒い息と冷たい汗に震えるティーダのもとに駆けつけることができたのかもしれない。ティーダが目を醒まさなければ、ジェクトは夜明けが来るまでひとりで闇に耐えていたのかもしれない。
 ある夜、うつらうつらの微睡みに抱かれるティーダは、何かを叩き落とす音で我に返った。隣の部屋――ジェクトの寝室からだ。寝惚けてベッドサイドの時計でも薙ぎ倒したのだろうか、と訝るうちに、獣じみた低い唸りが聞こえてきた。ただごとではない、体調でも悪くしたのだろうか。
 オヤジどうしたんだよ、と隣室の扉を開けて、ティーダは息を呑んだ。ジェクトが床に座り込んで頭を抱えている、キングと呼ばれた男のそんな姿を見るのは初めてで、脚が竦む。オヤジ、と漏れた蚊の鳴くような声が彼に届くとは思えなかったが、ひどく緩慢な動きで男が首を上げた。
 その後のことは上手く説明出来ない。ただひたすらに呼ばれる名前が自分のものだったことだけを、かろうじて覚えている。縋りつく手に身体中を蹂躙されて、引き裂かれた。泣き喚いたのは貫かれるティーダではなく、陵辱するジェクトだった。

 ゆるしてくれ、とジェクトは繰り返した。ゆるしてくれ、すまない、こんなことをしたいんじゃない。俺はこんなことをするために覚悟を決めたんじゃない。ゆるしてくれ、もうやめてくれ。俺を止めてくれ。ティーダ。頼むから俺を止めてくれ。ティーダ。ティーダ。俺が俺でなくなってしまう。ティーダ、どうかその前に、お前の手で。ティーダ。ゆるしてくれ。他にどうしようもねえんだ、俺にはもう分からねえんだ、お前の手を汚す他に終わらせ方が見つからねえんだ。ゆるしてくれティーダ。ティーダ。

 ジェクトを苛む幻覚が、彼が『シン』であった時の断片であることを悟った。制御を失った災厄となって、ひとの命を、営みを紙クズのように踏みにじり無に帰す、あの瞬間を繰り返しているのだ。そして、それをティーダの手で終わらせるよう強いたことを。
 彼の胸に突き立てた刃から伝わる感触を忘れられずにいるティーダを、ジェクトは貪った。痛みを分かち合う方法を知らないティーダは、ただ身体を投げ出すしかなかった。繰り返し責め立てる悪い夢に、彼を独りで置き去りにすることはできなかった。自分を救い上げるのと引き換えに、ジェクトが底知れぬ闇に囚われてしまったような気さえしていた。
 少年は眠りを放棄した。王の悲鳴が聞こえるか、あるいは朝が世界を更新するまで膝を抱えて待ち続け、癒しようのない苦痛に嗚咽する獣にその身を捧げた。他にどうしようもないのは同じだった。日に日に顔色を悪くさせ痩せていくティーダを、アーロンは問い詰めようとしたし、ブラスカは憂わしい目で見た。それら全てに気づかないふりをして、家の扉を固く閉ざす。これ以外にやりようがないのだから。

 ずるずると這い上がってシャワーのコックを捻る。吐き出される人工の雨は冷たいままだったが、それが心地よかった。
 姿見に映った身体には無数の鬱血痕と歯型が刻まれている。首筋に残るそれが消えるまで、アーロンたちには会えない。全てが露呈したら彼らはどうするだろう、きっとティーダをジェクトから引き離す。そうなればジェクトはこの悪夢に呑まれて壊れてしまう。彼が血の繋がった父親だとか、唯一の肉親だとか、愛憎のうちに憧れた王だとか、そんなことは最早どうでもよかった。ジェクトを二度と喪いたくなかった、そのために壊れるのが自分ならそれでよかった。それだけだった。
 降り注ぐ水が渦を描いて排水溝に流れ込む。ティーダは腕に焼き付けられた牙の痕に唇を這わせる。静かに喰い込んだ自分の歯型がジェクトのそれとまるで噛み合わないことに、滑稽な涙が出た。