dark

【dark】暗がり。暗闇。
※カオスティーダとコスモスジェクト

 秩序にも混沌にも興味はない。いずれ全てが無に帰すべきものだ。世界は生まれ、育ち、熟れきって世界自身が己に惓む。膨張し爛熟し、代謝が停止した瞬間が世界の終焉だ。「彼女」はそうなった世界に慈悲の引導を渡し、新たな世界の創造のために全てを無の更地に戻すために存在していた。
 だから、秩序と混沌の闘争の行く末など、知ったことではなかった。彼らは揃って世界の均衡を奪い合っているようだが、「彼女」からすれば彼らの存在こそが均衡を崩す分銅に他ならない。神を名乗る存在はいつでも愚かだ。
 どうやら自分は混沌の陣営に呼ばれたようだが、従ってやる義理はない。「彼女」に何かを命ずることは、氾濫する濁流や噴出する火砕流に止まれと命ずることに等しいというのに、未だにそれに気付かないものばかりで興醒めだ。
 その時も、「彼女」はあるひずみの様子を眺めていた。すらりと伸びる脚を優雅に組み、空に座して見えるものを見る。
「……また見物ですか、暗闇の雲」
 虚空から滲み出すように魔女が姿を現した。ふわりと舞う黒い羽根を片方の触手が払い除ける。
「面白いものでも見つかりましたか」
「ああ、悪くはないな」
 横に並んだアルティミシアが、「彼女」の視線を追って眼下を見下ろした。あら、と小さく感嘆の声を漏らす。
「あなたはあの子にご執心なのかしら」
 揶揄するように問われて、暗闇の雲はふんと笑った。こいつもやはり分かっていない。執心など馬鹿げている。
「興味深いことは確かだ」
「そうですか」
 妖魔は脚を組み替えて再び下界を見下ろした。金髪の少年と、その父親とが刃を交えている。

 暗闇の雲にとって、この闘争は初めてではなかった。確か三回目か四回目だ。今回は長く保っているようだな、と言っていたのはガーランドだったか。繰り返される闘いと結末に、些か飽いていたところだった。
 この闘争が幕を上げた時、見慣れない姿があることに気がついた。マグマ溜まりのような混沌の陣には似つかわしくない、金髪を跳ねさせた子供だ。
 カオスを名乗る神とやらの手が、今回は彼を選んだのだろう。地に座り込んで茫洋と辺りを眺める少年の姿が、水中の気泡のように揺れて、暗闇の雲はふと興を惹かれた。
 終わりを知らぬ闘争の輪廻に、この子供がどのような意味を持つというのか。

 流れる水を凝らせたような刃が疾る。重さなどないように閃いたそれが、相対する男の胸を貫き、迸る鮮血と共に背に抜けた。
 アルティミシアが、馬鹿馬鹿しいこと、と嗤う傍らで、暗闇の雲はわずかに身を乗り出していた。あの秩序の戦士が、自ら刃を受けたように見えたのは間違いではあるまい。
 刺し貫かれた巨軀がぐらりと揺らぐ。少年は柄から手を離し、一歩後ずさった。何か言葉を交わしているようだが、ここまでは届かない。
 男の手が少年の頰に伸びる。血の滴を垂らす人差し指がひくりと震えて、子供に触れる瞬間、魔女がその身を翻した。
「くだらない」
 ではまた、と言い残して、黒い翼が時空の狭間に消える。それを見送ることもなく、妖魔は眼下の光景をじっと見つめていた。
 倒れ臥す身体が光の粒子となって散ってゆく。細胞ひとつひとつが崩れてゆくような煌めきの乱舞。地に広がる赤い水たまりさえも残さず、全てが消える。立ち尽くす少年の背は、微かに震えているようだった。

 音もなく降り立った暗闇の雲は、緩慢な動きで剣を拾い上げる子供の姿をとっくりと眺めた。これが哀しみというものなのだろうか。
「……何故嘆く」
 甘やかに重い声に、少年の頭がぴくりと動いた。だらりと落とした手にぶら下げた水の剣。その刀身に浮かぶ水泡が音もなく消える。
「おまえは討ち払うべきものを討った、何故嘆く」
 アイツはおれの獲物だ、手を出したら容赦しねえからな、そう言っていた子供の青い目が、今は見えない。陽の光を束ねたような金の髪から覗くまだ丸みを帯びた頰に、ひと筋の血痕が残っていることが不思議だった。
「おまえは望みを叶えたのではなかったか」
「……うるせえよ」
 恫喝というよりも怯えるような声を絞り出す。自分に怯えているのだとは思えない。
「思い出したんだ」
「何を」
「これが初めてじゃないんだよな」
 その言葉に、暗闇の雲は目を眇めた。浄化を経た駒の、この世界における記憶は戻らない。何かを思い出したというのなら、それは元いた世界の記憶だ。
 はっ、と息が弾ける音がした。それが少年の笑い声だと気づくまで少し時間がかかった。
「何度繰り返せばいいんだろうな」
 がりがりと音を立てて、銛のような切っ先が地を抉る。突き立てた剣に凭れるように膝をついた子供は、開いた掌を見つめた。
「何回殺せばいいんだろうな」
 暗闇の雲は答えを持たないし、少年も回答を求めているわけではなかった。輪廻の車輪は、闘争それ自体を動力として廻り続ける。回転を止める手立てには、興味がない。
「ぜんぶ、終わったと思ってたのに。ぜんぶ——夢だったはずなのに」
 夢。そうだ。この少年が、そしてその父親が、夢想の化身であるということを、暗闇の雲は知っていた。自分が魔物でも神でもない、世界の理の化身であるように、彼らはヒトではなく、実体を得てしまった哀れな幻だった。
 少年が額を地につけた。祈るべき神を持たず、縋るべき救済を自ら拒絶する子供の姿が、まるで地に沈む太陽のように見えて、暗闇の雲は微笑した。
 太陽は昇り、遍く世界を照らし出す。降り注ぐ日差しで生けるものを寿ぎ、彼らに恵みの糧を与える。生命のうつくしきを象徴するもの。しかし、巡り来たる夜に抗う力を持たぬ、弱きもの。
 落日は避けられない。いかな烈日であろうと、いずれは闇に包まれるのだ。それが理であるのなら、黄昏に安息を求めることに善悪の是非はない。
「……しばし眠るがよい」
 両のかいなを広げ、蹲る少年を覆うように抱いた。拡散する闇が光の子供を抱擁する。彼は泣かなかった。瞼を閉ざした夢は、その眠りに何を描くのだろうか。