bait

【bait】釣り針や罠にかける餌。おとり。[rise to the ―]挑発に乗る。
※ハッピー異界設定

 スタジアムは光と歓声に満たされていた。観客席を埋め尽くす人の群れ。誰かが吹き鳴らした口笛が連鎖して、鳥の渡りのようにアリーナ席からスタンド席へと上昇してゆく。今日この夜の温度を沸点まで上げてくれたファイターたちに捧げられる賛辞は、試合が終わっても勝手に熱を高めていた。
 興奮しきったレポーターの声がハウリングを起こしそうだ。目も眩むストロボライトがブリッツプールに乱反射する。鼓膜から侵入して頭蓋骨の中で飛び回る喝采に酩酊して、ステージに上がるティーダは五センチだけ浮いているような錯覚に陥った。
「本日のヒーローは間違いなくこの人でしょう、ティーダ!」
 呼ばれる名前が自分のものではないような気がする。レポーターに掴まれた腕をぐんと振り上げて、絶頂に達した観客たちの、耳をつんざかんばかりの絶叫を頭から浴びた。

 今日のお立ち台はティーダのものらしい。まあ、当然だ。ジェクト様の息子なのだからそれくらいやってもらわなくては困る。自宅のソファにどっかりと座り込み、長い脚を鷹揚に組んでジェクトはモニターの中のティーダを見る。右手に持ったビールの缶がぱこんと音を立てた。
『ティーダ、今日のプレーも最高だったよ。絶好調だったね』
『チームの調子が良かったっす、おかげで思い切ってプレーできました』
『強豪、ベベル・ベルズを相手にハットトリックを決めてやった気分はどう?』
『そりゃもうサイコーっす!』
 テレビ越しでも聞こえる客の歓声に、ブーイングが混ざるのは相手チームのサポーターだろう。こんな小僧に三点も入れられたテメエのチームを恨めというものだ。
 モニターにティーダの顔が大写しになる。髪からは水を滴らせて、頰は紅潮し、凪の海を閉じ込めた瞳は輝いていた。晴れ晴れしい顔つきのお手本のようだ。無理もない、これでティーダのチームは決勝戦に進出だ。それはつまり。
『さあ今週末、土曜の夜はついにトーナメント決勝戦。対するチームはザナルカンド・エイブス! ティーダ、ついに親父さんとの直接対決だね?』
『相手が誰でもカンケーねえ、って言いたいとこだけど』
 そこまで言ったティーダは苦笑して、それから向けられたマイクを掴んでカメラに向き直った。目の前にジェクトがいるかのように眦に力がこもる。
『オヤジ! 今度こそはブッ潰してやるからな、覚悟しとけよ‼︎』
 限界を超えて盛り上がる拍手と喝采が音割れを起こした。ジェクトはソファに背を凭れたまま、ふん、と笑って、カラになったビールの缶を握り潰した。

 全てが終わってやってきた異界は、スピラと夢のザナルカンドを混ぜっぱなしにしたような姿をしていた。十年待っていたブラスカは妻と共に――遺してきた娘と、犠牲にしてしまったガードたちのことを深く案じながらも――穏やかな暮らしを送っており、突然の平穏に戸惑うジェクトたちのよき先達となった。
 ジェクトとティーダは昔住んでいたようなボートハウスに、アーロンもほど近いアパートメントに居を定めた。ジェクトの妻を探したが、どうやら数年前に早々に転生してしまったらしい。待ちきれなかったのだろう。そのことに落胆と寂寥と罪悪感を覚えたものの、済んでしまったことは仕方がない。ジェクトは頭を切り替えて、息子との生活をチューニングすることに集中した。
 紆余曲折という言葉では済まないくらいの衝突といくらかの涙と一度の抱擁を経て、親子はようやっとふたりの暮らしの形を見出した。そうして、キングとエースの「復活」を手ぐすね引いて待っていたブリッツチームとの交渉の末、それぞれ別のチームと契約を交わした。ジェクトは古巣と、ティーダは若く勢いのある新興チームと。
 おまえもエイブスでいいじゃないか、と言ったアーロンに、分かってないっすねとティーダが首を振った。ジェクトも分かってねえなあと笑って、ブラスカまで揶揄うものだから、アーロンはしかめ面をさらにしかめていた。
「同じチームだとオヤジを叩きのめせないだろ」
「あァ? 何か聞こえたなあ、蚊でも飛んでんのか?」
「てっめぇ、そのうち吠え面かかせてやっかんな!」
「俺が引退するまでに間に合うかァ? なあブラスカ、どうよ」
「ふふっ、コメントは控えさせてもらうよ」
「ふざけんな、次のシーズン開幕した瞬間に潰してやる!」
 と立ち上がったティーダがジェクトに指を突きつけた、その直後のシーズンは息子のチームに故障者が続発し、対決は持ち越しとなっていた。
 しかしよくもまあ、一年でここまで持ってきたものだ。ジェクトは内心感嘆する。本人はチームの団結を何よりも先に強調するが、そのかすがいとなったのは、贔屓目を抜きにしてもやはりティーダだ。彼はエースプレイヤーで、立派なリーダーだった。

 翌日、朝というには少し遅い時間にジェクトが目を覚ますと、ティーダがリビングで雑誌をめくっていた。日課のロードワークはもう済ませたらしく、髪が半乾きだ。
「おはよ」
「おう」
「メシいる?」
「あー、昼でいい」
 親子の会話は簡潔だ。ジェクトにとって少し意外だったのは、ティーダがそこまで口数の多い方ではないということだった。アーロンやブラスカがいればよく喋るが、よくよく観察すれば彼が一方的に話しているわけではないと分かる。この温度感がジェクトには心地よかった。
 シャワーを浴びて戻ると、ティーダはデッキに出ていた。胡座をかいた足の間にボールを転がして海を見ている。水を呷るジェクトからは背中しか見えない。顎を少し上げて、水平線を辿るようなその後ろ姿が、ジェクトの胸をつきんと刺す。
 十年。シンとなって災厄を押さえ込んだり、逆に押さえ込まれて暴れ回ったりしている間、いつだって思い出すのはティーダのことだった。ブリッツボールと同じくらいの大きさの赤子、ふにゃふにゃの手足で這いずる様子、やっとつかまり立ちした不安定さ、初めて海に浸けた時にこいつは笑ったっけ。歩くようになって走るようになって喋るようになって、つつかれて怒って、揶揄われて泣いて、そのうち近くに寄らなくなった。おとうさんとも呼ばれなくなって、言葉を交わす時は丸い目で睨みつけられた。こうやってひとりで海を見る姿を覚えている。
 大切だとか、愛しているとか、そういう言葉では説明しきれない想いがある。可愛い息子、その息子に自分を殺させた親が一体何を言えるだろう。こうして共に生活出来るだけで奇跡のようだというのに。
 ジェクトはティーダの脇に立った。ぼんやりしていた青い目が焦点を合わせる。その手からボールを取り上げて、ジェクトは海に向かって顎をしゃくった。
「付き合えよ」

 ワントゥワンを提案するジェクトに、ティーダはあんたメシも食ってないし、昨日酒呑んでたんだろ? と渋ったが、そんぐらいでちょうどいいハンデだろ、と挑発してやればあっさり乗って立ち上がった。
 先に飛び込んだジェクトを追って、ティーダも海に沈み込んだ。まだ完成しきっていない身体はしなやかな筋肉に覆われ、軽やかに水を味方につける。これでやっと息ができるとでも言うようにくるりと一回転し、まっすぐにジェクトを見据えた、その目に。
 おまえが先手でいいとボールを放ってやれば、唇を動かして、ブッ潰す、と宣言する、その目に。
(――サイコーだな)
 弾けるように突進するティーダの進路に切り込む。パワーなら自分の方が上、スピードとクイックネスはティーダが半歩前に出る。その差を埋めるのは経験と動物的な直感、ジェクトを王たらしめる能力の全てを解放するつもりだった。
 ティーダがボールを抱え込んで身を捩る。左、と腕を伸ばした瞬間、金色が水を蹴って下に滑り込んだ。咄嗟に蹴り上げた脚は届かない。背後に倒れるように回転して食い下がる。ふわりと泳ぐフードを掴んで力任せに引き寄せた。がぼ、と口から泡を吐いたティーダの肘がジェクトのこめかみを狙う。水の抵抗をものともしない鋭さに笑みがこぼれた。

 挑発したのはどちらだったか。カメラの前のパフォーマンスも、ありきたりな揶揄いも、本当は二人には必要ないものだ。
 そんなものがなくても自分たちはこうして対峙する。満員のスタジアムではなく、崩壊した夢の終わりでもなく、誰もいない二人だけの海で。ティーダはいつかジェクトを超えるために、ジェクトはいつかティーダに超えられるために。

(まあ、今じゃねえがな)
 まだだ。まだ終わらせるわけにはいかない。ジェクトは王で、頑是ない子供だった。楽しい時間があっという間だと知っているから、どんな手を使ってでも引き延ばす。失った十年を取り戻すだけでは到底足りないこの熱を、他でもないティーダと分かち合うための時間を。
 拘束を振りほどいたティーダがボールを抱え直し、ジェクトを見た。海から汲み上げた青は、波の下でも呑まれずに獣じみて輝く。その目に映る己が、やはり獣のように歯を剥いて笑ったのが見えた。
 音にならない息子の声が、クソオヤジ、と呼んだのが確かに聞こえた。