あのゴールから十日後、アーロンはチームの訓練所の廊下をぐったりと歩いていた。顔が筋肉痛を通り越して痙攣寸前だ。
史上最大の番狂わせがラストを飾ったツアーのあと、チームブラスカは一躍有名チームとしてメディアの集中砲火を浴びていた。何しろツアー総合優勝と準優勝を同時に擁するチームなど、ここ三十年近く存在しなかったのだ。しかもその二選手がオーラスでデッドヒートを繰り広げ、あまつさえ手に手を取ってゴールラインを切ったと来れば、ジェクトとアーロンのコンビが「伝説」と呼ばれるようになったのも無理はなかった。
新聞や雑誌の取材は、ブラスカが上手いこと捌いてくれている。彼は外面がいい——人当たりが柔らかく目端が利くため、連日の取材攻勢を卒なくやり過ごしていた。それでも監督だけでは気が済まないというメディアも多いため、こうしてジェクトやアーロンが顔を出さなくてはならないことも少なくない。
ジェクトはいいのだ。何しろ「王様」であるゆえにそもそも取材というものに慣れているし、インタビュアーのあしらい方も分かっている。心地よくない質問やプライベートに踏み込むような探りが入っても、彼らしい尊大さで話を明後日の方向に飛ばすのもお手のものだった。
しかしアーロンはといえば、そうしたメディア向けサービスにまったく慣れていない。ハイスクールを卒業してからはブラスカの奥方の助手をパートタイムで勤めつつ——といってもほとんど名目上の「仕事」でしかなかったが——、ひたすら自転車を漕いできた若造でしかないのだ。気の利いたジョークが言えるわけでもなく、際どい質問を受け流せるわけでもなく、取材後にリリースされる記事では毎度判を押したように「実直」「素朴」と書かれていた。
あと一か月半もすれば、個人タイムトライアル形式では最大の大会がある。その翌月には別の選手権が控えていることもあり、いいかげん練習に専念させてくれと叫びたくなることもしばしばだった。そんなアーロンの心中を慮ってか、チームメイトたちは無駄に茶化すようなこともせず、至って平常の態度で接してくれる。それが救いだった。
椅子に座って話をしていただけだったのに妙に重い身体を引きずってロッカールームに入ると、そこは無人だった。他のメンバーはみなすでに練習を始めているのだろう。アーロンは思いっきり溜め息をついてから、自分のロッカーに手を掛けた。
ロッカーの扉に、掌ほどの付箋が貼られている。スタッフの筆跡で、ブラスカから発表があるため今から三十分後にグラウンドに集合するよう書かれていた。アーロンは几帳面な筆跡を見つめ、その付箋を剥がしてゴミ箱に捨てた。発表。ブラスカの「発表」には今まで何度となく驚かされてきたが、今日ばかりはそれはアーロンの仕事ではない。
もそもそとトレーニングウェアに着替えて、車庫から愛車を引っ張り出す。グランドツアーで散々に乗り潰した相棒は、信頼できるメカニックの手によってすっかり万全の姿を取り戻していた。乗る前に必ずそうしてきたように、今日もトップチューブを軽く叩く。
グラウンドではアーロン以外のフルメンバーが、思い思いに身体を動かしていた。その中でも目立つのはやはりジェクトだ。彼も先程着いたばかりのようで、今は隅でストレッチに余念がない。ジェクトの姿を勝手に探してしまう己の眼球に、アーロンは人知れず苦笑した。
「ジェクト」
「おうアーロン、お疲れさん」
アーロンも愛車を隅に寄せ、ストレッチに合流した。たまたま手が空いていたらしいスタッフに手伝ってもらいながら全身をほぐす。
「アーロン、めちゃくちゃ肩凝ってない? もう少し強くする?」
「ああ、頼む。取材が……」
「まだンなこと言ってんのか、いいかげん慣れろよレジェンド」
「やかましい」
「レジェンドって、ジェクトさんもレジェンドでしょうが」
「俺様は王様ジェクト様。そんないっぱい称号は要りません」
「またまた、まんざらでもないくせに」
「あ、バレてたか?」
気の置けない仲間たちの、くだらない馬鹿話。グランドツアーを経て遠慮というものを取り払ったスタッフたち、それぞれに役割を見出し自信を得たチームメイト、相変わらず傲岸不遜なジェクト。アーロンは長座体前屈で顔を隠して笑う。ここはとても居心地がいい。
「おし、ありがとな。もういいぜ」
遅れて来たアーロンに合わせてじっくり身体を整えたジェクトが、手伝いのスタッフを労ってからアーロンを手招いた。
「今日スプリントの練習多めにしようと思ってよ。おまえ付き合え」
「俺は……」
「でもジェクトさん、もう監督来ますよ」
「お、そうか。じゃあアーロンあとでな」
ほどなくしてブラスカが現れた。彼も取材のあとであるため、珍しくスーツにネクタイを締めている。整列した一同を前に、にこやかに口を開いた。
「今日はみんなにお知らせがあるんだ」
メンバーたちが一斉に身構える。その中で平然としているのは、いつもならジェクトのはずだ。しかし今日は彼も怪訝な顔を隠さなかった。
「チームの編成を見直すことにした——今日からうちはジェクトのワンエース体制。アーロンはアシストにコンバートする」
ええっ、と素っ頓狂な声を上げたのはメンバーの弟分たる最年少選手だ。彼に引っ張られるようにざわめきが広がる。
「おいアーロン、どういうことだよ」
隣に立っていたキノックが泣き出しそうな顔でアーロンを見上げた。目尻とくっつきそうなほど垂れた眉を見て、アーロンは曖昧に口角を持ち上げた。
アシストへの転向。アーロンがそれを決意したのは、グランドツアー最終日の夜だった。
バチェラーパーティーでもこうはならないと断言できるほどの乱痴気騒ぎとなった優勝記念の打ち上げ会場。スパークリングワインのマグナムボトルを振り回すジェクトやかれこれ三十分は爆笑が止まらないブラスカ(笑い上戸なのだ)、肩を組んで歌い出すキノックたちを隅から眺めながら、アーロンはぼんやりと考えていた。
——俺はもう、エースは出来ない。
少なからぬ酒でぼやける頭ではあったが、その予感は恐ろしく明瞭だった。
それから休養期間に入り、朝目が覚めるたびに同じことを思った。俺にはもう、エースは出来ない。何故、と己に問うことで理由を組み立て、「もう出来ない」という言葉は次第に「もうするべきではない」に変わった。
そうして七日間をかけて予感を決意にしたアーロンは、個人的に祝いたいと言ってくれたブラスカの妻に招かれた晩餐のあと、自らの思いをブラスカに打ち明けた。アシストに転向したい。
「そうか……」
口の上手くないアーロンの告白にそれでも根気よく耳を傾けていたブラスカは、蒸留酒のグラスを揺らして静かに息を吐いた。しばらくの沈黙が落ちる。ブラスカの奥方は何も言わず、はしゃぎ疲れて夫の膝で眠ってしまった娘を抱き上げリビングを出て行った。
「……ひとつだけ、訊いてもいいかい」
「はい」
アーロンも同じグラスを握るようにして、姿勢を正した。ブラスカは酒をひと口舐め、アーロンを見据える。
「そこが、きみの『在るべき場所』なのかな」
在るべき場所に立ちなさい。それはグランドツアー最終日に挑むアーロンへの、ブラスカの餞だった。走りなさい、そうしてきみの在るべき場所に立ちなさい。
ブラスカの問いは、今日まで数えきれぬほど己に問いかけたものだった。だから答えに迷うことはない。アーロンはブラスカの視線を受け止め、頷いた。
「そうです——そう在りたいと、思います」
ブラスカの目は透明だった。ガガゼトに清められた水のように清冽で、マカラーニャの泉のように凪いでいた。彼はいつでもこんな瞳でアーロンを確かめた。
「分かった。きみの決意を受け取ろう」
ことり、と音を立ててグラスを置く。ブラスカは双眸を瞼で隠してそっと笑んだ。それが寂しげでありながらどこか満足そうにも見えたのは、アーロンの願望だったろうか。
「アーロン、きみをアシストにコンバートする」
「……ありがとうございます」
「このチームを牽くのにきみほど相応しいメンバーもいないだろうしね。とはいえ、アシストとして正メンバーになれるかはこれからのきみ次第だ。手心は加えないよ」
「当然です」
彼は蒸留酒の瓶を持ち上げ、まずアーロンのグラスに注いだ。それから、自分のものにはそれよりも少し多めに。
「やれやれ、手塩にかけて育てたエースがドメスティークに転向とはね。……王様を引き込んだのは私のミスだったかな」
「そんな、」
ドメスティークとはアシストの異称で、もともとは「使用人」や「下僕」を意味する蔑称だった。ロードレース黎明期、初めて己の成績を犠牲にして同志を牽引した選手の行為を貶めるために使われた言葉だったが、アシストたちの働きによってロードレースが戦術的に洗練されたことは間違いない。今となってはドメスティークの呼称とは、アシストたちが自ら矜持を持って名乗るものだった。
熟練したアシストはスーパードメスティーク、あるいはルテナンと呼ばれ、すなわち軍隊組織でいう副官になぞらえられることもある。これほど豊富な異称こそが、アシストの果たす役割がいかに重要かつ画期的であったかを示していた。
「きみは『副官』に収まるような選手ではないけれど」
「監督、俺は何かを諦めたわけでは」
「分かってる、冗談さ。今だけは許してくれ」
へにゃりといささか情けなく笑み崩れたブラスカは、それきりぼやくのを止めてグラスを掲げた。アーロンも苦笑かたがたそれに応じ、話はそれで終わった。
「このコンバートは、アーロン本人の意志によるものだ。みなも知っての通り彼は優れたクロノマンだから、アシストとしても十全にいい仕事が出来るだろうね」
と言っても、今すぐにアーロンを「ルテナン」に据えるつもりはない、とブラスカは釘を刺した。
「期待はまだ期待でしかない。アーロンがアシストとして働けるかどうかは、これから冷静に見ていく必要があるからね。みなも遠慮なく『新人アシスト』を叩いてやってくれ」
本人から何か言うことはあるかい、と水を向けられたが、アーロンは首を横に振った。メンバーたちのもの言いたげな視線が突き刺さる——ことに、左前方に立つジェクトの目が痛い。
その様子をとっくりと眺めておきながら、しかしブラスカは強いてアーロンに喋らせはしなかった。こくんと軽く頷き、いつものように手をひとつ打つ。
「それじゃあ、始めてく」
れ、と言い終わる前に、ジェクトが動いた。つむじ風のような勢いで踵を返し、アーロンの腕を掴み、ついでにアーロンの右腕にへばりついていた哀れなキノックを弾き飛ばして、ロッカールームに「新人アシスト」を引きずってゆく。どうせこうなるだろうと予測していたアーロンも抗わず彼に従ったので、ふたりの後ろで取り残された面々が何を話しているのかまでは聞こえなかった。
「……監督、あれもいつもの『ジェクト劇場』です?」
「うーん、どうだろうね」
「止めなくていいんですか」
「はっはっ、あれを止めろって? 私も命は惜しいよ」
「ならなおさら……」
「さ、みんなは今日も元気にトレーニングしよう。次のタイムトライアル、チームの目標は『打倒アーロン』だよ」
「そんな無茶な」
「スタッフのみんなも仕事に戻ってね。インタビューのゲラ、まだ見なきゃいけないのあったっけ?」
「監督ぅ……」
ばしん、と激しい音を立ててロッカールームの扉が閉まる。蝶番が跳ね飛びそうな勢いに、アーロンは思わず顔を顰めた。
「おい、ジェクト」
「てめえ、どういうつもりだ」
暴力的なまでの振る舞いに反し、ジェクトの声は低く平坦だった。怒鳴るでもなく喚くでもなく、アーロンの胸倉を引っ掴んで唸るように問う。
「アシストだ? おまえ、グランドツアーで自分が何したか分かってんのか」
「ジェクト、離せ」
「おまえが俺を納得させるまで離さねえ」
「逃げないから離せ」
そう言えば、ジェクトは渋々ながらにアーロンを解放した。ツアーのあとだからと下ろした新品のウェアだったが、襟元が無惨に伸びてしまっている。
「おまえがそこまで怒る理由があるのか」
部屋の中央に置かれたベンチにアーロンが腰を下ろすと、アーロンの問いには答えぬまま、ジェクトもその向かいにどっかりと座り込んだ。両膝に肘を置く恰好の王は、上腕筋の交差する隆起も露わにアーロンを睨みつける。
「俺が先に訊いてんだ。説明しろ」
「そうしたいと思ったからだ」
「そうしたいって何だよ」
「俺は俺の意志で、」
「ふざけんじゃねえ」
ジェクトは確かに王であり、王に相応しく不遜だった。己の問いに対する端的な回答が即座に得られないことを嫌う。彼は抜き身の刃をアーロンの喉元に突きつけるような鋭さで、アーロンの言葉を断ち切った。
「ガキの遣いじゃねえんだぞ。テメエのああしたいこうしたいで決められてたまるかよ」
「ジェクト、」
「何が気に入らねえ。おまえが諦めなきゃならねえことなんか、ひとつもねえだろうが」
その言葉を受けて、アーロンは苦笑を禁じ得なかった。そうして思う。ジェクト、おまえもたいがい「仕方ない奴」じゃないか。
「——あんた、寂しいんだな」
独善的なまでに断定するアーロンの言葉に、ジェクトは虚を突かれたように目を見開いた。何かを言い募ろうとしていた口は薄く開いたまま、は、と声になり損ねた吐息を漏らす。大した間抜け面だ、とアーロンは場違いな可笑しさを覚えた。
己の限界を超えた走りのあとバーンアウトするエースの例は、枚挙に暇がなかった。アーロンより競技経験の長いジェクトは、それこそそんな選手を嫌というほど見てきたことだろう。それらのうちの何人かに対して、寂しさを包んだ憤りを覚えたこともあるはずだ。どうして自分の終着点を自分で決めてしまうのかと、自分はまだここで先頭を走り続けているのにどうして追い続けないのかと、終生のライバルになり得たはずの脱落者たちに対して、幾度も苦い痛みを噛み締めてきたのだろう。
王を責め苛むものは、この孤独に他ならない。追い落としてやろうとするライバルの殺意にすら近い敵愾心でもなく、いずれ陥落する姿を待ち望む大衆の残忍な期待でもなく、ともすれば己の衰えさえも孤独を凌駕する恐怖にはなり得ない。ただ独り、頂点に君臨し続けるその寂寞。累々と積み重なる敗者の亡骸を踏みしだき、誰とも分かち合えない視野で霞む先を見据えることを強いられる。王とはそういう生き物で、見世物だった。
その孤独を、アーロンは垣間見た。正確に言えば、そうした孤独にジェクトが苛まれ続けてきたということを感知した。あのグランドツアーで。世界をその震動で自壊させてしまいそうなほどの喧騒に満たされたエボンドームで、加速し続けるトラックの上で。
インカムを弾き飛ばして叫んだジェクトの両の瞳は、確かに歓喜していた。決死の覚悟で追い縋るナバラ=グアドなど意識の隅にさえ入れず、彼の真紅の瞳孔はアーロンだけを捉えていた。あの瞬間、ジェクトはもうすでにアーロンの手を取っていた。同じ高みに足を掛けようとしたアーロンの手を引き揚げるようにして、しかしその手はジェクトにとっては救済にも似ていたのだろう。ゴールラインを切る瞬間、指先に込められた力に縋りつかれるように感じたのは、アーロンひとりの錯覚ではなかったはずだ。
アーロンにとってはそれが無上の喜びだった。ツアーが終わり、常に比べれば自堕落でさえある七日間を過ごしながらアーロンはジェクトの指を繰り返し反芻し、そうして決意したのだ。アシストになることを。他でもない、ジェクトのアシストとして走ることを。
「あんたは王でいい。これまでも王だったし、これからも王でいればいい」
それはアーロンにとっては定理だった。ジェクトは王であり、王であり続けるべき存在だ。彼には月桂冠がよく似合う。表彰台の一番高いところと、イエロージャージと、あまり褒められた話ではないが、泡を噴き上げるスパークリングワインのマグナムボトルも。そんな栄光の代名詞たちに彩られるジェクトが見たいと思った。にぎやかな色彩と仰々しい小道具に演出されて、それでも餓えたまま輝くふたつの緋色が見たかった。
だからアーロンは決めた。かつてアーロンを口説いたブラスカの言葉を借りれば「一番近くの特等席」を得るために。そこに、誰にも恥じることなく立ち続ける権利を得るために。
そのためには、ジェクトのアシストでなくてはならなかった。エースでは駄目だ。それではジェクトと同じ峰に立つことができない。視座を共有できても、視野が重ならない。ジェクトと同じものを見るためには、彼と同じ峰でなくてはならなかった。
——ジェクト、俺があんたを独りにはしない。
突き詰めればそういう理由だ。そう言ってやるべきだったのだろう。しかしアーロンは唇を動かすのを止めた。どうしても言葉にできなかった。
「それに……あんたの前を走るのは、気分がいいからな」
明らかに何かをごまかそうとするのに、ジェクトも気づいていた。彼はすぐさま喰ってかかろうとしたが、それよりもわずかに早くアーロンは立ち上がる。
「俺があんたを牽いてやる。あんたは俺に牽かれて走ればいい。それだけだ」
「それだけって、おいアーロン!」
「先に戻るぞ。スプリントの練習がしたいならあとで付き合う」
「アーロン! 待てコラ!」
待てと言われて大人しく待つほど殊勝な性格はしていない。アーロンは速やかにロッカールームを出ると、グラウンドに向かって歩き出した。
それからの二年は、まさに蜜月だった、と思う。
もともとが安定した走りを強みとするアーロンは、ルーラーとしてめきめきと実力を伸ばした。筆頭アシストとしてのデビュー戦となった年末のビサイド島、風光明媚な小島を周回する耐久レースでジェクトを牽き、彼の栄冠に貢献する。以前からアシストを務めていたメンバーたちも平伏せざるを得ない仕事ぶりに、ブラスカが育成計画を厳しく見直したのも無理はないことだった。
翌年のグランドツアー、ガガゼトのピークをゴールとする超難関コースでは急勾配の登攀スプリントでジェクトを牽きおおせ、メディアや観客を驚愕させる。彼の働きもありジェクトがコース優勝と山岳賞を同時にものにしたが、世間の関心はコンバートから一年しか経っていないアーロンに集中した。ジェクトとのチーム内争いに負けてエースの座を放棄したと思われていたアーロンは、このツアーで晴れてスーパードメスティークと呼ばれるようになる。
グランドツアーに限らず、数々の選手権でアーロンとジェクトのバディは勝利し続けた。最強の王を牽き回す最強の召使い、そんな褒めているのか貶しているのか分からないニュースの見出しにも笑わされた。
いつだってジェクトはアーロンの長く伸ばした黒髪の尾を追って走り、アーロンはゴール前のわずか数百メートルの間だけジェクトの背を見ることを己に許した。チームにアシストは何人もいたが、ゴールラインを切る瞬間までジェクトと共に走ることを許されたのはアーロンだけだった。
ふたりの活躍に魅せられた人々が集い、チームは見る間に大きく育った。選手層が厚くなり、スタッフの数が増え、大口のスポンサーが付き、訓練施設も充実した。チームブラスカのユニフォームが見えない優勝争いなど、一度として起こらなかった。
素晴らしい二年間だった。衒いなしにそう思う。いつまでも走り続けられると思っていた。どこまでも走って行けると信じていた。
しかし、終わりは実に呆気なく、そして無惨なものだった。
アーロンがアシストに転向して二年目のグランドツアーは、激しい雨が続いていた。その年はビサイド島から北上するルートが設定されており、一行はルカ、ミヘン、ジョゼから幻光河へとレースを進める。
雷平原からベベルまでは晴れ間も見せていた空が再び暴れ出したのは、ツアーが終盤に突入するナギ平原でのことだった。その名を裏切るように荒れた平原は海から吹き寄せる横殴りの強風に晒されており、峻険なガガゼトを前にして不穏な気配を漂わせていた。
悪天候が唯一の弱点と言われていたジェクトだったが、ここまでは好調だった。言わずもがな、アーロンあってこその成績だ。ふたりを含めたメンバーたちはコンディションもよく、翌日から始まるガガゼト登りに備えてここでタイムを稼いでおきたいところだった。しかし焦りがあったわけではない。
だからあれは、不幸な事故だったのだ。
平原のちょうど中ほど、走行ルートが最も海に近くなる地点だった。ブラスカの指示によりメイン集団から抜け出そうとしたチームは、アーロンと並んで悪天候に強いアシストを置き、その後ろに別のメンバーがジェクトを海風から庇う恰好で並んでいた。最も激しいゴール前スプリントに向けて体力を温存するアーロンは、ジェクトを挟んで内陸側を走っていた。
ここから先は、すべてが終わってから聞いた話だ。先頭のアシストが集団の外に出てアタックをかけ、チームメンバーがそれに追随する。その瞬間、ジェクトをカバーしていたアシストがカウンターを打った競合チームの選手と接触、大きく体勢を崩す。ジェクトはそれを避けようとしたが、逃げるスペースが足りずにクラッシュ。大集団のほぼ真ん中で発生した転倒に巻き込まれ、アーロンを含む十二名が完全に停止、総計で四十名弱にも上る集団全体が影響を受けた。
アーロンが覚えているのは、ジェクトが傾いた瞬間までだ。アシストが揺らいだのと同時にひときわ強い風が襲い、ジェクトはアーロンに寄りかかるように倒れ込んだ。まずい、と思ったのが最後の記憶だ。強い衝撃と共に視界が暗転し、ジェクトが己の名を絶叫するのを遠くに聞いた。
それが、アーロンがジェクトの声を聞いた最後だった。
次に目を覚ました時、アーロンは己の視界の右半分が欠けていることに気づいた。包帯でも巻かれているらしい。真っ白の天井、愛想のないカーテンに覆われて、自分が病院のベッドに寝かされていることを知る。
アーロンの覚醒に反応した看護師が医師を呼びに行くのを待つ間、ぼんやりする頭で、やってしまった、と思った。こんなところで寝ているということは、自分のリタイアは確定だろう。全身がさまざまな種類の痛みに襲われており、とてもではないが走れる状態ではない。今年のグランドツアーは諦めるしかないということだ。
ジェクトは無事だったろうか。他のメンバーは。ジェクトのタイムにはまだ余裕があったから、アーロンが牽いてやれなくとも残りのアシストが上手くやってくれれば、このままザナルカンドまで逃げ切ることも難しくないはずだった。
息急き切って飛び込んできた医師に意識を確認され、身体のあちこちを触られながら痛いかだの感じるかだのと問診を受ける。間合いを見てブラスカに連絡が取れないかと訊くと、アーロンの左側に立っていた医師はぐっと口を噤み、それから極めて沈痛な表情でこう言った。
「ブラスカさんなら、先ほどからこちらにいらっしゃいます。私の反対側に」
アーロンは痛んで軋む首を巡らせて、右のベッドサイドを視界に収めた。欠けた視野が煩わしい。頬に包帯のような感触はあるが、右目の周りは麻酔でも効いているかのように茫洋としているのが苛立ちに拍車をかけた。
「監督、いらしたなら声をかけてください」
「……ああ、すまないねアーロン。お医者様の邪魔をしたらいけないと思って」
アーロンは、何かがおかしい、と直感した。ブラスカのこんな声は聞いたことがない。低く掠れ、芯を失って弱々しく崩れる、今にも泣き出しそうな声など。
半端な視界では、ブラスカの俯いた頭から垂れる髪しか見えない。咄嗟に起こそうとした状態は、いけません、と悲鳴のような看護師の声と腕に押さえつけられた。
「監督、レースはどうなりましたか。みんなに怪我は」
「……」
「ジェクトは無事ですか。明日のガガゼトは」
「アーロン——」
右手の指に何かが触れた。痺れが残る指をブラスカの手が握り締める。彼の手は氷のように冷え切っていた。
「俺は今年はもう無理ですか。だとしても——」
「アーロン」
「ジェクトは、チームはまだ走れますよね、監督、教えてください、ジェクトは」
「アーロンさん! 興奮しないでください、鎮静剤を」
「はい!」
すぐさま左手を取られ、手の甲に圧迫感を覚える。それを振り払う力すらないことに愕然としながら、アーロンは口を開く。黙っていてはいけないと思った。黙ってしまえば何かが決定的になってしまう、とんでもないことが起きてしまうと感じていた。その焦燥はすでに遅すぎると、アーロンだけが知らなかった。
「すまない、アーロン……」
がくり、と全身から力が抜ける。きつい酒を煽らされたかのように頭がぐらつき、すべての音が遠ざかる。オピオイドのもたらすあまりにも速やかかつ強硬な眠りに抗うことさえ許されず、アーロンは再び昏倒した。
昏睡から目が覚めてからは、激痛との闘いだ。転倒の際に打ち付けた右半身はもちろん、最初に覚醒した時にはろくな感覚もなかった右目の痛みは耐え難く、悶絶する度に投与される強烈な鎮痛剤によってまた眠らされる。意識を強制的に遮断されて落ちる眠りはひどい譫妄を伴い、アーロンはまるで休むことが出来なかった。
神経を侵襲する激痛、意識を陵辱する悪夢。その狭間にほんの須臾訪れる静穏の中で、切れ切れにブラスカの話を聞いた。
チームブラスカは、ガガゼトを前に全員がリタイアした。物理的に継走不可能な状態に陥ったのはアーロンに加えてジェクトと彼をカバーしていた選手の三名だったが、残りの六名もそれぞれ怪我を負い、またクラッシュによって中核であるふたりを失った精神的な衝撃はあまりに大きかった。これ以上走っても意味は残せないと考え、メンバーら自らがリタイアを決めたという。
ジェクトは右膝の靭帯断裂に加え、着地した際に右の手首と鎖骨、さらには肋骨をも骨折し、折れた肋骨が肺に刺さったことによる外傷性気胸を起こしていた。もうひとりの選手も膝蓋骨をはじめ数か所を負傷したが、幸か不幸かジェクトを下敷きにしたため怪我の程度としては最も軽いという。どちらも現在は同じ病院の別室で治療を受けているそうだ。
それだけを確認するのに、アーロンは幾度も痛みに悶え、意識を落とした。その都度、悲痛に眉宇を歪めてナースコールを押すのはブラスカだった。彼は三つの病室を眠る間もなく行き来し続けているようで、肉体的にも精神的にも疲労が極限に達しつつあることは明らかだった。
アーロンに投与される鎮痛剤がようやく一段階弱くなり、担当の医師が負傷の状態と今後の治療方針について説明するために病室を訪れた。今はブラスカに代わり、その妻が付き添ってくれている。
「……折れた車体、フレームの一部ですね。これがアーロンさんの右目を直撃してしまいました。フレームの破片と道の砂利が傷口に刺さり、状態は極めて悪かったと言わざるを得ません」
壮年の医師は淡々としていた。その落ち着きが今のアーロンにはありがたい。彼もまた冷静に——実際のところは現実感を完全に失って——説明に耳を傾ける。
「最も損傷が激しかったのが右目の角膜でした。そこで止まってくれたことを期待していたのですが、破片が水晶体にも到達しており——」
医師の説明がどこに辿り着くかは、もう分かっていた。自分の身体のことだ、おおよその感覚はある。信じ難いほどの痛みだけでなく、たとえば日に何度も取り替えられる包帯とガーゼが剥がれる度に、きっとそうなのだろうと感じていた。
「またフレームの先端が額から頬まで縦に——眼瞼、つまりまぶたが——」
ブラスカの妻が横たわるアーロンの肩を撫でている。怪我に障らぬようにと慎重に動く、柔らかな体温。それを煩わしいと思ってしまった己を責めて、下唇を噛む。
「それから、」
「……先生、」
アーロンの声に、医師がぴたりと口を止めた。誠実な医師だ。現状を正しく説明し、真摯に治療に当たろうとしている。手を止めぬブラスカの妻も、医師の傍らに控える看護師も、メディカルソーシャルワーカーと名乗ったスタッフも。誰もが誠実で、誰もが優しくて、誰もが必死だ——俺のために。
これを引き延ばしてはいけない、と思った。自分ひとりが悲劇に苛まれているわけではない。この医師が診るべき患者は他にもいるだろう。看護師もソーシャルワーカーも、アーロンひとりのために働いているわけではない。そしてブラスカの妻も、本来ならば心痛を押して動き続ける夫のそばにいたいはずだ。
だからアーロンは自ら結論に手を伸ばす。この優しい人々を解放するために。
「俺の右目は、もう見えないんですね」
医師がゆっくりと頭を下げた。力、至りませんでした。浸み通るような悔恨に満ちた声に、アーロンこそが解放されたことを知った。
それからひと月半、アーロンは病室暮らしを余儀なくされた。右目の他にもあちこちの骨折やひびなども治療する必要があったためだ。
日々の世話を兼ねて見舞いに来てくれるチームメイトやスタッフたちも、一様に消沈していた。彼らを通じて、病室の外で起きている出来事を断片的に知る。
グランドツアーの運営団体による現場検証の結果、クラッシュは何者かの故意によるものではない、まったくの偶発的事故であることが発表された。しかし世間の目はそれでは緩まず、誰にどれだけの責任があったのかと好き勝手に詮索を始める。聞くに堪えない中傷と根拠のないデマが、アーロンを、そしてチームブラスカの全員を責め立てた。
最初に転倒した選手のハンドリングミス。カウンターを受け切らず前に出た先頭アシストのポジションミス。あのタイミングでアタックを指示したブラスカの采配ミス。選手たちの車体に不具合はなかったか。調整に見落としがあったのでは。常勝チームとして慢心がなかったと言えるのか。
誰もが疲弊していた。マスコミの取材という名の糾弾を掻い潜って見舞ってくれるメンバーたちに、強いて現状を説明させるのもためらわれるほどだった。独り身の自分のために着替えなどを細々と運んでくれる彼らに報いるには、少しずつでも順調に回復する姿を見せることだとアーロンは考え、胸中で渦を巻く疑問には蓋をした。
見舞いに訪れるメンバーは日々入れ替わったが、その中にキノックの姿がないのが不思議だった。彼は今回の出場メンバーには入っていなかったため、怪我を負ったわけでもない。長年の友人でもある彼とならば踏み込んだ話もできるかと期待していたアーロンは、その日来ていた事務スタッフに軽い気持ちで問うた。
「キノックはどうしている?」
「ええと、キノックさんは……」
スタッフの中でも古株である彼女は、水を入れ替えた花瓶を整えるふりをして何かを言い淀む。
「その、忙しいみたいで」
「……そうか」
言われてみれば不思議なことではない。キノックはこの一年ほどは成績が振るわなかったが、とはいえ最古参の選手だ。ブラスカやスタッフ陣の応援に回るのは道理だろう。そんな彼に、見舞いに来ないとは薄情な奴だ、などとは言えまい。多忙を縫って毎日欠かさず顔を出そうとするブラスカの方をむしろ窘めるべきか、とアーロンが考えていた時だった。スタッフが人目を憚るように声を潜める。
「キノックさんは、スポンサーとの打ち合わせが多いみたいです」
「スポンサー?」
「エボンコーポレーションのユウナレスカ社長と、毎日のように面会の予定がおありとか」
「……何だと?」
ユウナレスカ、アーロンは驚愕をもってその名を聞いた。
彼女が代表取締役を務めるエボンコーポレーションは、ザナルカンドに拠点を置く有名ベンチャーだ。主な事業領域はソーシャルメディアやニュースポータルの運営だが、五年ほど前にグランドツアーのゴールであるエボンドームの命名権を取得して以降、ロードレース競技への投資を盛んに行なっている。ジェクトとアーロンが並んでゴールした二年前のツアーの直後からは、チームブラスカの筆頭スポンサーでもあった。
カネは出すが口は出さない、非常にありがたいスポンサーであるとブラスカからは聞いていた。そのユウナレスカが何故、これと言った功績のないキノックと。
当惑するアーロンの目の前で、スタッフの女性はくしゃりと顔を歪めた。抱え込んできた不安と、重傷を負ってリハビリの最中であるアーロンへの遠慮とがないまぜになっている。かける言葉を探すアーロンに、彼女は言った。
「アーロンさん、早く……早く帰ってきてください。私たちのチームが壊れてしまう前に」
ブラスカの監督辞任が発表されたのは、次の日の夜だった。
そしてその夜が明ける前に、ジェクトが病室から消えた。以来、彼の行方は杳として知れない。