真空回廊

 その時、私と彼は醜悪な共犯者になった。

 扉を閉ざしたのはジェクトだった。彼は扉に掌を押し当て、わずかに俯いている。脈打つ獣の心臓に似た瞳は伏せられ、ひくりと引き攣れるおとがいの線からこの男が歯を食い締めていることが分かった。
 彼の二歩ばかり後ろに立つ私は扉を見上げる。彼岸と此岸を隔てる重い岩戸の伝説は死者の国にまつわる典型のひとつだ。そういう意味では、たしかに私は伝説になった。たった今。
 私たちの目指すべき先から低い振動が続いている。扉と扉に挟まれた回廊は短いのか長いのか、すでに一度は通った道だというのに私はすっかり失覚していた。足元の瓦礫を震わせるのは星の歌か、死者の怨みか、それとも千年の時を夢見続ける祈り子たちの慨歎か。そのすべてであるようでも、いずれでもないようだ。私には分からない。
 限界まで引き絞られた弓弦のような空気に耐えかねて、私は瞼を下ろす。硝子片を撒き散らした星空を背景に君臨するユウナレスカの姿が浮かんだ。彼女が待っている。大いなる祝福を私とジェクトにもたらすために。果てなき絶望をアーロンに残すために。
 扉の向こうに置き去りにした青年の姿を、瞼の暗幕に描き出そうとした。夜空の一等深いところから紡ぎ出した糸のような黒髪、いつでも張り詰めた肩から腕のかたち、迷いなく振るう大剣が空を切り裂く音、綻ばせれば愛嬌のある唇だったのに、扉が閉ざされる瞬間まで白い犬歯が食い込んで血が滲んでいた。
 ジェクトが喉を震わせて拳を握る。彼にはアーロンの嗚咽が聞こえているのだろう。私にはもう何も分からない。旅に出てから片時も手放すことのなかった杖が、今はひどく重かった。

「……行こうぜ」
 ゆらりと身体を起こしたジェクトが、私を見ずに言う。その指先が、彼と私たちを隔てる扉をくすぐるように撫でた。
 ――知っているよジェクト、きみたちの間にあったもののことを。きみたちの間に生まれて、きみたちを繋いで、きみたちに束の間でも安らぎを与えて、そうしてたった今断ち切られた、たった今私が断ち切ったもののことを。
 私はジェクトに向かって頷きながら、果たして私と彼を共犯と呼べるのだろうかと考えている。本当に共犯なのだろうか。『シン』を倒す召喚士になりたいのは私のエゴ、そのためにガードの魂を贄にするのはユウナレスカ、何もかもを諦めてその身を差し出すのはジェクト、置き去られるのはアーロン。どこまでがそれぞれの望みで、どこからが望まぬ傷なのか。
「ジェクト、」
 きみは望んでいるんじゃない。そんなことは私にも分かる。ただきみは呑み込んでしまった。幻光河以来、すっぱりと絶った酒の代わりだとでもいうように、すべてを呑み下して今きみはここにいる。
 きみはすべてを諦めてしまった。あれだけ愛おしいのだと繰り返した息子と再び会うことも、スピラで手に入れたぬくもりを抱き締めることも、私の凱旋パレードではしゃぐことも、すべて。
 だから、
「――きみは私の共犯者ではないんだよ」
 口を突いて出たその言葉に、ジェクトは片眉を跳ね上げた。いつの間にか見慣れていたその表情を初めて見たのは、きみがベベルの地下牢に横たわっていた時だった。ここから出ないか、思えば詐欺師じみた私のひとことに、きみは今と同じ顔をして見せたのだ。
「なんだそりゃ」
「……こちらの話さ。気にしないでくれ」
 そうごまかせば、ほら、唇を思いっきり曲げて気に入らないと主張するのもいつものことだ。そのくせ、ふん、と鼻を鳴らしてあえて深追いしないのも、いつものこと。
 いつものこと、だった。これが最後だ。もう二度と見られない。あの扉を抜ければ、ユウナレスカの御前に膝をつけば、ジェクト、きみにはもう二度と出会えない。

 まばらに飛び交う幻光虫が照らす回廊を進む足は、奇妙なほど感覚を失っていた。靴底に刺さる瓦礫の鋭利さも感じられない。地面からわずかに浮いてでもいるような、現実感のない足取り。半歩先をゆくジェクトは確かに足音を刻んでいるのに。
 このままどこまでも歩いてゆけそうだった。どこまでも歩いてゆきたかった。この回廊が導く先はひとつしかなく、その終端がすぐそこにあることを私は知っていた、けれど。
 ジェクトが足を止めて、終わりが来たことを理解する。違う、終わりが来たのではない。終わりにたどり着いたのだ、私が、私の意志で。私の歩みの当然の帰結として。
 先ほど閉ざしたのと同じ扉が目の前に立ち塞がる。この扉を押し開いて、これから終わりを始めるのだ。この威風堂々たる偉丈夫を、ここではない別の世界の王を、私の親友を、そしていまひとりの友であるアーロンを愛した男を、これから私が殺す。
 ジェクトを殺すのは私だ。私が『シン』を討つために、私が命をかけて喚ぶ獣にするために、私の道連れにするために、私がジェクトを殺す。
 私はいくつ奪うのだろう。母を失った娘から父を、弟のような青年から恋人と兄を、息子の生きる世界から弾き出された男から命を。数えた分だけ頭が冴えてゆく。身体は熱に浮かされるごとく現実から乖離してゆくのに、意識はこの上なく明晰だった。
 私は正気だった。狂ってなどいなかった。私は私のまま、これからジェクトを殺すのだ。
「なあ、ブラスカ」
 ジェクトの声がした。おぼつかない身体を軋ませて目を上げると、すぐそこに男の顔がある。双眸の深紅は幻光虫のプリズムに濡らされたように鈍い光を放つ。その精悍な鼻梁に気を取られる。
「――あのな、ブラスカ」
「ジェクト、」
「俺が選んだんだよ」
「なに、を」
「全部だ、全部――全部、俺が選んだ。なあ、分かるだろ」
 ああ、分かるよジェクト、きみは誰かに命じられて諾々と従うような男ではない。きみの誇り高き魂がそれを許さない。
「おまえに着いてくことも、戦うことも、最後までおまえのガードすることも、」
 それから、
「あいつのことも、全部」
 そこでジェクトは言い淀んだ。顎先にまだ彼の吐息を感じられるほどの距離。私は息をひそめて続きを待つ。
「俺にはもう何もねえからよ」
「……」
「だから、残せるもんは全部置いてきた。あいつに」
 あの扉を閉ざす前、ジェクトとアーロンが交わした言葉は私には聞こえなかった。聞かなかった。けれど、ジェクトが言うならその通りにしたのだろう。
 私は今来た道を見遣る。アーロンが待つ扉は闇に呑まれて見えない。彼が待っている。愛した男に託された何かを抱えて、愛した男の命を力に変えた私の帰還を待っている。
「おまえにやれるもんは、もうこの命だけだ」
 掠れた語尾は、まるでジェクトが泣いてでもいるかのようだった。彼は泣いていない。間近に光る瞳はもう揺るがない。
「だから、行こうぜ」
 私は努めて笑みを浮かべた。これから死ぬ友への最大の敬意として。
「――そうだね、行こうか」
 ジェクト、きみがそう言うのなら、すべてをきみが選んだのだと言うのなら、私も認めよう。きみは確かに私の共犯者だ。きみは彼を置いて逝く。私はきみの命を貰い受ける。きみはすべてを彼に預けなかった。私はきみの最後のひとかけらを奪った。
 私たちは同じ罪を犯し、同じ咎を背負うのだ。そのことにひどく満たされて、私はジェクトの唇に触れた。
 死の螺旋を司る女神の待つ扉と、何もかもを奪われた愛しい青年を残した扉の狭間で、私たちは哀れな誓約を交わす。重なった唇は乾き、それはこれから死ぬふたりにふさわしいくちづけだった。