巻き上がる波に、破裂する真空に、蹂躙され押し潰され吹き飛ばされ、木端ほどの重みで引き裂かれ散る、命のいとなみを覚えている。
 苦鳴、絶望、慟哭、悲嘆、憎悪、諦念、誰にも望まれなかった破綻と喪失の一系列、それをもたらしたのが他でもない、己であるということも、ジェクトが忘れることはひとときとてなかった。今に至るまで。
 反芻され反復され再往する災厄を、ひとは罪の名で呼んだ。ありもしない罰を執行する器として囚われた十年は、まだジェクトの影を縫い止める。やめろ、もうやめてくれ、どうか、どうか止めてくれ、誰か、これを、俺を、止めてくれ、もう耐えられない、誰か、誰か。
 グロテスクな怪物の巨体をうねらせて『シン=ジェクト』は吼える。裂けた喉は血を溢れさせ、食い締めた牙が軋んで割れる。それでも救いの手は届かない。届かない——

「——クト、おいジェクト」
 がくん、と視界が回転した。気管に空気が押し寄せ、苦痛に身体を折り曲げるジェクトの肩を、静かにしかし有無を言わせぬ強さで押さえつける掌がある。
「落ち着け、ジェクト、夢だ」
 不随意に暴れる両脚に、ずしりと重いものがのしかかる。鼓膜を震わせる低い声の緊迫感に、剥き出しの肩を灼く掌の温度に、脳髄の芯が不思議と冷えるのをジェクトは感じた。
「ジェクト、俺がわかるな、俺は誰だ」
「——あーろ、ん」
「そうだジェクト、ここがどこかわかるか」
 ジェクトは努めて息を吸い、吐いた。馴染んだ匂いがする。燃えた煙草の残すいがらっぽさ。のし掛かる男の髪からは乾いた砂の気配が漂う。揺れの収まりつつある視界が認めたのは、右目を天地に貫く創傷の痕。
「……俺の、いえ、」
「馬鹿、俺の家だ」
 その返答は辛辣だったが、隠しきれない安堵に満ちていた。そのことに、ジェクトも当たり前のように安堵した。

 ああ、ただの夢だ。ひだまりの温もりに任せたうたた寝に、たちの悪い夢を見てしまっただけだ。いつもの、たちの悪い夢を。

「起き抜けに馬鹿はねえだろ、アーロンちゃんよ」
「そうだな、間抜けの方がいくらか正確だったか、間抜け」
「間抜けはもっとヤメテ」
 ことさらにしょぼくれた声色を作ってやったつもりだったが、アーロンの眉間の皺はさらに深まったようだった。静かに離れた掌の片方が、わずかな逡巡を引きずったまま、怯えるようにもジェクトの乱れた髪をかきあげる。
「男前の確認か、アーロン」
「……間抜けな大馬鹿で間違いないようだと思ってな」
「いやおまえね、さすがに言い過ぎって」
「合っているだろう」
 額の汗を拭った掌が、ジェクトの両目を覆う。皮も硬化した掌は分厚く重く熱い。前髪の生え際に刺さるささくれに胸を締め上げられて、どうしたってこの男の、この柔らかくも甘くもない無骨さが愛おしくてたまらない。反駁する言葉を失ったジェクトの視界を塞いだアーロンの声は、もしかしたら拗ねるこどもに似ていた。
「おまえは、いつまで独りで、」
 ジェクトは呼吸さえ詰めて続く言葉を待ったが、アーロンはそれきり口を噤んでしまった。残りの台詞はきっと聞けないだろう。
 アーロンが言わないのは、ジェクトが吐き出さないからだ。つまり、アーロンを今こうして黙らせたのはジェクトのせいで、ジェクトが吐き出さないのにはジェクトの言い分があるわけだが、結局のところアーロンに対する甘えでしかない。
 異界に転がり落ちて以来、日に何度でも聞ける——ジェクトが馬鹿をやればやるほど聞ける——重く沈むため息を機に、アーロンの掌が離れた。目元を乾いた空気が通り抜け、ひどく物足りない。
 ジェクトは仕方なく、己の掌で両目をごしごしと擦った。幾度かの瞬きのあとやっと明瞭になった世界の真ん中で、ひとりの男がいま新しい紙巻に火をつけようとしている。
 艶の落ちた黒髪にはごまかしようのない白が混じっている。片目は潰れ、肌は年相応以上にくたびれてはいるが、残された左目の鳶色は変わらない。鍛えられた筋肉に覆われた肩から背中はしなやかさよりも堅牢さが際立つ。いつだってかさついた唇は、それでも最近ようやく、皮肉を含まない笑いを刻むようになった。その唇の端から、不定形の煙がそろりと流れ出す。
 ジェクトは仰向いていた身体を捻り、横向きに寝そべった。アーロンはどうやら灰皿を探しているらしい。そいつはアーロンの身体の向こうのテーブルの、さらに向こう側の端だ。さっきまでジェクトを優しい薄闇に閉じ込めていた指が、灰の伸びた巻を慎重につまむ。なんとなく、気に入らない、と思う。
「……アーロンさあ」
「なんだ」
 灰皿を視界に収めたアーロンが腰を浮かせるのを、そのシャツの端を掴んで引き留める。アーロンの身体はびくりともしないが、煙草の灰はあっけなく崩れて床に散らばった。
「おいジェクト、灰が」
「おまえさ、」
 ぽろりと零れた言葉は、ほとんど無意識だった。そういうことを言うつもりではなかったはずだが、言ってみてから決して悪い選択ではなかったとも思う。
「おまえ、めちゃくちゃいい男だな」
 灰まみれのカーペットを凝視していた鳶色の隻眼が、ジェクトを見る。少なからず驚かせることに成功したようだったが、言ったこちらもそれなりに驚いていた。立て直すのは、アーロンの方がわずかに早い。
「そう、だろうな」
 この男らしくもない、ことさらに傲岸な返答にもう一度驚かされる。細く眇めたアーロンの左眼にくちづけてしまいたいと思う。左眼どころではなく、頭のてっぺんから爪先まで、肚の内側まで。
「——なにしろ、おまえが惚れた男だからな、俺は」
「よく言った、さすがはジェクト様の」
「いいから雑巾を持って来い」
「……へーへー」
 物理的な火種を持ったままの男に逆らうのは良策ではない。ジェクトはのっそりと身を起こし、立ち上がるついでに胡座をかいたままのアーロンのつむじに唇を落とした。うんともすんとも言わない堅物は、首筋を赤らめるでもなく、ただ「とっととしろ」とだけ言う。ジェクトは息だけで笑う。

 ——ああ、そのようにして救い、救われるのだ。俺たちは。