秘書室G氏の憂鬱な出張

 海外出張と言えど、一週間程度ならば機内持ち込みサイズのスーツケースで行きたいものだ。預け入れ荷物はチェックインも早く、飛行機を降りてからも待ち時間が長い――空港のターンテーブルで自分の荷物が出てくるのを待つ時間ほど、人生において無駄な時間はないとガブラスは思っている――、その上ロストバゲッジでもされては目も当てられない。
 特に今の部署、すなわち執行役員専属秘書室に異動してからの出張は基本的に外交出張だ。目的は表敬訪問と視察、重要な商談の三種に集約される。よって、基本的に必要なのは自分の身と頭と通信器具くらいのもので、足りないものがあれば現地調達してしまえばいい。商談に製品サンプルが必要だとしても現地法人に用意させるのが基本だ。
 となれば持ち物などはたかが知れている。スーツは二着ばかりをガーメントバッグで手持ちするし、あとは泊数に合わせたシャツと下着類、一晩か二晩はある「カジュアルな」ディナーのための軽装一式、それと小分けした洗面用具くらいなものだ。若い時分に安宿を選んで旅行していた頃はシャンプーなども持参する必要があったが(大抵の宿にはボディソープがあれば御の字だ、時にはその安いボディソープで全身洗うこともあったし、双子の兄などはそれで全く構わないという雑な人間だが)今のガブラスは世界に冠たるコングロマリット、アルケイディア・コーポレーションの副社長であらせられるヴェイン・カルダス・ソリドール氏の戦略秘書であり、つまり髭剃りの有無など心配するまでもない高級ホテルが滞在先になるので、海外出張の支度など気楽なものなのである。
 そんなわけで、八日間の出張を翌週に控えた金曜、フライトなどスケジュールの最終確認を進めるガブラスの気分は至って平穏だった。――上司の不可解な発言を聞くまでは。
「ガブラス、来週の出張だが」
 週末に向けてメールボックスの整理を一旦終えたらしい副社長氏に応え、ガブラスは席を立った。
「月曜は朝7:30にご自宅にお迎えに上がります。フライトのチェックインはこちらでオンライン手続きを――」
「結構、卿ならば何の問題もあるまい」
「は……」
 ヴェインはゆったりと腕を持ち上げ、デスクに両肘をついて指を組んだ。緩く波打つブルネットを揺らし、わずかに首を傾げるようにしてガブラスを見る。その視線にたじろぎそうになるのをぐっと堪え、ガブラスは直立を保った。
「卿に頼みがある。少々面倒だが」
 一部の部署からは「超人」と渾名されるヴェインの要求レベルは高い。その彼が面倒だと言うのならば、それはすなわち死ぬほど大変で手間がかかってプレッシャーも大きくて、要は普通の人間の言葉で言い換えると「おまえ、今からちょっと死んでくれ」に等しいのだ。出張前の気楽な休日が消えることを思い、ガブラスは覚悟と罵倒を半々の割合にして奥歯を噛み締めつつ、模範解答を繰り出した。
「何なりと」
 ああ、これ以外に何と答えろと言うんだ。さようなら俺の怠惰な週末。
 湧き上がる唾液が急に苦くなるガブラスだったが、ヴェインは唇の端をわずかに吊り上げて満足そうに目を細めた。

 翌日、土曜日。ガブラスは法定速度ギリギリにアクセルを踏み込み、都心部に車を走らせていた。
 結果だけ先に言えば、ガブラスは死ぬ必要はなかった。誰もいないオフィスで右往左往することも、相手が休みと知りながら恐縮かたがた電話をかけて問い合わせをする必要もなかった。
 何となれば、ヴェインの要求とは次のようなものであったからである。
「出来るだけ大きなスーツケースを持って来て欲しい」
「出来るだけ大きな、と言いますと」
「そうだな、具体的には高さ70cm、厚さ30cm程度のものが収まるサイズだ」
 70かける30、とガブラスは脳裏に長方体を描いた。でかい。相当にでかい、子供を誘拐する時などに使う大きさだ。とはいえ、
「……さすがにラーサー様は入らないと思いますが」
「下手な冗談だ」
「…………」
「連れて行けるならば私の隣に乗せるに決まっているだろう」
 ラーサー、つまりヴェインが目に入れても痛くないを比喩とは言い切れぬほどに溺愛している歳の離れた弟だが、この兄上は多忙を極める身にも関わらず、出張先との時差がいかに大きかろうと、一日に最低一回は弟君の声を聞かずにいられないのである。十二歳のラーサーは当然のことながら義務教育期間中なので、兄の出張にいちいち付き合うことはないのだが、それでも何だかんだと理屈をつけて随行させようとするヴェインを窘めるのも、年に一度か二度はある話だ。
 不発に終わった冗談――ガブラスにしてみれば半ば本気の探りだが――はさておき、優秀な秘書の顔に戻って用途の確認である。
「サンプルなどをお持ちになられますか」
「いや、持って行くことも持ち帰ることもあるまい。送らせればよいだけの話だ」
「では何を……」
「行けば分かる。それで、持っているのか?」
「いえ、さすがにこの大きさは」
「ならば買ってくれ。費用は私に請求して構わん」
 そういうわけで、ガブラスは惰眠を貪るはずだった土曜の午前に、スーツケースを買いに走っているのだ。
 費用はヴェインに請求しろ、というのがミソだった。規律に厳格なアルケイディアの副社長だ。愛弟を出張に随伴させようとするなど、ごく一部でごくたまに公私混同の気があるとはいえ、さすがに金銭周りは一分の隙もない。この馬鹿みたいな大きさのスーツケースが業務上の理由で必要ならば、副社長は経費申請しろと言うだろう。しかし、今回の費用はヴェイン個人が持つというのだから、プライベート用途ということだ。
(経費の私的利用は駄目で、部下の私的利用はいいのかっ)
 ただの部下とも最早称し難い立場ではあるのだがそれはさておき、ガブラスは社会の理不尽を存分に噛み締めながら車を停めた。
 ソリドール家の御曹司たるヴェインは、スーツケースの値段など知るまい。だったらせめて、自腹では決して買わない有名ブランドのお高いやつを買ってやれ、というわけである。こんな形でしか溜飲を下げられない――そして実際のところ、いくらの請求書を出してもヴェインは眉ひとつ動かさぬに違いないと確信しつつ――そんな己の寂寥を振り払い、ガブラスはせいぜい胸を張って洒脱な構えの店に足を踏み入れた。
 高さ70cm以上、余裕を見て厚さは40cmが入るもの、というオーダーに、店員は卒なく応えて見せた。冗談抜きに子供がすっぽり入りそうなサイズのそれを指して「二週間程度のご旅行に最適です」などと言う。馬鹿を言え、こんな大きさがあれば一か月だって余裕で暮らしていけるはずだ。
 お色はブラックかシルバーのみですが、とやたら恐縮されたが、鮮やかなオレンジだの可愛らしいピンクだのを転がして歩く気は毛頭ない。この大きさならばターンテーブルで取り違えられることもあるまい、と無難な黒を選んだ。
 価格のことを一切訊かぬガブラスをどう誤解したものか、店員からコーヒーなどを差し出される。出てきたレシートに目を剥きそうになったがかろうじて堪え、しかし「カード一括で」と言った声はさすがに動揺を隠しきれなかったかもしれない。
「ご旅行ですか?」
「いや……仕事で」
「お仕事で。こんなに大きなお荷物では大変でしょう」
 店員は終始にこやかだったが、ガブラスは自分が誘拐犯でないことを説明したくて仕方がなかった。

 明けて月曜、ヴェインは案の定、機内持ち込みサイズのスーツケースとガーメントバッグのみを手に姿を現した。公用車のドライバーも兼ねるガブラスは、上司の身軽さを恨めしく思いつつ荷物を積み込む。
「ずいぶん大きいな」
 トランクの大半を占めるガブラスのスーツケースを一瞥し、ヴェインは面白くもなさそうな声を出した。愛想が悪いのは、可愛いラーサーがクラブ活動の朝練と言って早々に家を出てしまったからだ。
「指定のサイズに合わせました」
「ご苦労」
 空港に到着し、今のところはほぼ空も同然の軽いスーツケースをチェックインする。こういう時、先にラウンジに向かうでもなく、殊勝にガブラスの手続きを待っているのだからヴェインというのはよく分からない。長身に上等なスーツを纏った美丈夫がすらりと立っている図は、さまざまな人の入り乱れる空港にあってとてつもなく浮いている。高級腕時計か万年筆の広告でも撮影しているかのようだ。ここまで絵になると腹も立たない。
 ファーストクラスに乗るようなお偉い様の中には、機内で部下を自席に呼びつけて業務の差配だの、現地での打ち合わせ準備だの、あるいは単に雑談の相手をさせる手合いもいるが、ヴェインは違う。スケジュール確認も商談の方向性も、先週までにとっくに済んでいるのだ。
 そういうわけで、つつがなく搭乗したガブラスは、土曜に貪り損ねた惰眠を取り返すべく、シートを倒したのであった。そういえば、何をスーツケースに入れるのか聞きそびれたな、と思いながら。

 ヴェインの出張に随行する、と言うと大抵の者は憐れみ混じりの視線を寄越す。あら、せっかくあの街まで行くのに、副社長のことだからきっと観光の時間なんか取らせてもらえないんでしょう? と。
 これは社内によくある誤解のひとつだ。よほど予定が詰まっていない限り、ヴェインは最低でも半日の自由時間を押さえ、名所旧跡を訪ねる。古い聖堂に三十分も座ることもあれば、山の上の要塞跡をじっくり歩き回ることもある。オーケストラのコンサートがあれば聴きたがるし、美術館博物館の類をことのほか好む。何事も迅速かつ簡潔をよしとするため極端な効率主義者と思われがちだが、さりとてビジネスのみに生きるわけではないのがヴェインという男だ。
 ゆえに、ガブラスもスケジューリングにあたっては可能な限り調整する。何しろ「超人」なので、半日の自由時間のために前日の会談外食視察が分刻みになったところで何の問題もないのだ。ついていく方は必死だが。
 今回もヴェインに要望されるまでもなく、三日目の午後をまるまる空けた。いつもと違ったのは、確定した旅程を説明した時にこう念を押されたことだ。
「その日は何の予定も入れぬよう計らってくれ」
「は、かしこまりました」
「卿も同行するように」
「は……」
 ヴェインの観光に同行を予め求められることは珍しい。とはいえ何があるか分からぬ異国のそぞろ歩きに彼ひとり放り出すわけにもいかず、結局のところ毎回ガブラスが供をするのが常だし、それにヴェインが異を唱えることもない。
 それをわざわざ、同行せよ、とは。何かあるのかと問いたかったが、ヴェインは背を向けて窓の外を眺めていたのでタイミングを逃した。
「……夜は現地のフィルハーモニーのチケットをお取りしました」
「ああ、オペラか。久しぶりだな」
 極めて分かりづらいが、やや浮き立った声が返る。オペラか、字幕と舞台と行ったり来たりで忙しいんだよな、などというガブラスの内心など、当然ヴェインの知ったことではない。
 ともあれ、出張も折り返し地点の三日目である。現地法人で講話と懇親会を兼ねた昼食を終え、ホテルでいくらかラフな恰好に着替えたふたりは、陽光を照り返す石畳も鮮やかな午後の街に繰り出した。
「ヴェイン様、どちらへ」
 この街は長い歴史を持つ城郭都市で、観るべきものはいくらでもある。まずは街の南で尖塔を伸ばす教会だろうか、それともこの地方で最大の歴史博物館だろうか、と頭の中で地図を確かめるガブラスを尻目に、ヴェインは長いコンパスを動かして中心部を目指した。
「買い物をする」
 これまた珍しいことだった。ヴェインは観光はしても買い物は滅多にしない。そもそもが規格外の体躯の持ち主だからして、通り一遍の既製品を着ようとしてもサイズが合わないのだ。服ではなく小物も、流行に乗ってあれこれと買い替えるような男ではない。身につけるものはたいてい特別誂えのオーダーメイド、それが恐ろしくしっくり来る、それがとてつもなく、
(――嫌味だ、とも言い切れんのが天性だな)
 目的地までの道はすでに頭にあるのだろう、初めて訪れる街だというのに迷いもせず進むヴェインを追いながら、ガブラスは何の買い物か考える。どの街にでもあるような土産物屋を横目に、それなりに名の知れたパティスリーも素通りだ。
(ラーサー様への土産か?)
 先月の出張では、世界的に有名なショコラティエのチョコレートを詰め合わせたものを土産にした。宝石にすら見紛う美しいガナッシュやボンボンは一粒で安いランチが食べられるほどの価格であり、味も舌触りもその値段に恥じない傑作ではあったが、いかんせん量が多かったようだ。
「美味しいんです、とっても美味しいのですが」
 と困り果てた顔をしたラーサーがこっそりとガブラスに苦言を呈したのは、チョコレートを渡してから一週間ほども経ったある日のことだ。
「あんないいチョコレート、一日にひとつかふたつで充分です。なのに兄上は『おまえへの土産だから』とひとつも食べてくださらなくて」
 若干十二歳、神童の異名をほしいままにする少年は、繊手をきゅっと組み合わせて兄の部下を見上げた。
「ガブラス、お願いします。次の出張ではお土産はいりません――いいえ、いらないと言えば兄上が悲しまれるでしょう。せめて甘いもの以外にするよう、計らっていただけませんか」
 ドライアイなどとは無縁に潤み煌めくラーサーの瞳を思い出しながら、もしヴェインがまたぞろチョコレートだのキャンディだのを買おうとしたら上手く止めなくては、とガブラスは嘆息する。
 兄弟仲がいいのは大変結構なことである。自身も双子の兄を持つ身からすれば、ソリドール家の兄弟たちの仲睦まじいことといったら最早奇跡に近い。弟を喜ばせようと山ほどの高級菓子を土産にする兄、その心を無碍にはしまいと苦心する弟。翻って我が兄弟を顧みれば、思い出されるのは夕飯のおかずを奪い合ったことや、大切にとってあったプリンだかゼリーだかを知らぬ間に食われてしまったこと(犯人は過失を主張していたが、真相は闇の中だ)ばかりだ。思い出したら腹が立ってきた。
「ガブラス、ここだ」
 不意に名を呼ばれて、ガブラスははっと足を止めた。兄を思い出して頭に血を昇らせている間に、ヴェインは目的地に辿り着いたらしい。慌てて顔を上げ、そして凍りついた。
「ヴェイン様、ここは」
「どうした、何か問題でも」
「……いいえ……」
 通りすがりの若い女性のグループが華やいだ声を上げる。さもありなん、白皙の美丈夫が背筋を伸ばして立っているのは、何とも愛らしいぬいぐるみをぎゅうぎゅうに並べたショウウィンドウの真ん前なのだから。

 ファンシーの極北である。
「さすがは名だたる老舗だな、どれも素晴らしい造形だ」
「はあ……」
 テディベア、テディベア、テディベア、ひとつ飛んでテディベア。
「思った以上に種類が多いな。目移りしてしまいかねん」
「はあ……」
 象、馬、猫、フクロウ、ウサギ、犬、ヒヨコ、ハリネズミ、ヒツジ、あれはペガサス、こっちはナマケモノか。そんなものまでぬいぐるみにするな。
「同じ動物でも顔つきが少しずつ違うようだな。厳選しなくては」
「……ヴェイン様、」
「どうしたガブラス」
「お買い物は、こちらで?」
「そのつもりだ」
 それがどうした、と言わんばかりの視線を斜め上から受けつつ、ガブラスは再びショウウィンドウに目を向ける。ふわふわの、ぽわぽわの、ふかふかの、とどのつまりは自分たちのような、ガチガチの、ゴツゴツの、ゴリゴリの成人男性の対局にあるようなものばかりが詰め込まれていた。
「参考までにお伺いしますが」
「ああ」
「どなたへのお土産で」
 いや、聞かずとも分かっている。分かっているのだが、万が一ということもある。そう、例えば、いるんだかどうかは知らんが、いとこやはとこに最近産まれた子供宛てとか。そんなものがいれば、ガブラスが把握していないはずはないのだが。いや、いるかもしれない。いてくれ。別にソリドール家の使用人関係でもいい。
 半ば祈るようにひとつの名を避けるガブラスの思いも虚しく、ヴェインは本日最も凛々しく美しい瞳で真っ直ぐに言った。
「ラーサーにだ。毎回菓子ばかりでは芸がなかろう。……ではここで待っていてくれ」
 すぐに済む、と言いつつ一歩踏み出すヴェインの肩を引き留める間もなく、彼は扉の向こうに消えた。
 短い放心状態から我に返ると、窓越しに見える店内ではヴェインがスマートフォンの画面を店員に見せているところだった。頭ふたつぶんは背の低い初老の店員に合わせて背を屈める姿は端然として行儀がいい。この男がガブラスに対してはいかに傍若に、野放図に振る舞うのか相手構わず言いふらしてやりたい衝動に駆られるほどだ。
 こうなってしまっては最早制止の術はない。ガブラスはせめてもと隣の紳士服店の方に立ち位置をずらし、取り出した煙草に火をつけた。足元には先客たちの置き土産である吸殻がいくつか転がっている。
(ぬいぐるみか……)
 ラーサーは喜ぶだろうか。
 別に、ぬいぐるみを愛でるのに年齢や性別の制限などないことくらい、ガブラスだって知っている。こうしてヴェインを待ちながらショウウィンドウを横目で眺めているうちに、まあ自宅にこういうふわふわのふかふかがあっても悪くないだろうな、と思ったりもするのだ。特にこの店は有名な老舗というだけあって、デフォルメされた小さなマスコットから、真に迫る写実性の大物まで、選択の幅も広い。
 少なくとも十二歳の頃のガブラスは、それがいかに勇壮なライオンや狼であろうとぬいぐるみの類を喜ぶ向きの子供ではなかったが、もちろん、ガブラスとラーサーは違う。ラーサーは喜ぶかもしれない。もしかしたら、本人からそれとなくリクエストがあったのかも。だとしたら、ガブラスが気を揉むだけ無駄だ。
 軒借りしていた紳士服店からスタッフが出てきて、火を貸してくれと広げた手を突き出された。ガブラスは胸ポケットを探って取り出したジッポを手渡すことなく、火だけを差し出す。最初の一服を旨そうに吸い込んだ男は、いいライターだな、と笑った。
「世話になったひとたちからの贈り物だ」
「そうかい、そりゃ大切にしないとな」
 赤の他人にこんな気安い受け応えをしてしまうのも、ここが異国だからだろうか。この国の人々はおおむね謹厳実直と言われているが、同時に話好きでもあるようだった。
 ひとときの煙草仲間となった紳士服店の男と他愛のない雑談を切れ切れに交わしているうちに、ヴェインの買い物は済んだようだった。ぬいぐるみ屋のドアベルがかろん、と鳴り、女性店員の声が聞こえる。
「とても素敵な贈り物になりますわ」
「喜んでくれるといいのですが」
「心配なさらないで、きっと大喜びよ。お気をつけてね」
 ガブラスはほとんどフィルターまで燃えていた煙草を揉み消し、振り返り、そして絶句した。
「待たせたな、ガブラス」
「は……」
 吸い殻を引き取ってくれた紳士服店のスタッフが、背後で感嘆の口笛を吹く。ヴェインは会議で配布資料を受け取る時の表情のまま、パステルブルーの不織布に包まれた巨大な何かを抱え直した。
「…………ヴェイン様、そちらは」
「土産だ」
「どなたへの」
「愚問だな」
 そしてふたりはしばし見つめ合った。行き交う通行人の眼差しを浴びながら、二筋のまなざしが交差する。
「……」
「…………」
 ガブラスの視線に込められたいくつかの疑問を察することなど、ヴェインには容易いことのはずだ。それはラーサー様が欲しいと仰ったものなのですか。あなたの胴体くらいある大きさって何を買ったんですか。まさか俺にスーツケースを買わせたのはこのためだったんですか。しかしヴェインはこれらの問いすべてを初秋のそよ風とともに受け流し、包みを抱え直した。
「さて、一旦ホテルに戻ってよいか。さすがに嵩張るのでな」
 ガブラスに否と言う権利などないのである。

 その晩、予定通りオペラが跳ねると、ヴェインには珍しいことに、ガブラスを部屋に呼んだ。出張の最中にぽかりと空いたエアポケットのような夜に、ふたりは肩書きとスーツを脱いで、音楽と軽いアルコールの余韻に身を委ねる。
 どこで何がスキャンダルの種になるか分からぬ、としかつめらしい顔をするヴェインはベッドを乱すことを嫌い、豪奢にして堅牢なつくりのソファに腰掛けるガブラスに跨る。座面にバスタオルを敷き、周到に用意されたそれぞれのサイズのコンドームを見て、ガブラスがつい声を殺しきれず笑ってしまったのは許されるべきだろう。それを頭上から見下ろして、何が可笑しい、と仏頂面をするのだからたまらない。ヴェインの部下になってもう何年も経ち、可愛くねえな、と思う一万回あたりにつき一回か二回、こうしてひどく可愛らしい姿を見せてくるのが、実に厄介だった。
 奔放に、とはいえソファを壊さぬ程度には慎ましく熱を融け合わせたあと、その汗が引くのを待つヴェインが床からガブラスのジッポを拾い上げた。いかにエグゼクティブフロアとはいえ室内は全面禁煙だ。ひとまずバスローブを借りたガブラスが、バルコニーで吸うか、と訊ねたが、ヴェインは無言で首を振り、ただジッポを見つめていた。
 掌の中でずしりと持ち重りのするジッポは、昨年の誕生日にラーサーから贈られたものだった。買い物はデパートの外商を呼びつけてするもの、というソリドール家の御曹司とはいえ、十いくつの子供がひとりで選んで買えるものでもない。ラーサーも何も言わなかったが、ガブラスにはこれが彼とその兄からのプレゼントであると分かっていた。
 ガブラスとは違い、ヴェインは常態的な喫煙者ではない。まるで吸わない日の方が多いだろう。何かの拍子に吸うのであれば、たいていガブラスから一本拝借する。神経を使う会談や荒れに荒れた会議のあと、出来るだけ人目につかない場所で、旨くも不味くもなさそうにフィルターを咥えるヴェインを見るのがガブラスは好きだった。深く長くゆっくりと息を吸って、細く静かに密やかに吐き出す。煙草に火をつけるヴェインは、ニコチンの精神作用を求めているわけではない。呼吸器を汚すいくばくかのタールと引き換えにしてでも、深呼吸に専念する五分間が彼には必要なのだ。
 浴室の支度を整えて戻ると、ヴェインはまだジッポを眺めていた。バスルームから姿を出したガブラスに気づくと、ソファから立ち上がりながらジッポを投げてよこす。
「あれは預ける」
 と言って鼻先の動きで示したのは、パステルブルーの巨大な包みだ。あの馬鹿でかいスーツケースがそれだけでぱんぱんになってしまうだろうぬいぐるみが何をかたどったものなのかは聞いていないが、それがライオンだろうがウサギだろうがユニコーンだろうが、ガブラスの荷物になることは変わらない。
「明日は朝七時半だ。頼んだぞ」
 すれ違いざまにガブラスの肩を軽く叩き、ヴェインは温められた浴室に消えた。彼の一連の言動を凡人にも分かりやすく翻訳すると、「私が風呂から上がるまでにあのぬいぐるみを持って部屋に戻れ。それと、明日の朝食のルームサービスを七時半に届くように手配しておくように。おやすみ」だ。
 握り締めたジッポにはまだヴェインのぬくもりが残っていたが、ガブラスはそれを思いっきり毛足の長い絨毯に叩きつけた。一回の可愛いにつき、可愛くないは一万回、それがガブラスの雇い主であり情人でもあるヴェインという男だ。

 さらに二日が経ち、何はともあれ、仕事は終わった。今回の出張は実に平和だった――少なくとも、業務上は。あとは明日朝の帰国便に乗るだけだ。
 今夜の会食までは小一時間の空きがある。ヴェインは海外法人を任されている長兄と電話会議(という名の近況報告会、主にラーサーの)があるとのことで、ガブラスはこの出張で唯一の自由時間に街に歩き出した。
(まあ、抑え程度に何か用意するか……)
 ラーサーへの土産だ。何かしょっぱいものでも見繕っておこう。ラーサーは愛らしい顔をして、酒の肴をおやつにするのも好きなのだ。
 旅先で食べ物を買うなら、下手な専門店よりデパートの食品売り場やスーパーの方が面白い。ホテルから散歩にちょうどいい距離にあるデパートを目指して歩く。
 何がいいだろうか。検疫に引っ掛からなければ肉製品がいい。腸詰とか、サラミとか、その辺りだろう。まさに酒のつまみだ。
 ラーサーは、あと十年もすればなかなかの酒呑みになるかもしれない。成人した彼に、お上品なレストランや格式高い料亭で、眼の玉の飛び出るような上等な酒を呑ませてやるのはヴェインやグラミス、あるいは離れて暮らしているもう二人の兄たちの務めであり、権利だろう。であれば自分は、どこにでもあるような、安すぎはしないが決して高くもない、妙に腰が落ち着いてしまう居酒屋に連れて行ってやろうか。ドレイスと一緒になって、手酌で呑む酒の気楽な美味さを教えてやるのもいい。
 そこまで考えて、不意に可笑しくなった。ラーサーはまだ十二歳やそこらの子供で、酒が呑めるようになるまでにはあと何年もかかる。その時まで、自分は今のままいるのだろうか。つまり、ヴェインにこき使われ、無茶振りを捌き、業務外だというのにその弟の世話まで焼くような生活を続けるのか。
 数年前の自分が見たら、目を剥いて今のガブラスを責め立てるだろう。父の代から世話になった会社を潰すように吸収した大企業の取締役一家の犬にでもなったのか、お前に意地はないのかと。
(意地ならあるさ)
 とてもそうは見えないだろうが、と苦笑かたがたひとりごちてガブラスはデパートの入口をくぐった。かつての己なら走狗に堕したと断罪しそうな今の暮らしだが、さりとて誰にでもできることではないということくらいは客観的に理解している。
 グラミスやその長男次男には何人もいる戦略秘書が、ヴェインには自分ひとりだということ。ラーサーが意外と渋好みなのを知るのは自分とドレイスくらいだということ。鋭すぎる才覚と明瞭すぎる知慮と、そして崇高にすぎる理想のために長い夜を持て余すヴェインを眠らせてやれるのは、自分だけだということ。
 恥じるところは何もない。

 翌日、というか時差があるので感覚としては翌々日、ガブラスは予定通り、ヴェインとともに帰国した。出発空港のチェックインカウンターでクソでかいスーツケースを預け入れるときに、受付職員に「あら、ずいぶん軽いわ」と言われたのがささくれのように心に残っているくらいで、概ね平和だ。
 件のスーツケースには、パステルブルーの巨大なふわふわと、真空パウチの腸詰がいくつか収められるに留まった。やろうと思えば全ての荷物をそちらに収められたが、ヴェインが手荷物を持っているのに自分が手ぶらなのは気が引けたし、何よりぬいぐるみを潰してしまっては後でどんな仕打ちを受けるか分からなかったからだ。
 予定していた会議や打ち合わせはすべて上手くまとまった。新たな生産拠点の設立計画も、よほどの事態がなければ当局に承認されるだろう。ヴェインもラーサーへの土産を買えて満足そうだし、万一に備えたガブラスからの土産もある。
 プライオリティ扱いのおかげで、他のどれよりも大きなスーツケースは早々にターンテーブルに転がってきた。大きさだけなら重そうに見えるだろうそれを片手でひょいと掴み上げたガブラスに、見知らぬ男児の驚愕と憧憬の視線が突き刺さる。すまんな坊主、このスーツケースはとても軽い。
 最後の難関、税関申告カウンターはヴェインのおかげで素通りできた。ガブラスは何故か税関で荷物を開けられることが多いのだが(若い頃からずっとそうなので、何かそういう気配が漂っているのだろう)、ヴェインがいると決して呼び止められないのである。まあ、自分が税関職員なら、この上流階級ですと言わんばかりのオーラを纏った偉丈夫にはわざわざ関わらないだろう。
 いつもはガブラスが運転手も兼ねるところだが、出張帰りなので普段はグラミスの運転手をしている社員が車を回していた。ヴェインより少し歳上の女性で、趣味が高じてドライバーを長年担当している。彼女もガブラスのスーツケースに片眉を上げたが、何も訊かないあたり人物が出来ていた。
「ラーサー様がお帰りをお待ちです」
 そう言われてしまえば、ヴェインとて会社に寄るとは言わない。空は西に暮れ始め、道もじきに混み始める頃合だ。
 滑らかなコーナリングで高速道路に乗った車内は、これといった会話もなく静かだった。ガブラスは助手席で、ヴェインは後部座席で、それぞれ社用の端末を手に急ぎの案件だけを仕分けてゆく。ザルガバースからは出張中に目立ったトラブルはなかったことを伝えるメールが届いており、その通り、他の差出人からの連絡もこれと言ったものはなかった。
 どうやら明日明後日はゆっくり休めそうだ。ふと肩の力を抜きかけた瞬間、胸ポケットに収めたままの端末が小さく震える。個人用のメッセンジャーアプリだ。こちらに連絡を寄越す者はたかが知れているので、何の身構えもせずにメッセージを開封した。
(……何だこれは)
 差出人はドレイス、送られてきたのは座標付きの地図だ。よく秘書課で呑みに行く歓楽街の外れにあたる。ソリドール家が懇意にするクラスまでではないが、雇われサラリーマンがほいほいと通うほど安くもない店が立ち並ぶあたりだ。ほどなくしてドレイスのテキストが届いた。
『来週金曜、20:30から。ガブラスで予約済み』
『待て、何の話だ』
『借りを返してもらう』
 絵文字だのスタンプだのは使わないのがドレイスの常だが、端的に過ぎるのも困りものである。借りとは、と先程までチェックしていた仕事用メールボックスを思い返しているうちに、ドレイスはスクロールが必要なほどの長文を送信してきた。
『留守中のおまえ宛の問い合わせは全て私が対応した。
 ①経営企画室から、第三四半期決算発表の方針協議。キックオフ資料は共有フォルダに格納済み、副社長説明は火曜午後イチに会議設定済み。
 ②同じく決算発表について、広報部からロジ周りの調整協力依頼。今回は外部取締役を登壇させて質疑応答に出したいとのこと。外取秘書室と要協議、打ち合わせは月曜午後三時から。
 ③来年度のアニュアルレポートについて経理部から実績管理情報の確認依頼……
 ④年末納会について人事部から……』
 企業からのメルマガでもここまでしないぞ、というくらいスクロールして、最後に『というわけだから、相応の手当を請求する。よろしく』と締め括られ、ガブラスは瞑目しつつ端末をしまった。
「どうしたガブラス、車酔いか」
「すみません、進んだり止まったりで。道が混んでいまして」
 妙に目敏いヴェインと恐縮するドライバーに、ガブラスはようやく首を振ることでかろうじて応えた。ヴェインから受け取るスーツケース代は、そっくりそのままドレイスに呑まれることになるだろう。

 渋滞にひっかかりはしたものの、車は無事にソリドール邸に到着した。本心としてはこのまま自宅に直行してもらいたいところだったが、スーツケースの中身をラーサーに渡す最後のミッションが残っている。そこまで知る由もないはずのドライバーに当たり前のように降ろされ、ガブラスは恐ろしくかさばるのにとてつもなく軽いスーツケースを転がしてヴェインの後に続いた。
「おかえりなさい!」
 きっちりと整列した使用人たちの誰よりも早く、溌溂とした少年の声が玄関ホールに響く。アーチを描く階段から降りてきたラーサーは弾けるような笑顔と共に兄を出迎えた。
「お疲れ様でした、出張はいかがでしたか?」
「万事つつがなく済んだ。おまえも元気そうだな」
 元気そうだなも何も、一日に一度はビデオありで通話していたふたりである。
 ヴェインの抱擁を受けたまま、ラーサーはガブラスにも視線を向けた。
「ガブラスもご苦労様でした。ずいぶんと大きな荷物ですね?」
「ええ、まあ」
 何ならこのケースごとあなたへの土産ですが、と言うわけにもいかず、ガブラスは促されるままリビングに向かった。ちなみに、この邸宅には「リビング」と呼ばれる部屋が三つあり、いずれもガブラスの自宅がすっぽり収まりかねない広さである。
 いずれは自分もアルケイディアの一員として兄たちと共に働くのだと意気込むラーサーは、いっぱしに仕事の話を聞きたがる。それにちょうど上手い具合に答えてやるヴェインの向かいのソファに腰を下ろし、ガブラスはタイミングが来るのを待った。
「そうですか、半導体不足の影響が……」
「電子機器産業全体にかかわる問題だからな」
「アルケイディアの株価が上がっているのはその影響ですか?」
「ひとつには。グループ内で製造供給が可能な体制があるのは大きい」
「ドクター・シドの功績ですね」
 と言えば聞こえはいいが、経営会議が紛糾する原因の六割はシドであり、その度に運営担当者が胃壁を薄くしていることはラーサーは知らずともよいことだ。
 兄弟の話が一通り落ち着き、ガブラスも繊細な味わいの紅茶を干して一服したい欲求に駆られ始めた頃、ようやくヴェインが話題を切り替えた。
「今回も土産がある」
「わあ、本当ですか! いつもありがとうございます、兄上」
 大仰に目を輝かせたラーサーだったが、その瞳の奥からガブラスに問うている。大丈夫か、と。
(大丈夫かどうかは……)
 彼次第だ。ガブラスは少年のまなざしを振り切るように立ち上がり、ソファの陰に置いてあったスーツケースを広げにかかった。
「そんなに大きな……」
「どうということはない、なあガブラス」
「ええ、どうということは」
 何をもってして『どうということがある』ようになるのかは分からないが、ともあれガブラスは優秀な秘書の顔のまま、例の包みをヴェインに手渡した。
「…………」
 ヴェインの胴体ほどもあるパステルブルーの袋に、ラーサーが固唾を呑む。この部屋で穏やかな顔をしているのはヴェインだけだ。ここまで来てしまえば、ラーサーが喜ぶかどうかは最早問題ではない。この年端もゆかぬ少年のリアクションにことの成否がかかっているのだ――今や目的はラーサーではなく、ヴェインを落胆させないことにすり替わっていた。
「これは……」
「開けてみるがいい」
「はい、さっそく!」
 かさかさ、と布の擦れ合う音がする。ガブラスは逃げたい気持ちを押し殺しつつ天井の隅を数秒見つめ、それから意を決してラーサーに視線を戻した。
「兄上、これ……!」
 果たして、ラーサーの上げたのは歓声だった。彼の頭のてっぺんから股下までを覆い隠すような、実に見事なペンギンのぬいぐるみを抱き締めて。
「すごい、すごい、本物みたいだ!」
 それは確かに、生きているそれに見紛うほどの皇帝ペンギンだった。つややかな黒が頭部から両翼を覆い、首回りの鮮やかな黄色はちょうどストールを巻いたように洒落ている。ずんぐりした腹回りは触り心地のよさそうな起毛を纏い、くりくりとした瞳も愛嬌のあるくちばしも、まるで図鑑の一ページから抜け出してきたような精巧さだ。
「兄上、覚えていてくださったんですね、僕が夏休みの自由研究にペンギンの生態を調べたの!」
「無論だ。よく出来たレポートだった」
 そういえばそんなことをしていた気もする。気もする、というか、貴重な休日を潰してこの兄弟を水族館にお連れしたのはガブラスだった。
「わあ……かっこいいなあ……」
 感嘆のため息さえ交えてぬいぐるみを見つめるラーサーの横顔に、演技の気配は見当たらない。恐らく本当に気に入ったのだろう――しかし彼も、幼いとはいえソリドール家の男である。ガブラスに見抜けぬ演技があるとしても不思議ではない。
「ありがとうございます兄上、大切にします!」
「ああ」
「名前をつけてあげなくちゃ……一緒に考えてくださいますか?」
「相談には乗ろう」
「なんだか兄上に似ているように思います」
「そうか」
「はい、凛々しいところがそっくりです」
(……凛々しい?)
 まあ、迫力があるところは似ていると言えなくもないだろうか。ペンギンのぬいぐるみに似ていると言われて、まんざらでもない顔をしているヴェインがいっそ不気味だ。
 ともあれ、ラーサーは喜んでいるようだし、それを見たヴェインも幸せそうだ。めでたしめでたし、と内心安堵の息をつくガブラスに、皇帝ペンギンを抱き締めた少年が笑顔を向ける。
「ガブラスも、運んでくださってありがとうございます」
 遠路はるばる大変でしたよね、と労われて、ガブラスも悪い気はせず首を振った。出張直前にスーツケースを買いに走ったことも、ぬいぐるみ屋の前で待たされたことも、かさばる荷物を延々と転がして歩いたことも、ラーサーが笑えば一通り帳消しになるのだからヴェインを馬鹿にはできない。将来を嘱望されるだけあって、ラーサーには人たらしの才能がある。
「こちらは私から……お口に合うといいのですが」
 保険にと用意していたソーセージなどを差し出すと、少年は笑みを深めて袋を受け取った。そこそこに、しかし兄からの土産ほどではない喜びの表現がまた絶妙だ。
「さっそく明日の朝ごはんに頂きます」
「ええ、ぜひ」
「兄上も一緒に食べましょう」
「ではご相伴に預かるか。すまんなガブラス」
「いえいえ」
 ようやっと全任務完了だ。夕飯を一緒に、と引き留めるラーサーの誘いを丁重に辞退し――何しろその背後で、ヴェインが『とっとと帰れ』という顔をしていたので――帰途についたガブラスは、自宅近くの屋台の誘惑に負けてビールを流し込んだのだった。

 週明け、出社のために再びソリドール邸を訪れると、どこか機嫌の悪いヴェインが現れた。
 車内の閉鎖空間が黴びてしまいそうだ。いかなヴェインであろうと月曜の朝は気が重くなるものか、それとも土日の間に事件でもあったのか。ガブラスはタイミングを見計らい、出来るだけ平坦に尋ねた。
「ご気分が優れないようですが」
「少しな」
 珍しい、と思いつつ、バックミラー越しに後部座席のヴェインを見る。彼は緩く波打つブルネットを物憂げに掻き上げ、窓の外を眺めていた。
「……ぬいぐるみなど買ってやるのではなかった」
 しばしの沈黙のあと、ぽつりと漏らす。あえて無言を保つガブラスだったが、続く言葉を聞いた瞬間、危うく急ブレーキをかけるところだった。
「これからはペンギンと一緒に眠ると、ラーサーが」
 ちょっと待て、あんたたち同じベッドで寝てるのか、毎晩。
「ベッドに玩具を持ち込むなと言ったのだが、彼を玩具扱いするなと」
 ぬいぐるみは玩具なのか。というか、「ベッド」と「玩具」を組み合わせると卑猥だな。
「独りのベッドは冷えるものだな」
 俺のことはことが終わったらとっとと蹴り出すくせに。この間はベッドにさえ入れてくれなかったくせに。
 ――などといちいち口に出す愚は無論のこと犯さない。ガブラスはひとつ深く息を吸い込み、神妙な声を出した。
「………………お察しいたします」
 いや、何もお察しできないが。
 ガブラスの胸中など知らぬヴェインの唇から、はあぁ、と鉛のように重いため息が落ちる。映画俳優のように切ない憂鬱を湛えた横顔から視線を外し、ガブラスは今さら、俺はどうしてこの男から離れられないのだろう、と自問するしかなかった。