深夜のラーメンほど美味いものはない

 不意に、ラーメンが食べたくなった。
 普通のラーメンがいい。黄色い縮れ麺が、脂の珠が浮く茶色い醤油スープに浸っているアレだ。申し訳程度のシナチクとナルト、薄切りのチャーシューが一枚か二枚、あとは刻んだネギがパラパラと乗った、そういうやつだ。普通の、安っぽいラーメンがいい。
 ああ、ラーメンが食べたい。
 という思いはどうやら、ガブラスの口をつくまま垂れ流しになっていたらしい。背後から、ほう、と低い声がしてそのことに気がついた。
「ラーメンか」
「……聞こえておりましたか」
「聞かせたかったのではないのか」
 あくまでも平坦な調子を保つ声の主は、およそラーメンとは縁遠いだろう人物だった。ヴェイン・カルダス・ソリドール、世界に名だたるコングロマリット、ソリドール・コーポレーションの社長子息にしてCFOを務める辣腕家である。蛇足ながら付言すれば彼はガブラスの直属の上司であり、言葉選びに苦慮するところだが情を交わす相手でもある。
 時刻は時計が深夜二時を間もなく告げようとするところ、ヴェインが愛弟ラーサーと住まう高級アパートメントはひっそりと静まり返っている。それは時刻の問題に加えて、かのラーサーが友人宅のパジャマパーティ(要は週末なのをいいことに少し夜更かしするお子様たちの集まりだ)に参加しているために不在であること、そして――それゆえに――ふたりがごく平穏な情交を終えた直後であるためでもあった。
 地上から見上げれば首が痛くなるほどの高層マンションの最上階に位置するペントハウスの寝室に、深夜の幹線をひた走る長距離トラックの唸りなど当然ながら届かない。表には出さないがやや神経質なところのあるヴェインの寝室では、枕もとの置き時計さえ消音仕様だ。従ってガブラスがラーメンに対する欲求を漏らすまでは、この部屋はふたりの押し殺した息遣いと、事後の始末をするガブラスの立てるわずかな物音だけに満たされていた。
 ベッドの端に腰を下ろしていたガブラスは、気恥ずかしいものを抱えて己の肩越しにヴェインを見た。昼間は厳格だの冷徹だの超人だのと謳われる彼も、今はシワになったシーツを下に敷いて四肢を弛緩させていた。顔は天井に向けたまま、しかし視線だけはガブラスの背中に注がれている。お偉い事務職だというのにトップアスリートにも見紛うほど良質な筋肉に覆われた長身は見事な均整を保ち、それが脱力して横たわっている姿にいっそ倒錯的なほどの色香を認めてしまうことを、ガブラスには否定できない。
「シャワーをご用意しましょうか」
「いや……」
 珍しく歯切れの悪い答えに、上体を捻って振り返る。いつの間にかヴェインの視線は外れ、彼は何かを考え込むように明後日の方角を見つめていた。いつもならば、呼吸が落ち着けばすぐに身を清めに行きたがるヴェインだ。どうしたのかと声をかけようとした寸前、彼が口を開く。
「おまえは可愛げがなくなったな」
「……はあ」
 ヴェインの使う二人称が「おまえ」になるのはこんな時くらいだ。彼に会うまではフィクションでしか見たことのなかった「卿」という単語で呼ばれるのに未だに座り心地の悪さを覚えるガブラスにとっては、ヴェインの崩れた態度こそが可愛げの一端だった。しかし、今のひとことは看過できない。
「可愛げなど、俺に求める方が筋違いでは」
 いかに上司部下の間柄とはいえ、何歳も年下の男から可愛げを要求されていたとは知らなかった。
 可愛げ。ガブラスの自己認識において、己から遥か彼方の距離にあるもの。かつ、ご幼少のみぎりから強いて距離をとり続けてきたもの。何故なら、あれは今でも忘れない五歳の夏、遠縁の親戚に「お兄ちゃんはまだいいけど、この子は本当に可愛げがないねえ」と言われ、それを聞いた双子の兄がまんざらでもない顔をしていたからだ。兄が可愛げとやらを取るのなら、おれはそんなもの絶対に要らない、おさなごころにそう誓ったのである。今になって思えば、兄とて別に可愛げを褒められたわけではない。揃って貶されたようなものだ。思い返すだに、あれ以来ろくに会う機会もなかった遠縁と、この件に限らず気に喰わない兄とに対する苛立ちが湧く。駄目だ、このささくれた気分はラーメンでしか癒せない。
 もはや生唾を飲みかねない勢いでラーメンを求めるガブラスの内心を知ってから知らずか、ヴェインはぱたりと横向きになった。長い手足がシーツを泳ぐ。
「前はもっと必死だった」
「……」
 言われてみれば確かに覚えはある。この関係が始まってしばらくは、経験のなかった同性との交合に普段使わぬ神経をすり減らされたものだ。戸惑ったり焦ったり、それを身に受けるヴェインとて必死だったのは同じはずだが、額から汗を滴らせながら欲望の手綱を握るガブラスの姿に可愛げを見出したと彼が言うのなら、悪趣味だとは思うが取り消しを求めるほどでもない。
「それがどうだ、今となっては汗もひかぬ間に食べ物の話を始めるとはな」
「失礼しました」
 と言う他になにができるのか。ピロートークなどろくすっぽしたことのないふたりだが、それを含み置いても性欲が満たされてすぐに食い気に移るというのはマナー違反なのだろう。とはいえ、気のない謝罪はお気に召さなかったらしく、ヴェインが拳を突き出してガブラスの腰を打つ。地味に痛い。
「副社長」
 二発目三発目の拳が飛ぶ前に、ガブラスはことさらに堅苦しい呼び方でヴェインのささやかな暴挙を押し留めた。どんな風の吹き回しだと胡乱げなまなざしを遮るように、彼の頬に垂れた髪をかき上げてやる。
「俺の可愛げがなくなったのなら、それは充分に場数を踏ませてくださった方がいるからですが」
 それきりヴェインは押し黙った。ガブラスが場数を踏むのにはヴェインの承認、あるいは要求が必要である――そしてこれまでの実績上、彼の要求による場合の方が多い――ということにまで思い至らなかったらしい。怜悧慧敏な彼らしくもなく奇特な失言は、それだけヴェインも気を抜いていることの証左だろう。わずかに血色を増した肌を見ることで、ガブラスはまんまと溜飲を下げたのだった。

 それで、シャワーは浴びるのか浴びないのか。第二ラウンドだと言うのならガブラスとてやぶさかではない。やぶさかではないが、本当のところはラーメンを食べに行きたい。深夜営業のチェーン店でもいいし、確かここからそう遠くない繁華街の端に屋台が出ているはずだ。目下のところ、ガブラスにとっての満額回答は「軽くシャワーを浴び、ラーメンを食べに行って、歯を磨いて眠る」だった。
 速やかに気を取り直したヴェインは、しばらく全裸でごろごろする怠惰を楽しんでいたが、やがて存外に機敏な動きで起き上がった。
「行くぞガブラス」
「どちらへ」
「ラーメンだ。おまえの言う『安いラーメン』とやらを食べさせろ」
 言い捨ててヴェインが寝室から出てゆく。シャワーを浴びるのだろう。こんな深夜に食べつけないジャンクフードを食べれば腹具合のひとつも壊しかねないところだが、相手はヴェインだ。明日の胃もたれを心配せねばならないのは、年齢の分だけ不利なガブラスの方だろう。
 水音が流れる遠い音を聞きながら、ガブラスも立ち上がった。せっかくだから「深夜の安いラーメン」の本式、夜鳴きの屋台ラーメンを食わせてやろう。出汁よりも塩気の勝つスープ、そのスープと脂がよく絡まる縮れ麺、筋張ったシナチクに合成着色料のピンクが目に鮮やかなナルト、申し訳程度に添えられたネギの切れ端。卓上の業務用コショウはむせるほどかけるのが正解だということも、スープを飲んだ後はビールよりも冷たい水の方が美味いのだということも、ヴェインはきっと知らない。
 まずは深夜の屋台に相応しい恰好を用意してやらなくてはならなかった。ガブラスはあるじのクローゼットを遠慮なく開け放つ。ずらりと並ぶ高級テイラーメイド品の中からいかにして庶民的な服を選び出すかという難題を前に、己が全裸であることも忘れて立ち尽くすのだった。