捻れた小指

 ヴェインの右手には僅かな瑕疵がある。恐らくは本人すら平素は気に留めもしないだろう、しかしその小指の骨が捩れていることをガブラスは知っている。
 どのようにして歪んだのかは分からない。ペンの持ち方がおかしいわけではなく――当然だ、彼はヴェイン・カルダス・ソリドールなのだから――骨折でもしたものが向きをずらして治ってしまったのかもしれないし、単に先天性のものかもしれない。
 いずれにせよ、ヴェインの左小指は真っ直ぐに伸びることはない。どれだけ力を込めようと、第二関節から指先に向かって緩いカーブを描く。その瑣末な畸形を隠すように、彼は拳を軽く握り、後ろ手を組むのが常だった。ガブラスはヴェインの背後に控え、巧妙に隠蔽された綻びを視線で追う。

 その日も、ヴェインは後ろ手を組んで立っていた。右の指を小指から順番に折り、親指で封をして、右手首に添えた左手指でさらに覆う。父王の面前であってもその立ち姿は変わらない。
 ガブラスはヴェインの後ろ、真後ろよりも右に半歩ほど軸をずらした位置に控えていた。常であれば、いかなジャッジマスターといえどもソリドールの家長とその継子との面談に臨席する謂れはない。しかしガブラスは今日ここにいなくてはならなかった。
 ヴェインの告げる計画に、さしものグラミスも喫驚を隠しきれないようだった。玉座に張り付いたまま、皺に埋もれた両目をこじ開けた皇帝の視線は、ヴェインを通り越してガブラスに突き刺さる。
「まさか――ジャッジ・ガブラス、貴殿が」
「陛下、誤解なきよう。ランディス併合以降、双方の関係は完全に消滅しております。……相違ないな、ジャッジ・ガブラス」
 そうだ、ランディスが滅びてから――否、それよりも前、滅びゆく祖国と病に冒された母を捨ててあの男が出奔したその夜から、己は母以外の血縁を永久に失ったのだ。 
 振り返ることもなく低く念を押すヴェインの声に、ガブラスは静かに頷き、兜を外した。ローゼンバーグ将軍、と皇帝が呟く。その手元にはバッシュを描いた似姿がある。
 バッシュ・フォン・ローゼンバーグがもとランディスの貴族の出であったことは既知の事実だ。しかし彼には双子の弟があり、その弟が帝国のジャッジマスターであるということを知るものはほとんどいない。ゆえにこそ、ヴェインの計画は成立する――ラミナス王を暗殺し、その罪をバッシュに被せることで、ダルマスカにおける反帝国勢力の結集を未然に阻止する、その計画を実現できるのはひとえにガブラスの存在あってこそだった。
 名を捨て、誇りを捨て、個としての人格を抹消するジャッジの鎧を身に纏ったその日から、ガブラスに拒否権があったことは一度もない。公安総局、栄えあるアルケイディア帝国の秩序を護持するガーディアン、実質はソリドール家の武装親衛隊。ヴェインの描く壮大な青写真の中で、ガブラスはほんの一角を占める書き割りにおける駒のひとつに過ぎない。
 老いた皇帝が玉座に背を預け細く長い息を吐いたのを潮に、ヴェインは計画の詳細を語り始めた。低く澱みなく流れる声を音としてのみ知覚しながら、ガブラスは再び、ヴェインの右の小指に意識を向けた。
 伸ばし始めてしばらく経つ髪が顔の横に垂れるのが不快だった。まばらに伸びつつある髭も、ともすれば怯えにも似た皇帝の視線も、滔々と流れるヴェインの声も、すべてが、何もかもが。
 拳から零れた小指を見る。その骨が捩れていることを、ガブラスは知っている。

「……形になってきた、と言うには些か早いか」
 執務室に戻ったヴェインの第一声は主語を欠いており、何を指すものかガブラスには咄嗟には分からなかった。一拍の間を置いて、ヴェインの目がガブラスの兜――顔に当たる部分を見ているのでようやく思い至る。
「決行まであと半年ほどの見立てです。それまでには」
「頼んだぞ、とも言えまいな。卿とて髪や髭の伸びる速度を操れはしまい」
 ダルマスカの醜聞はともかく、とヴェインは口角をわずかに持ち上げた。珍しいことに機嫌がいいようだ。結局のところ、己の立てた計画を皇帝に丸呑みさせたのだから無理もないだろう。
「さすがのジャッジ・ガブラスも気は咎めるか」
「……何のことでしょうか」
「血の繋がった兄を陥れるのは」
 かたん、と軽い音がした。ヴェインが弄んでいたペンをホルダーに挿したようだった。
「謁見中、少しばかり気が散っていたのではないか」
 ガブラスは逡巡した。沈黙を選びこの場を早々に辞するのが最善のように思われたが、今のヴェインがそれを許すとも考え難い。素顔の見えぬのをいいことにガブラスは奥歯を噛み、数少ない選択肢から最も稚拙だが、ヴェインのふたつ目の問いを回避するための回答を差し出した。
「私に兄はおりません」
 ヴェインは軽く息を吐いた。ガブラスの返答がお気に召さないのは明白だが、これ以上を深追いする気配はない。
 沈黙を埋めるように、執政官は両腕を持ち上げた。肘を机に乗せ、左右の指を互い違いに組む。まるで歪んだ小指を見せつけるようだった。
「今夜は冷えるな」
 彼の視線は窓の外に向いていた。園丁が丹精込めて四季を演出する庭には夜の帳が降り始め、時折吹く北風が常緑樹の梢を揺らす。少ないながらも咲いているはずの花の色は、薄闇に覆われて判然としない。
「冷えると指が痛む」
「……指にお怪我でも」
 ガブラスは努めて平静を装った。まさか、彼の指を注視していたことに気づかれてはいまいが――
「古傷だ。産まれた時からの」
 ヴェインが指を解き、右手の広げた五指を目の高さに掲げる。そうして見れば、小指が他の指よりも外側にやや反っているのがよく分かる。
「私は難産だったそうだ。ソリドールの四人の男子の中で最も長くかかったと。この指を、」
 と言いながら、ヴェインは小指を浅く折り曲げて見せた。あるいは、浅くしか曲げられないのかもしれない。
「子宮か産道に引っ掛けたようでな。成長すれば治ると言われていたが、ついにこのままだ」
「それは、」
 ガブラスからの反応を期待していなかったのだろう、ヴェインは左眉を持ち上げて、指越しにガブラスを見た。
「さぞかし居心地がよろしかったのでしょう」
 どうしてこんな愚にもつかぬことが口から飛び出たのか、ガブラス自身には分からない。それは極めて衝動的なひとことだったが、ヴェインは思いのほか、この言い回しが気に入ったらしかった。
「……違いない」
 それで雑談を切り上げ直近の戦況などを浚いはじめるヴェインに一礼し、ガブラスは執務室を辞した。
 回廊を歩みながら、ひとつの映像を空想する。柔らかく温かな水に満たされた小さな部屋に、胎児が眠っている。身体を丸め、ゆるやかな呼吸を繰り返す彼の眠りを妨げるものがある。部屋はたちまち緊張にこわばり、優しい水は温度を下げながら流れ出す。大きな手に臍帯を掴まれ引きずり出される胎児は、何とか抗おうと必死にもがく。未発達な手足がじたばたと暴れ、その右手がかろうじて部屋の壁を捉えるが、彼はついに世界に放り出される。最後まで壁に引っかかっていた小指にささやかな不具を残して。
 胎児は泣き喚く。産み出されたことを喜ぶためではなく、ましてや肺呼吸を始めるためでもなく、あの居心地のいい小部屋を永久に喪失したことを嘆いて泣く、それを産声と思い込む人々の笑顔の、何と恐ろしいことか。
 ――実に悪趣味な妄想だった。しかし、ヴェインが世界を拒絶し、産まれることに抗いながら産まれてきたのだと思うことは、奇妙なほど愉快だった。
 自室に戻ったガブラスは鍵をかけ、重い鎧兜を脱ぐ。洗面所の鏡に映った顔は、半端に伸びた髪と髭に囲まれた間抜け面だ。あと数か月のうちに完成する、ヴェインのための虚構が。
 ヴェインの組んだ指を思い出す。あの時の見透かすような眼が、弄ぶような言葉が、笑ったふりをする唇が、見下すような声色が、すべてが憎悪の対象だった。祖国を滅ぼされる遺恨を、母を死に至らせた失意を、膝を折り服従する屈辱を、忘れた日は一日とて存在しない。ヴェイン、ソリドール、アルケイディア、己から生命以外の全てを奪った仇敵。
 憎しみはまだ確かにここにある。ただひとつの例外があるとすればそれはあの小指、この世界を拒絶するためのささやかな抵抗の証であるわずかな歪みだけだった。