ash

【ash】灰。灰燼、火事跡、廃墟。遺灰、遺骨。

(なんだ、ここは……)
 何もない空間にフリオニールは立っていた。地面も空もない、色も形も置き忘れてきたような世界。
 たった今まで、自分はイミテーションと闘っていたはずだ。見えないひずみに飛び込んでしまったのだろうか。そうだ、ティーダはどこにいるんだろう、クラウドもセシルもいないから、今はたったふたりだ。彼は大丈夫だろうか。
 おろおろと辺りを見回すその耳に、ぱたぱたと軽い足音が重なって聞こえてきた。

 ――こっちだ、フリオニール。早く来いよ。
 ――待ってよレオンハルト、マリアが転んじゃったんだ。

 きらきらとはなやぐ声。小さな身体に明るく輝かしいものだけをめいっぱいに詰め込んで、憂いも穢れも弾き飛ばして駆けてゆく子供たち。にいさん、と呼ぶ涙声さえ愛らしい。
 見るな。フリオニールの意識はそのように命ずる。見るな、これは何かの罠か間違いだ。幼い頃の懐かしい思い出を愛でるだけでは済まない。そう分かっていた。けれど、視線は声の方へ向かってゆく。
 前のめりに倒れてしまった少女を、銀髪の少年が手を引いて助け起こす。その後ろに立つ黒髪の少年が待ちきれないとでも言うように足踏みしている。少女が立ち上がり、走り出した三人の子供の姿がぐにゃりと歪んで消えた。
 視界の隅にノイズが走る。大きな木の根元に円になる、さっきより大きくなった子供が四人。銀髪の少年、黒髪の少年、ひときわ大きな体躯の少年、それから少女。

 ――今日は私が全部作ったんだから!
 ――うそつけ、母さんがやってくれただろ。
 ――違うもん、ちょっと手伝ってくれただけだもん。

 少女が頬を膨らませながら、けれど誇らしげに包みを開く。うまそうだな、と笑う銀髪の少年、覗き込んで目を輝かせる大柄の少年。この卵焼きはお父さんのおすみつきなの、と少女が胸を張り、四人は今日の糧に感謝の祈りを捧げる。拙く組み合わされる細い指は、この世の全てのさいわいを閉じ込めていた。
(もうやめてくれ)
 他愛のない、ありふれた、しあわせな光景。大木は濃い緑の葉を繁らせ、降りかかる痛みと災いから四人の子供達を守るように枝を広げる。笑い声だけを残して、空間が割れる。
(やめろ、もういい)
 拳の中で、爪が掌の皮膚を破る。疼痛を握りしめたまま、網膜を貫く黒い赤い焔を見た。
「……やめて、くれ」
 掠れた懇願は自分の声ではないようだ。影を縫い止められたように身体が動かない。フリオニールはこの焔を知っている。全てを燃やし、焼き尽くし、呑み込む焔。世界の全てを服従させることだけを望む、あの支配者の貪欲な魂そのものの焔を。
 背後から悲鳴が聞こえる。逃げろ、と叫ぶ男。助けて、と泣く少女。置いていけ、と呻く老人。あの子がいないの、と喚く女。全ては剣戟に切り裂かれて、力を失った肉が地面に倒れ込む鈍い音だけが残る。

 ――フリオニール、こっちへ!
 ――駄目だ、まだ人がいるんだ、先に行ってくれ!
 ――フリオニール!

 あの時、自分は何をしようとしたのだろう。何ができるつもりでいたのだろう。非力な狩人、森の獣しか相手にしたことがないくせに、何に抗おうとしたのだろうか。
 閃光が走る。引きずられるように振り向いたフリオニールの眼前には、灰燼に帰した村が広がっていた。生命のささやかな調べは、永久に絶たれてしまった。あの大木が、墓標のように傾いで、倒れた。

 ――貴様のせいではないか、フリオニール?

 声が響く。ありとあらゆるものを睥睨し、嘲り笑う声はフリオニールの頭の中でこだまする。

 ――貴様が弱いからだ、虫ケラめ。貴様のせいで皆死ぬ。そうだろう。

 割れた空からがくん、と何かがぶら下がった。いくつもの奇妙な果実、だらりと力の抜けた手足が揺れて、血の雫を滴らせる。見覚えのある具足、武器、吹き抜ける風が、破れた白い魔導師装束の裾をはためかせた。
「っあああああああ!」

 自身の叫びで意識が覚醒する。起き上がると頭がひどく痛んだ。後頭部がずきずきと割れるようだ。心臓が破れんばかりに早鐘を打つ。突然、内臓がひっくり返ってフリオニールは胃の中のものを吐き出した。胃液に混じる鮮血は喉が切れたからだろうか。
「……ッ、フリオニール!」
 耳鳴りの向こう、遠くで自分を呼ぶ声がする。緊迫にほんの少しの安堵が混ざったそれが何故か恐ろしく感じて、フリオニールは震える身体を両腕で抱いた。
「フリオニール、大丈夫か?」
「ッ来るなっ!」
 長い草を掻き分けてやってきた少年が、フリオニールの言葉にびくりと足を止める。伸ばされる手を振り払って、眩暈のする頭を抱えた。あの声が聞こえる。フリオニールの頭蓋骨を反響させながら。

 ――貴様に守れるものなどありはしない。
 ――貴様のくだらぬ夢などいずれ塵と消えるだろう、他ならぬ貴様の弱さの故に。

「やめ、ろ……」
 ――忘れたのならば今思い出すが良い、貴様の子供騙しの抵抗で、いったいどれだけの命が喪われたのか。
「ちがう、俺たちは、」
 ――案ずるな、これが終われば楽にしてやる。そこの哀れな夢まぼろしも消える。
「やめろ、黙れ、」
 ――貴様には何ひとつ救えんと思い知れ、虫ケラよ。

「黙れえッ!」
「フリオニール!」
 ぐんと伸ばされた腕がフリオニールの頭を抱え込む。暴れる腕にあちこちを殴打されながら、それでも離さないと言わんばかりに力がこもる。今にも破裂しそうな頭が剥き出しの滑らかな肌に押し付けられて、人肌のぬくもりが身体を包み込む。
「どうしたんだよフリオニール、もう大丈夫だって、落ち着けよ」
 イミテーションは全部倒したからさ、どこか打ったんだな、今ポーション出すから大人しく寝ててくれよ。そう宥めるティーダの胸に頰を押し付けたまま、フリオニールは恐ろしいほどの寒さに全身を震わせた。
 寒い、冷たい、内臓が凍った鉄になってしまったようだ。抱き締める少年の身体は温かくしなやかな弾力を伝えてくるのに、自分は墓から甦った死人のように冷え切って強張っている。胃酸に焼かれた舌が痺れる。

「俺は、」
 ――おまえを救えないのか?
 傲慢な支配者の声はもう止んだのに、残響がいつまでも脳髄を責め苛む。

「おまえ、は、」
 ――消えてしまうのか、これが終わったら。

 続かない言葉を呑み込むフリオニールをどう受け取ったのか、ティーダは殊更に明るい声を出した。
「おれ? おれはぜーんぜん平気、ありがとな。ほら、ちょっと倒すぞ、ゆっくりな」
 背中に手を添えられて、慎重に押し倒される。見上げた視界には青い空とハレーションを起こす陽光。心配を混ぜた笑顔のティーダに、荒れ果てた廃墟とぶら下がる死体の幻影が重なって目を見開く。
「どした、フリオニール? ポーションかけるぞ?」
 顫動は止まなかった。ティーダの手が触れるあたたかさに寒気を覚えて、太陽の永久に去る夜が来ることを恐れた。