dragon

【dragon】ドラゴン、竜。(くだけて)おそろしい女性。厳しい婦人。

「あらあら、へっぽこくんがこんなところで何をしているのかしら?」
 上から降ってくる何とも高圧的な声に、ティーダはがばりと起き上がった。浅瀬に仰向けに倒れこんでいたようだ。髪から滴った雫が首筋を伝う。
 声の主を探しあぐねて視線を彷徨わせると、横っ面を強かに張り飛ばされた。ぐう、と痛みに呻くティーダを見下ろして、はあ、とこれ見よがしな溜め息がひとつ。
「相変わらず躾がなっておりませんのね、これだからへっぽこくんはいつまで経ってもへっぽこなのですわ」
「いやあの」
「挨拶には挨拶、質問には回答。返事は速やかに。教えてもらわなかったのかしら?」
 じんじんと痛む頰を押さえて、くどくどと小言を言う淑女の姿を探し当てる。その小さな身体で仁王立ちになった最凶の魔道士は、目が合うと不敵に笑った。
「ま、大目に見て差し上げましょ。あのくだらない闘争を終わらせた、ご褒美ですわ」
 くるりとターンしたシャントットは、呆気に取られるティーダを置いてぴょこぴょこと歩き始めた。動かない、動けない少年に気づいた彼女は、ふん、と鼻を鳴らす。
「ついてらっしゃい。お茶の時間ですわ、相手をなさいな」

 季節などないかのように咲き誇る花々に囲まれて、瀟洒なテーブルセットが広げられる。淑女がぽんと手を打つたびに、テーブルクロスが、クッションが、ティーセットが、茶菓子が虚空から現れて、行儀よく配置についた。
「お掛けなさい」
 促されるままに彼女の向かいに腰を下ろす。力加減を誤ったらぽっきり行ってしまいそうなカップから、柑橘系のしとやかな香りを纏う湯気が立ち昇っていた。茶菓子は硬く焼き締められたビスコッティ。つい手を出しかけて、淑女の雷――比喩ではなく――に撃たれる恐ろしさに背筋を正す。
「さて、迷子のへっぽこくん」
「まいご」
「迷子でしょうとも、来た場所には帰れず、行く先も見つからないのだから」
 彼女の言葉に、ぐっと唇を噛み締める。
 確かにその通りだった。秩序と混沌の闘争は、クリスタルの加護を受けたティーダたちの勝利に終わった。召喚された戦士たちは各々の世界に戻っていった。別離の切なさと、これからへの希望を滲ませながら。
 帰る場所のある仲間たちを見送るのが怖くて、帰る場所などないと分かっていたティーダは真っ先に駆け出した。おれはここにいるから、と口を突いて出た言葉は、最後まで殺せなかった願望に過ぎない。口の中に広がる苦い酸味に、膝の上の拳を握った。
「博士、おれ」
「発言を許可しますわ」
「おれ……」
 せっかく許可を貰ったのに、言葉は見つからなかった。
 何とかならないのかな? 何ともならないことは自分が一番分かっていた。
 オヤジはどこに行ったんだ? 彼が消えるのを目の前で見たのは他ならぬ自分だ。
 もうみんなとは会えないのか? 会えるはずがない、彼らには彼らの世界があって、全ては互いに交わらない。
 優雅な手つきでカップを取り上げたシャントットは、ティーダの懊悩など知ったことではないという顔をしている。
「おれ、どうなるのかな、博士」
「どうなる、とは?」
「元の世界に戻る方法とか、ないのかな」
「ありませんわ」
 にべもない答えに、全て覚悟の上で訊いたはずだったのに肩が落ちる。それをシャントットは淡々と眺めている。観察されているようだ、というかこれも彼女にとっては生体実験のようなものなのだろう。
「よろしくて? あなたはひとつの現象ですの」
「現象?」
「ええ。運動、と言い換えてもよござんす。蹴られたボールが転がって行ったり、引かれた車輪が廻ったり、そんなことと仕組みは同じですわ」
「……分かんねえっす」
「最後までお聞きなさい。そして、永続する運動はありません。エネルギーは逓減していずれゼロになり、物体を運動させることはできなくなる。ここまではへっぽこくんにも解りますでしょ?」
 仕方なく頷く。エネルギー保存の法則というやつは、魔法があろうとなかろうと同じことらしい。博士の理路整然とした言葉が、どうしても諦めきれずに首をもたげる希望を丁寧に潰していくようだった。
「あなたの運動を要請したエネルギーは、すでにゼロですわ。あなたは夢から引きずり出されて災厄の輪廻を絶った。そうでしたわね?」
「……うん」
「ですから、これ以上あなたはどこにも行けません。あなたというボールを蹴る脚も、あなたという車輪を引く手も、あなたの世界にはすでにないのだからして」
 そこで言葉を切ったシャントットは、せっかくのお茶が冷めますわよ、と言い添えてビスコッティをかじった。
 シャントットの言葉は正しい。役割を果たした自分の居場所はもうどこにもないのだ。祈り子は長い夢見から解放された。これでよかったのだ。スピラを支配する哀しい物語にピリオドを打つことができた、それは間違いなくティーダの誇りだった。めでたしめでたし、の後に自分の出番がなかったとしても。

「……とまあ、ここまでは閉鎖系の中での話ですわ」
 淑女の言葉に顔を上げる。彼女が何を言いたいのか、ティーダには分からない。
「それぞれの世界は独立した閉鎖系ですの。箱庭のようなもの、と言えばへっぽこくんにも解りますかしら」
「……」
「独立した閉鎖系は互いに干渉し合うことはありませんわ。ごくごく稀に系の壁を越える者もおりますけれど、大抵の場合は偶然に過ぎませんの」
 わたくしほどの力があれば不可能ではありませんけれどね、と澄ました顔をするシャントットをじっと見つめる。
「あら、期待しないでちょうだいな。わたくし、他の宇宙に手を加える気まではありませんのよ。そんなの退屈ですもの」
「……だよな」
「話が逸れましたわ、黙ってお聞きなさいへっぽこくん。さて、ここにいるあなたは運動エネルギーを持たずに静止しているチェスの駒のようなもの。放っておけばそのうち崩れて消えることは避けられませんし、再び動き出したいのなら、誰かに蹴られるなり投げられるなり引っ張られるなりしなくてはなりませんわね」
「そんなの……誰も」
「お黙りなさいと言ったのが聞こえなかったのかしら? このままあなたを放り出してもよくってよ?」
 慌てて両手を挙げて恭順の意を示す。それに満足したように笑った大魔導士は、その小さな手の小さな人差し指をぴこんと立てた。
「本当に心当たりがないのかしら? へっぽこくん」
「……」
 ――ない、わけではない。けれどそれを心当たりと呼ぶにはあまりに傲慢な気がして、ティーダは躊躇う。
 ある時から、それはティーダの希望だった。何もかもが曖昧で不確かな世界で、たったひとつの。
(おまえが夢だっていうなら、俺がおまえの夢を見るよ)
 彼の言葉は希望だった。希望だったけれど、約束ではなかった。結局、何の約束もできないまま、二人の手は離れてしまった。
「あら、これではあちらのへっぽこくんも可哀想ね」
 ふふ、とらしくもなく柔らかな笑いを漏らした彼女は、ひらりと手を翻す。次の瞬間、手品のように一輪の花が現れた。ティーダは息を呑む。あえかな曲線で折り重なる紅の花弁に、鋭い棘を纏って凛と伸びる濃い緑の茎、それは。
「何といったかしら、『無限の可能性』? あなたは信じていたのではなくて?」
 凪の海を閉じ込めたような青い瞳が、水を湛えて揺れている。シャントットはぴょんと椅子を降りた。
「確かな約束がなければ動けないような腰抜けなのかしら」
 淑女はやれやれと首を振る。バインドでもかけられたように硬直するティーダを見上げた。
「ちょうど雑用係が欲しいと思っていたところですの。あなた、手伝いなさいな」
「へ?」
「こき使って差し上げますわ。あの器用貧乏なへっぽこくんが、あなたの夢を見るまで」
 少年は言葉もなくシャントットを見つめている。呆然とした表情はやがてくしゃりと歪んだ。泣き顔ではなく、笑い顔に。
「博士、ムチャクチャっすね」
「あら、常人のつまらないものさしでわたくしを測るだなんて愚かですわ」
「ほんと、わけわかんないくらい」
「へっぽこくんには一万年経っても理解できませんことよ」
 杖の一振りでテーブルセットを片付けた淑女は、館に向かって歩き出した。後ろを仔犬のようについてくる少年には見えないように、小さく微笑みながら。
「博士、おれ、今すぐに消えなくていいんだよな?」
「きちんと働いてくだされば、わたくしもあなたの形を留めておくのにやぶさかではありませんわね」
「働く、働く! 何でもやるよ、おれ、結構家事できる方なんだぜ?」
「期待しないでおきましょ」
 シャントットにも確証はなかった。彼女の箱庭にいる限りは、少年の魂を維持してやることはできるだろう。この強大な魔力を以ってすれば難しいことではない。問題は、このへっぽこくんをあちらのへっぽこくんにどうやって引き渡すか、ということだった。この繊細な魂に、閉鎖系の壁を超えさせなくてはならない。単なる気紛れだったが、なかなかに歯応えのありそうな研究テーマだ。
「さ、まずは書庫の整理から始めていただきますわ。こちらの山を元の場所に戻してきてちょうだいな」
「元の場所、ってどこっすか……」
「分類を見ながら判断なさい。手抜きしたら放り出しますわよ」
 ひええ、と首を竦めたティーダが、ぶつぶつ言いながら山のひとつを抱えて書棚の奥に引っ込んでゆく。従順でよいことだ。淑女は机に向かい、一枚の白紙を取り出した。
「……わたくしにも、」
 ふと漏れた独り言に、彼女は苦笑した。馬鹿馬鹿しいことだが、自分にもそんな頃があったはずだ。愛とか夢とか希望とか可能性とか、そういうものを一心に信じていた時期が。
「いやですわ、早速当てられてしまったのかしら」
 あの少年には、どうにも調子を狂わされる気がする。片付けが終わったら、この間開発した魔法の実験台にでもなってもらおうか。そうだそれがいい。
 身もふたもない思いつきに気分を良くして、シャントットは研究計画を立て始めた。ティーダが「何だこの文字」と唸っているのも、悪くないBGMだった。