husky

【husky】低くかすれた魅力的な声、風邪などで枯れた声。

「行ってくる」
「あとは頼んだよ、フリオニール」
「昼は戻らない、適当に済ます」
「夜の分の食糧は僕らが採ってくるから心配しないで」
「水は汲んでおいたから好きに使え」
「万一のことがあったらひそひ草で連絡して」
「夕方になったら帰る」
「そうだね、日が沈み始める頃にここに戻ってくるよ」
「あ、ああ……」
 打ち合わせでもしていたのかと訊きたくなるくらい、見事なテンポで畳み掛けるセシルとクラウド。フリオニールが圧倒されている間に、それじゃ、と各々片手を挙げて背を向けた。
 残されたのはフリオニールと、綺麗な水で満たされたバケツがみっつ、いくらかの果物、それからテントの中でうんうん唸っているティーダだった。

 ティーダが風邪をひいた。
 昨日薄着で木枯らしに吹かれたからだ。薄着なのはクラウドも同じだが(セシルとフリオニールは鎧とマントがあるのでまだマシだ)、その前に水遊びをしていたのがよくなかった。止めなかったフリオニールたちも悪いが、何しろ気候のめちゃくちゃなこの世界、うららかな春の陽気が一転して空っ風になるとまでは予想出来なかったのだ。
 夕食の準備中にくしゃみが出始め、食べ終わる頃には鼻をすすり、寝る頃には寒気がするのをごまかして、夜中に発熱した。罹患の経緯から症状の出る順番まで、まるでお手本のような風邪のひきっぷりだった。
 朝になっても熱は下がらず、三人の休息も兼ねてティーダの回復を待つことにした。背負ってでも進まなければならないのかもしれないが――何しろ世界の存続がかかっているので――本人が言うことには、大抵の場合、風邪をひいても一日でほぼ回復するらしい。意地を張っているのかもしれないが、一日二日くらい様子を見てもいいだろうと年長組が判断した。そして、彼らはフリオニールを看病係に任命すると、そそくさと探索に出て行ったというわけだ。

 限りなくおちょくりに近い気の遣われ方に思えて仕方ないが、フリオニールは気を取り直して焚火を熾し直した。薬を煎じてやらなければ。クラウドが汲み置いてくれた水を小鍋に注いで沸かす。仕分けてあった薬草を調合した。この薬は苦いので、一緒に甘い果物でも持っていってやろう。ちょうど桃がある。
 薬湯と剥いた桃を盛った皿を手に、テントの入り口をめくった。四人分の毛布を被せられたティーダは、うつらうつらしているようだ。もこもこに埋もれているさまは小動物のようで愛らしいが、呼吸が荒い。顔も赤く、額にはうっすらと汗が浮いていた。起こすのがかわいそうだが、薬を飲ませたい。あとで身体も拭いてやろう。フリオニールはティーダの脇に腰を下ろし、肩を叩いた。
「ティーダ、少しだけ起きられるか。薬を飲んでくれ」
「……んー……」
「ティーダ」
「んぅー……」
 むずかる様子が可愛く見えてしまうのは、惚れた欲目だ。もにゃもにゃしながらも薄目を開けたティーダが、フリオニールの顔を認めて眉尻を下げた。
「あー……ふりおにーるだ」
「ああ、フリオニールだぞ。ほら、起きてくれ」
 背中に腕を差し入れて出来るだけ丁寧に上体を引き起こす。ぐらん、とティーダの頭が揺れた。芯の入っていないぬいぐるみのようにくたくたの背中に、丸めた毛布と枕を当てがって支えてやる。汗で湿った寝間着越しに、ずいぶんと熱が上がったのを知る。つらいだろう。
「うわ、苦そう」
「少しな。でも口直しに桃があるから」
 ぐいっと一気にいってしまえ、と、ちょうど飲みごろに冷めたカップを握らせてやる。喉まで腫れたのか、声がいつものハリを失って弱々しく掠れていた。けほ、と空咳をひとつしてからティーダがカップの中身を煽った。剥き出しの喉がこくりと上下する。
「う~……にが」
「がんばったな、ほら、こっちは熟れてるから美味いぞ」
 カップと引き換えに桃の皿を渡してやろうとする。が、ティーダはしかめ面のままで首を振った。
「どうした? いらないのか?」
「いるっす」
「なら、ほら」
「いやっす」
 訳がわからない。熱を出した病人というのは往々にしてそういうものだが。困ったな、と首を傾げるフリオニールに、
「サービスが足りないっす」
「サービス」
「おれ、病人なのに」
「……ああ」
「苦いの、がんばって飲んだのに」
「そうだな……?」
「むー……」
 察しの悪さにいらだったように、ティーダが唇を尖らせた。その両目に薄く涙の幕が張っているのは、苦い薬のせいか、熱のせいか。
「……ちょっとくらい、甘やかして欲しいっす」
 いつもより少し低い声の語尾が上ずった。顔が先程より赤い。耳朶まで上気した恋人に、フリオニールの口許がぐっと引き結ばれた。
(勘弁してくれ)
 相手は病人だ。重々承知している。もとより人懐こいティーダだ、風邪の諸症状のフルコースで甘えたになるのも無理はない。
 こういう時は思う存分甘えたらいいし、フリオニールだって今日はいくらでも世話を焼いてやるつもりだった。セシルとクラウドだって、ふたりが心置きなく過ごせるようにとあんなことを言って出掛けて行ったのだ。その心遣いは実際のところありがたい。
 焦れたように顔を覗き込むティーダに、フォークで刺した桃を差し出してやる。呆れた、という表情が上手く作れているだろうか。いや、ティーダのことだから、熱で朦朧としていたってフリオニールの内心などきっとお見通しだ。彼は機微に敏感だから。
 餌付けをする親鳥の気分で、桃をかじるティーダを見る。柔らかく瑞々しいそれは、彼の口内を洗って喉を癒すだろう。常ならば凛とまっすぐなまなざしの瞳は、今はとろりと潤んでいる。果汁に濡れた唇が白い実を食んで、緩慢に動いた。次を催促する舌がちらりとなびく。
(……ああもう、)
 器が空になる頃には、親鳥どころではなかった。胸の内で頭をもたげる不埒な肉食獣を抑え込むのに苦労しながら、立ち上がる。そのズボンの裾を、力のこもらない指が掴んだ。不安げに見上げる青に苦笑する。
「ちょっと待ってろ、身体拭きたいだろう?」
 準備してくるから、と言うフリオニールに、ティーダがまた駄々っ子の顔で首を振った。汗に湿って束になった金髪が揺れる。ぐい、と引っ張るのに折れてまたしゃがみ込んだ。
「ティーダ、」
「……うぅ、」
 しかし、彼は何かを言いかけて呑み込んでしまった。その頭を撫でてやるのは、もうフリオニールの癖だ。
「どうした? すぐ戻るぞ、湯も沸いてるし」
「んん……」
「汗かいて気持ち悪いだろ、さっぱりしてからもう少し寝てろ」
「……わかった」
 と言う顔は、雄弁に「もやもやしています」と語っている。フリオニールは苦笑して、その頰を手で包んだ。ちゃんと聞いているから、ゆっくり話してくれ、というふたりの合図だ。
「……うつしちゃう、もんな」
「ん?」
「おまえに、風邪、うつしたくないし」
 だからやっぱいい、とへにゃりと笑うから、胸が詰まった。ティーダが何かを押し殺すのを見るのは苦手だ。どんな我儘でも、今日は叶えてやるつもりだった。食べ物だろうが、添い寝だろうが、なんだろうが。
「そんなヤワな身体じゃないさ、言ってみろ」
「ん、おれがヤワだって言いたいのかよ」
「言ってない、ほら」
 それでも少し躊躇って、やっと顔を上げたティーダがちょいちょいと手招く。誰もいないのに内緒話をするような恰好に、自然と笑みが零れた。
 ちゅー、したい、ちょっとだけ。熱に焼かれたハスキーボイスが囁いて、フリオニールは良識を放り投げた。ちょっとだけ、で済むはずがなかった。

「さあフリオニール、申し開きがあるなら聞こうか」
「……いいえ、ございません……」
「潔さは認めるが、辞世の句くらいは遺しておいた方がいいんじゃないか」
「……殺さないでくれ……」
 夕焼けこやけの空に、雁のような鳥が影になって飛んでゆく。小石の転がる地面にきっちり正座させられたフリオニールは、セシルとクラウドの冷たい視線と声に、黙って背筋を伸ばしていた。
 何があったかはこれでだいたい察して頂きたい。翌日の朝、ティーダの熱が下がったことだけが、満身創痍のフリオニールの救いだった。