freeze

【freeze】凍る、凍結する。凍える。急に止まる。動けなくさせる。

 焚火に放り込んだ枝がぱちりと爆ぜる。あたたかい、というよりは生ぬるい肌触りの夜だ。
 この世界に季節というものはなくて、ひとつひずみを抜ければそこはぎらつく太陽が照りつけていたり、あたたかい雨が降っていたり、一面の銀世界だったりする。退屈はしないが身体にはよくない。今日の朝は蒸し暑いジャングルを抜けて、夕方には樹氷の凍る平原を後にした。セシルもさすがに参りそうだった。
 隣のティーダが小さくくしゃみをした。お大事に、と半ば条件反射のように言ってやると、ふにゃりと笑ってありがと、と返ってくる。
「風邪?」
「いーや、風邪じゃねっす! ちょい鼻がムズムズしただけ」
「本当かい? 無理はしないでくれよ」
「ホントホント。大丈夫だって、でもサンキュな」
 その声はいつも通りで、鼻にかかったところや掠れたふうもない。セシルは表情を和らげて、空になったティーダのカップに茶を汲んでやった。
「フリオニール、大丈夫かなあ」
 今夜の見張りは、元々の予定ではセシルとフリオニールだった。が、夕飯を終えた時に彼が、悪いが交代してくれないか、と言ったのだ。日中の寒暖差で気分が優れないままらしい。一晩寝れば治ると思うんだが、と遠慮がちに申し訳なさそうに体躯を縮こめるのに、じゃあおれが代わるよ、と手を挙げたのはティーダだった。ほぼ同時に引き受けようとしていたクラウドが、おまえが一緒に寝てやったほうがいいんじゃないかと揶揄ったけれど、二人揃って照れて、それからクラウド! と声を荒げたので、それで話は終わりになった。
「一晩寝て、様子を見てからだね……必要なら明日は休息日にしてここに留まろう」
「そっすね」
 とは言ったものの、セシルはそこまで心配していなかった。フリオニールはこういうところはひどく大人びて冷静だ。彼の身体に流れる血は熱く、こと大切なもの――仲間だったり、夢だったり――を傷つけられた時には、周囲が驚くほどの猪武者になるけれど、平時は慎重に客観的にものごとを見て判断できる。その彼が一晩休めば、と言っているのだからきっとそうだろう。
 しかしそれはそれとして、盗み見たティーダはちらちらと背後のテントを気にしている。フリオニールとクラウドが休んでいるテントは静かで、ふたりとも深く寝入っているようだ。
「そんなに心配なら、クラウドに代わって貰えばよかったのに」
 ティーダにちょっかいをかけてやりたくなるのはいつものことだ。このパーティの末っ子は明るく賑やかで少し涙もろい。感情表現が豊かな彼を揶揄ってしまうのは、セシルとクラウドの悪癖のようなものだった。特に、ティーダがフリオニールと想いを通わせてからというもの、こうしてふたりの関係を絡めて彼らの赤面を誘うのは日課のようになっていた。
 しかし、ティーダの反応はセシルの期待したものではなかった。ん、と首を振った彼の視線が、心配というより気配を伺うものであることに気づいたセシルは小首を傾げる。
「どうしたの」
「ん、いや、」
 ぷるぷると頭を振ったティーダがセシルに向き直る。その表情は、セシルの知らないものだった。鎧の下の肩甲骨の辺りにぴりっと緊張が走る。
(――何だ?)
 この目は何だろう。闘うべき相手を見据える、というのとも違う、奇妙な気迫を孕んだ静謐な青。こんなティーダは知らない。ゴルベーザに会いに行けとセシルの背を押した時の力強さはない、実父を打倒すべき敵と語る時の燃えるような熱さもない。そこには押し殺した何かだけがあって、何かがあるはずなのにひどく空虚に感じた。こんなティーダは知らない。
「セシルにさ、聞いて欲しいことがあって」
「……何だい?」
 知らない顔のティーダが口許だけで笑った。悪ふざけが過ぎて自分やクラウドに窘められた時の、罰が悪そうな笑みとは似て非なるものだ。こんな笑顔も知らない。セシルはあくまでも穏やかな態度を崩すまいと努めながら、ティーダの顔にいつもの彼を見出そうとしていた。
 フリオニールとふざけ合って笑う顔、クラウドに茶化されて怒る顔、昂ぶった感情を押し殺せずに涙ぐむ顔、強敵に対峙して緊張を隠しきれずにそれでも奮い立つ顔、セシルが用意する夕食のかけらを口に放り込んでやった時の喜ぶ顔を見たのはほんの数時間前のはずだった。なのに、今の彼にはその片鱗も見当たらない。
「……あのさ、」
 ティーダが手に弄んでいた小枝を火に放り込んだ。乾いたそれは難なく炎に呑まれ、ぴしりと割れる。心を安らがせるはずの焚火の揺らぎも木の芳香も、目の前にあるのにこんなに遠い。ティーダを中心とした空間だけが現実から切り取られたようだ。何かがおかしい、おかしいのはセシル以外の全てか、あるいはセシル自身なのか。
「今からおれ、変なこと言うけどごめんな」
 深海の底から湧き上がるような声だ、と思ってその比喩にぞっとした。
 水の申し子、泳ぐ彼を見て、水中の戦場を用意してやれないのが申し訳ないくらいだと言っていたのは誰だったか。その時、セシルたちは陽光を跳ね返して輝く湖のほとりにいたはずだ。ずいぶんと長いこと潜るティーダを心配し始めたセシルの視線が、水面を割って飛び上がる金色に捕らわれた、その舞う鳥のように伸びる首筋を覚えている。彼はいつの間に水底に沈んでしまったのだろう。早く上がってきてくれなくては、息が続かなくなってしまうというのに。
 ティーダが口を開く。言葉が出てきてしまう。嫌だ、と思った。嫌だ、聞きたくない。頼むから止まってくれ、僕の知っている彼を返してくれ。お前は誰だ、太陽の形をした虚ろなモノ、ティーダの持つ美しく輝く全てを、自分たちが愛する煌めきのありったけを、そっくり捨て去った何か。お前なんか知らない。胃の腑が絞り上げられるような恐怖に吐き気がする。
「――おれはさ、本当は、ここにいちゃいけないんだ」
「……どう、いう」
 絞り出した声は掠れていた。駄目だ、しっかりしろ、僕がティーダを取り戻さなくては。いや無理だ、誰か来てくれ。僕の手には負えない。
「おれは、存在しちゃいけないんだよ、もう」
 ――だって全部終わったから。そのために存在していたから、でも全部終わったから。祈り子たちが望んだ通りに、役割を果たしたから。
 どこか笑いのようなものさえ香らせてティーダが詠う。彼は何を言っているのだろう。シヴァに抱擁されたように全身の血が凍りつく。まとわりつく空気は生ぬるく肌を舐めるのに、気管が痙攣するほど寒かった。
「ごめんな、セシル、でもこんなこと他の奴には言えないからさ」
 声は囁くようだった、それなのにひどく重く響いた。
 どうして。どうして僕だったんだ、ティーダ。僕には分からない、何も理解できない。ここにいてはいけないだなんて、存在してはいけないだなんて、祈り子とは何のことだ。役割だって? きみの務めはまだ終わっていない、僕らと一緒にこの世界を救うんだろう? 前に進むために、闘い続けるために、きみが一緒にいてくれるんじゃなかったのか?
 問いはひとつも言葉にならない。目を見開いて震えるセシルを眺めるティーダの目が、憐れむように細められた。やめろ、そんな目で見るな。僕たちの太陽をどこにやったんだ、返してくれ。ティーダを返してくれ。
「……あ、」
「ティーダ、代われ」
 セシルの開いた口から叫びが転がり出る寸前、静かに近づいてきたのはクラウドだった。途端に動き出した世界に酸素を求めて肺が喘ぐ。風に揺れてざわめく木の葉、夜行性の鳥のさえずり、クラウドのブーツの下で擦れる小石。くるりと振り返ったティーダは、セシルの渇望した邪気のない瞳で笑った。
「どうしたんすか?」
「交代だ、お前も少しは休め」
「おれ、ヘーキっすけど」
「フリオニールについててやれ、よく寝てるから襲ってもいいぞ」
「わ、またそういうこと言うんだ、意地悪っす」
 ふたりの会話が耳鳴りの向こうにぼやけた。それじゃお言葉に甘えて、と立ち上がったティーダが、セシルの顔の前で手を振る。
「セシル、ごめんな?」
「ああ……」
「眠くなったら起こしてくれていいかんな、ホント」
 いいから行け、とクラウドが促す通りに、おやすみと言い残してティーダが去る。その背中が蜃気楼のように揺らいで、セシルは息を呑んだ。何か話しかけてくるクラウドの声も届かなかった。