The coast is clear

 ああ、なんて、自分勝手で臆病でずるい男なんだろう、こいつは。

 このとんでもない大所帯による飛空艇の旅にも慣れた。ティーダの知っている飛空艇とは少し具合が違うようだが、馬鹿でかい船を飛ばすのに特段の興味を抱かないティーダにとって、いかにも複雑そうな動力機関の仕組みなど知ったことではない。要は飛んでくれればいいのだ。雪だるま式に増えてゆく仲間たちを漏らさず収容して、あの頼れるのか頼れないのか分からないモーグリの示す次の目的地まで行ってくれれば、それで。
 本日、舵を取るのはバルフレアだった。少しばかり気障ったらしい言い回しもサマになってしまう空賊は、昨晩から続く風雨に乱れる窓の外を眺めながら、けれど至極落ち着いていた。こんな天気じゃ飛べないんじゃないかしら、と唇を尖らせるエーコを肩車して、ティーダが朝食を届けがてらコクピットの様子を見に行った時のことだ。
「ねえバルフレア、お外、すっごい風よ」
「ああ、そうだな」
「今日はここでおやすみした方がいいんじゃないかしら」
 お澄まし顔でいっぱしの口をきく小さなレディを、邪険にできる仲間はそう多くない。何しろ、彼女だって精一杯、皆のことを案じているのだ。停泊となればきっとエーコ特製のシチューを拵えてくれるに違いない。それも悪くないな、と思うティーダの目の前で、バルフレアはそれはそれは見事なウィンクをひとつ。
「まあ見てな。一瞬のチャンスを見逃さないのが一流の空賊さ」
 どこまでも自信に満ち溢れたその笑みに、己の父に似たものを感じてしまったティーダは早々にその場を辞した。たまたま行き合ったレムとデュースにおませな召喚士を託して、いずれ飛ぶのなら暇つぶしにトレーニングでもしようか、と鍛錬場を目指す。
 朝食前ならばマッシュやゼルたちが馬鹿でかい声を響かせている鍛錬場は、ティーダが足を踏み入れた時はいつになく静かだった。ちょっと期待外れだ。誰もいないのかな、と扉を開ければ、そこには見慣れた背中が無言で剣を振るっていた。
「フリオニール」
 その名を呼べば、よほど集中していたのか、彼の肩はびくりと跳ねて勢いよく振り返る。長く伸ばして束ねた後ろ髪が、獣の尾のように撓った。
「ティーダか」
「わり、邪魔?」
「そんなことないさ」
 などと言いながら、額の汗を拭うフリオニールの視線はそわそわと落ち着かない。本人は自然なつもりなのだろう笑顔も心なしか引き攣って、ティーダの腹がぞわりとざわめく。
 フリオニールのこんな態度は、今に始まったことではない。少し前から、何がきっかけだったかはもう曖昧だけれど、確かに彼の態度は変わった。ふと視線を感じてティーダが辺りを見回せば、必ず近くに上背の高い銀髪がいて、なのにふいと顔を逸らす。仲間たちと輪になって話し込んでいる時も、洗濯や掃除に励んでいる時も、モンスターを片付けた時も。話しかければ返事はあるが、どこかぎこちない。
 はじめは、嫌われてしまったのだろうか、と考えてひどく落ち込んだ。それなりに仲良くやってきたつもりだ。フリオニールだって、ティーダの話に耳を傾けてうんうんと相槌を打っては、おまえはすごいな、と開けっぴろげな感嘆を大盤振る舞いしてくれたものだった。なのに、ある日を境に彼我の距離がひどく開いてしまったようで寂しかったし、焦った。
 しかし、ティーダもそこまで鈍くはない。突き刺さる視線にこもる温度の高さに気づくまでには、いくらもかからなかった。灼き貫かんばかりのまなざしは、気づいてくれ、と、どうか気づかないで、の相反する願いに炙られて今にも燃え上がりそうだ。つまりは、つまりは。
(――こいつ、おれのこと、好きなんだ)
 分かってしまえば全てが腑に落ちた。彼の生い立ちをまるごと知っているわけではないけれど、フリオニールという男は決して器用ではない。あれだけの武器をいくつも使いこなしはするけれど、エドガーのように滑らかな口説き文句を並べるだなんて真似はできないだろう。膨れ上がった想いが溢れて、抑え方も分からなくて、分裂した情動を持て余した結果がこれだ。
(あー、めちゃくちゃ焦ってんな)
 今この瞬間もそうだ。フリオニールは抜き身の剣を提げたまま、おろおろと視線を彷徨わせている。何かを言おうと口を開いては閉ざし、流れる汗はとうに冷や汗に変わっているはずだ。きりりと意志の強そうな顎のラインを色のない雫が伝う。
(……なんか、ムカついてきた)
 こいつときたら、ひとりで勝手に想いを育てて、育ち切ってしまったものをどう扱えばいいかも分からず、ごまかし続けているのだ。そのくせ視線だけは雄弁すぎるほどに喧しくティーダを追い続けている。まったく、自分勝手にもほどがあるのではないか。自分勝手で、臆病で、ずるい――こちらの気持ちも知らないで。
 ティーダの想いも、知ろうとしないままで。
「あのさ、フリオニール」
「……なんだ?」
「ずっと訊きたかったんだけど、」
 その瞬間、世界がぐらりと揺れた。かちゃん、と伝声管を開く音がして、バルフレアの声が響く。
『驚かせて悪いな。風が止んだ――the coast is clear. 出航するぜ』
 ぐうん、と持ち上げられるような感覚と共に、飛空艇が動き出す。機体が安定するまでの間、ふたりは鍛錬場の床に膝をついて身を固めていた。
「いきなりすぎるだろ」
「早くしないとまた風が吹くからな」
「え、なんで分かんの?」
「雲の様子とか、鳥の動きを見ていれば、なんとなくは。この世界でも天気の読み方は変わらないみたいだ」
「すっげえ」
 飾り気なしの賞賛に、フリオニールがはにかんだ笑みを浮かべる。ふたりの間に薄膜を張るぎこちなさなどなかったかのような表情に、ティーダの脳裏を今聞いたばかりの言葉が駆け抜けた。
(the coast is clear――今がチャンス、だ)
 飛び始めの揺れが落ち着き、フリオニールがゆっくりと立ち上がる。抜いたままだった剣を鞘に収めた、その刹那を狙った。
 伸び上がるように距離を詰めて、咄嗟に彼の胸ぐらを掴む。不意を突かれたフリオニールの眦は常の鋭さを取り落としてまるく見開かれ、まっすぐな睫毛がこちらの目に刺さりそうなゼロ距離への接近。びくりと強張る肩にほんの僅かの罪悪感をくすぐられながら、ティーダの唇は目測過たずターゲットに到達する。すなわち、フリオニールの唇に。
「んッ――!」
 硬く引き結ばれた唇の、その内側を暴くことまではしない。代わりにかさついた弾力にぺろりと舌を這わせる。見開いたままの双眸が互いの顔を合わせ鏡のように映していた。ティーダは空いた片手を伸ばして、フリオニールの髪留めをするりと抜き去り、素早く飛び退る。
「な……なにを、」
 髪留めを奪われたことに気付いているのかいないのか、フリオニールは掌で口許を覆い目を白黒させている。どうして、と零れる疑問形が滑稽を通り越して、笑いよりも大きな歓喜をティーダにもたらした。ああ、今すぐに走り出したい。大声を上げながら、飛空艇中を駆け回って、それから甲板のど真ん中に仰向けに倒れ込んでしまいたい。
 こいつに、この男に、こんな顔をさせられるのはきっと、おれだけだ。
「分かってんだろ」
「……ティーダ、」
「全部言わなきゃ分かんねえ?」
 髪留めに人差し指を通してくるりと回転させる。まだ彼の体温が残っている気がする。はっと息を呑んだフリオニールが手を伸ばす前に、ティーダは髪留めを自分のポケットに仕舞い込んだ。
「ちゃんと考えろよ、さっきの意味」
 絶句して立ち尽くす男に、とびきりのウィンクをひとつ。髪を纏めるものを失った銀髪がさらりと広がるのがとても綺麗で、ティーダは嬉しくなる。
「返して欲しかったら――今夜、おれの部屋な」
 いつにもまして軽やかな爪先でターンを切って、鍛錬場を後にする。通路ですれ違ったガラフに、やけにご機嫌じゃの、と揶揄われたのもまるで気にならない。
(おれ、意外と空賊向いてるかも)
 別にティーダはお宝には興味はないのだけれど、「奪う」感覚の痛快さは少し癖になりそうだ。夜に備えて、今頃操舵室で得意顔をしているに違いないバルフレアに空賊の心得でも聞いておこうか。もっとも、ティーダの獲物は奪い合いより分かち合うことを好むのだけれど。