喧嘩が下手なふたり

 喧嘩をした。
「……出てってやる」
「そうか」
「こんな家、二度と帰ってこねえ」
「勝手にしろ」
 俺はソファに座ったまま、ティーダはソファを挟んで反対側に背を向けたまま、顔も見ずに捨て台詞を吐き合う。
 どこからどう拗れたか分からない。きっかけがあまりにくだらなかったから、それとも冷静に思い返すにはまだ早いから。どっちでもいい、とにかく今回こそは俺は悪くない。
 ちっ、と舌打ちをひとつ残して、ティーダの気配が遠ざかる。出て行くと言うからには出て行くのだろう、三年一緒に暮らしたこの家を。あいつのことだから、いくらでも行くあてはあるのだろう。ブリッツのチームメイトのところ、それとも適当なホテル、友人の家。俺が心配してやる筋合はない。
「要るものは全部持って行けよ、後になってぐだぐだ言われても困るからな」
 リビングのドアを開けたティーダに向けて投げつけたひとことは、自分でも意外なほどに冷えて重かった。ドアノブに手をかけた姿勢で彼が硬直する。
 三年も暮らしていれば、どちらの私物とも言い切れないものが増えてゆく。例えば、寝室の窓際に置いてあるサボテンは持ってきたのは俺だが、普段世話を焼いているのはティーダだし、今日ティーダが着ているパーカーはふたりの割り勘で買ったものだ。珍しく揃って気に入ったデザインで、でも在庫がなかったから最後の一着を半額ずつ出し合って買った。俺にはタイトで、ティーダには少し大きい。
 そんなものを数え上げればきりがなくて、今さらこれはどちらのものだと権利を主張する気もなかった。何でも持って行けばいい。俺は残ったものを掻き集めてこの部屋で生活するだけだ。
「……わかった」
 ティーダの返事とドアが閉まるのは同時だった。ばたん、と響く音にかき消されそうな声をそれでも拾い上げてしまう自分の鼓膜が疎ましい。両掌で耳を覆って溜め息をついた。ここだけ重力が倍になってしまったかのように全てが重かった。空気も、秒針も、瞬きも、呼吸も、全て。

 ふと、外の通りを走る車の音が途絶えた。時計に目をやれば夜の十時半、こんな時間に押しかけて相手をしてくれるひとが、ティーダにいるのだろうか。ざわりと腹の底をくすぐる思考を、組んだ足を解いて振り払う。知ったことじゃない。ここを出て行ったあいつがどんな目に遭おうと、俺の知ったことか。困るなら困ればいい。あいつがあんなに頑なじゃなければ、ここまで拗れなかったんだから。
 ローテーブルに投げ出したままだった携帯に、誰かからメッセージが届いている。ひとりでに点灯する液晶を眺めながら、それを手に取る気は起こらなかった。こんな時間の連絡だ、どうせ大した用件じゃない。後で確認すればいい。そう、ティーダが出て行った後で。
 ぺたぺたとスリッパを引きずる音が聞こえて、俺はとっさに前屈みに俯いた。肘を膝の上に乗せて、脚の間から見えるラグの毛並みを辿る。そういえばこのラグはティーダが選んだんだ。ローテーブルは俺が、ソファはふたりで。晴れた休日に大きな倉庫みたいな家具屋に行って、いくつも座り比べして一緒に決めたんだ。あの頃よりだいぶスプリングがヘタれてきた。何度言っても、ティーダがソファに飛び乗る癖を改めないから。
(……窒息しそうだ)
 喉の奥に球が詰まったように苦しくて目を閉じる。ラグも、ソファも、テーブルもテレビ台も本棚も、何も見たくない。この家にあるものは全部、ふたりのものだったから。どちらかだけの所有物なんてない、それこそパンツさえ取り違えて顔を見合わせて笑ったのはつい昨日のことだったのに。
 行くな、と喚きそうになった唇を噛み締める。出て行くという売り言葉に、勝手にしろと買い言葉で応じたのは俺だ。飛び出してしまった言葉は引き戻せない。何に腹を立てていたのかさえもうあやふやなくせに、意地を張って悪かったと詫びるにはまだ早かった。
 ずり、と床をする音は、ティーダのバッグだろう。ブリッツ用品を一式収められる大きなエナメルバッグは、付き合い始めて最初の誕生日に俺が贈ったもの。練習にも試合にも合宿にも、どこへでも持って行くからあちこち傷んでいるのに、これがいいと言って買い替えもしない。そのバッグに、何を詰めたのだろう。
「……フリオニール」
 呼ばれた名に薄く目を開ければ、俯いたままの視界にティーダの爪先が見える。本当は今夜、伸び始めた爪を切ってやるつもりだった。おまえは細かい作業が苦手で、すぐに深爪にしてしまうから。
「フリオニール、」
 二度目の呼び声に応えかねる俺のシャツが、ぐい、と引かれる。半袖の端を摘む指先は白くなるほど力がこもっていて、かたかたと震えていた。
「これ、持ってく」
「……シャツか?」
「ちがう」
 語尾が水気に滲む。すん、と鼻をすするのと同時に、硬直したままの肩にあたたかなものが触れた。
「フリオニール、持ってく」
「……ティーダ」
「お、おれのなら、何持ってってもいいんだろ、だったら持ってく」
 俺の右肩に額を押しつけたまま、ティーダが声を張り上げる。腕を抱え込まれてしまったから彼の顔が見えない。慌てて抱き留めようとした俺の動きを振り払われると誤解したのか、ティーダが縮こまった。
「おれのだ」
「…………」
「他の全部置いてっても、これだけは置いてかねえからな」
「ティーダ、」
 薄いシャツにじわりと染みるものがある。吐く息と同じくらい熱い水滴は、次々と湧き出してついにティーダの頰を伝った。捕らわれた右腕に伝わる鼓動はばくばくと大きく速く跳ねる。
「おまえが好きにしろって言ったんだからな」
「そうだな」
「分かったら言うこと聞けよ、ばか」
「……すまない」
「ばか、ばか、フリオニールのばか」
 繰り返される稚拙な罵倒を聞きながら、俺は自由になる左腕を伸ばす。ついにずるりと崩れ落ちるティーダの身体を受け止めて、そうしてやっと、喉を締め付けるような息苦しさから解放された。
「止めろよ」
「悪かった」
「行くなって言えよ」
「ごめん」
「なんでおまえが謝ってんだよ」
「……ごめんな、ティーダ」
「ばーか」
 深く息を吸い込めば、乾いて萎れた肺胞が酸素とティーダの香りで満ちる。擦り寄せた頰はべちゃべちゃに濡れていて、どんな喧嘩をしても決して謝らない彼に、今回もまた許されたことを知った。