映画『戦場のメリークリスマス』より

 どさり、と足元に転がされたのは、ぼろきれのように薄汚れた少年だった。
「陛下、これは」
「捕虜のようなものだ。貴様が監視しろ」
「……俺が、ですか」
「不満か? ろくな戦果も挙げられぬのだ、せめてこのくらいの役には立って見せよ。まだ死なせるな」
 嘲り混じりに吐き捨てた皇帝が姿を消す。万魔殿、パンデモニウムと呼ばれるこの空間は皇帝の支配下だ。エーテルの一粒さえ、かの主の思いのままに操られる。逃げ道はない。
 フリオニールは跪いたまま、投げ出された捕虜の顔を見た。皇帝の纏うそれとは違う金色の髪に、べったりと血がこびりついていた。

 世界はカオスとコスモスの闘争の中にある。覇権を争う両勢力の衝突は長い膠着を抜け、混沌の陣営に傾きつつあった。
 フリオニールにとってはあまり意義の感じられない闘争だった。この世界が本来自分の在るべき場所とは違うということはかろうじて分かっていたが、では「在るべき場所」とはどこかと問われても答えられない。全ての記憶は曖昧にぼやけていて、ただ目を醒ました時にはすでに皇帝の支配下にあった。
 闘え、秩序の戦士を討て、と言われてもどうしたわけか気が進まない。命じられるがままにイミテーションを率いて出陣し、名前も知らない戦士と馬鹿げた小競り合いを繰り返しては引き揚げる、そんなことばかり続けていた。ろくな戦果も挙げないと皇帝になじられるのも当然のことだった。
 捕虜だ、と押し付けられた戦士には見覚えがあった。彼に遭遇するのは決まって水辺だったから何となく覚えている。髪は榛色の混ざった金、確か瞳の色は青。湧き立つ水のような刃を振り回してちょこまかと駆け回る、フリオニールの苦手とする相手のひとりだった。
(……陛下に闘いを挑んだのか)
 まだ子供らしい丸みを頬に残す彼では、老獪な皇帝の相手は荷が重すぎる。マントにシミひとつなかった主の後ろ姿を思い出す必要もなく、軽くあしらわれたのだろう。そして捕らえられた。秩序軍をおびき寄せる餌にするに違いない。
 死なせるなと命じられたからには面倒を見なくてはならない。おざなりな治癒魔法をかけて、少年を牢に放り込んだ。気が重かった。

「クソッ、どこに行った……!」
 あれから数日で少年は回復した。自分が捕虜になったということの呑み込みは早かったが、フリオニールの思っていた以上にやかましいのには閉口した。皇帝の魔力を込めた檻に閉じ込め、世話は専らイミテーションに見させていたが、何かの拍子に脱獄したらしい。皇帝に知られたらことだ――いや、主はとうに見通しているだろうが。
 あの絶対的な力を思い身震いしながらフリオニールはパンデモニウムを駆けた。まだ遠くには行っていないはずだ。一刻も早く捕らえなくてはならない。迷宮をくまなく探り、ついに中庭に出た。
 中庭というのは便宜上の呼称だ。高い吹き抜けになっている空間に、皇帝の戯れで花が植えられている。当然、彼の魔力で満たされたここに自然の花など咲きはしないからこれも紛い物だ。滴る血のように赤い花弁が重なる棘のついた花。その茂みの奥に、あの少年がいた。
「貴様! そこを動くな!」
 言いざま、チェーン付きのナイフを投げる。狙いは過たず、小さな凶器は少年の服を壁に縫い止めた。
「やべ、見つかっちった」
 当の本人は怯える風情もなく、舌を出して天を仰いでいる。その態度に瞬発的な怒りを覚え、フリオニールは少年の喉元を押さえつけた。
「牢に戻るぞ」
「げほっ……や、だよ、メシまずい、し」
「知ったことか。立て」
 気道を圧迫されて顔を青白くした少年が、ふん、と鼻を鳴らす。微かだが確かな嘲りに、フリオニールの視界がどす黒い赤に染まる。
「……死にたいか」
「やめとけ、て……アンタ、が、おれ、ころしたら……マズい、っしょ」
 言うこと聞くから、と喘鳴の合間に囁かれ、手を離す。少年の脚がよろめいているうちに掛けた鎖を引いて歩き出した。
 ぐん、と伸びきる鎖に引き留められて振り返る。その瞬間、少年の唇が咲き乱れる花の一輪に喰らい付いていた。
「貴様……何を、」
 想定外の光景に呆気に取られるフリオニールの目の前で、少年が花を貪る。藪に突っ込んだ頰に茨が薄い傷を刻む。ぶち、と鈍い音と共にその頭が上がり、あの青い瞳がフリオニールを見た。
 恐怖さえ覚えずにはいられない澄んだ青、頬の生傷に滲む鮮血、少年は深紅の残骸で汚れた口許を吊り上げて笑う。
「お前は……お前は、何なんだ」
 ぞくり、と脊椎を痺れさせる感覚の正体を、フリオニールは知らない。玉座に君臨する皇帝に睥睨される時に感じるものと似ていたが、何かが違っていた。
「……悪魔め」
 我知らず零れた言葉に、少年はさらに愉快そうに目を細める。
「そう、かもな」
 しゅるりと蠢いた舌が、千切れた花弁を吐き出した。重苦しい香りが鼻腔から忍び込み、脳髄を腐食する。これが本当に秩序の戦士なのか。本当にあいつなのか、あの水辺を跳ね回っていた少年と同じものなのか。呼吸さえ止めて目を見開くフリオニールの唇に、少年の指先が触れた。
「……アンタに禍を」