ゆめのしま

 眠れねえの、と囁かれたのは、フリオニールが何度目かも分からない寝返りを打った時だった。
「すまない、起こしたか」
「んーん、おれも何となく起きちゃっただけ」
 慌てて振り返ると、枕代わりに丸めたタオルに顔の半分を埋めたティーダが微笑している。とうに灯りの落ちた深夜のテントの中、薄墨で溺れるような暗がりで彼の青い瞳が鈍く光っていた。
「眠れねえよな」
「ああ」
「落ち着かないっつーか」
「うん」
「寝ないとマズいのにな」
「そうだな」
 小さなテントにはティーダとフリオニールのふたりだけだ。他の天幕では仲間たちがそれぞれの夜を過ごしているのだろう。不寝番が焚火を掻き回したのか、ばちん、と木の爆ぜる音が遠くに聞こえた。
「なあ、ちょっとだけ話しようぜ」
 悪戯を企む子供の顔で唇を吊り上げたティーダが、にじり寄るようにしてわずかな距離を詰めた。触れ合わなくとも互いの体温を感じるほどに近く、フリオニールは黙って頷いてずれた毛布を掛け直した。
 今までに何度も、こうしてティーダと寄り添って夜を超えてきた。寝つきの悪さをごまかすために他愛のないよしなしごとを囁き合って、そのうち訪れるのんびり屋の睡魔を待つ。話の内容は何だってよくて、その日の出来事や、他の仲間たちのこと、朧な記憶から引っ張り出した過去のこと、元の世界のこと、あるいは明日の道順、食事のこと。
 けれど、今のふたりに話せることはもうほとんどなかった。ただ、互いの声と息遣いが欲しいだけだった。――こうして過ごす夜も、これが最後だと知っているから。
 明日になれば、全ての決着がつく。カオスと対峙し、対となる女神に取り残された哀れな混沌を討ち下し、そうしてこの不可思議な世界での旅が終わる。十人の仲間たちは皆、あるべき世界に帰るのだ。結んだ絆を、この世界に残して。
 ティーダの密やかな呼吸を感じながら、フリオニールは毛布の端を握り締める。言葉は見つからないままだ。十人の戦士たちの中で、このふたりだけが知っている。ティーダには、他ならぬ彼だけには、「帰るべき場所」などないということを。
 この世界を救えば、ティーダは消えてしまう。どこにも行けない。真実を知ってしまったフリオニールには、別れたあとのティーダがどこかの世界で生き続けるのだと信じることさえ難しかった。共に生きることが許されないのが理なのだとしても、せめて彼のこの先の幸福だけは信じたかったのに。
 ありがとう、と言うのは最後の最後まで禁じている。ありがとう、おまえと逢えてよかった、おまえがいてくれてよかった、おまえと一緒にいられてよかった、そんな言葉を吐いてしまえば、彼との旅が本当に終わってしまうのだと分かっていたから。
 引き結んだ唇の奥で違う言葉を探しあぐねるフリオニールに、ティーダが笑いかけた。
「……お伽話があるんだ」
 彼らしからぬその言い回しに、虚を突かれて目を瞬く。ティーダは重なる毛布の下で、フリオニールの指に柔らかく触れた。
「世界は海に囲まれてるだろ。その海のずっとずっと向こうの果てに、小さな島があるんだ」
「……」
 誰かに見咎められるのを恐れるような囁きは、あたたかな湿度を伴って夜に溶ける。毛布を頭まで被るのはティーダの癖で、だからフリオニールも同じように潜り込んで彼の話の続きを待つ。
「島は小さいけど砂浜に囲まれててさ、大きな樹が一本、真ん中に生えてる。世界の海の流れは全部そこに辿り着くようになってるんだ」
 その島を想像に描くのは難しくなかった。空の青、それより深い海の青、ふたいろの青が広がるパノラマにぽつりと浮かぶ島。掲げられた旗のように大樹の梢が揺れる。白い砂は打ち寄せる波に揉まれて細かく、太陽の光を反射して煌めいている。飛ぶ鳥も訪れない、世界の最果て。
「その島にはひとりで住んでる人がいるんだ。その人はずっと待ってる」
「何を?」
「手紙が届くのを待ってる。誰かが書いて、瓶に詰めて海に流した手紙が届くのを」
 淡い影を思い浮かべる。その影は性別も年齢も定かではないヒトのかたちをとって、裸足の指を砂に埋めて海の彼方を見つめている。今日は届くだろうか、それとも明日だろうか、誰かの言葉が流れ着くのは。あらゆる海流の終着点に独り、夜明けの明星のもとで、白昼の陽光の中で、滲む色彩の踊る夕暮れを背景に、まだ見ぬ手紙を待ち続けている。
「……その手紙は、誰が書いたんだ」
「さあ、誰だろうな。誰が書いたのかも、誰に書いたのかも分からない。けど、いつかその島に届いて、その人がちゃんと読むんだ。だから――」
 ティーダはそれきり口を噤んだ。混沌の神の足元まで迫った最後の野営地には、夜行性の鳥の気配さえない。遠い地鳴りだけが戦士たちを待ちかねて大気を揺らしている。
 フリオニールはティーダの目を見ていた。きっと、お伽話の島を囲む海はこんな色をしているのだろう。いや、もしかしたら、海を見続けたからこんな青になるのかもしれない。想像の中、波打ち際で白い飛沫と戯れる淡い影は、自然とティーダの像を結んでいた。降り注ぐ太陽を吸い込んだ髪は暖かな金色に、どこまでも広がる海を見つめた瞳は深く透き通る群青に染まる。
 そして流れ着いた瓶を拾い上げて、彼は鮮やかに笑うのだろう。誰にも読まれなかったはずの手紙には、誰にも届くはずのなかった想いが閉じ込められている。掬った手から零れる水のように流れてゆく手紙を、彼が拾い上げてくれるのかもしれない。それはひどく寂しくて、だから美しい姿だった。
「その島が、おまえの世界にあるのか?」
 問いにティーダは小さく首を振った。ぱさりと揺れた毛先が彼の片目を隠してしまう。伸ばして払い除けようとした指は、まだ捕らえられたままだ。代わりに、ティーダの指先がフリオニールの瞼に触れた。
「どこの世界のものでもないよ――だから、どこにでもある」
「どこにでも……」
「だから、心配すんなって。ちゃんと届くから」
 優しく、しかし有無を言わさぬ強さで閉ざされた視界に青の残像が煌めく。不意に全身を絡めとる睡魔に抗う間もなく落ちてゆく意識の中で、フリオニールはティーダの最後のひとことを取り逃がした。

 世界は平穏を取り戻したが、何もかも元通りというわけには行かなかった。パラメキア皇帝は滅び、君主を失った帝国は最早かつての権勢を保つことは出来ないが、皇帝によって痛めつけられた大地と民は依然として疲弊したままだ。復興の陣頭に立つのはヒルダ率いるフィン王国だが、再建に向けては解決すべき問題が山積している。
 ヒルダは救世の英雄たるフリオニールたちの助力を請うた。フィン以外の諸勢力とも協調を保つために英雄の威光を借りたい彼女の意向は理解していたが、フリオニールやマリア、ガイはその要請を丁重に退けた。
 『反乱軍』の名が必要ならば、ヒルダとゴードンがいれば充分だ。自分たちはあくまでも一介の村人であって、実際に皇帝と対峙したとはいえ、権謀術数渦巻く政治の場においては何の役にも立たない。ましてやこれ以上の戦を避けたいのであれば、理由がどうあれ剣を手に数え切れないほどの人間を手にかけた自分たちが我が物顔で会議の席に就くわけにはいかなかった。
 闘うことならばできる。しかし、フリオニールたちの望みはこの力を永久に使わぬことだ。威圧感を醸し出すためにお飾りよろしく椅子に座る時間があれば、瓦礫のひとつでも除けていた方がずっとマシだった。表面上の名誉など望まない。幸い、ヒルダもゴードンもフリオニールたちの意志を尊重してくれたため、三人はこうして育った故郷に戻っている。
 長い旅を終えて帰り着いた故郷は惨憺たる有様だった。わずかな生き残り、それも老人や女子供ばかりが、肩を寄せ合って辛うじて雨風を凌いでいる。栄養状態も悪く、治せなかった怪我や病に寝ついてしまった者も多い。三人がまず着手したのは、人々の身体と心を癒すことだった。
 せめて路頭に迷うことがないように、とヒルダが差し出してくれた金や財宝は惜しみなく使った。近隣の村からも人と物資をかき集め、少しずつ戻ってくる働き盛りたちと必死になって生活を建て直した。三人の中で最も白魔法に熟練していたマリアが医者の代わりを務め、フリオニールとガイは薬草や食糧探しに駆けずり回る。動ける者が増えてきたら、今度は住む場所や農耕地を整える。一年が瞬く間に過ぎて行った。
 ある晩、いつになく厳しい顔のマリアに明日は休んでと命じられたフリオニールは慌てて首を振った。休んでいる場合ではない、村はずれの家が今にも崩れ落ちそうで、明日は撤去作業の予定なのだ。
「俺は平気だ、疲れてもないし」
「フリオニール、そうじゃないの。あなた、この一年で何日休んだの?」
 柳眉を顰めた義妹の言葉に、うっと詰まる。助けを求めて義弟に視線を送るが、心優しい彼は困ったような顔で黙り込むだけだった。
「それを言うならマリアだって」
「わたしもガイもちゃんと休んでるわ。知ってる? ガイは昨日休みだったし、わたしなんか先週は二日も働いてないのよ」
 そう言われればそうだったかもしれない。頼まれた薬草を診療所に届けに行ったら、マリアはいなくて看護師役の少女たちが数人で患者を取り回していた。頼もしい、と嬉しくなったのだが、まさかそういう訳だったとは。
「それとこれとは話が別だ、俺は――」
「あのね、分かってないみたいだから言うけど、あなたが休まないと他の人も休めないの。アレクサンドラのお父さんも言ってたのよ、『フリオニールがあれだけ頑張ってるならこっちも休んじゃいられない』って」
 アレクサンドラの父はそろそろ老境に差し掛かろうという齢ながら、あれこれと力仕事を手伝ってくれている。しかし帝国の侵攻以前から腰が悪かったのだ。本人が大丈夫だというから忘れていた。
「つまり、あなたに毎日毎日働かれると迷惑なの。だから休んで。とりあえず明日。それからは、五日働いたら一日休む。簡単でしょ」
「……」
「返事は?」
「……分かった」
 反論の余地を与えないマリアの前に、フリオニールはがっくりと白旗を掲げた。迷惑とまで言われてしまっては立つ瀬がない。ガイが肩を叩いて慰めてくれたが、その夜は眠るまで落ち込んだままだった。

 皇帝を討つ旅の途中から、フリオニールには奇妙な癖が出来た。朝目が覚めると、いつも窮屈な姿勢で眠っているのだ。割り当てられた就寝スペースの片側に身を寄せて、まるでもうひとり、誰かと共寝をしたかのように。
 変な眠り方だと仲間たちに呆れられたり、あるいはラミアクイーンあたりに惑わされて誰かを引きずり込む夢でも見たのかと揶揄われたり、その度にどうしてだろうと首を捻ったが、原因は分からないままだった。あれから一年以上が経っても、この癖は抜けないままだ。
 いつからだろう、と思い返してみる。そういえば、おかしな夢を見てからかもしれない。どんな夢だったかは覚えていないけれど、かの皇帝と一対一で差し向かいになっていた気もする。とても長い、けれど全てがあやふやな夢だ。全く知らない人々と、そう、まるで違う世界から来たような人々と一緒にいた気がする。何かを探していた気もする。けれど、追えば追うほど記憶が遠ざかりぼやけて消えて行ってしまうから、思い出すのは諦めていた。
 ただ、その夢から醒めた時のことは覚えている。全身がひどく疲れて、あちこちが痛かった。とてつもなく強大な敵と戦った後のように。もちろん、傷のひと筋も残ってはいなかったけれど。そして、痛みをこらえて起き上がった時、頬を伝った涙のこと。起き抜けのあくびのせいではないそれは、左胸の奥にきしりと鋭い疼きを残して毛布に吸い込まれた。内臓が全て取り去られてしまったような薄ら寒さに震えながら、フリオニールはこの感覚を知っている、と思ったのだ。何か大切なものを喪った時、それが二度と戻らないと知った時の空虚さ。白い衣の裾が翻るのを幻視する。
 幸い、フリオニールの涙は仲間たちには気づかれずに済んだ。おかしな夢のことはずっと胸のどこかに引っかかっていたし、姿のない誰かと寄り添って眠る姿勢は直らないままだったが、このままでいいと思っていた。復興に追われるうちに、思い出すことも減っていた。
 ――けれど。

 降って湧いた休息日に、フリオニールは海を目指していた。初夏の空気を逃すまいと天を目指す草いきれの青いにおいを掻き分けながら、額に滲む汗を拭う。
 背負った荷物の中身は軽い。ちょっとした食べ物と飲み水、それからペンとインクと紙、綺麗な色の空き瓶だけ。
 ようやっと食べ物に困らなくなってきた今でも、紙やインクは貴重品だ。先日やって来た行商人がもったいぶって売っていた。なけなしの私財――金目になるたいていのものは、この村に戻ってきた時に使い果たしてしまった――をはたいて出来るだけ状態のいいものを買い求めたのを見たガイが、不思議そうな顔をしていたのを思い出す。
「何か書くのか」
「ああ、手紙を書いてみようと思ってな」
「手紙? ヒルダとゴードンにか?」
「いや……」
 それきり言葉を濁したが、細かいことを詮索しないのがガイの美点のひとつだ。受け取った一式をことさらに丁寧にしまうフリオニールに、彼は言った。
「ちゃんと届くといい」
「……ああ、届くさ。ありがとう」
 ガイの言葉に深い意味はないだろう。この世の中では、手紙や荷物を遠隔地に届けるには、行商人や旅人に預ける他に手段はない。不測の事態は避けられないから、頼んだものが届くかどうかはいちかばちかの賭けだった。
 しかし、フリオニールは確信していた。まだ書いていない手紙が、間違いなく宛先に届くことを疑わなかった。
 手入れする者もない草を漕いで歩きながら、吸い込んだ息にかすかな潮の気配を感じる。海までもう少しだ。夜明けと共に出て正解だった。この分なら、昼までには着けるだろう。
 さあ、何を書こうか。どんなふうに始めようか、『彼』への手紙を。例えば、こんなふうにしたらどうだろう。おまえは何と言ってくれるだろうか。

 ――元気にしているか、こっちは元気だぞ。今日はとても天気がいい。もうすぐ林檎の花が咲く。去年は小さな実がいくつか出来ただけだったけど、今年はもっとたくさん実るはずだ。
(フリオの村の林檎、美味そうだな。食べてみたいっす)
 ――村の再建は少しずつ進んでる。ちゃんと住める家も増えてきた。先は長いけど良い知らせも多いんだ。この間、戦争が終わって初めて赤ん坊が生まれた。女の子だから名前はマリアだ、俺の義妹は照れてたけど嬉しそうだった。
(おめでとう! っすね! おれまで嬉しくなってきた)
 ――そうだ、この間、狩りに出たら鹿に会ったんだ。夏鹿は狩ったらいけないって、おまえにも教えたよな。なんだか懐かしくなったよ。すごく綺麗な雌だったから、元気な仔鹿を産んで欲しいな。
(そうそう、これから繁殖の時期に入るから、だろ? ちゃんと覚えてるって。おまえが教えてくれたこと、全部)
 ――今日は海に来てる。働きすぎだって、マリアに怒られたからだ。俺が休まないとみんなも休めないんだって言われてしまった。頑張っているつもりだったけど、上手くいかないな。
(誰か一人だけ頑張ったって、チームワークにならないんだって。適材適所って言うだろ? 何でもかんでも自分でやっちゃうのは、違うっすよ)

 ざあっ、と強い風が吹いて、海のにおいが強くなる。揺れる草のしゃらしゃら鳴る音の向こうに、寄せては返す潮騒が聞こえた。高い空に舞う海鳥の鳴き声が長く尾を引く。誰かを呼んでいるのだろうか、美しい軌道で旋回している。
 ぱきん、と足元で枯れ枝が折れた。脚に纏わりつく草を蹴り飛ばして、フリオニールは駆け出した。切り立った崖の向こう、大きな弧を描く水平線。冲天に差し掛かろうとする太陽を戴いて広がる空の下に、『彼』の瞳と同じ色の海が広がっている。
 何回分かの深呼吸の間、フリオニールは眼前の青に見入っていた。底まで見通せるほどに澄んでいて、気を抜いたら吸い込まれてしまいそうなくらい深い。掴みどころのない空とも、強靭な輝きを放つ鉱物とも違う、揺蕩う青。この色彩を探していた。あの夢の世界を思い出してから、ずっと。
 海風に煽られないように、岩陰に腰を下ろして荷を解いた。水で喉を潤してから、白い紙のしわを伸ばしてペンにインクを吸わせる。平民のフリオニールは文字を書くのに慣れていなかったが、『彼』なら少しくらい歪んだ字でも許してくれるだろう。きっと向こうだって字はへたくそだ。見たことはないが、そんな気がしていた。

 ――ずっと忘れていて悪かった。もっと早く思い出したかったのに、思い出せなかった。すまない。
(おっ、いきなりだなー。別に気にしてないからいいって。むしろ、よく思い出せたよな、おれのこと)
 ――思い出したのはほんの何日か前だ。いつも通りに寝て、いつも通りに起きたら急に全部を思い出した。おまえのことも、セシルやクラウドのことも、他のみんなことも、全部。あまり急でしかも当たり前のことみたいに思い出したからしばらく動けなくて、みんなに寝坊したんだと思われたよ。
(おまえ、寝坊なんてしたことなかったもんな。そうやって思い出すんだ。なんか不思議だな)
 ――あんなに忘れたくないと思っていたのに、なんで忘れたままでいられたんだろう。寝る時の姿勢だって変わらなかったのに。今も俺は同じ姿勢で寝てる。おまえと一緒にいた時のままだ。
(忘れちゃったのは仕方ないって。だっておまえにはその世界でしなきゃいけないことがあったんだから。てか、あのカッコでいっつも寝てんの? 肩凝らねえ?)
 ――おまえがいない世界で俺は生きているんだと考えると、変な感じがする。まるで、あの世界でおまえに会った頃みたいだ。おかしいよな、自分の生まれ育った世界なのに、何かが足りない気がするんだ。
(……それはさ、気のせいだって。だって、おれは、)
 ――おまえのことを思い出してから、考えていたことがあるんだ。あの時話してくれた世界の果ての島のことだ。あの島にはきっとおまえがいるんだろうと思ってる。世界の果ては、世界の終わりじゃない。そこからまた新しい世界が生まれるんだ。だったら、今おまえがいる島を囲んでる海は、おまえのものだ。おまえのために生まれた新しい海だ。
(フリオニール、)
 ――そこはどこでもないんだって言ってたよな。どこの世界のものでもなくて、どこにでもあるんだと。だから、俺はこの手紙がいつかおまえのもとに届くことを信じて書く。俺の世界に生まれなかったおまえのところまで、この海が繋がってることを信じて手紙を書く。
(……フリオニール)
 ――もう少し小さな字で書き始めればよかったな。もう書けるところがない。次は気をつける。また手紙を書くよ。おまえのところにこの手紙を届けた海が俺の世界に戻ってくるのなら、返事をくれ。待っている。

 フリオニールは無心に動かしていたペンを止めた。思いつくままに書き連ねた文字に満たされた紙面はほとんどいっぱいで、最後の一枚の下端にわずかな余白を残すのみだ。
 ひとくち水を含む。ゆっくりと喉に転がせば、じんわりと染み通ってゆく透明な恵み。あの世界で、『彼』はいつでも水と共に在った。何かと理由をつけては川や泉に飛び込み、水を凝らせた刃を握って闘っていた。
 水は世界を循環する。天から降り注いだ雨が川に流れ、海となり、蒸発してまた天に帰る。それならば、こうしてフリオニールが呑み込む水のひとしずくにも『彼』の記憶が宿っているのかもしれない。あるいは、樹々や作物を潤す遣り水が、世界の果ての島に佇む『彼』の爪先を洗ったかもしれない。愛おしい空想だった。それだけで、『彼』を見出せないこの世界を愛せるような気がした。
 乾きかけたペン先にインクを染ませて、最後の余白に走らせる。別れの挨拶をしたためるため、けれどそれは終の別れではなく。

 ――俺は俺の世界で精一杯生きるよ。次におまえに会う時に、胸を張っていられるように。
 ――その日までどうか元気で。
 ――親愛なるティーダへ、フリオニールより。

 書き終えた手紙を丸めて、空き瓶に収める。村の子供が瓦礫をどかしたところから拾ってきたものだ。あげる、と差し出された時は使い道もないしと断ったのだが、いつもありがとう、お礼だよ、と言われれば受け取るしかなかった。
 硝子瓶には、フィンの伝統的な織物に使う意匠が彫り込まれている。見事な細工だから誰かが大切にしていたのだろう。きっとティーダも気にいると思った。
 コルク栓を押し込んで、鞄の底に入っていた蝋燭を溶かしたもので封をする。海は穏やかだから、割れたりはしないはずだ。
 フリオニールは静かに立ち上がった。思っていたよりも長いこと手紙を書いていたらしい。日は音もなく傾き始めていた。帰りも急いだ方がよさそうだ。マリアやガイが心配してしまう。
 崖の突端から見下ろせば、満ち切った潮が引き始めているようだった。ちょうどいい頃合いだ。小さな瓶を握り締めた右手を振りかぶって、息を吸い込む。
「――届け」
 一拍の後に鮮やかな放物線を描いて飛ぶフリオニールの祈りは、午後の陽光に呑まれて消えた。

 ――だから、心配すんなって。ちゃんと届くから。
 ――ちゃんと届いて、おれが読むから。
 ――だから、おれに手紙をくれよ。フリオニール。