ポータブルムーン

 ああ、と驚き半分、落胆半分のフリオニールの声が聞こえて、ティーダは読みかけの雑誌から顔を上げた。
「どーかした?」
 キッチンカウンターの向こうで包丁を握る同居人――白々しい言い方してすみません、同棲中のコイビトです――は、ティーダの問うのにへにゃりと苦笑してみせる。真顔でいる時はきりりと吊り上がった眉が困った角度に垂れていた。
「いや……レモンが悪くなっていて」
 ほら、と掲げられた鮮やかな黄色の皮に包まれた果実の断面は、その外見に反してぐずぐずと茶色く痛み切っていた。
「え、それ昨日買ってきたやつだろ?」
「そうなんだが」
「見た目キレーだったのにな」
 いくら表皮が綺麗でも、中身は割って見なければ分からない。なんとなく含蓄のあることが言えそうな気がしたティーダは一瞬考えてみたが、上手く形にならないようだったので早々に諦める。
 ぺたぺたとスリッパを鳴らしてカウンターからキッチンを覗き込むと、夕食の支度は大詰めのようだった。本日のメインはアジフライ、やや小ぶりな魚の開きはパン粉を纏ってステンレスバットに整然と並んでいる。その横のボウルには千切りにされたキャベツとニンジンのサラダ、コンロには油を注いだ揚げ物用の鉄鍋が着火を待っていた。
「参ったな、レモンがない」
「それはマズいっすね」
 レモンのないアジフライなんて。フライというのは、濃厚な油分とソースの塩辛さをレモンの爽やかさで中和して食べるべきものなのだ。熱々のうちに新鮮なレモンを絞り、カリッと揚がった衣がへたる前にサックリ頂く、ああ想像しただけで涎が出てきた。もう駄目だ、ごまかせない。
「んじゃ、おれソッコーで買ってくるって」
「いいのか?」
「いいも何も、これじゃ今日の晩飯食えねえ!」
 たまたまカウンターの隅に置きっ放しになっていた財布から500ギル硬貨を取り出して、ティーダはパーカーを羽織る。このところずいぶん暖かくなってきたからこれで充分だろう。
「あそこのコンビニ、野菜売ってたよな」
「郵便局の隣な」
「オッケー、5分で帰ってくるから」
「気を付けろよ」
 ありがとな、と笑うフリオニールに親指を立てて、ティーダは玄関の扉を開けた。

 幸いなことに、目当てのものはすぐに見つかった。弁当と飲料の間に挟まれたささやかな生鮮品売り場の隅に、黄色い果実が三つ転がっている。
「うーん……」
 同じ轍を踏むわけにはいかない。さりとて売り物をああだこうだといじり回すのもマナー違反だ。ティーダはレモンをひとつずつ取り上げて、重さを比べてみる。よく分からない。中が傷んでいれば柔らかくなるような気がしたから、ちょっと後ろめたい気分で指先に力を込めて、一番硬いものを買うことにした。
(別に熟れてなくてもいいもんな)
 むしろ今の舌が欲しているのは、喉の奥が竦み上がるような強烈な酸味だ。ならば少しくらい未熟な方が好都合というもの、ちょうど掌に収まるサイズの実をころころと転がして、きみに決めた、とティーダはレジに向かった。
 会計をしてくれたのはティーダと同年代の学生らしいアルバイトの青年で、袋いらないっす、と釣銭を受け取ると、次のシーズンも応援してます、と愛想良く笑ってくれた。赤の他人にまで顔を知られるスポーツ選手というのは面倒も多いが、こういうちょっとしたやりとりは悪くない。
 店を出たティーダは、フリオニールに連絡を取ろうと携帯端末を取り出した。今から帰ると言えば、彼のことだからきっと首尾良く揚げたてを用意してくれるに違いない。せっかくだから戦利品の写真も添えて――と、夜空にレモンをかざしたところで、ティーダは小さく声を上げる。
 今夜の空は春の始まりらしく、ところどころに薄い雲がたなびいている。その雲を淡く輝かせるのは上弦の月、真円から端っこを爪切りでかじり取ったような紡錘形だ。あと二、三日で完成するだろう夜の女王は、どこか潤みを湛えて瑞々しい。
「……いいカンジ」
 左手に握っていたレモンを親指と人差し指で支えて、月に並べる。かすかなシャッター音と共に切り取ったふたつの輝きを、今頃キッチンでそわそわしているだろうひとに送信すれば、すぐに返信が届いた。
『いい写真だな』
『だろ? どっちも美味そう』
 そう返してから、ちょっと情緒がなかったかな、と反省する。せっかくだからもう少し奥深い、そうでなくても多少は風情のあることを言えばよかった。まあ今さらか、と苦笑を噛み殺して止めていた足を踏み出すと、同時にメッセージが届く。
『だったら早く帰って来い』
「……言われなくても、ちゃんと帰るっすよ」
 ティーダはレモンを真っ直ぐ頭上に放り上げる。月に二重写しになった果実を危なげなく受け止めて歩き出す。いつもより少しだけ大股で、それから急ぎ足で、ついに駆け出した。
 パーカーのポケットの中には、一個138ギルの小さな月がある。これから満ちてゆく月によく似た、今夜のメニューに欠かせない小さな果実。軽やかな足どりでターンを決めるティーダは、こういうのがシアワセってやつなんだろうな、と照れくさく笑った。