髪を結う朝

 ふんふん、と調子外れな鼻歌が背後からフリオニールの首筋をくすぐる。どうしても傷んで絡みやすい髪をどこかで拾った櫛で梳くティーダは、朝からご機嫌だ。
「あっわり、痛くねえ?」
「大丈夫だ」
 縺れた毛を引っ張られて、頭皮に疼くような痛みが走る。こんな旅をしていては手入れもままならないから仕方がない。それでも手に入れた香油などを使って工夫している者もいないわけではないが――たとえば洒落者の筆頭、ジタンだとか――、フリオニールはそこまで気にしていなかった。
「あー、結んじゃってんな」
「切るか?」
「ん、解けそう」
 ティーダの指先が慎重に動いて、結び目になってしまった部分をほぐしてゆく。しゅるしゅると髪の擦れ合う感触で、うなじがくすぐったかった。

「おまえ、寝相いいのにな。身体の下に敷いて寝てんだろ」
「そうかもな」
「でもこっちには変な寝癖つかねえもんな……頭の方はひでえことになってるけど」
「そんなにひどいか?」
「チョコボの雛出てきそうな感じ」
 長い髪が煩わしいこともある。例えばこんな寝起きだとか、蒸し暑い日だとか。その度に、切ってしまおうか、と呟くフリオニールに食いかかる勢いで、ティーダが血相を変えるのを思い出す。
「駄目だって、そんなことしたらもったいないだろ」
「もったいないって……男の髪だぞ」
「知ってるっす。けど駄目」
 尻尾のように垂れた髪は、どうやらティーダの安眠毛布代わりになっているらしい。一日を終えて寝床で微睡む間、決まってひと筋ふた筋を取り上げられてはティーダの指に絡められる。くるくると巻いても癖のつかないそれを彼が愛でるひとときはフリオニールにも安らぎをもたらすから、駄目だと言われてしまえば強いて切ってしまうことは出来なかった。
 そんな話をしてから、毎朝フリオニールの髪を整えるのはティーダの仕事になった。眠い目をこすりながらも律儀に櫛を手に取り、フリオニールの背後に腰を下ろす。世界が足早に覚醒してゆく慌ただしい朝でも、その時だけは得がたい愛おしさを孕む空気に身を委ねるのがふたりは好きだった。
「オッケー、解けた」
「ありがとう」
 ティーダは意外と器用だ。凝ったことをするわけではないけれど、丁寧にくしけずって流れを作り、組紐で結うくらいのことはお手の物だった。一日動き回っても結び目が緩まないことに感嘆してみせると、こういうのできると喜ばれるからな、と彼は笑っていた。
 誰に、とも言わないそのひとことが妙に面白くない。自分には知りようもない他の誰かの髪を、こんなふうに世話してやった経験がティーダにはあるのだ。三つ編みくらいならできると続いた言葉に胸のざわめきをいっそうかき立てられて黙り込むしかないフリオニールは、己の中にもこんな卑しい気持ちがあったのかと驚いた。
「こんなとこかな。紐ちょーだい」
 差し出された手に組紐を載せながら、うっかり反芻してしまった不純物混じりの回想を押し殺す。ティーダだって年頃の男で、もといた世界ではずいぶんな有名人だったという。その手が可愛らしい、あるいは美しい女性に触れていたとしても不思議ではない。けれど、不意打ちで見せつけられた過去の残滓にまで醜い嫉妬を覚えてしまうだなんて、まるで聞き分けのない子供のようだ。
 閉じ込めたはずの溜め息は、ティーダに耳ざとく聞きつけられた。どうしたんすか、と訊く口ぶりはあくまでも軽く、彼なりにこのひとときを楽しんでいることが分かる。フリオニールは内心を悟られないよう、首を振ってごまかした。
「なんでもない」
「そっか?」
「ああ」
 ティーダの手が髪を纏めて掴む。毛束の根本に紐を巻く手際は、それでもはじめの頃は今よりももっとゆっくりでぎこちなかった。結んでは解くことを何度か繰り返していたあの頃よりも、髪結いにかかる時間は短くなっている。それが寂しかった。
「……いつも悪いな」
 入り乱れる感情を持て余して、否定されることが分かっていることを言う。彼のことだから、手間を手間とも思いはしまい。ただ、今は黙り込んでいるのに耐えられなかっただけ、わきまえのない心がざわめき出すのを直視したくなかっただけだ。
 案の定、ティーダはぜんぜん、と小さく笑った。
「おれの趣味みたいなもんだし」
「趣味……」
「だって、嬉しいじゃん」
 ぐっ、と紐が締まる。ティーダは何が嬉しいのだろう。思わず首を傾げると、まっすぐにしてろと咎められる。
「何が嬉しいんだ」
「んー? フリオがおれのこと信頼してくれてんだなーって分かるから」
「信頼ならしてるさ」
 それさえ疑われた気がしてむっとした声になると、もう一度紐を結んだティーダの指がうなじに触れた。それは頸椎をたどり、肩甲骨の間を抜け、背骨から外れて心臓の裏を叩く。
「こんな無防備なところ、ぜんぶおれに任せてさ」
 はい、できあがり。いつもならそう言ってすぐに立ち上がるはずのティーダは、今日はまだ動かない。彼の結い上げた髪が、その手に再び掬われる。
「野生の動物って、なかなか触らせてくれないだろ。なんか、そいつを手なづけるのに成功した気分」
「俺は獣か」
「近いとこ、なくはないだろ」
 揶揄う声色は、例えば昨夜のことを言っているのだ。ひとつとはいえ歳上の余裕を見せたいフリオニールはまたしてもしくじって、激しく追い詰められるのに息を引き攣らせたティーダの制止も聞かず彼を貪ってしまった。涙と涎と汗と白く濁った粘液とを垂れ流す身体を抱き締めて、後悔に苛まれながら満たされたのはほんの数時間前のこと。
「……悪かった」
「いいって、いまさら」
 長い後ろ髪が優しく引かれる。甘い痛みに導かれてのけぞるフリオニールの額に、柔らかく乾いたものが触れた。
「他の誰にも触らせちゃ駄目だからな」
 これはおれのだから、そう囁くティーダに、フリオニールの裡に潜む猛獣は確かに飼い慣らされている。わずかな独占欲を覗かせる声にいとも容易く平伏した悋気に苦笑しながら、フリオニールは愛しいひとに手を伸ばした。
「おまえも、他の奴に同じことするなよ。――俺だけにしておいてくれ」
 了解っす、と笑う彼は、俺だけにしろと言うフリオニールのみっともない本心をきっと知っている。その手に触れるのが自分だけでありたいだなんて、互いを知る前は想像もしなかった稚拙な占有欲。忌々しいはずのその強欲さえ、彼と繋がっているのだと思えば心地よかった。