ベリーベリー

 エーコはりっぱなレディなので、たとえそこが仲間みんなに開かれた共有スペースであっても、バタバタとはしたない足音を立てて乗り込んだりはしないのだ。それでも、食堂の扉の隙間から忍び込んだときにふわりと香るものには相好を崩さずにはいられない。温められたバターと焼き締められる小麦粉、それからベリーの甘酸っぱくて素敵なにおい。タイミングばっちりだわ、とエーコはにんまりと笑う。
 何しろ、そのベリーを摘んできたのはエーコなのだ。探索中にガウが飛び出して行ってしまったから慌てて追いかけて、そうしたらエーコの身長くらいの茂みに赤い果実が鈴なりに生っていた。その場で口に放り込もうとする野生児をなんとか押し留めて――実際のところ、ガウの襟首を掴んで阻止してくれたのはバッシュだったのだけれど――みんなで持てるだけ摘んできた。
 綺麗な水で洗いながらひと粒だけ失敬したら、思いがけず酸っぱかった。思わず顎がきゅっとなってしまう。宝石みたいに真っ赤だからてっきり甘いと思ったのに、ちょっとがっかりだ。みんなで美味しく食べるにはどうしたらいいかしら、と悩んでいたら、折りよく通りかかった人影がエーコの傍らにそっと膝をついた。
「新鮮なベリーだな」
「イグニス!」
 眼鏡の向こうのペリドットがやわらかく緩む。彼の後ろにはバッシュがいて、どうやらイグニスを連れてきてくれたらしかった。
「こんなにたくさん、よく見つけてきたなエーコ」
 お手柄だ、と果実を指に転がして笑うイグニスは、ノクティスと同じ世界から来たひとだ。彼が仲間に加わったのはわりと最近のことだけれど、その前から名前は何度も聞いた。イグニスはねえ、なんでもできちゃうの、戦闘も強いしいつも冷静だし作戦だって立てちゃうしチョコボレースも速いし、さらにご飯がちょー美味しいの。そうプロンプトが言っていたのを覚えている。あっ、エーコちゃんのシチューもめちゃくちゃ美味しいよ! あらそ、ふうん、プロンプトもう食べなくてもいいのよ。わああ、待って待って。
 そんないきさつもあって、エーコにはまだ見ぬイグニスへの対抗心のようなものが熾火のように燃えていた。エーコだって美味しいごはん作れるんだから、シチューだけじゃないんだから。なんて思っていたのもいまはむかし、やってきたイグニスは仲間たちの胃袋をそれは見事にしかもあっという間に掴んでしまったのだ。エーコとて例外ではなかった。
 ちょっと堅苦しい感じの印象とはうらはらに、イグニスの料理技術はお菓子づくりにまで及んでいた。時間と食材に余裕のある時には焼き菓子などを振る舞ってくれる。クリームをあしらったパイ、さくさくのクッキー、ふんわり軽やかなシフォンケーキ、などなど。出来立てでなくても美味しさが損なわれないものばかりだ。その巧みな腕前とひそやかな気遣いに、エーコとしても舌を巻かざるを得なかった。
 彼ならば、この酸っぱいばかりの果実を美味しく食べる方法を教えてくれるに違いない。立役者のバッシュにちらりと視線を送ると、イグニスとは違った意味で堅苦しいおじさんは眠そうな垂れ目をさらに細めて笑ったようだった。
「あのねイグニス、これとっても酸っぱいの」
「そうか、熟れてはいるようだが」
「ひとつ食べてみて」
 エーコに促されるまま手にしていたものを口に放り込み、イグニスはなるほど、と呟いた。
「確かに、このまま食べるには酸味が強すぎるな」
「でしょ? みんなに食べてもらおうと思ったのに……」
 まだ口の中に渋酸っぱい感じが残っている気がして、エーコはしょんぼりと肩を落とす。ごはんの後にどうぞ、って出したら、そしたらみんなが喜んでくれるかと思って、頑張ってたくさん摘んできたのに。俯いてしまったエーコの後ろ頭を――ツノに触らないように気をつけているのだ、とすぐにわかる手つきで――イグニスがそっと撫でた。
「そんな顔をしなくていい、エーコ、おれに預けてもらえないだろうか」
「美味しくなるのっ?」
「ああ、任せてくれ。今日は時間がないから明日になってしまうが」
 それでもいいだろうか、とまっすぐに目を合わせてくれるイグニスに、エーコは何度も頷き返した。

 よければ一緒に作るか、とイグニスは聞いてくれたけれど、あいにくエーコだって毎日遊んで暮らしているわけじゃない。昨日の明日、つまり今日の昼間は、リディアやユウナと約束していたのだ。召喚士友の会、なんてユウナが名付けた集いはとても和やかだった。
 だから終わったらキッチンに行くわね、と約束していた。イグニスは約束を忘れるようなひとではないから、きっとエーコが来るのに合わせてお菓子を作って、お茶なんかも出してくれるに違いない。ここに来る前にビビを探したけれど、どうやら外に出ているらしかった。ということは、今日のお茶会はエーコのひとりじめだ。
 食事時なら仲間で賑わう食堂も、今はひっそりと静まり返っている。さらに奥、キッチンにつながる扉は閉まっていて、洗い物をしているらしい音がかすかに聞こえていた。その方向に一歩進むごとに、かぐわしい香りは強くなってゆく。
(何かしら、タルトかしら、それともビスケットにジャムかしら)
 逸る気持ちをぐっと押し留める。そう、エーコはりっぱなレディなので、美味しそうなにおいが漂ってくるからといって一目散に走ったりなんかしない。あえて足を止めて、ひとつ深呼吸を。足音は静かに、一本の線の上を歩くようにしずしずと。
(だって、イグニスとのお茶会だもの)
 イグニスは素敵だ。そりゃあジタンとはまるで違うし、エーコのいちばんはやっぱりジタンだけれど、イグニスはイグニスでとても魅力的だと思う。すっと伸びた背筋、無駄のない身のこなし、話してみると意外なほどに柔らかな物腰と優しい声、そして美味しいごはんを作ってくれる両手。おとなだ、とエーコは思う。イグニスはおとなだ。この飛空艇には他にもおとながたくさんいるけれど、見て接するたびに、ああおとなだわ、と思うのはイグニスなのだ。
 だから、これは恋じゃないけれど、おとななイグニスと向かい合っても恥ずかしくないように、せいいっぱいのレディぶりで。
 いよいよキッチンの扉に近づいたところで、中から何か話し声のようなものが聞こえて来ることに気がついた。ぼそぼそと低い声は何を言っているのかまでは分からないけれど、どうやらふたりのひとがいるようだ。
 片方はイグニスに違いない。もう片方は誰だろうか、どうやら女性ではなさそうだけれど、さっぱり見当がつかない。エーコは傾けていた頭を戻して、扉に耳をくっつける。これは断じて盗み聞きなどではない、そう、敵情視察だ。せっかくのふたりのお茶会に乱入してくるなんて、どこの不届きものかしら。
「――じゃねえか、さすがだな」
「別に普通だが」
「はは、久しぶりに聴いた気がするぜそれ」
(……グラディオだわ)
 イグニスよりもさらに低い笑い声を聞いて、エーコはすぐに分かった。グラディオラス、つい一昨日仲間に加わった大男は、身長ならばエーコ五人分くらい、体重は十人分でも足りないかもしれない、それくらいりっぱな身体の持ち主だった。顔には左目をまっぷたつにするような長い傷痕。そして腕や胸元に彫り込まれた猛禽の鋭いかたち。
 だから、はじめはちょっと怖かった。身の丈に相応しく大きな剣をぶんぶん振り回して、モンスターやイミテーションを叩き潰す。野蛮だわ、と思いさえした。再会をひとしきり喜び合った後のプロンプトやノクティスが、あいつは怖くねーよ、いいやつだよ、と教えてくれたし、本人も存外気さくに振る舞うものだから怯えることはないけれど、エーコとしてはまだ警戒を完全に解いたわけではない。
 それに、とエーコは思う。ちょっと図々しいんじゃないかしら。エーコが摘んできたベリーを使ってイグニスがお菓子を作ってくれているのに、そこに足を踏み入れてあまつさえくつろいでいるなんて。そりゃあ、同じ世界から来た仲間だからこその気安さもあるだろう。でも、だったら、今日も周辺の散策に出ているノクティスと一緒にいればいいのに。
 グラディオラスは王の盾、というやつなんだと聞いた。王っていうのはノクティスのことで、つまりグラディオラスはノクティスを護るのがつとめだ。本人もそれを誇りに思っている、なんて言っていたくせに、このありさまは怠慢ではないだろうか。
 むむっ、と眉を顰めるエーコは、自分が単に拗ねているだけなのだとは気づかない。イグニスの作ったお菓子を一番乗りして和やかなお茶会、という愛らしいプランが邪魔されたのが面白くないのだ。そんなエーコのことを知ってか知らずか、扉の向こうの会話は続く。
「異世界でもやるこた変わらねえ、か」
「おれだって毎日飯炊きばかりしているわけじゃないが」
「そんな言い方すんな。……悪かったな、長いことおまえひとりにしちまって」
「昨夜も聞いたぞ、グラディオ」
「気が済むまで言わせろ。まあ、それでもこのナリにしてくれたんだ、あの女神様はわりと融通が利くな。ちと頼りねえが」
「少しどころの騒ぎではない」
「六神よりかはまともに見えるぜ」
 その言葉に、イグニスははっと鋭い吐息で笑ったようだった。そんな笑い方をするイグニスを、エーコは見たことがない。
「神を名乗る存在に、まとももクソもあったものか」
「クソときたか」
「残念ながら罵倒に使う語彙が乏しくてな」
「仕方ねえ、王城じゃ教えてくれねえからな」
 そんなことより、とグラディオラスは声の調子を変える。ほとんど同時にがちゃんと重い音がしたのは、イグニスがオーブンを開けたからだろう。
「何作ってんだ」
「チーズタルトだ。ベリーのソースをかける」
「ほお、美味そうだな」
「エーコ、と言って分かるか、小さな女の子だ」
 自分の名前が聞こえて、エーコはきゅっと身を縮こめた。ちいさなおんなのこ、と表現されたことには異議を唱えたいけれど、ぐっと我慢だ。
「俺を描かせろってスケッチブック持ってきた子か?」
「それはリルムだ。彼女よりももっと小さい、元気の良い子で」
「……ああ、あの、ツノ生えてる子か」
「そうだ。彼女が見つけたベリーなんだが、少し酸味が強すぎてな。そのままでは食べられないから、甘みを足してソースにした」
「そいつは美味そうだ」
 美味しそう、と口をつきそうになった言葉がグラディオラスの台詞と一致した。あのひと、あんなにおっきい男のひとなのに、甘いものが好きなのかしら。ううん、男のひとだからって、甘いものを食べちゃいけないわけじゃないけれど。
「綺麗に焼けてるな。もう食えるのか?」
「そろそろエーコが来るはずだ。彼女に一番に食べさせたい」
 その間にもうひと回し焼く、と言うから、イグニスもできるだけ多くの仲間に行き渡るように用意してくれたのだろう。彼のチーズタルトは冷めても美味しいが、焼き立ての口どけもまた格別だ。考えただけでじゅわりと唾液が溢れ出す、いけない、はしたないわ。
「なあ、ひとつ食ってもいいか」
「おまえは俺の話を聞いていたのか、エーコが」
「おいおい、おまえ、いつからそんな子供好きになった? ノクトが面倒見させてくれねえから欲求不満か?」
「そうじゃない、功労者には最初に報いるのが当然だろう」
 またがちゃんと音がして、イグニスがオープンを閉めたようだ。そろそろ入ってもいい頃合いかもしれない、とエーコがぐっと腕に力を入れようとした時、グラディオラスが低く喉の奥で笑った。
「功労者、か」
「何がおかしい」
「いんや。御説ごもっともだと思ってよ」
「……おいグラディオ、」
 椅子を動かすような物音、微かな衣擦れに、イグニスの咎めるような声が被さる。何が起こっているのか音だけでは分からないけれど、少なくとも突入のタイミングを逃したことだけは分かった。エーコは賢いので。
「功労者には報酬が必要だろ?」
「一般論だ」
「てことは、おまえにも当て嵌まるわけだ」
「おれは功労者でもなんでもない」
「過ぎた謙遜は傲慢だってのはおまえのためにあるような言葉だな」
「よさないか、グラディオラス」
 ぱしん、と軽い音がして、どうやらイグニスがなにかを叩いたらしい。状況から察するにグラディオラスの手でも跳ね除けたのだろう。その手が何をしていたのかは、やっぱり分からないのだけれど。
「つれねえな」
 拗ねたくちぶりながら、グラディオラスは上機嫌なようだった。くつくつと笑いを噛み殺して、また椅子に腰掛けたような気配がする。
「しかしまあ、ちと浮かれてんのは確かだ。悪かったな」
「分かればいい。三十路も過ぎたおまえを再教育するのかと思うとぞっとする」
 みそじ、とエーコは聞こえてきた言葉を反復した。グラディオラスはノクティスたちのみっつ歳上だと言っていなかっただろうか。気にはなったが、それよりも高まってゆく空腹感の方に意識を奪われる。ああ、早くキリのいいところになってくれないかしら。
「おまえに躾けてもらえんなら、もう少し年甲斐もねえことしてみるか」
「ばかを言うのもほどほどにしろ――そろそろエーコが来てもいい頃だが」
「忘れてる、ってこたねえだろうな。トラブルでもあったか」
 トラブルといえばトラブルだ。あんたのせいよグラディオ、とエーコは一歩を踏み出すべきか否か逡巡する。扉の前で足音を殺してじたばたしていると、イグニスが柔らかな声を出した。
「何が起こるか分からない世界だからな。グラディオ、探してきてくれないか」
「構わねえが、どうもビビられてるみてえだからな。素直に見つかってくれるかどうか」
「レディの扱いはお手の物じゃなかったか」
「おいおい」
 苦々しく舌を打つグラディオラスとは対照的に、イグニスは短く、それでも愉快げに笑う。ごつごつと床を鳴らす重たい靴音が近づいてきて、エーコは考える間もなく食堂の入り口に向かって駆け出した。扉の目の前にいるのを見つかっては、あら偶然ね、では済まされないような気がして。


 だから、グラディオラスがキッチンの扉を開く直前、中でこんなやり取りがあったことまでは、エーコは知らない。
「――ちゃんと見つけて来てくれたら、その功績には確かに報いよう」
「言ったな?」
「二言はない。頼んだぞ、グラディー」
「仰せのままに、イギー」
 その呼び方が、ふたりの間だけに許された甘やかな親密さを多分に孕んでいたことも。