光の庭

第四章 光の庭

 1

 庭師は使用人宿舎の割り当てられた部屋、寝台の上に身を起こして瞼を擦る。今年の春はいやに眠い。
 身支度を整えて食堂で朝食を済ませると、いつもの仕事道具を片手に仕事場に向かう。その間も何度か生欠伸を噛み殺しては、どうにも伸びぬ背筋や重い肩を捻ってごまかした。
 仕事着の左肩に小さな穴が空いている。この一年、つけたままにしていた喪章を刺したピンの跡だ。
 アルケイディアは長いこと喪に服していた。はじめは先帝グラミスとジャッジ・ドレイス、その葬送の余韻が消える間もなく、執政官ヴェイン・カルダス・ソリドールが反帝国軍との戦火に消えた。

 イヴァリースを覆う凄惨な戦火はラバナスタ上空に収斂し、天を衝いて霧散した。空中要塞バハムートはダルマスカ王都をかろうじて避けて墜落し、最期まで指揮官席を離れなかったというヴェインの遺体は見つかっていない。
 兄と共にバハムートに乗り込んだラーサーは、護衛を務めた忠実なるジャッジマスター・ガブラスの功績によって辛くも脱出を果たした。彼は小型の脱出艇からダルマスカ女王アーシェリア・バナルガン・ダルマスカと共同で終戦と和平を宣言し、ガブラスを伴って帝都に帰還した。
 あれから一年。制度としての喪が明けて数日、帝都は「日常」を取り戻しつつも、皇帝宮のそこここにはまだ拭い切れない悲嘆と沈痛の影が染み付いている。それでもひとびとを動かすのは、帝国に唯一残された、ラーサーという名の希望だ。
 アルケイディアの政治はまさに空前の混乱状態にあった。前皇帝は死に、後継と目されていたヴェインももはや亡い。唯一遺されたラーサーはあまりに若く、数年後ならばともかくただちに皇帝として立つことはできないだろうと思われていた。本来であればこのような空白期間を支えるはずの元老院も、粛清により機能を完全に喪失している。外患は除かれたが、内憂は頂点に達していた。
 しかしラーサーは動じなかった。帰国後、七日間という最小期間の服喪を終えた彼は速やかに動いた。
 まず発された声明はラーサー直々の手によるもので、何よりも先に戦役の犠牲者を悼み、たどり着いた平和を言祝ぎ、そして皇帝選出選挙の実施を告知した。かつては貴族ら特権階級にのみ許されていた選挙権と被選挙権を全国民――ヒュム以外の移民層をも含む――に拡大し、直接選挙による選帝を約束した。この機に帝政そのものを終わらせ、異なる政治体制に移行することを求める声があることを受けつつ、一足飛びの変化によって被る行政上・外交上の不利益にも目配せした上で、次に選出される皇帝を議長とする上下両院の議会を設立することで緩やかながらも民衆の政治参画機会を拡大していくことを提案したのだ。
 同時に、ソリドール家の武装親衛隊でもある公安総局を国内の保安と内政機能とに振り分けた。特筆すべきは軍縮とでも言うべき大規模な武装解除で、かつてのジャッジたちの大半が法の執行権を持たぬ警察機能に縮小された。併せて徴兵制の一時停止を宣言、将来的な完全廃止をも提言するなど、声明は極めて高度な国家論にまで及んでいた。ゴーストライターの存在は当然のことながら疑われたが、国内報道機関を対象に行われた質疑応答の場におけるラーサーの堂々たる立ち居振る舞いと緻密な応答が披瀝されたことで、彼が何者かの操り人形ではないかという声は次第になりを潜めていった。
 声明の末尾で言及した通り、ラーサーは選帝選挙に立候補した。全帝国民による初の直接選挙が実現したのが三か月前、いくらかの対抗馬たちをものともせずに圧倒的な得票率でラーサーが次なる皇帝に選出されたのである。ソリドール家の威を着ているとの色眼鏡は未だ根強いが、これから始まる数々の変革が、かの少年の真価を証明してゆくことだろう。

 皇帝が誰であれ、ここ皇帝宮に住まうものがある限り、そして花咲かせる庭がある限り、庭師の仕事は変わらない。庭師は花を植え、育て、咲かせるのが仕事であり、他に生きるかたちを知らず、そして何より己の咲かせる花に誇りを持っているからだ。
 庭師は歩き慣れた使用人通路を抜け、ある庭に出た。柔らかく肥えた土に息づく強い緑の芝、ツルバラをまとったアーチと常緑葉の灌木を配置し、絶えず循環する水が飛沫を輝かせる池のある庭、この宮殿に勤め始めてから変わらず一等の気に入りであるあの庭だ。
 この庭がかつてのあるじを失ってから一年、季節がちょうど一巡した今は新しい春が訪れようとしている。朝の空気は清浄に冷たいが、陽光を待ち侘びた蕾がそこかしこで綻び始めていた。グラミスとドレイスの葬儀のためにありったけの白い花を刈ったその痕跡は、もうどこにもない。
 庭師はいつもの帽子を脱いで頭を下げた。他に人影のない庭の隅から、彼は彼の精魂を注いだ庭を眺め渡す。
 大きく息を吸い込めば、まず鼻腔をくすぐるのは沈丁花の残り香だ。冬の終わりを告げる可憐な白い花弁は裏に鮮烈なマゼンタを隠し、これからやってくる春の繚乱を導くようにそっと落ちる。沈丁花とよく似た葉の濃い常盤緑が冴えるのは月桂樹、その木漏れ日を浴びて時を待つのは淡い杏色のパンジーだ。その横に並ぶのは三枚ずつの花弁と葉が優美な曲線をつくるトリリウム、少し離れた日陰で白い八重の花弁を鞠のように広げるのはサンギナリア。
 早春の花はどれも扱いが難しい。しかし、今年は会心の出来だ。庭師は知らず微笑しながら、しばしの間この庭を逍遥することを己に許した。
 ゆるりと寄せる風に、まだ蕾の硬いチューリップが首を振る。ラーサーがガブラスに押しつけたのと同じ、白と黄と紅色。

 2

 一年に及ぶ相次ぐ葬送を終え、宮殿の使用人たちは順繰りに少し長い休みを取ることになっていた。休暇とてこれといった当てがあるわけでもない庭師の番が回ってきたのは、やっと数日前のことだ。
 窓の外に小鳥の群れを見て、庭師はある男のことを思い出した。思い出した、という表現は正確ではない。忘れたことはなかった。ほんとうはずっと残っていた。頭でもなく、心でもなく、強いて言えば胃の腑の底に引っかかったままだった。庭師の友人、小さな身体でちょこちょことよく立ち働く気のいい清掃人のことだ。
 ラーサーとダルマスカ女王による共同声明ののち、戦死した軍人・軍属の名を並べた官報の発行が再開した。戦役中の混乱のため捕捉しきれなかったという言い訳をつけて日付は遡及され、長らく行方不明扱いだったものたちの名もぽつりぽつりと公表されるようになっていた。それらの名のうちのひとつが、あの清掃人だった男のものだ。戦死日は第八艦隊壊滅の日、彼はジャッジ・ギースの艦に搭乗しており、旗艦の爆発によって死亡したと書かれていた。
 庭師は恩給局に足を運び、友人の係累を問い合わせた。別れの日に聞いた通り、彼の妹家族はまだアルケイディス市内に住んでいるとのことで、住所を聞いて庭師は市街に降りた。
 目的地は新市街の中でも比較的庶民的なエリアにあった。前触れもなく扉を叩いた唖にさして驚くでもなく、庭師よりもいくらか年若い女性は訪問者を迎え入れた。
「あなたの話は、兄から聞いていました」
 暖かな茶を淹れて、彼女はにこりと笑う。
「手話を勉強した甲斐があったって。あのひと、宮殿に仕える前はそういう施設で働いていたことがあるんです」
 彼女の住まいは狭く、客間などないからとふたりはキッチンのダイニングテーブルに腰を下ろした。庭師のちょうど正面の壁に、友人の絵姿がピンで留められている。わたしは手話が使えないので、と彼女は使いさしのノートからページを破り、ペンを添えて庭師の前に差し出した。男は少し考え、取ってつけたような悔やみの言葉を書きつけた。
「……兄のことは、もっと前から聞いていたんです。実は」
 ぽつりと零した言葉はささやくほど小さかったが、震えてはいなかった。
「もっと、というか、少し前に。バーフォンハイムの沖の方で不思議な光が現れたらしいって噂になっていたころ」
 その噂には庭師も聞き覚えがあった。あれはヴェインがバハムートと共に散る、その直前ではなかったか。人々はグラミスのための喪服に身を包んだまま、次はどこで何が起こるのかと聞き耳を立てるのに必死だった。
「わたしは気が動転していたから覚えていないけど、もしかしたら閣下が戦死される前の日だったかもしれません。夜更けに来た人がいたんです」
 この家はよくよく、急な来客が多いらしい。その夜に訪れたのは、髪を短く刈り込んだ体格のいい男だったそうだ。
「兄について伝えたいことがある、と。わたしの夫は警戒していましたけど、あんまり真剣な顔をしているから、話を聞くことにしたんです」
 来客の話は端的だった。皇帝宮を辞した彼女の兄は実は密命を受けて第八艦隊の乗組員となっていたこと、その密命は今もって明かすことはできないが、ジャッジ・ギースの副官として働いていたこと、すなわち。
「兄は第八艦隊が壊滅した時に、巻き込まれて亡くなったと。遺体も遺品も回収できなかったそうです」
 あまりの報せに言葉を失う彼女の前で、報せを持ってきた男はしばし沈黙した。目を伏せ、唇を噛み、拳を握り締めたのを彼女の夫が見ていたという。
「そのひとは、軍人のようでした。格好は普通の……その辺りのひとと変わらない服を着ていましたけど、雰囲気が厳めしくて、ちょっと普通のひととは違う感じで」
『どんなひとだったか覚えていますか』
「そうですね……歳は三十半ばくらいかな。髪は少し褪せた感じの金髪で、短く刈っていたと思います。目は茶色というか、褐色のような。とても体格が良くて、口をぎゅっと引き結んでいて。そんな話をしに来たんだから当然だと思いますけど、笑った顔が想像できないひとでした」
 庭師の脳裏に、ひとりの男が像を結んだ。確かに、笑った顔を想像するのが難しい。庭師もずっとそう思っていた。あの日、ラーサーに即席の花束を押し付けられるのを見るまでは。
「わたしは何も言えませんでしたけど、夫が聞いたんです。どうして今、あなたが知らせてくれたんですかって。でもそのひと、何も言わなくて。ただ、申し訳ないと」
 いずれ近いうちに正式な官報が出る、そうしたら恩給局に手続きをしろと言って、男は去って行った。名はついに名乗らないままだったという。
「……ねえ、兄はどんなひとでしたか。宮殿なんて大それたところで、あのひとはちゃんと働けていましたか」
 彼女は努めて声の調子を変えた。庭師はペンを取り、拙い字をページに刻んだ。
『いいやつだった。まめで、よく気がついて、よく笑う、楽しいやつだった』
「そう……そうでしたか」
 あのひとは小心者だったから。本当に気が小さくて、子供の頃は野良犬を見てその路地に行けなくなるくらい。
「どうしてあのひとが選ばれたんでしょう。何のために最前線に行かされたのかしら。もう考えても仕方のないことだけれど、どうしても考えてしまう」
 それからふたりは少しだけ世間話をした。庭師が辞する時、彼女は言った。
「今度来るときは、あなたのお花が見たいわ」
 庭師は頷いた。友人との最後の会話を思い出す。まあそのうち酒でも呑もうや、おまえの花を肴にしてさ。
 約束は果たそう。近いうちに、必ず。

 帰路、己の影を踏みながら庭師は考える。
 清掃人だった男の最期の報せを持ってきたのは、ガブラスだろう。褪せた金の髪、褐色の瞳、笑わない口元。探せばそのような男はいくらでも見つかりそうだが、きっとガブラスに違いないという確信さえあった。
 では、なぜガブラスがそんなことをしたのか。おそらく、友人をジャッジ・ギースのもとに送り込んだのが彼だっただろう。その責任のようなものを感じて、遺族の目の前に姿を現したのかもしれない。
 ジャッジというのは冷酷な死刑執行人だと、ひとびとは思っている。彼らは常に重い鎧を身に纏い、鋭く研がれた刃を携えて、あらゆる罪人を裁くのだ。そんな連中に、ひとりの軍属の死について責任を負うような殊勝さがあるなどと想像するものはいないだろう。
 しかし庭師は違った。他のジャッジどもについては相変わらず何も知らないが、ガブラスのことだけは知っていた。芝を抉らずに歩くこと、ほんの子供であるラーサーに容易く丸め込まれてしまうこと、手渡された花を扱いかねて、それでも小手で潰さぬように苦心していた横顔。こんな断片ばかりで、ひとりの男を理解したというつもりはない。しかし、友人の妹を訪れ俯き加減に言葉を紡ぐ姿を思い描くことは難しくなかった。
 中枢区に向かうリフトを待ちながら、不意に思い出したのは使用人たちの噂話のひとつだ。ジャッジ・ギースは狡猾な野心家であり、ヴェインやソリドール家に対しても腹に一物抱えている節があったそうだ。第八艦隊の壊滅は、表向きには敵対勢力との交戦によるものと報じられてきたが、その実はギースの手落ちによる事故だと兵士たちの間では囁かれているらしい。
 かちりとピースが嵌まった気がした。第九局は諜報を司る。ガブラスはギースに不穏な動きを見て、内情を探ろうとしたのだろう。ソリドール家の親衛隊である公安総局が一枚岩でないことは誰もが知るところであり、ガブラスも表立って配下を送り込むことはできなかった。故に、ジャッジでも軍人でもない宮殿清掃人に目をつけ、彼に密命を負わせてギースの傍らに置いた。いわば内部スパイとして働くことを強いられた清掃人は、事故に巻き込まれて死んだ。しかし、栄光輝かしき公安総局の醜聞になりかねない背景は誰にも明かされず、ガブラスはただ、ひとりの死の報せに小さな詫びを添えることしかできなかった。
 庭師は小さく息を吐いてリフトを降りた。ガブラスと話がしたいと思った。

 3

 来月には即位式を迎えるラーサーは、かつての兄の執務室を己のものとすることに決めた。前皇帝の室は、グラミスやヴェインをはじめとする今戦禍の犠牲者を記念するホールに改装されることになっている。
 すなわち、庭師が愛し丹精込めた庭は、そのあるじを失わずに済んだ。庭師にとっては望外の喜びだった。
 この皇帝宮で、いやアルケイディアで最も美しい庭をひと巡りした庭師は、今日の仕事に取り掛かる。春の訪れを喜びながら夏の庭を準備する、季節を他よりも先取る仕事には苦労も多いが、そのいちいちに新たなあるじが感嘆してくれると思えばどうということはない。
 今年の夏は、人工滝のある池を上手く使うつもりだった。気象台の予報によれば猛暑の兆しがあるとのことで、せめて目だけでも涼しく楽しませたい。ことにこの夏は、新たな皇帝となるラーサーにとっても厳しいものになるだろう。
 池には再来週に清掃が入ると聞いているからまだ手をつけられないが、執務室の中からまっすぐ見渡せるよう、周囲の灌木や花壇の配置を整える。太陽が中天に差し掛かるまで作業に熱中していたため、庭と執務室とを隔てる戸が開いたことに気づくのが遅れた。
「ああ、いい天気ですね」
 庭師は立ち上がり、脱帽の礼をとった。迎え入れたはラーサー・ファルナス・ソリドール、新たな時代の幕開けにふさわしい皇帝の御姿だ。
「こんにちは、いつもありがとうございます」
 すっかり馴染みとなった庭師ににこりと笑いかけ、少年皇帝は手にしていた紙束を机に置く。その上に文鎮を音もなく置くのは侍従の老爺で、後ろには茶器やクローシュを載せたトレイを持った侍女が続いた。
 ラーサーはゆったりとした足取りで芝を踏み、庭師の前に立った。数年前は子犬のように駆けるのが好きだった子供は、いつの間にか亡き兄のように歩くようになっている。
 彼は庭師に目を合わせ、よし、と小さく呟いた。その繊手が胸の前に持ち上げられる。
「ここでお昼にしようと思うのですが、お邪魔ではありませんか」
 庭師ははっと息を呑んだ。ラーサーは唇で言葉を紡ぎながら、ぎこちなくも手でも同じことを言ってみせたのだ。
「……どうでしょう、練習してみたのですが、伝わりますか?」
『完璧です、陛下。なんと有り難い』
 慌てて返答すれば、少年はほっと安堵の息をついた。まだ目を丸くしたままの庭師に向かって、はにかんだ笑みを向ける。
「声だけが言葉ではないと、あなたが教えてくださったのです。よければこれから練習相手になってください」
 それと、と付け加える彼の目は、こればかりは年相応の茶目っ気に閃いた。
「陛下、はよしてください。この庭ではどうか、ラーサーと」
 庭師は目尻を下げて笑い、何度も頷いた。手を動かして、ラーサー様、と呼べば、少年は満足げに破顔した。
「今日は昼食を一緒にするひとがいるのですが、まだ来ませんね。花のことを少し教えてもらえませんか」
 そうしてふたりは連れ立って庭を回った。ラーサーの手話の腕前はまだいくらか拙いものの、読み取る分には全く問題がないらしい。庭師の説明をふんふんと聞きながら、水を遣る頻度がどうだの、他にどんな色の花が咲くかだの、こまごまと尋ねてくるのは庭師の職人気質を上手く刺激した。
「これは知っています、月桂樹ですね」
『こちらはヴェイン閣下の頃から植えたものです。香りが良く、料理にも使います』
「わあ、本当だ。とてもいい香りですね」
『生長が早く、扱いも容易です。庭だけでなく生垣などにも用いられます』
 折ったひと枝を差し出すと、ラーサーは濃い緑の葉を目の前に掲げまじまじと観察している。瑣末な葉にまで向かう好奇心は、皇帝の重い衣を纏っても変わらないようだ。
 さらに花を巡ろうと足を踏み出したところで、がしゃりと鎧の鳴る音がした。
「ラーサー様、申し訳ございません。遅くなりました」
「ガブラス、来ましたね」
 くるりと振り返るラーサーの背後で、庭師は何か違和感のようなものを覚えた。一礼ののちに歩み寄ってくる兜にはぐるりと捻れた獣の角が生えている、確かにジャッジ・ガブラスだ。
「急ぎの案件がありまして、片付けて参りました」
「伺った方がいいですか?」
「それはのちほど。大きな問題ではありませんゆえご安心ください」
「そうですか。ならお昼にしましょう、その重苦しいものは外して」
 ラーサーに促され、ガブラスはまず小手を外した。いかにも戦士らしいごつごつと荒れた手が兜にかかり、躊躇いなく外される。
 現れた素顔は、過去に三度だけ見たガブラスのものと大きくは変わらないようだった。乾いた砂のように色褪せた金髪、精悍な顎のライン、意志の強い唇。記憶と違うのは額から左眉にかけて刻まれた傷痕だが、彼は墜落するバハムートからラーサーを連れて脱出した英雄なのだから、その程度の傷くらい増えもするだろう。
 庭師は出来るだけ不躾にならぬよう、ガブラスを観察した。細められた目尻が記憶よりも下がって見えるのは、彼が日陰にあって日向に立つラーサーを見ているからだろうか。瞼と睫毛が影になった瞳の色に、どこか空のような青が差していないだろうか。そしてなにより、庭師の聡い耳を緊張させるその声は、果たしてあのガブラスと同じものだろうか。今しがた覚えた違和感は、ガブラスが兜を被っていたからなのか、それとも。
「見事な庭ですね」
「そうでしょう。こちらの方がいつも面倒を見てくださるのです」
 少し身軽になったガブラスは、ゆっくりと歩み寄りながら庭を眺め渡した。その爪先が若い春芝を踏み、蹴り飛ばすことを恐れるようにそっと離れた。
「これからもっといろいろな花が咲くそうです。いつでも見に来て構いませんよ」
「ラーサー様のお庭に? それは畏れ多い」
「花は愛でてこそ、と言います。せっかくだから少し持って行っては……と思いましたが」
 ラーサーは月桂樹の葉をくるくると回しながら、庭師を振り返った。
「まだ少し、時季が早いようですね。あと一月ばかり待ちましょう」
「それがよろしゅうございましょう。それまでに花瓶を用意しておきます」
「いい考えです」
 くすくすと笑うラーサーと、その隣に並ぶガブラスを見て、庭師はひっそりと微笑する。
 この「ガブラス」に亡き友のことを聞いてもわかるまい、そう思った。そのことを惜しむ気持ちは当然にあったが、一方で何かが腑に落ちた感触もあった。かつてこの庭で花を与えられてまごついていたガブラスは、きっともうどこにもいないのだ。そうなることを知っていて、友の遺族を訪れたのだ。唇を噛み、拳を握り締め、己の務めを果たしたのだろう。
 不意に、ラーサーの横に立つ男と目が合った。目尻は少し垂れたまま、こちらを見ている。庭師はもう、その瞳の色を探ることをやめた。かつてのガブラスとは違う瞳で、射抜くというより見通すようなまなざしで、この男はこれから「ガブラス」として生きるのだろう。彼はきっと花瓶を用意する。次に花を渡しても、まごつくことなく受け取るのだろうことが容易に想像できた。
 ふたりの男が視線を交わしたのは一瞬だった。「ガブラス」は何事もなかったかのように、ラーサーとその手の中の枝に視線を落とす。
「それは?」
「月桂樹です。兄上の頃からここに植わっているそうです」
「煮込み料理に使うといいますね」
「よくご存知で。あなたも料理を?」
「必要に駆られて」
「……あなたにご馳走していただこうかと思いましたが、考え直します」
「ははは」
 ふと思いついて、庭師は手を動かした。ラーサーと「ガブラス」に一斉に注目されやや気恥ずかしいながらも、出来るだけゆっくりと言葉を紡ぐ。
『月桂樹の葉は栄光や栄誉を意味します。イヴァリースのごく古い伝説では、太陽の神の木とされていました』
 ほう、と感心の息をつくふたりを促して、足元の灌木を指差す。
『こちらは沈丁花、冬の終わりに咲きます。花言葉は不滅、永遠』
「……不滅、ですか」
 白とマゼンタの小花を見つめるラーサーが小さく繰り返した。それきり何も言わなかったため、さらに隣の花壇に移る。
『これはパンジーで、色ごとに花言葉が違います。アプリコット色は天真爛漫』
「ラーサー様にお似合いですね」
「そうでしょうか?」
『こちらの白い花はトリリウム、延齢草とも言います。ご覧の通り奥ゆかしい美しさ、また叡智を意味する花でもあります』
 それから、と少し離れたプランターを持ち上げて、ころころと愛らしい白い花を示す。
「これは?」
『サンギナリアという高原植物です。真の友情や愛情、安楽を表すと言われています』
 これからもっと多くの花が咲きます。どの花もそれぞれに美しく、それぞれの意味を持ちます。そう締め括れば、ラーサーはうんうんと頷いて笑った。
「では、また教えてください。あなたはぼくの手話と花の先生ですね」
『喜んで』
 ラーサーとは違い花言葉などに興味はないらしい「ガブラス」は、庭師が用意していた別のプランターを見ていた。まだ土から芽も出ないそれは、夏の終わりに姿を現すだろう。
「これは?」
『そちらはケイトウです。夏から秋に咲きます』
「どんな花だったか……」
「ではこれは宿題にしましょう。ガブラス、ちゃんと調べておくんですよ」
「私がですか」
「もちろん」
 目を瞬かせる「ガブラス」としたり顔のラーサーを眺めながら、庭師はある男の後ろ姿を思い浮かべていた。明日には枯れる花を、と望み、差し出されたケイトウを燭台のように捧げて歩く、長いブルネットの美丈夫の背中を。
 彼が花の名を尋ねることはついになかった。花言葉などに気を遣う姿など見たことはなかった。彼は時折庭を逍遥し、後ろ手を組んで何かを見ていたが、それは花木を見るためでなく、流れ落ちる滝の向こうに広がる帝都を、帝国の行く末だけを見定めていた。
 ヴェイン・カルダス・ソリドール。人々は、彼こそが次なる覇王たるべき者と信じていた。しかし、と庭師は思う。ヴェインは本当に覇王になるつもりだったのだろうか。庭師が記憶しているヴェインという男は、常に何かを探しているように見えた。その探し物は、覇王の玉座に至る道だったのだろうか。
 全てが終わってしまった今にして思えば、きっと違ったのだろう。ヴェインが探し求めていたのは己の進む道ではない。彼が切り開いたのは、ラーサーの、そして彼と共に歩む次なる時代のための道だった。
 そして彼の意志は、ずっと以前に固められていたのだ――恐らくは、ラーサーが生まれた時に。
 ヴェインは二人の兄を殺し、ソリドールの継子となった。兄たちの謀叛が彼ら自身によるものであれ、あるいは元老院の策略によるものであれ、ソリドール家にとって致命的な事件はもはや避け難いものとなっていたのだろう。遅いか早いか、それだけのことで。
 グラミスは大いに懊悩したはずだ。己を廃さんとする謀を潰そうにも、現皇帝であるグラミスもその名跡を継ぐべきヴェインも汚名を恐れれば手の出しようがない。かといって事態を看過することも許されない。何かが必要だ、醜聞を防ぎ、かつアルケイディアとソリドールを未来に繋ぐ手段が。
 ――そして、ラーサーが生まれた。謀叛のかどでふたりの兄が処刑されるそのわずか数か月前に、ソリドール家で唯一の、完全なる無垢な存在として。
 つまりラーサーは生まれながらにして、無垢清純な継子であることを役割づけられているのだ。あるいはそのためにつくられた子であると見るのは穿ち過ぎだろうか――グラミスの年齢に鑑みればあまりに遅すぎる子であることは確かであるし、すでに立派に育った男子が三人もあって尚、子を成そうというのは奇妙と言わざるを得ない。
 権力者の老いてからの子は火種になる、歴史を紐解けば先例はいくらでもある。しかし、長男と次男を排除することと、三男がそのために手を汚すこととがすでに予定されていたのであれば、次代皇帝として純潔を保つ継子としての四男が新たに必要とされるのは、ほとんど必然だ。
 この国の行く末を決めるのはヴェインであり自分ではない、と言ったラーサーはやはり間違っていたのだ。彼は次の皇帝になることを、あらかじめ定められて生まれてきた。アルケイディアを次に統べるのはヴェインではなく、ラーサーだ。
 ともすればゴシップ好きにさえ鼻で笑われかねない妄想に近い推測は、庭師の腹にすとんと落ち着いた。これまであの庭で見聞きしてきたあらゆる要素が、見事に繋がる気がしたのだ。
 明日には枯れる花をヴェインが求めたのは、自身がそうなることが決まっているから――時が来れば進んで枯れ落ちる男、自らにその役を割り振ったのはヴェインだ。
 流れ落ちる水に透かして帝都の姿を見つめる後ろ姿に満ちていたのは、いずれ己のものになる都への感慨ではない。彼が見ていたのは己の終焉であり、その先に紡がれる未来の物語は彼のものではなかった。そのことを理解していたのは、ヴェインただひとりであったのだろう。
 庭師はケイトウの花言葉を記憶から引き出した。風変わり、色褪せぬ恋、警戒心。ヴェインにあの花を手渡したのは失敗だったかもしれないが――
(ああ、もうひとつあった)
 あまり知られてはいないが、いまひとつには勇敢という意味もある。あの男の決意を勇敢などとありふれた言葉で飾るのは気が引けたが、それでも悪くない言葉を引き出せたことに庭師は安堵した。これからのラーサーにもきっと、ふさわしい言葉になるだろう。
「さあ、お昼にしましょう。あなたもご一緒に、と言いたいところですが、用意が……」
 ラーサーの声に、庭師ははっと顔を上げた。いつの間にか思考に沈んでしまっていたようだ。申し訳なさそうな顔をする庭のあるじに、男は軽く首を振る。
『お気遣いありがとうございます。私も食堂で休憩して参ります』
「そうですか、今日はずっとこの庭に?」
『はい』
「では、お茶には付き合ってください。三時ころになったら用意させますから」
 一介の使用人に対しては破格の申し出だ。この少年皇帝の言葉を社交辞令と取って断ることは容易いが、そうすれば彼が寂しそうな顔をするだろうと思うと、庭師には頷くことしかできない。案の定、ラーサーは嬉しそうに笑った。
「ガブラス、今日は七面鳥のサンドイッチにしてもらいました。好きでしょう?」
「それは有り難い。ラーサー様のお好きなものはあるでしょうか」
「安心してください、たまごのサラダとスープはぼくの好みです」
 ふたりの背に向けて礼をとり、庭師は月桂樹の影に身を寄せた。瞳孔を直接射る太陽光線が遮られ、春の始まる庭が広がる。
(眩しい)
 庭師は風が渡るのを見た。
 冬を越え、霜に耕された土は新たな水をすみずみまで行き渡らせる。
 芽吹き始めた緑は鮮やかに光を拡散し、若い枝をまばたきごとに伸ばしてゆく。
 生命を言祝ぐ太陽は綿のような陽光を撒き散らし、冬の凛烈と夏の厳格の間でひととき安らぐ清浄な大気が綻び始めた蕾をさやかに揺らす。
 新緑の落とす影はまだ柔らかく、日向に寝そべる猫の毛のような少年のブルネットと、乾いた砂の色をした男の髪に優しいセピアを覆い焼きした。
 一幅の絵画のように麗しいその景色に、音もなく重なる幻影がある。
 燃える炎のような花を捧げ持ち、あるいは後ろ手を組んで池の前に立ち、今よりも幼い少年を膝に懐かせながらページを捲り、厳然とした声色で弟を叱咤し、その後ろ姿に目を細めていた男。
 己を鎧兜で隠匿し、芝を真っ直ぐに踏み、押し付けられた花に困惑し、下手な苦笑を浮かべながら護るべき少年を見つめ、夜の底で棺を前に祈りと懺悔と慟哭とを拳に握り締めていた男。
 春の庭を行き交う亡霊の名を、庭師は知っている。彼らの魂はもはやなく、だがかつて確かにここに存在していたことを。
 さやさやと月桂樹の梢を鳴らしていた風が不意に止んだ。幻影たちが輪郭を溶かしてゆく。次の風が吹いた時、彼らはこの庭を去るだろう。
(ここはひどく眩しい)
 この庭には、訪れつつある新世界のすべてがある。穏やかな温もり、芽吹き花開く時を待つ蕾、穢れなき白い手、そして鼻腔の奥をつきりと刺すような、郷愁にも似た微かな哀切。庭師の震えぬ声帯が、この世界の誰にも知られぬままに惜別を詠う。
 次の風が走る。
 皇帝宮の頂を越え、蒼穹のかなたへと向かうその風は、ヴェインとガブラス、もう還らないふたりの男の名を呼んだ。